一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」ということが世間の話題になったことがあった。
子供による殺人が起こったことが発端だったような気がする。それで、文化人などから、数多くの意見があったと思うが、結論は出ていないはずだ。
出るはずがない。
問題自体が間違っている。
殺して善いも悪いも、誰にも殺せないし、殺すことを避けることもでできないからだ。
土台、殺人がなぜ悪いかを議論することが大切なのではない。
あることにより、自然な流れとして、殺人が起こりえない世界になることが大切なのだ。
その「あること」をさっぱり分かっていないし、分かろうとしないことが、今の人類の問題なのだ。
どれほど殺したくても、殺す運命になければ決して殺せないし、どれほど殺したくなくても、殺す運命であれば必ず殺してしまうのだ。
しかし、この言い方も正しくない。
殺すのではない。殺人が起こるのだ。
運命であれば、殺人は起こる。逆に、運命になければ、殺人は起こらない。
殺人者は、単なる運命の道具だ。
それは殺人に限らない。泥棒も、強盗も、詐欺も、そして、世界中を感動させるような慈善行為も同じだ。
人は、自分の思うままに、どんな善いことも悪いこともできない。
では、冷酷な殺人者に神の罰はあるのだろうか?
あるように見える場合が多い。しかし、別に罰というのではない。
神は、残虐な殺人をする運命を与えた者に、同時に悲惨な結末となる運命も与えている場合が多いかもしれない。
だが、単純に、「悪いことをすれば報いを受ける」と考えてはいけない。
神の意志によらずに何も起こらないが、神は法則を破ることもまたない。法則とは自然であり、調和に導くものである。だが、その構造や展開は複雑過ぎて、浅はかな人知で量ることはできない。
このあたりは、『エメラルド・タブレット』にも書かれているのだが、巷で凡人が書いたいい加減なものと異なり、真理が書いてあるだけに、凡人たる我々に理解できるようなものではないかもしれない。しかし、我々の内に至高の英知があるのも確かであり、それと僅かにでも共鳴させれば、その恩恵は計り知れない。
殺人とまではいかなくても、悪いことをすれば、法則から言っても、そういった者が酷い目に遭う流れとなる可能性は高い。
だが、だからといって、悪いことをしないでおこうと思ったところで、自分の意志でそう出来る訳ではない。
最近は、人ごみでも携帯電話やスマートフォンを操作しながら歩いて、人に迷惑をかけても平気な者が目立つし、歩きながら煙草を吸う者が多くなっているようにすら思う。
彼らもまた、自分の意志でそうしているのではないのだが、実を言えば、彼らには相当に哀れな運命が用意されているのである。
だが、このように、悲惨な運命の原因が単純に推測できるとは限らない。むしろ、原因が分からない場合が多い。
『荘子』の中に、あるひどく貧しい男が登場するお話がある。
その男の友人が、「あいつも、もう食うものもなく、大変だろう」と思って訪ねてみると、確かに悲惨な状況だった。
訪ねて来た友人を見て、貧しい男は言う。
「俺がなぜこんなに酷い目に遭わなければならないのか分からない。それほど悪いことをしたつもりもない。しかし、これが運命というものなんだろう」
彼はきっと、見かけはどには辛くないはずだ。運命を受け入れているからだ。
あなたもまた、ロクな状況ではないと思う。また、将来どうなるかは、神は既に細部にいたるまで、完全に決めているのだけれど、あなたには何も分からない。
だが、辛い現状も、どうなるか分からない未来も、全てただなりゆきに任せることを受容することだ。言い換えれば、全て神に任せ、世界という舞台の役者に徹することだ。
もっと良いのは、自分が操り人形であることを受け入れることだ。
荘子や、古代インドの賢者アシュターヴァクラは、真の自分とは、鏡のようなものだと言った。
そして、ラマナ・マハルシのような近代の聖者は、それ(真の自己)は映画のスクリーンのようなものだと言う。
鏡は殺人を映し、スクリーンの上で殺人が起こっているように見える。しかし、鏡やスクリーンは何の影響も受けない。
聖者にとって、殺人は非現実だ。殺す者も、殺される者もいない。
しかし、凡人たる我々には、殺人は厳然たる現実だ。運命であれば、殺すことも、殺されることも避けられない。
解放される鍵は、ただ受容だけである。
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子供による殺人が起こったことが発端だったような気がする。それで、文化人などから、数多くの意見があったと思うが、結論は出ていないはずだ。
出るはずがない。
問題自体が間違っている。
殺して善いも悪いも、誰にも殺せないし、殺すことを避けることもでできないからだ。
土台、殺人がなぜ悪いかを議論することが大切なのではない。
あることにより、自然な流れとして、殺人が起こりえない世界になることが大切なのだ。
その「あること」をさっぱり分かっていないし、分かろうとしないことが、今の人類の問題なのだ。
どれほど殺したくても、殺す運命になければ決して殺せないし、どれほど殺したくなくても、殺す運命であれば必ず殺してしまうのだ。
しかし、この言い方も正しくない。
殺すのではない。殺人が起こるのだ。
運命であれば、殺人は起こる。逆に、運命になければ、殺人は起こらない。
殺人者は、単なる運命の道具だ。
それは殺人に限らない。泥棒も、強盗も、詐欺も、そして、世界中を感動させるような慈善行為も同じだ。
人は、自分の思うままに、どんな善いことも悪いこともできない。
では、冷酷な殺人者に神の罰はあるのだろうか?
