私は、個人としては、肉や魚介類を全く食べないが、別にこれらの生物が殺されるのを阻止するために何らかの行動をしている訳ではない。
鳩を見て可愛いと思うし、目の前を滑空するカラスを見て、その美しさにはっとしたことがある。日本では、鳩やカラスを食べる人はあまりいないが、海外では食用とされることも多く、実際、日本で食べられていないのは、単に文化や慣習の問題と言われる。そもそも、鳥類ということに関して、鳩もカラスも鶏もない。日本の国鳥であるキジは、国内で食用として人気があるが、そもそも、鶏もキジ科(キジ目)だ。
そして、何の鳥の保護に役立っていない私も、彼らに対して友達甲斐の無いやつである。いや、友達ではないのかもしれない。
ただ、出来ることはしようと思う。
今朝、自宅の台所で、この夏初めて、ゴキブリを見た。割に大きいもので、私の目の前に大胆に現れた。私が殺さないことを知っているかのように、私が動いても、警戒する様子が無いように見えた。
私は、ここに来た目的であるペットボトルの水を飲んだ後、またゴキブリに目を向けた。さて、どうしたものだろう。
私は、スーパーで自由に持ち帰れるナイロン袋(いわゆる、くるくるナイロン袋)を取り出し、ゴキブリの前で開き、「入れよ」と念じたが、ゴキブリも戸惑っていた。しかし、追い込むとおとなしく入ったので、庭に運んで放した。
以前、会社で、スズメバチが部屋に入ってきた時、私は非常口に誘導して、そこのドアにとまったハチに、「うごくな」と命じ、ドアを開け、「行け」と念じたら外に飛んでいった。
私の思い込みかもしれないが、虫だって、こちらの害意というのは感じ取るもののようだ。
ずっと前、政木和三さんが岡山の林原生物化学研究所で参与として研究しておられた頃、林原の政木さんの研究室を訪ねると、ゴキブリが現れたことがあった。政木さんは、こんな時のために用意しているらしい紙の小箱を持つと、ゴキブリに、「お入りなさい」と言って中に入れ、室外に出ると、「もう入ってきちゃだめだよ」と言って解放した。当時、私は、ゴキブリを見ると、条件反射のように殺虫剤で殺していたのだが、非常に感銘を受け、すぐではなかったが、だんだんと殺さないようになった。
アフリカの未開人の治療を生涯に渡って続けたアルベルト・シュバイツァーも、室内にいるハエを捕らえて外に出すための紙コップをいつも用意していたようだ。彼は、研究のために、やむなく蚊を解剖する時も、苦悶の表情で行ったといわれている。当然、彼も菜食主義者だった。
中国の僧で、浄土教の聖人の1人である道綽(どうしゃく)は、弟子の善導(ぜんどう)に、自分の往生(極楽浄土に生まれることが出来るかどうか)について尋ねたという話がある。法然によれば、弟子とはいえ、善導は道綽より優れていた。善導は、道綽に「あなたは家を建てる時、虫を殺しているが、それが触りになっている」と言ったといわれる。僧たるもの、生きとし生けるものに慈愛を持ち、大切にしなければならないのだろう。
植物にしても生命を持っている。植物は動物に食べられて同化することが使命のように思えるが、とはいえ、実を付ける前に無駄に採ったり、採ったものを捨てるようなことはしない方が良いと思う。
私は、綺麗だからといって花を摘んだりしないし、女の子が花を摘むのを見ることも、正直言ってあまり好きではない。
小学生の時、クラスの中に、他の女の子が花を摘んでいる時、1人だけ、全くそれをしない子がいるのに気付いたことがある。別に他の子がそうするのを咎める様子もなく無表情だったが、悲しそうというか、痛そうな雰囲気があるのを感じた。彼女は、花の精のような儚げな美少女だった。
昨日、信念について書いたが、あらゆる生命を大切にすることもまた、信念を強くし、心を自在に支配できるようになる易しい方法であると思う。
食の慎みが、心を制する最も強力な方法であるが、食の慎みは、自分をも含む、全ての生命に対する慈しみでもある。他の生命だけでなく、自分にもそうであるとは、食欲を抑えることは、自分の身体も健やかに保つからである。
ならば、食の慎みが、良い運勢を運んでこない訳がないのである。
