ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

不殺生を願う人たち

私は、個人としては、肉や魚介類を全く食べないが、別にこれらの生物が殺されるのを阻止するために何らかの行動をしている訳ではない。
鳩を見て可愛いと思うし、目の前を滑空するカラスを見て、その美しさにはっとしたことがある。日本では、鳩やカラスを食べる人はあまりいないが、海外では食用とされることも多く、実際、日本で食べられていないのは、単に文化や慣習の問題と言われる。そもそも、鳥類ということに関して、鳩もカラスも鶏もない。日本の国鳥であるキジは、国内で食用として人気があるが、そもそも、鶏もキジ科(キジ目)だ。
そして、何の鳥の保護に役立っていない私も、彼らに対して友達甲斐の無いやつである。いや、友達ではないのかもしれない。
ただ、出来ることはしようと思う。

今朝、自宅の台所で、この夏初めて、ゴキブリを見た。割に大きいもので、私の目の前に大胆に現れた。私が殺さないことを知っているかのように、私が動いても、警戒する様子が無いように見えた。
私は、ここに来た目的であるペットボトルの水を飲んだ後、またゴキブリに目を向けた。さて、どうしたものだろう。
私は、スーパーで自由に持ち帰れるナイロン袋(いわゆる、くるくるナイロン袋)を取り出し、ゴキブリの前で開き、「入れよ」と念じたが、ゴキブリも戸惑っていた。しかし、追い込むとおとなしく入ったので、庭に運んで放した。
以前、会社で、スズメバチが部屋に入ってきた時、私は非常口に誘導して、そこのドアにとまったハチに、「うごくな」と命じ、ドアを開け、「行け」と念じたら外に飛んでいった。
私の思い込みかもしれないが、虫だって、こちらの害意というのは感じ取るもののようだ。

ずっと前、政木和三さんが岡山の林原生物化学研究所で参与として研究しておられた頃、林原の政木さんの研究室を訪ねると、ゴキブリが現れたことがあった。政木さんは、こんな時のために用意しているらしい紙の小箱を持つと、ゴキブリに、「お入りなさい」と言って中に入れ、室外に出ると、「もう入ってきちゃだめだよ」と言って解放した。当時、私は、ゴキブリを見ると、条件反射のように殺虫剤で殺していたのだが、非常に感銘を受け、すぐではなかったが、だんだんと殺さないようになった。
アフリカの未開人の治療を生涯に渡って続けたアルベルト・シュバイツァーも、室内にいるハエを捕らえて外に出すための紙コップをいつも用意していたようだ。彼は、研究のために、やむなく蚊を解剖する時も、苦悶の表情で行ったといわれている。当然、彼も菜食主義者だった。

中国の僧で、浄土教の聖人の1人である道綽(どうしゃく)は、弟子の善導(ぜんどう)に、自分の往生(極楽浄土に生まれることが出来るかどうか)について尋ねたという話がある。法然によれば、弟子とはいえ、善導は道綽より優れていた。善導は、道綽に「あなたは家を建てる時、虫を殺しているが、それが触りになっている」と言ったといわれる。僧たるもの、生きとし生けるものに慈愛を持ち、大切にしなければならないのだろう。

植物にしても生命を持っている。植物は動物に食べられて同化することが使命のように思えるが、とはいえ、実を付ける前に無駄に採ったり、採ったものを捨てるようなことはしない方が良いと思う。
私は、綺麗だからといって花を摘んだりしないし、女の子が花を摘むのを見ることも、正直言ってあまり好きではない。
小学生の時、クラスの中に、他の女の子が花を摘んでいる時、1人だけ、全くそれをしない子がいるのに気付いたことがある。別に他の子がそうするのを咎める様子もなく無表情だったが、悲しそうというか、痛そうな雰囲気があるのを感じた。彼女は、花の精のような儚げな美少女だった。

昨日、信念について書いたが、あらゆる生命を大切にすることもまた、信念を強くし、心を自在に支配できるようになる易しい方法であると思う。
食の慎みが、心を制する最も強力な方法であるが、食の慎みは、自分をも含む、全ての生命に対する慈しみでもある。他の生命だけでなく、自分にもそうであるとは、食欲を抑えることは、自分の身体も健やかに保つからである。
ならば、食の慎みが、良い運勢を運んでこない訳がないのである。









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4階の窓から落下して無傷だったのはなぜか

自動車が事故を起こして、乗っていた人たちが大怪我をした中で、眠り込んでいたいた人が意外に無傷であったという話がよくある。
これに関連して、いくつかの興味深い話を上げてみよう。

