ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

殺してはいけないという理由はどこにも無い

一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」ということが世間の話題になったことがあった。
子供による殺人が起こったことが発端だったような気がする。それで、文化人などから、数多くの意見があったと思うが、結論は出ていないはずだ。
出るはずがない。
問題自体が間違っている。
殺して善いも悪いも、誰にも殺せないし、殺すことを避けることもでできないからだ。
土台、殺人がなぜ悪いかを議論することが大切なのではない。
あることにより、自然な流れとして、殺人が起こりえない世界になることが大切なのだ。
その「あること」をさっぱり分かっていないし、分かろうとしないことが、今の人類の問題なのだ。

どれほど殺したくても、殺す運命になければ決して殺せないし、どれほど殺したくなくても、殺す運命であれば必ず殺してしまうのだ。
しかし、この言い方も正しくない。
殺すのではない。殺人が起こるのだ。
運命であれば、殺人は起こる。逆に、運命になければ、殺人は起こらない。
殺人者は、単なる運命の道具だ。
それは殺人に限らない。泥棒も、強盗も、詐欺も、そして、世界中を感動させるような慈善行為も同じだ。
人は、自分の思うままに、どんな善いことも悪いこともできない。

では、冷酷な殺人者に神の罰はあるのだろうか?
あるように見える場合が多い。しかし、別に罰というのではない。
神は、残虐な殺人をする運命を与えた者に、同時に悲惨な結末となる運命も与えている場合が多いかもしれない。
だが、単純に、「悪いことをすれば報いを受ける」と考えてはいけない。
神の意志によらずに何も起こらないが、神は法則を破ることもまたない。法則とは自然であり、調和に導くものである。だが、その構造や展開は複雑過ぎて、浅はかな人知で量ることはできない。
このあたりは、『エメラルド・タブレット』にも書かれているのだが、巷で凡人が書いたいい加減なものと異なり、真理が書いてあるだけに、凡人たる我々に理解できるようなものではないかもしれない。しかし、我々の内に至高の英知があるのも確かであり、それと僅かにでも共鳴させれば、その恩恵は計り知れない。

殺人とまではいかなくても、悪いことをすれば、法則から言っても、そういった者が酷い目に遭う流れとなる可能性は高い。
だが、だからといって、悪いことをしないでおこうと思ったところで、自分の意志でそう出来る訳ではない。
最近は、人ごみでも携帯電話やスマートフォンを操作しながら歩いて、人に迷惑をかけても平気な者が目立つし、歩きながら煙草を吸う者が多くなっているようにすら思う。
彼らもまた、自分の意志でそうしているのではないのだが、実を言えば、彼らには相当に哀れな運命が用意されているのである。
だが、このように、悲惨な運命の原因が単純に推測できるとは限らない。むしろ、原因が分からない場合が多い。
『荘子』の中に、あるひどく貧しい男が登場するお話がある。
その男の友人が、「あいつも、もう食うものもなく、大変だろう」と思って訪ねてみると、確かに悲惨な状況だった。
訪ねて来た友人を見て、貧しい男は言う。
「俺がなぜこんなに酷い目に遭わなければならないのか分からない。それほど悪いことをしたつもりもない。しかし、これが運命というものなんだろう」
彼はきっと、見かけはどには辛くないはずだ。運命を受け入れているからだ。

あなたもまた、ロクな状況ではないと思う。また、将来どうなるかは、神は既に細部にいたるまで、完全に決めているのだけれど、あなたには何も分からない。
だが、辛い現状も、どうなるか分からない未来も、全てただなりゆきに任せることを受容することだ。言い換えれば、全て神に任せ、世界という舞台の役者に徹することだ。
もっと良いのは、自分が操り人形であることを受け入れることだ。

荘子や、古代インドの賢者アシュターヴァクラは、真の自分とは、鏡のようなものだと言った。
そして、ラマナ・マハルシのような近代の聖者は、それ(真の自己)は映画のスクリーンのようなものだと言う。
鏡は殺人を映し、スクリーンの上で殺人が起こっているように見える。しかし、鏡やスクリーンは何の影響も受けない。

聖者にとって、殺人は非現実だ。殺す者も、殺される者もいない。
しかし、凡人たる我々には、殺人は厳然たる現実だ。運命であれば、殺すことも、殺されることも避けられない。
解放される鍵は、ただ受容だけである。









