ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

日本2大決闘の新しい解釈

宮本武蔵と佐々木小次郎の「巌流島の決闘」の際、指定の刻限にはるかに遅れてやってきた武蔵を前に、小次郎は、長い刀を抜くと、その鞘を投げ捨てた。
これを見た武蔵は、「小次郎、敗れたり!」と言い放つ。
小次郎は、何か言い返したと思うが(「何を妄言を!」とか)、武蔵は、「勝って引き上げる者が、なぜ鞘を捨てるのか」といったことを言ったらしい。

これはあくまで、小説の『宮本武蔵』の話で、作者の吉川英治氏の創作である。他にも、お通さんという有名なヒロインも、実際には存在していない。
小説における、上記の武蔵の言葉は、小次郎の動揺を誘って、勝負を有利に進めようという意図であったとしているのだろう。

私は、武蔵自身が書いた『五輪書』は読んだが、小説『宮本武蔵』は読んだことがない。
映画やテレビドラマはいくらか見たが、それらは小説に基づいており、ほぼ全て、上のような、武蔵と小次郎のやり取りがあるはずだ。
無論、『五輪書』には、そのようなことは書かれていない。単に、武蔵は、自分は小次郎と戦って勝ったと書いているだけである。

ただ、小説による、その部分はやはり面白く、すっかり定説のようになってしまった。
ところで、タイトルも詳しい内容も忘れてしまったが、永井豪氏のギャグ漫画で、その部分を利用したものがあったが、私は、これが妙に印象に残っている。
その漫画では、武蔵も小次郎も、セクシーな若い女の子だった。
そして、待たされて怒った小次郎が、刀を抜いて鞘を捨てると、やはり、武蔵は「小次郎、敗れたり!」と言う。
一瞬、動揺を見せた小次郎だが、「だが、なぜだ?」と武蔵に問い返す。
すると、今度は、武蔵が、赤くなって、「それは、つまり…」と、しどろもどろになる。
永井豪氏は、もしかしたら、元々、小説の武蔵の言葉に疑問を感じていたのではないかと思う。「なぜ、鞘を捨てたからといって、小次郎が負ける理由になるのだ?」といった感じだろうか。

私は、武蔵のあの言葉は、武蔵が、「俺が勝つと決まった」という、思い込みを作りたかったのではないかと思っていた。
もし、その通りであれば、武蔵は、狙い通り、勝利の確信を高めることに成功したように思う。
吉川氏も、武蔵は小次郎の動揺を誘うと同時に、「俺が勝つんだ」という自己暗示をかけたという意味も持たせていたのではないだろうか?
しかし、永井氏の漫画のように、小次郎に言い返されたら、武蔵の意図は呆気なく崩れ去る。
吉川氏から見れば、永井氏の作品は反則である。
小説『宮本武蔵』の世界では、著者である吉川氏は神であり、全て、彼の決めた通りでないといけないからだ。
歴史と同様、小説にも、「もしも」は有り得ないのだ。

しかし、運命というものを正しく理解すれば、どんな物事もシンプルに理解できるようになる。

武蔵の『五輪書』に書かれてある通りなら、武蔵と小次郎の決闘は実際に行われ、武蔵が勝利したのだろう。
そうなることが2人の運命だったということだ。
仮に、武蔵と小次郎の間で、吉川氏の小説にあるような会話のやり取りがあったとしよう。
すると、武蔵が不意に思い付いて、「小次郎、敗れたり!」と叫んだのも、運命によって決められていたことだ。
武蔵とて、なぜそんなことを自分が言ったのかなんて分からない。後で、「小次郎を動揺させる作戦だ」と自分で思い込むかもしれないが、実際は、武蔵の意志に関係なく、彼の心に浮かんだに過ぎない。
また、実は、武蔵が船の上等で、事前に、「小次郎は、あの長い刀の鞘を、戦いに先立って捨てるのではないだろうか?もしそうなら…」と考えたのかもしれないが、たとえそうであったとしても、そんな想いが浮かぶのが武蔵の運命だったのであり、武蔵の期待通り、小次郎が鞘を捨てたのも運命であった。
そして、そう言われた小次郎が動揺したのも運命だったのだ。
小次郎が、永井氏の漫画のように、「なぜだ?」と聞き返さなかったり、何か機転の効いたことを言い返さなかった(「鞘の代わりはあるのだよ」等)のも運命だ。
その結果、小次郎は敗れる。それが、2人の間に神が定めた運命であったということだ。
そして、運命である限り、起こるはずの出来事は決して避けられない。