「格闘王」と呼ばれた、元プロレスラーの前田日明さんは、空手家を目指していた高校時代、「修行」として、夜の街でケンカ相手を求め、実践経験を積んでいた。呆れたことに、大相撲の力士にも、眼を付けて(睨み付けて)喧嘩を売り、さすがにさっぱり相手にされなかったようだが、本当になりふり構わずだったようだ。その中で、普通の人間でも、酒が入っていると意外に打たれ強いことに驚いたということを自伝の中で述べている。
そして、C.トーチェの「トーチェ氏の心の法則」の中の話だが、2人の酔っ払いが、通りに面したドアを開けて外に出たつもりが、それは4階の窓だった。はすさまじい音と共に2人は落下したが、彼らは気分良く歌を歌いながら歩いていったという。彼らはただ、何かにつまづいて転んだのだと思ったのだった。

中国の古典「列子」の中に、やはり、酔っ払いは、車から落ちても、けがをすることはあっても死んだりはしないとある。それは、無心の境地にあり、恐怖心が無いからだという。酔いがもたらす無心でさえそうなのだから、全て天にまかせて絶対的に心静かである聖人が傷付くことは決してないのだという。
同じく「列子」の中に、無知な乞食の老人が、そそのかされて塔の上から飛び降りた話がある。彼を騙すつもりで、そこにいた者達がいまにも飛び降りようとしていた中で、その乞食の老人が真っ先に飛び降りたのだが、彼はかすり傷一つ負わなかった。また、彼はやはりそそのかされて、底知れぬ淵の底から宝珠を取ってきたり、燃え盛る蔵の中に飛び込んで悠々と貴重品を運び出した。後で、騙されていたことを知った老人は恐怖に震えた。
何度かこのブログでも書いたが、私は幼い頃、目をつぶって車道に飛び出せば車は来ないと信じていて、住んでいた団地の前の道路でいつもそうしていた。あまりに車が多かったが、遠くの信号機まで行くのも面倒だったからだ!(これぐれも真似しないで欲しい)

私が子供の頃に見たものだが、昔の時代劇で、任侠の徒を気取る若いチンピラが、やくざ一家に脅されているらしい宿屋の女主人を見て義侠心を起こし、自分がそのやくざどもをやっつけてやると胸を叩いた。真夜中、すさまじい形相のまま冷たくなって放置された彼の死体があった。大勢でめった切にされたのだろう。
私は、子供心に、自分の勝利を信じているなら勝つはずだと思っていたので、やや戸惑ったが、今思えば、こいつは、酒でもひっかけていれば、ちょっとは善戦できたのだと思う。もちろん、余計なことに見栄で関われば死は免れまいが、あんな死に顔を残すようなら無心にはほど遠く、一人も切れずに果てたのだろう。

人は、必ず出来ると信じることが出来れば、いかなることも出来る。
だが、信じる方法を知らない。
信じるとは、「俺は出来る」と呪文のように唱える(アファーメーションと言う)ことではない。むしろ、それでは逆効果だ。
そうではなく、信じることの出来ない自我を消すことだ。それには、真の自己を信じ、自我の自分としては無(ゼロ)になることである。上の「列子」では、天に任せると表現されていた。
それが出来れば、どんな奇跡でも実現できるのである。
具体的な方法は、手を変え品を変え提供しているつもりだし、今後はもっと良いものが出せるだろう。
最も良い方法は、食を厳しく慎むことである。また、性欲を抑えることも良い訓練となる。これらは、意思を鍛え、心の支配力を強くするのである。