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性格を直す必要は絶対にない

自分の性格が嫌いだという人は多いだろう。
いや、実際は、自分の性格が好きな人なんて、いないに違いないと思う。
また、誰かの性格が好きだというなら、多分、その人のことを誤解している。その人自身は、自分の性格は嫌いなはずだ。

性格なんて、直す必要はない。
他人の性格の悪さを指摘したり、人間性の改善の指導をしている者の性格自体が最悪というのは、ほとんどお決まりのことだ。

すぐにかっとなる性格、優柔不断な性格、皮肉を言わずにいられない性格、男らしくない性格、女らしくない性格、見栄っ張り・・・自分の性格が嫌いな理由はいろいろあるだろう。しかし、そんなものは放っておけば良い。
こう言うと、すぐに、
「そうですね、怒りっぽいけど好かれている人、いますよね」
「性格が悪くても、魅力があれば嫌われないですよね」
などと言う者がいるものだ。
馬鹿を言ってはいけない。怒りっぽい人が好かれる訳がないじゃないか?
いつも皮肉を言うような性格の者が嫌われずにすむはずがないではないか?

性格というのは、生まれる時に組み込まれた因子と、生まれてからの条件付けによって形成されるもので、歳が3つ4つの時には、大方決まってしまい、それは一生、決して変わらない。
だから、いくら自分の性格が嫌いでも、諦めるしかない。
ひどく嫌われる性格であれば、嫌われるしかない。
こんな性格でいる限り、自分は下らない人間だと言うなら、あなたは下らない人間であるしかない。
だが、是非言っておきたいのは、決して罪悪感を持ってはならないということだ。
あなたがそんな性格であることは、運命であり、決して避けられないことだった。
あなたには、どうすることも出来なかったことで、なぜあなたが悩まなくてはならないのだろう?
あなたの性格に対し、あなたには何の責任もないのだ。
だから、あなたは、自分がどんな性格であろうと、罪悪感だけは絶対に持ってはならない。
たとえロリコンの変態であっても、別にあなたが悪いわけじゃないのだから、気にする必要はない。
性格によっては、人々に蔑み疎まれるだろう。だが、それも運命の必然として受容するのだ。
あなたは、絶対的に無力だ。あなたには、何も変えることはできない。世界も、人生も、他人も、そして、自分も。
だが、それを無条件に受け入れれば、ある奇跡が起こる。

誤解されていることが多いが、聖人だって、性格の良い人なんていないものだ。
イエス・キリストだって、福音書を読む限り、結構、怒りっぽい人だったかもしれないと思う。
彼に、偏執狂的なところがあったとしても、別に私は驚かないし、崇拝の気持ちは変わらない。
もしそうだったとして、何の問題があろう。彼は、性格温厚な聖人君子だったから偉大なのではない。
仮に人間としての欠陥が多くても、それを含め、全てを無条件に受け入れていたから、人類最高の英雄と見なされているのだ。

作家の遠藤周作さんが、何かのCMで、「どんどんイヤミ言って、どんどん嫌われる。そんなじいさんに、私はなりたい!」と言ったことがある。これは彼の本心だろう。
彼は、決して嫌われたかった訳じゃない。
そうじゃなくて、彼は、人に嫌われることを恐れて、自分の性格を受け入れることが出来ず、自分を違う人間に見せたり、自分の性格で罪悪感を持ちたくなかったのだろう。
きっと、彼は、自分の深刻な人間的欠陥を自覚していたはずだ。
岡本太郎だって、「嫌われていい。いや、嫌われないといけない」と言った。
それもきっと同じ意味なのだ。
自分を受け入れることが出来ないことに比べたら、人に嫌われることなど、取るに足りないことだ。
岡本太郎だって、付き合ったら、素晴らしい面も確かにあるだろうが、おそらく、付き合いきれない嫌なやつだったと思うよ。

自分の性格がどうであっても、どれほどの人間的欠陥があっても、それは運命の必然であり、絶対に、あなたに何の責任もないのだ。
だから、決して、決して、決して、罪悪感を持ってはならない。
自分の性格の影響で、他人に大きな迷惑をかけることもあるかもしれないが、それは、運命であって、あなたに避けられることではなく、あなたが悪い訳ではないのだ。
引きこもりのニートであるという状況は、脱出することが好ましいが、たとえ、一生そのままだとしても、罪悪感だけは持ってはならない。それは、神が命じたことだと思っていただいて差し支えない。