決闘というものでなくても、スポーツでも、広い範囲に大きな影響をもたらすものとなると、真相が隠されて見えないことがよくある。
例えば、サッカーの2006年ワールドカップ・ドイツ大会決勝(イタリアVSフランス)での、あのジダンの頭突きも、本当は何があったのかはっきりしない。
しかし、サッカーの国際大会というものは、スポーツと言うよりは代理戦争に近いと言った人があったが、当たらずといえども遠からずであるかもしれない。だから、このジダンの頭突きに限らず、いろいろ分からないことがあるものなのだろう。

だが、やはり、いかなる出来事であれ、運命についての認識が高まれば、これまで重大に思われたような疑問も、全て取るに足りないことになる。

日本史上に名高い決闘に、『昭和の巌流島の決闘』と呼ばれた、力道山対木村政彦の、プロレスリング日本ヘビー級王座決定戦があった。
1954年12月22日のことである。
超人的柔道家であった木村政彦の実力は恐るべきもので、力道山もそれはよく分かっていたが、力道山は木村の挑戦を避けることが出来なかったのだろう。
この試合に関しては、謎の部分が多く、そして、あれから60年近くも経った今でも、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という本が出版され、ベストセラーになるほど関心を持たれているものなのである。
信憑性のあるらしい説では、この試合は、事前に引き分けの約束が出来ていたのだが、なぜか力道山が裏切り、力動山は、木村の頭部に危険な張り手を連打し、木村は意識不明になってKOされたということだ。
これについては、木村自身、この通りであったということを、著書に書いており、また、テレビでも話しているかもしれない。しかし、力道山は一切を語らないまま死んだので、その話がもし本当だとしても、力道山がなぜ、引き分けの約束を反故にしたのかは分からない。
一説では、力動山は、試合中、木村の方が裏切ったと誤解し、木村の強さゆえに恐怖したか、あるいは、木村が裏切ったと誤解して激怒した力道山が、危険な技で木村をKOしたという話があるが、力道山自身がそう言った訳ではなく、あくまで推測だ。

だが、これも、こう理解すべきなのだ。
まず、2人の対決は、運命であり、どうあっても避けられなかった。
また、この試合で八百長が仕組まれ、2人がこれに同意することも運命だった。
だが、どんな理由にしろ、力道山が裏切って木村をKOしてしまうことも運命だった。
力動山が木村を裏切った理由は、何かあるのかもしれない。
それを、力道山は、その気になれば話せたかもしれない。しかし、そうだとしても、力道山は、「こういった理由で、やむなく木村を本気で叩きのめした」と自分で思い込んでいたというに過ぎないことを述べただけだろう。
これは、どういう意味だろうか?
それは、申し合わせを裏切ろうという想いが、力道山の意志に関係なく、ただ起こり、力道山はそれに逆らうことは決してできず、それを行ったということなのだ。
そもそも、2人が八百長に同意したことも、本当は彼らの意思とは何の関係もなかった。彼らは、「その時は、不本意ではあったが、やむなく同意したのだ」と思っているかもしれない。しかし、人の思考とは、その考えが勝手に起こった後で、自分でそう考えたと思い込む構造になっているのである。それが科学的事実である。