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偉人達の仕事は神秘体験から始まった

人生で偉大な仕事を為した人達が、なぜその仕事をするようになったかについてたまたま話したり、書いたりしているのを見ると、それが神秘体験からだったということがよくある。
このブログでよくご紹介している腕振り運動を我が国で普及させた電波工学の世界的権威であった関英男博士が、高次元科学の研究を始めたきっかけもそうで、若い研究者だった関博士が、宇宙からの電波を観測していた時にそれが起こったようだ。
神秘体験というのも、それぞれの人によって、色々異なるのかもしれないが、共通するのは、日常とは異なった意識の状態になっていることと言えると思う。多くの場合、自分が万物と一体化した感覚、宇宙に意思があり、それが非常に親しみを持っていると感じたとか、全て良しという絶対肯定の確信などといったものが含まれるようであるが、関博士のものが、まさにそうであったようだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、19歳の時、ままならぬ人生に嫌気が差し、青酸カリの錠剤を呑もうとしたまさにその瞬間に訪れたようである。ただ、ウィルソン自身、そんな過激なことをしなくても、そのような神秘体験が得られることを知り、それを教えようともしている。それはつまり、強い緊張を解いた時に訪れるものだ。関博士にしろ、宇宙からの電波を集中して観測し続け、緊張を解いた時に起こったのである。ウィルソンは、精神病の妻の様子を注意深く見守っていた男が、妻の回復で緊張を解いた時に、ある不思議な感覚が起こり、以来、賢者になってしまったという話を著書で紹介していたことがあった。
アイルランドの詩人W.B.イェイツは、芸術家であると共に、求道者であったのだろう。彼は、神秘体験についてよく書いているので、どれが最初なのかは分からないが、彼は自伝的小説である「まだらの鳥」の中で、日常とは明らかに異なる意識の中で精霊の少女を見たことを美しく描写していた。少女は、イェイツの投影であるマイケルに、「あなたはいつ仕事を始めるつもりですか」と非難めいた言葉を言ったようだ。
アイザック・ニュートンが錬金術の研究を行っていたことは知られているが、そのきっかけが神秘体験であることは予想できるが、あまりはっきりとした記録がない。ニュートンは、死の前に、ほとんどの手稿を燃やして捨ててしまったのだ。ところが、オカルティズム(神秘主義)とはあまり縁のなさそうなルネ・デカルトが、実は神秘体験から真理の探究を始め、いまだ科学の世界で物議を醸しているエーテル理論などを閃いたことは、多分、間違いないと思う。
アメリカ最高の賢者である、哲学者、思想家のラルフ・ウォルドー・エマーソンは、詩人でもあるが、彼は詩の中で、自分の魂の中に神の魂が溶け込んできた感動的な体験を語っているが、これこそが、偉人たちに偉大な人生を始めさせた神秘体験の本質であろう。

どうすれば神秘体験を起こせるかというと、上に述べた通り、精神の緊張状態を長く続け、それを解放することで起こることが多い。その緊張とは、関博士のように、注意深い観測のようなことが多いが、精神の憂鬱な抑圧状態が続き、それが何かのきっかけで解放されたという場合も多い。コリン・ウィルソンがまさにそうで、ずっとノイローゼ状態だった彼が、青酸カリで人生を終わらせようとした時、一瞬、心が解放されたのだろう。死の恐怖からの解放ということでは、あの偉大なラマナ・マハルシもそうだった。ただ、ウィルソンは、単に、鉛筆の先などに強く集中して、一瞬、緊張を解くということを繰り返すだけで、似たことが起こるとよく著書に書いている。皆さんも、鉛筆が良いかどうかは分からないが、壁のシミか何かを凝視して、一瞬で緊張を解くといった練習でもしてみると良いかもしれない。弓の名手に神秘体験者が多いのも同じ原理かもしれない。
神秘体験が、不可思議な能力、超能力のようなものをもたらすのは、関博士によると、見えない脳とでもいうものが発達するからなのかもしれない。関博士は、この見えない脳をインドの古代科学から見つけたのだと思うが、アンタカラーナと呼んでいて、これが発達するほど、超能力も強くなる。面白いことに、仏教の浄土教の聖典である『観無量寿経』の中に、最高の力を持つ如来(仏様)と、それより少しだけ劣る菩薩との違いは、見えない頭部の盛り上がりの大きさが、菩薩はやや小さいとさりげなく書かれている。
中国の曇鸞(どんらん)という名僧は、中国の仙術の秘本を入手したが、インドの僧に、もっと凄いのがあるぞと、その『観無量寿経』を与えられ、たちまち恐れ入って仙術の本を捨てたという。彼の碑文を読んで、やはり『観無量寿経』を熱心に研究したのが道綽(どうしゃく)だ。『観無量寿経』はとても短いお経である。

見えない脳が発達した関博士の鋭い洞察から良しとして普及させた腕振り運動に効果があるのは当然のことと思える。
腕振り運動は、健康や知力の増大に効果があるが、その原理は、GTP(複数のグラビトン粒子を含む粒子)の体内での増大だ。GTPは、生まれてから減る一方で増えないが、腕振り運動で増やすことができる。それで若返る。GTPの増大に関しては、関博士は実験でも確認している。もっとも、GTPを直接観測する方法は無いので、間接的な影響からの推測であることは仕方がない。ただ、結果は出ているので、我々は真面目に腕振り運動に取り組み、後は自分で確認するしかない。
尚、GTPは呼吸が穏やかなほど保持される。息の荒い人があまり知的でなくて品格に劣り、健康が乱れ勝ちであることは納得できるのではないかと思う。天使のような人は、しばしば、呼吸をしているのかどうか疑わしいほどだ。ちなみに、心と呼吸は根が同じだ。だから、呼吸を整えると、心が静まり、心を透明化する悟りへとも繋がりやすい。呼吸は穏やかであるように。
地球や天と共鳴する腕振り運動
腕振り運動の効果、最新レポート