こう言うと、残虐な犯罪を犯した者は、罪悪感のかけらも持っていないことや、弱い者をいじめて自殺に追い込んだ子供にも、いじめることに罪悪感が薄いということを指摘する人がいるだろう。
そうではない。
彼らは、自分の本当の罪悪感の痛みから逃れるため、別の罪悪感を感じる必要があったのだ。
あなただって、弱い立場の者を攻撃して痛みを与えた時、奇妙な快感を感じたという経験があるはずだ。
ディール・カーネギーという、賢者だと誤解されている者がいたが、彼は、そのような犯罪者達は、たとえ悪いことであっても、世間を騒がすことで、ある意味、自分のステイタスが上がったと感じるから快感なのだと言った。しかし、それは全く違う。そうではなく、わざと別の罪悪感を感じることをして、自分の本当の罪悪感の苦しみから逃れようとしているのだ。
しかし、そうやって、自分の本当の罪悪感を誤魔化すためには、より強い別の罪悪感を感じる必要があり、どんどん、残酷な行為をするようになる。
サディズムなんてのも、そんなものなのだ。(マゾヒズムは意味が異なるが、今回は述べない)
沢山の幼女を殺した青年も、初めは虫やカエル、そして、鳥やねずみ、さらに、犬や猫を殺していたのだ。そして、次は、弱い幼女だったということだ。
確かに、彼は、残酷な行為を重ねるうちに罪悪感が麻痺していただろう。しかし、心の奥の本当の罪悪感は、最後まで残っていたのだ。

大切なことは、自分の完全な無力さを受け入れることだ。
全ては、ある至高の力が動かす。それをとりあえず神と呼んでもいいだろう。
イエスは、「私自身は無力だ。全ては神が為す」と言ったのであるが、それが最も優れた態度であるのだ。
『荘子』や『バガヴァッド・ギーター』、あるいは、新約聖書の福音書に学ぶと良いと思う。









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夏休みの宿題をやらなかったことで得た貴重なもの

季節はずれの話題で恐縮だが、学校の夏休みの宿題はちゃんとやっていただろうか?あるいは、現役の学生なら、ちゃんとやるだろうか?
ほとんどの人が、なんだかんだ言っても、一応はやるのではないかと思う。
しかし、私は、やらない方が、やるより百倍は良いと思う。
私自身は、中学までは、夏休みが終ってからやっていたが、高校1年生からはあまりやらなかった。
それで、今、冷静に考えてみて、実質で何か損失があったかというと、全く無いことが分かる。
さらに、トータルでの成果を言うなら、「良い経験になった」の一言である。
一応は進学校とされる高校だったということもあるだろうが、学校で命じられた提出物をきちんと出さないと、かなり嫌な目に遭わされることはご存知と思う。
それが、夏休みの宿題で渡された問題集を丸ごと出さなかったりでもしたら、まるで女子小学生に猥褻行為でもした異常者のような扱いを受ける。
つまり、私に罪悪感を与えるのである。

なぜこんな話をするのかと言うと、人間の持つ、唯一の能力についてお話したく思うからだ。
人間が持つ唯一の能力とは、妄想することである。あるいは、思い煩うことであると言っても良い。

先月の4月7日からは、このブログで堂々と書いているが、人間は、自分の意志で考えたり行動している訳ではない。
誰しも、自分の意志で考えていると思っているが、そう思い込んでいるだけだ。実際は、考えが自動的に起こった後で、それを自分が考えたと感じるだけだ。それは、脳や神経の研究でもほぼ解明されていることである。
思考がそうであるのだから、行動も当然そうなのである。
イエスが言った通り、「彼らは自分が何をしているのか知らない」のである。

『荘子』にも、こんなお話がある。
影の外側に出来る薄膜が影に対し、「なんだってお前は、そんな訳の分からない動きをするのだ。ついていく私の身にもなってくれ」と不満を言う。
すると影は、「俺はご主人様である人間の動く通りに動いているだけだ。しかし、この人間だって、自分がなぜそんなことをするのかは分かっちゃいないんだ」と言うのだ。
特に荘子自身の手によるとされる『荘子』内篇全体を通し、荘子の洞察力は恐るべきものである。