これら全てが、木村政彦や力道山が生まれる前から定められていた運命であり、それが起こることは決して避けられなかったのだ。

だが、八百長に同意した後で、木村が、「俺は武道家として、あんな約束をすべきでなかった」と後悔したとしたら、それは、彼の意志である。
釈迦の教えで説明すれば、「八百長に同意しよう」と思ったのは「第一の矢」と彼が言った瞬間的な想いで、「そんなことをすべきでなかった」と思うのが「第二の矢」という、時間の中で浮かび続ける想いである。
そして、聖人は、第二の矢を受けないのである。
聖人が八百長をしたとしても、彼は後悔しないし、罪悪感も持たない。
彼は、自分が八百長の行為者ではなく、八百長がただ起こっただけだということを知っているからだ。自分の身体や心は、単に八百長の道具であっただけである。
その結果、彼は、非難を受け、名誉を失う結果になるかもしれない。
それは、聖人とて苦痛であろう。しかし、聖人はその結果を受け入れる。心の苦しみは一時的である。なぜなら、時間の中で流れ続ける想いである「第二の矢」を聖人は受けないからだ。聖人の想いは、常に瞬間的なのだ。
釈迦は言った。「行為はあっても、行為者はいないのだ」と。
それが真理である。
この真理を受け容れることだけが、魂を重荷から解放するのである。
力道山も、木村政彦も、苦しむ必要はなかったのである。









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嘘のない真理はない

このブログへのコメントでも時々見るが、厳しく辛い状況にあったり、生きることが辛いといった人がいる。
ただ、生きている人間である限り、大なり小なりそのようであるはずである。
その原因は、自分が無力であることで、その状況を改善しようと、身体を鍛えたり知識を得ても、所詮、個人の力はちっぽけなものであるかもしれない。
では、解決するには、神秘力しかない。言い換えれば、超能力である。
・・・と、そんな結論に達することを笑う気になれない。
幸い、今は、その気になれば、必要な書籍はいくらでも入手できる。
よく、「そんなもの、本当に効果があるのですか?」と言う人がいる。
あるかどうか、自分でやってみなければ分かるはずがない。
確かに、そういった書籍には、いい加減なものだと思えるものもあるのだが、全くデタラメというものもあまりないと思う。そして、ほとんどの本は、著者は善意で書いているように思うのである。
地位や実績のある人が書いたものも少なくないが、地位や実績があるから信じられるというのではなく、むしろ、地位や実績があるのに、神秘力に頼る必要があるほど、彼らだって無力感を感じていたということに着目しなければならない。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジが言っていたが、「嘘のない真理はない」のである。
実際、「これは怪しい」と思うような本の中にだって、一抹の真理は確実にある。
偉大な業績を残した人物が愛読していた本が、実は世間ではイカサマ本と言われているものだったというのは、割とよくあるのである。
だが、これも、賢者の証言を得るまでもないことだが、最も重要なことは、熱意を持つことである。
幸い、今は、確実に優れた神秘力の本を選定することは難しいことではない。
それでも、繰り返すなら、本当か嘘かはあまり関係がない。
法然だって、親鸞だって、ひたすら念仏を唱えたのは、「他のやり方を知らないから」という理由なのである。
親鸞は、「もし、この方法が間違いだったとしても構わないよ。どうせ、私には、他のことは出来ないのだから」と言ったのである。