あるように見える場合が多い。しかし、別に罰というのではない。
神は、残虐な殺人をする運命を与えた者に、同時に悲惨な結末となる運命も与えている場合が多いかもしれない。
だが、単純に、「悪いことをすれば報いを受ける」と考えてはいけない。
神の意志によらずに何も起こらないが、神は法則を破ることもまたない。法則とは自然であり、調和に導くものである。だが、その構造や展開は複雑過ぎて、浅はかな人知で量ることはできない。
このあたりは、『エメラルド・タブレット』にも書かれているのだが、巷で凡人が書いたいい加減なものと異なり、真理が書いてあるだけに、凡人たる我々に理解できるようなものではないかもしれない。しかし、我々の内に至高の英知があるのも確かであり、それと僅かにでも共鳴させれば、その恩恵は計り知れない。
殺人とまではいかなくても、悪いことをすれば、法則から言っても、そういった者が酷い目に遭う流れとなる可能性は高い。
だが、だからといって、悪いことをしないでおこうと思ったところで、自分の意志でそう出来る訳ではない。
最近は、人ごみでも携帯電話やスマートフォンを操作しながら歩いて、人に迷惑をかけても平気な者が目立つし、歩きながら煙草を吸う者が多くなっているようにすら思う。
彼らもまた、自分の意志でそうしているのではないのだが、実を言えば、彼らには相当に哀れな運命が用意されているのである。
だが、このように、悲惨な運命の原因が単純に推測できるとは限らない。むしろ、原因が分からない場合が多い。
『荘子』の中に、あるひどく貧しい男が登場するお話がある。
その男の友人が、「あいつも、もう食うものもなく、大変だろう」と思って訪ねてみると、確かに悲惨な状況だった。
訪ねて来た友人を見て、貧しい男は言う。
「俺がなぜこんなに酷い目に遭わなければならないのか分からない。それほど悪いことをしたつもりもない。しかし、これが運命というものなんだろう」
彼はきっと、見かけはどには辛くないはずだ。運命を受け入れているからだ。
あなたもまた、ロクな状況ではないと思う。また、将来どうなるかは、神は既に細部にいたるまで、完全に決めているのだけれど、あなたには何も分からない。
だが、辛い現状も、どうなるか分からない未来も、全てただなりゆきに任せることを受容することだ。言い換えれば、全て神に任せ、世界という舞台の役者に徹することだ。
もっと良いのは、自分が操り人形であることを受け入れることだ。
荘子や、古代インドの賢者アシュターヴァクラは、真の自分とは、鏡のようなものだと言った。
そして、ラマナ・マハルシのような近代の聖者は、それ(真の自己)は映画のスクリーンのようなものだと言う。
鏡は殺人を映し、スクリーンの上で殺人が起こっているように見える。しかし、鏡やスクリーンは何の影響も受けない。
聖者にとって、殺人は非現実だ。殺す者も、殺される者もいない。
しかし、凡人たる我々には、殺人は厳然たる現実だ。運命であれば、殺すことも、殺されることも避けられない。
解放される鍵は、ただ受容だけである。
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