荘子ももちろんだが、釈迦、イエス、そして、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナも、人は全くの無力であることを断言している。
人は、この世の一切に対し、何のコントロールも出来ないのだ。
全てのシナリオは既に細部にいたるまで完全に決定済みなのである。
ただ、そうであることを受け入れることは難しい。なぜなら、人が持つ自我は、自分には力があり、この世に対して支配力を持つという幻想の中でしか生きられないように作られているからだ。
(『エメラルド・タブレット』には、それについて、非常に洗練された高度な書き方がされているので、ちょっと分かり難い。愚民に配慮があるとはいえ、我々とは全く異質なレベルの存在が書いたものだからだ。だから、頭で理解しようなどと思わず、ただ、言葉の響きを感じる方が良い。)

このように、人は実際には何の力も無いのであるが、唯一与えられた力がある。
それを私は、いつもは、創造的な想念とか、想いを出来事に留めるか離すかを決定する意思力といった、ちょっとややこしい言い方をしているが、一言で言うなら、妄想することである。
人間に与えられた唯一の能力は、なんと、妄想することである。
これを思い煩うことと言っても良い。妄想と煩いとは一体であるからだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、人を救うための具体的手法に関しては全く無能なのだが(それは彼だけではないが)、洞察力においては天才だった。それは、世界的心理学者のアブラハム・マズローも舌を巻く程で、マズローは自分が教えていた大学にウィルソンを招いて講義を頼むこともあったようだ(ウィルソンは中卒だ)。
そのウィルソンは、人間が手に入れた唯一の能力はマスターベーションだと言った。すると、マズローは、「猿でもやるじゃないか?」と反論したが、ウィルソンは、「メス猿の姿が見えない時にオス猿がマスターベーションをするのを見たことがあるか?」と言い返した。しばらく考えたマズローは、「ないね」と認めた。
人間のみが、想像だけでマスターベーションが出来る。これは驚くべき能力である。

だが、ウィルソンの言うことをもっと適切に言うなら、「人間の持つ唯一の能力は妄想すること」なのである。
「想像すること」ではない。そこらにウィルソンの誤りがある。
人間には想像は出来ない。思いは自動的に浮かぶのだ。それに対して、意味付けとして思念エネルギーをまとわり付かせることが出来るだけである。それを妄想と言うのである。

そして、妄想や思い煩うことが、人を破滅に追い込むのである。これに関しては普段から述べていることでもあり、ここでの説明は略す(長くなり過ぎる)。
釈迦の究極の教えは「妄想するな」であるし、イエスの場合は「思い煩うな」であった。
荘子は、「思慮分別を離れよ」であるが、人間は自分で考えることは出来ないのであるから、自分の支配下にある唯一の精神活動である妄想を避けるには、思考そのものをやめれば良いということなのである。

さて、ここで、学校の夏休みの宿題の話に戻る。
夏休みの宿題を提出しないと、当然、教師は怒りや不快感を示し、生徒を威圧するが、もっと効果的に生徒の精神にダメージを与えるために、生徒に罪悪感を持たせる。
宿題を提出しないことは罪悪であり、恥ずべきことであり、まっとうな人間であることを拒否することだという訳である。
そして、生徒は、本当にそんなことを思うようになってしまう。
それは、学校は、生徒に妄想を強要しているということである。
つまり、学校は、生徒を人間として破滅させることに全力を尽くしているのだ。

現代アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、こんな喩え話をした。
カラスが鷲にトウモロコシを売りつけようとする。
そこで、カラスは鷲に、トウモロコシが無くては、愛がなくて、寂しくて、途方に暮れてしまうゾという妄想を抱かせたのである。
鷲は、もう飛ぶことをやめ、不満と憂鬱に落ち込み、冷淡になり、退屈と不安に苦しむだけの哀れな存在になった。
だが、一羽の鷲は勇敢にも翼を広げてみた。なんのことはない。翼は立派に動き、彼は高く飛び、魂の束縛から解放された。

我々も、罪悪感などの妄想を断ち切り、高く飛ばなければならない。
私が夏休みの宿題をやらなかったのは運命であり、学校に罪悪感を植え付けられて妄想を強固に持ち、精神が逸脱したのもまた運命。そして、その経験を生かして、いろいろ知るようになったのもまた運命だ。
初音ミクの『1/6』という歌がある(作詞作曲はぼーかりおどPさん)。いつか重力の鎖を断ち切って、君を宇宙に連れて行きたいという歌だが、この重力とは、得体の知れない何かを喩えたものだ。
人が抱える得体の知れない何かとは妄想が生み出したものだ。それは重い罪悪感や不安等であり、我々の魂を地上に縛り付ける。それを断ち切って高く飛ぶために必要なものは、受容という翼である。
受容という翼(当ブログ内4/10の記事)