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鳩を見て可愛いと思うし、目の前を滑空するカラスを見て、その美しさにはっとしたことがある。日本では、鳩やカラスを食べる人はあまりいないが、海外では食用とされることも多く、実際、日本で食べられていないのは、単に文化や慣習の問題と言われる。そもそも、鳥類ということに関して、鳩もカラスも鶏もない。日本の国鳥であるキジは、国内で食用として人気があるが、そもそも、鶏もキジ科(キジ目)だ。
そして、何の鳥の保護に役立っていない私も、彼らに対して友達甲斐の無いやつである。いや、友達ではないのかもしれない。
ただ、出来ることはしようと思う。
今朝、自宅の台所で、この夏初めて、ゴキブリを見た。割に大きいもので、私の目の前に大胆に現れた。私が殺さないことを知っているかのように、私が動いても、警戒する様子が無いように見えた。
私は、ここに来た目的であるペットボトルの水を飲んだ後、またゴキブリに目を向けた。さて、どうしたものだろう。
私は、スーパーで自由に持ち帰れるナイロン袋(いわゆる、くるくるナイロン袋)を取り出し、ゴキブリの前で開き、「入れよ」と念じたが、ゴキブリも戸惑っていた。しかし、追い込むとおとなしく入ったので、庭に運んで放した。
以前、会社で、スズメバチが部屋に入ってきた時、私は非常口に誘導して、そこのドアにとまったハチに、「うごくな」と命じ、ドアを開け、「行け」と念じたら外に飛んでいった。
私の思い込みかもしれないが、虫だって、こちらの害意というのは感じ取るもののようだ。
ずっと前、政木和三さんが岡山の林原生物化学研究所で参与として研究しておられた頃、林原の政木さんの研究室を訪ねると、ゴキブリが現れたことがあった。政木さんは、こんな時のために用意しているらしい紙の小箱を持つと、ゴキブリに、「お入りなさい」と言って中に入れ、室外に出ると、「もう入ってきちゃだめだよ」と言って解放した。当時、私は、ゴキブリを見ると、条件反射のように殺虫剤で殺していたのだが、非常に感銘を受け、すぐではなかったが、だんだんと殺さないようになった。
アフリカの未開人の治療を生涯に渡って続けたアルベルト・シュバイツァーも、室内にいるハエを捕らえて外に出すための紙コップをいつも用意していたようだ。彼は、研究のために、やむなく蚊を解剖する時も、苦悶の表情で行ったといわれている。当然、彼も菜食主義者だった。
中国の僧で、浄土教の聖人の1人である道綽(どうしゃく)は、弟子の善導(ぜんどう)に、自分の往生(極楽浄土に生まれることが出来るかどうか)について尋ねたという話がある。法然によれば、弟子とはいえ、善導は道綽より優れていた。善導は、道綽に「あなたは家を建てる時、虫を殺しているが、それが触りになっている」と言ったといわれる。僧たるもの、生きとし生けるものに慈愛を持ち、大切にしなければならないのだろう。
植物にしても生命を持っている。植物は動物に食べられて同化することが使命のように思えるが、とはいえ、実を付ける前に無駄に採ったり、採ったものを捨てるようなことはしない方が良いと思う。
私は、綺麗だからといって花を摘んだりしないし、女の子が花を摘むのを見ることも、正直言ってあまり好きではない。
小学生の時、クラスの中に、他の女の子が花を摘んでいる時、1人だけ、全くそれをしない子がいるのに気付いたことがある。別に他の子がそうするのを咎める様子もなく無表情だったが、悲しそうというか、痛そうな雰囲気があるのを感じた。彼女は、花の精のような儚げな美少女だった。
昨日、信念について書いたが、あらゆる生命を大切にすることもまた、信念を強くし、心を自在に支配できるようになる易しい方法であると思う。
食の慎みが、心を制する最も強力な方法であるが、食の慎みは、自分をも含む、全ての生命に対する慈しみでもある。他の生命だけでなく、自分にもそうであるとは、食欲を抑えることは、自分の身体も健やかに保つからである。
ならば、食の慎みが、良い運勢を運んでこない訳がないのである。
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