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私は他人のために祈れない

昔、成功に関するある本を読んでいて、「ああ、私は成功には縁が無いかもしれないなあ」と思ったことがある。
その本は、アメリカのマーブル教会の牧師であるノーマン・ビンセント・ピールが書き、1959年に出版するや驚異的な販売記録を上げた、「積極的な考え方の力」だ。その本の中で、ピールは、出会う人ごとに「祈りを砲撃」をせよということを書いていた。具体的には、「この人に全ての良きことが雪崩れのごとく押し寄せますように」と念じろというのである。
近頃では、銀座まるかんの創業者である斎藤一人さんが、同じことを著書の中によく書かれていると思う。
正直、私には出来ない相談である。
そりゃ、やるだけなら当然出来るし、実際に何日かやってみたが、その不自然さ、異様さは耐え難かった。
大体、自分に良いことを引き寄せるために、上辺だけ、他人への愛や思いやりを示すなんて、下心たっぷりで女の子にプレゼントをするようなものである。いや、それよりずっと悪い。女の子にプレゼントをする時は、元々、自分でも愛や善意で無いと分かっているので、自分を欺いてはいない。また、その場合、本当に純粋な子を相手にすることは無い。予想に反して純粋な子だったら、さっさと謝るし、そもそも、相手にされないだろう。
しかし、祈りは純粋であるべきだ。それを偽りの気持ちで行えば、良心に反することであるので、後ろめたさを感じ、心が分裂するのである。
そんな嫌な思いまでして、金持ちにはなりたくないものだと思ったのだし、やっても成功しないだろう。
大体、そんなことを、本当に愛の気持ちでやれる人間がいるなど、私には信じられない。また、偽りと気付きつつ、後ろめたさも感じずに、それをずっとやれる者がいるとなると、人間不信とならざるを得ないだろう。

例えば、あなたが最も好ましく思う人物が、そのようなことをする姿を自然に感じるだろうか?もしそう思えるなら、その人物に対するあなたの認識は単なる幻想なのである。
さらに言えば、なぜ人々が、あなたに良きことを祈ってもらわねばならないのか?彼らは、力ある存在であり、余計なことをしなくても、自らの力で全てをなし得るだろう。そう思ってあげる方がずっと良いのではないだろうか?

イエスも、「汝の隣人を愛せよ」とか「父母を敬え」と教えているが、私が、元々キリスト教に違和感を感じていたのも、これが理由だった。
ただし、イエスは祈るだけでなく、具体的な行動を要求したのだ。それなら、たとえ心がこもっていなくても、力になってやれる。善意はやはり形で示すものだ。

そして、私と同じことを考えたかもしれない偉人がいた。
彼は、アンチ・キリストだった。だが、イエスの能力といったものは評価していた。それは、イエスの比喩を使って話す言葉の力だ。彼は、詩人で劇作家でもあったからだ。
その人物は、アイルランドのW.B.イェイツだ。20世紀最大の詩人とも言われるノーベル賞作家である。
彼は、実に、人間は愛することは出来ないと言ったのだ。なぜなら、愛は神の領域のものであるからだ。
ただ、人は憎むことをやめることは出来るという。なぜなら、憎しみは、人の領域のものであるからである。
そして、イェイツは、少なくとも、本物の愛の手前には至ったのだ。不意に、それは彼に訪れた。全てを肯定する崇高なる意識と1つになったのだ。彼には、それがどうやって起こるのかは分からなかった。ただ、憎むのをやめた時に起こりやすいと感じた。

憎むのをやめるというのも、決して易しいことではないが、これであれば、私にも可能であると思われるのだ。
人の心とは、憎むことは出来るが、愛することは出来ないのだ。だが、憎むことが出来るなら、それをやめることも出来るはずだ。
愛と見えるものは、ただの欲望という執着である。人は、欲望を愛と取り違えているだけだ。
では、どんな時、人は愛していると言えるのだろう。それは、実に、憎しみの主である心が消えた時なのだ。
インドのヒンズー教や中国の老荘思想では、心が消えた状態が悟りであり、永遠の存在と一体になることだと教えているのだ。