自分の思いで自在に出来る訳ではないが、夏休みの宿題は、やらなくていいと思ったらやらないことだ。
教師になぜやらなかったかと聞かれたら、『ITスペシャリストが語る芸術』というブログに、やらない方が良いと書いてあったとでも言っていただけたら嬉しい。
実際にそう言うかどうかも運命次第ではあるが、どんな場合でも罪悪感は持たないで欲しい。
全てはただ、起こるべくして起こる。
あなたにそれをコントロールする力は無いが、同時に、あなたには何の責任も無いのである。













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誓ってしまったことなど忘れてしまえ

会社の入社式などで、「新入社員の誓い」なんてものは、よくあるのだろうか?
私は新卒で入社したことがないし、入社式というのも縁が無いのでよく分からないのだが、テレビで見た大企業の入社式にそんなものがあったと思う。
学校などでも、新入生挨拶などというものがあったのかもしれないが、私はさっぱり憶えていない。多分、ほとんど誰も憶えていないだろう。
会社であれば、新入社員の代表が、「業績向上のため、全力で努力します」というのを、言葉を飾って言うのだろうし、学校であれば、「伝統を守り、勉学に励みます」といったところだろうか。

しかし、イエス・キリストは、「誓うな」と言ったのである。
もう少し詳しく言うと、「誓ったことは必ず果たせと昔の人は言ったが、私はお前達に言う。決して誓ってはならない」とイエスは言ったのである。
つまり、誓いというのは、どんなものでも、神に対する誓約となる。
普通の意味で言うなら、会社の業績など、新入社員にとっては知ったことではないだろうし、学校の伝統など、ほとんどの生徒には関心外のことで、勉学に励む気も無いだろう。
そんな者が誓えば、神に対して嘘を言ったことになる。
それも軽くはないが、イエスは、もっと重大な意味で言ったに違いないのだ。

例えば、本当に真面目でやる気のある新入社員や新入生が、心から、「俺の力で会社の業績を上げてみせる」とか、「立派な学生になって、勉強もがんばるぞ」と思っているとしても、そのようなことを思いのままにやれたりなどはしないのだ。
会社の業績を上げることが、その者の運命であれば、仕事に興味がなくてもそれを成し遂げるだろうが、そういう運命でなければ、いかに能力があって努力をしたところで会社の発展に寄与しないばかりか、会社に重大な損失を与えることだってあるかもしれない。
勉強するつもりであっても、学業を放棄する運命であれば必ずそうなる。逆に、はじめはやる気がなかったとしても、運命がそうなっていれば、学校始まって以来の学績を上げるだろう。

我々には、出来事をコントロールする何の力もない。どんな些細なことであっても思い通りにすることなど決して出来ないのだ。
イエスも、「お前達は、髪の毛1本、黒くすることも白くすることもできない」と言い、人々に、自分の無力さを自覚させようとしたのである。
全ては神の意思の通りに動くのだ。
それを、イエスは、「神の意思によらずに何も起こらない。空の雀一羽、神の許可なく落ちたりしない」と言ったのだ。
人が何を誓ったとて、それを叶える力は、その者には全くないのだ。
だから、自分の想いでどうなる訳でもないことを誓うべきではない。それは、自分では気が付かないかもしれないが、神に対し、嘘を言ったことになるのだ。

だが、その者に、叶うはずのない誓いをさせたのもまた神なのだ。おかしな話であるが、これを、聖なるジョークだと言った聖者もいる。
つまり、人は、想いすら、自分で自由に起こせるのではない。
想いもまた、神が人に与えたものなのである。
自分で考えたつもりであっても、そう思い込んでいるだけであるが、これは科学的にも解明されていることである。

入社式や入学式での誓いは、世間の教義に基づくもので、そんな誓い言葉を言わされたのもなりゆきであろう。
しかし、馬鹿げた世間の誓いなど、たとえ言ってしまっても、それは忘れることだ。
人は、自由に考えることが出来る訳ではない。だが、起こったことに対して、心を留めるか離すかを決めることだけは出来るのだ。
そして、悟った人間は、全て幻想として、そこに心を留めない。
それを釈迦は、「聖者は第二の矢を受けず」と言ったのである。
好みのタイプの異性に惹かれるのが第一の矢で、これは聖人、凡人の区別なく受ける。だが、凡人はそこに心を留めることでエロチックな想念が起きるが、聖人は心を離すので、現実感を持たないのだ。
なりゆきで、世間の迷妄に従った誓いをさせられたのは仕方がない。それもまた、起こるべくして起こった必然であり、運命であった。しかし、それから自分を解放することは出来るのである。

キリスト教式の教会の結婚式を見たことがあるだろうか?
私も何度か見たが、あまりの馬鹿馬鹿しさに居たたまれなかった思い出ばかりだ。
あれはイエス・キリストとは何の関係もない偽物だ。
「神が結び合わせた」と言うことに関しては正しい。神の意思によらずして、何も起こらない。これは、人の側から言えば、運命によらずして何も起こらないということだ。
だが、「この女(男)を、生涯、愛し、敬うことを誓いますか?」などという冗談を言うのはやめた方がいいだろうし、それに、「はい」なんて答えたら、皆で爆笑するくらいで良いのである。なぜなら、それはジョーク以外の何物でもないからだ。
実際、そんな誓いは誰も守っていないのだから、もし本気で誓ったなら、神に嘘をついているのである。そして、それをさせる教会もまた、神をないがしろにしていると言えるに違いない。
だが、ジョークにしてしまえば、罪は免れるだろう。

私が世界屈指の小説と思う、カミュの『異邦人』で、若くチャーミングな娘マリィがムルソーに「結婚してくれる?」と問うと、ムルソーは簡単に「いいよ」と答える。
だが、マリィが、「私のこと、愛している?」と聞くと、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛していない」と言ってマリィを戸惑わせる。
だが、ムルソーこそ正しいのだ。なりゆきであれば結婚すればいい。ムルソーは、マリィのことは、美しいし、多くの点で好ましいとは思っているのだろうから。しかし、そのように、最初から、愛してなどいないと正直に言うべきなのである。

我々も、イエスの真の教えに則り、決して誓わないことだ。
だが、操り人形かロボットでしかない我々は、神の意思により、「心から」誓ってしまうこともあるだろう。
ならば、あなたに悪いことをした者やその行為を忘れるように、悲しいことを忘れるように、あるいは、逃した利益を忘れるように、その誓いも忘れてしまうことだ。
神もまた、忘れるために、我々に誓わせたのかもしれない。

『不思議の国のアリス』で名高い数学者のルイス・キャロル教授は、ある少女(小学生位と思うが)にこんな手紙を書いている。
「僕は、忘れることが出来るというレッスンを受けている。その成果で、もう名前も仕事も忘れてしまった。先生は、『月謝を払うことだけは忘れないで欲しい』と言ったけど、先生のレッスンは素晴らしいので、それも忘れちゃった。忘れることは本当に気持ちのいいことだよ」

『列子』の中にも、こんなお話がある。
ひどく物忘れの激しい男がいて、家族は困っていた。そこで、ある名医に診てもらい、見事に治ったが、医者はその男に激しく憎まれることとなった。男は、毎日、泣き暮らすしかなくなったからだ。

私の知る、ものを忘れるための素晴らしい先生は、NLP(神経言語プログラミング)の開発者であるリチャード・バンドラーだ。
彼は、人の問題は記憶力が悪いことではなく、物覚えが良過ぎることだと言う。
脳は、「さあ、あのひどい出来事を思い出して、また落ち込もう。なあに、あの思い出でまだまだ嫌な気分になれるさ」と言っているようなものなのだ。
バンドラーは、嫌な記憶を忘れる・・・というか、印象を変えてしまって、非現実化するテクニックをいろいろ紹介している。例えば、その思い出を、頭の中で再現しながら、サーカスでピエロが登場する時のような間抜けな雰囲気の音楽をBGMにするのだ。
他にも様々なものがあり、例えば、レイプされた苦しみから立ち直った女性も多くいるという。
結婚式で、神父に「あなたは富める時も貧しい時も、生涯、変わらず彼女を愛しますか?」と聞かれ、真面目な顔と声で「はい」と言った記憶を、滑稽なBGMを鳴り響かせながら頭の中に描けば良いのである。
すると、「神様、あれは冗談でした。でも、私にああ言わせたのは神様でしょ?」と思えるようになるだろう。
ただし、あなたもまた、「あなたは私をずっと愛するって誓ったじゃない?」などと決して言わないことだ。
そして、どんな時も、決して神様に恨み言を言わないことだ。
いや、言ってもいい。でも、すぐ忘れることだ。