個々の目標を定めなくても、心が消え、永遠の存在と一体となれば、あらゆることが可能である。
逆に、わざとらしく、他人を思いやる振りをし、愛することが出来る振りをすれば、ますます自我を強固にし、迷い苦しむことになるのだ。
愛さなくてもいい。憎むのをやめれば良いのだ。そうすれば、人生はきっと耐えやすいものになるだろう。







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老子、荘子のすゝめ

老子と荘子の思想を合わせて老荘思想と言われるのはまあ良いとしても、これを道教という宗教のように扱われることには問題があると思う。別に老子や荘子は宗教ではない。確かに、中国には、道教という宗教もあるのかもしれないが、それは、なりゆき上、そうなっただけであると思う。
そもそもが、仏教やキリスト教にしたって、釈迦が仏教という宗教を作ったわけではないし、イエスがキリスト教という宗教を作ったわけではない。後の世の人達が、彼らの教えを使って、それらの宗教を作ったのであり、言って見れば、これらも、なりゆき上、そうなっただけだ。
実際、キリスト教徒ではないが、イエスの教えを学んでいたり、仏教徒ではないが、釈迦の教えを学んでいるという人も多いのである。
ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーらが崇敬したエマニュエル・スウェーデンボルグは、教会からは火あぶりの刑にされかけたが、イエスの教えを伝統的なキリスト教とは全く異なる形で崇拝していたし、アメリカ最高の哲学者ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、教会に用は無かったが、イエスの教えには重きを置いていた。宇宙人とのコンタクティーとして知られるジョージ・アダムスキーも、自分はクリスチャンではないが、イエス自身の偉大さと、その教えの崇高さは認めていると言っていた。

イエスの教えも、釈迦の教えも、形の違いはあっても、根源的な真理を説いているのであり、その点は、老子や荘子も同じである。
ところで、イエスの教えを弟子達が書いた福音書や、釈迦の教えを書いた経典も、必ずしも悪意ではないだろうが、改ざん、誤訳、そして、後の世の付け加えも多く、必ずしも純粋な形で伝わっていない。その点は、老子や荘子にも無い訳ではないが、聖書や経典に比べれば、マシなのではないかと思われる。そして、老子や荘子の良いところは、教えを説いた者自体が著述したということである。この点も、必ずしもそうとは断言できないし、特に、老子に関しては、老子という人物の実在が疑われているが、老子全81章には内容や文体の一貫性が認められ、一人の賢者が書いたものであろうと考えられている。荘子に関しては、少なくとも、内編(他に、外編、雑編がある)は、荘子本人の著述であろうと言われている。それはともかく、老子、荘子の内容の素晴らしさは疑いようもなく、釈迦やイエスの教えと同等であると言っても良いと思う。そこで、宇宙の真理を、手軽にと言っては何であるが、比較的、誤解の恐れが少なく学べるものとして薦められるのである。道元や良寛も、荘子を読んで、その英知に惹かれたようである。

老子と荘子は実際にはかなり異なる。老子の方が荘子より百年ほど前で、老子と孔子が同時代であるという説が割合に有力と思う。実際、荘子の中には、老子が何度も引用されており、孔子は、あまり良い役回りではないことが多いが登場させられている。
老子はエッセイ的、あるいは、論文的であり、ほとんど固有名詞(人名、地名等)はなく、普遍的真理を述べ、非常に重厚で、神秘的に感じるかもしれない。一方、荘子は、やはりエッセイ、論文的な箇所もあるが、全体的には物語的な記述が多く、読みやすく面白い。
いきなり老子を読んで、意味が分かる人はいないと思うし、それどころか、ずっと分からないままということが多いというか、それが普通かもしれない。だが、荘子は、その深い意味はともかく、読んでいて理解できないということは、まあ、ない。
ただ、老子は、理屈で理解するものではないと思う。無心に読んでいれば、頭では分からなくても、深い心に感じるものがあり、いつしか、真理をものにするというものである。むしろ、頭で分かろうとしない方が良いと思う。

面白いのは、荘子は、世間常識を破壊するための書であるとも言われるが、それは、2千年以上前のことだけでなく、現代においても全くそう言えるのである。世間というものがいかに進歩しないかということは驚くべきものである。
尚、物語という意味では、列子も面白い。列子は、伝説の寄せ集めのように思われ、タオイズムの書としては、老子、荘子の後に置かれることが多いが、実は、列子こそ、最高の知恵の書と見る者もいる。
老子、荘子、列子を読み、世間の教義や信念を超え、真理をものにすれば、世間から見れば、神秘な力を得ることになるだろう。それは不思議なことではなく、人の力を制限しているのは世間の妄念や偏見であるのだから、当然のことと思う。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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