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予定は絶対的既定

いかなる大事業を成し遂げた大事業家も、いかなる戦果を上げた将軍も、博愛の精神で世界中を感激させた慈善家も、オリンピックで3連覇を果たしたようなスポーツマンも、偉くも何ともない。
一方、一生働かず、家族や他人の世話になって過ごした引きこもりも、少しも駄目ではない。
誰も、自分では何もしていない。
どれほど見事な手腕を発揮し、勇敢に戦い、驚くほどの努力をしたように見えても、それはただ、何かの力でそうさせられただけのことだ。

人間にとって、唯一の知恵とは、自分が行為者で無いことを知ることだ。
言い換えれば、自分には何の力もないことを受け入れることだ。

世間の人々は皆、支配者に洗脳されているのだと言う人は少なくはない。
それは確かにその通りだが、その洗脳を解く方法はただ1つしかない。
それは、自分は、世界のいかなるものごと、いかなる状況に対して、決して何のコントロールもできないという事実を受け入れることだ。
そうすれば、やっと、我々は誰にもマインドコントロールされることなく、真理が見えてくるようになる。
なぜなら、自分に一切の支配力がないと認めれば、騙される者がいなくなるからだ。
騙されるのは自我である。その自我は、自分が行為者で、自分がものごとを成し遂げるという幻想の中でしか生きられないのだ。

誰かにひどいことを言ってしまったと悔やむことがあると思う。
しかし、悔やむことも、反省する必要もない。あなたに何の責任もない。
そんな言葉を言うことは、決して避けられなかったのであるし、あなたは自分の意志で言ったのではなく、何かの力に言わされたのである。
悔やむのは、自分には、自分の意志で言うことを決める力があると思っているからだ。
自分には、そのような自由意志など無いことを知れば、後悔するのは滑稽なことだと分かる。
同じく、自分の軽率な行為、無責任な態度、傲慢な振る舞いなども、あなたに何か責任がある訳ではなく、後悔は無用である。
聖書のような言い方をするなら、あなたがそうすることは、はっきりと予言されたことであり、その予言は為されなければならないのだ。実際には、あなたの行いの予定が誰かに予言されて、どこかに書かれていることはないだろうが、書かれているも同然なのだ。そして、それが書き換えられることは決してない。
世間では「予定は未定」などというが、神の予定は絶対的既定である。
イエスでさえ、彼のすること、彼に起こることの一切を、わずかでも修正することは不可能だった。

1991年の『ターミネーター2』では、キャメロン監督は「No Fate」、つまり、運命は決まっていないということをテーマにしていた。
しかし、1997年の『タイタニック』では大きな進歩があった。
ジャックは、「どんなカードが配られても、それも人生」と言い、自分は配られるカードに対しては、何の支配力もなく、無力であることを認めていたのだ。
だが、ジャックはまだ迷いがあった。
配られるカードは選べなくても、その後の運命は自分で変えられると信じていた。
「こんなところでは死なない。子供を育て、歳を取り、暖かいベッドで死ぬんだ」
と彼は言うが、実際は極寒の北海に沈んだのだ。
それが彼の運命であり、それに対し、彼には何の力もなかった。
それは誰しも同じだ。

我々は、いかなる出来事や状況、あるいは、他人に対し、何の文句も言えないし、責任を問うこともできない。
しかし、同時に、自分もまた、誰に文句を言われる謂れ(理由)も無いし、責任もない。
アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、「あなたは何をしても構わない。ただ、言い訳だけは許されない」という優れた知恵を述べたが、実際のところは、あなたには何も出来ないので言い訳をする必要もないのだ。
責任は全て神にあるし、神は責任を取ってくれる。いや、神にしか責任は取れない。自分が責任を取れると思うのはおこがましく傲慢なことだ。
世俗においてさえ、会社の責任は全て社長にあり、平社員に責任が取れるはずがない。平社員が「私が責任を取ります」と言ったら、おこがましいというよりは滑稽であろう。

だが、この世はパラドックスで出来ているのも確かだ。
あなたには何の責任もないということは、同時に、最大の責任があるということなのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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