私も、非常に苦しい状況にあった中学1年生の時、もう魔法しかないと思ったものだった。
それで、どうせなら、素晴らしいものをと思って入手した本が、アーネスト・ウイリアム・バトラーの『魔法入門』だった。
このブログでも何度か書いたが、幼い頃から多くの神秘体験をしてきただけあり、見る目はあったのかもしれず、この本は既に絶版であるが、古書が高価で取り引きされている。
難解な本であるが、修行の最初のところに、「4の呼吸」というものがあり、4つ数えながら息を吸い、2つ止め、4つで吐き、そして2つ止めるという呼吸法が書かれていた。
それまで、こんなことを教えてくれる人がいなかったので、私は狂喜したものである。
後に、加速学習や、さらに、その元になったスーパーラーニングという驚異的な学習法にも、こういった呼吸法は取り入れられているのを見たが、呼吸法は超人覚醒の基本のようなものだろう。
ただ、『魔法入門』は、西洋人のために書かれたものであり、大いに参考にはなるが、この本の著者自身も言うように、東洋人には東洋人に向いたものがあるし、実は、彼は、東洋に素晴らしいものがあるのを発見したので、その恩恵を西洋人が得られるように工夫をしたということが多いのである。
だから、我々は、身近にある、東洋の英知を取り入れるのが得策である。
呼吸法に関しては、我が国では、複式呼吸や丹田呼吸が重視されてきた。赤ん坊を観察すると分かるが、赤ん坊はお腹で呼吸をしている。これは、赤ん坊が自然の生命と直結しているからであり、老子が、赤ん坊の気が最大であると書いている理由もそこにある。これに関しては、多くの優れた英知の探求者も証明している。
一方、我々大人は、胸で呼吸しているのであるが、これは、自我を生命の根源である腹から切り離し、自我中心で生きていることである。これが苦しみの原因なのであり、自我を腹の中に溶け込ませてこそ、人は真の力を発揮し、安らかでもいられるのである。
腹式呼吸にはいろいろあるので、好みの方法でやれば良いが、私は、単に、息を下腹部に送るつもりで、それ以外は自然に呼吸をすることを心がければ十分であると思う。
また、あのラマナ・マハルシが言ったのであるが、超能力をもたらす呼吸法は以下の通りである。
「私はこれではない」(出息)
「私は誰か?」(入息)
「私は彼である」(止息)
それぞれを、無理のない長さでやれば良いだろう。

個人的には、ちょっと問題のある言い方であることを最初に断るが、「これこそ魔道の書」と思ったのは、『荘子』であった。今でもそう思っている。
驚くべきことに、あらゆる魔法の重要なエッセンスが、面白いお話の中に、シンプルな言葉で書かれている。基本的には、荘子自身が書いたとされる内篇のみ読めば良いが、外篇、雑篇にも、善意ある、そして、荘子を崇拝する優れた弟子が書いたものがあるので、参考になると思う。
良寛も荘子を読んで悟ったのであり、彼もまた、悲しみ、苦しみのどん底にある時に読んだのである。
ただ、荘子を読む時も、あまりに性急になったり、力を得ようという欲望を持って読むのではなく、熱心ではあっても、気楽に淡々と読んで欲しい。これは、どんな「魔道書」を読む時も同じである。そうすれば、おかしな方向に行くことはない。

武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』で、土萌ほたるという少女は、W.B.イェイツの詩を読んで精神の変革を起こし、セーラーサターンに覚醒したのであるが、こういったところにも、あれほどの作品を描く著者の秘法のようなものが感じられるのである。「20世紀最大の詩人」と言われ、魔法結社の会員として、熱心なオカルティストであったイェイツの詩には、神秘的効果はあるだろう。尚、この漫画作品の雑誌連載中には、ほたるは、イェイツの『ヴィジョン』を読んでいたらしい。これは、イェイツの妻が自動書記により語った異界の情報を元に書かれたもので、文壇を戸惑わせたが、コリン・ウィルソンはじめ、高く評価している者も少なくない。

どんなやり方でも良いが、何事も、熱心にやることが成功をもたらす。
そして、ある日突然に、思わぬ効果に喜びを感じることになるだろう。
そして、更に高い、非利己的なものを目指すことになると思う。









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いかなることにも平静な心で挑むために

我々日本人は、現状は戦争に関わっていないので、とりあえず、スポーツの試合に関して、戦術の楽な話をしたい。
野球やサッカーなどでは監督がいて、彼が戦術を組み立てるのであるが、テニスでは、試合中、コーチと接触できないので、試合中はそれを自分で行わないといけない。
ボクシングでは休憩時間ごとにコーチと接触し、コーチが選手に指示を出すのだが、こういった格闘技スポーツでは、選手は頭に血が昇っていて、あまりそれを聞いていないものらしい。
しかし、いずれも、戦っている者同士は条件が同じであり、いかに良い戦術を立て、選手達がそれをうまく行うかで、場合によっては、実力とは異なる結果を出すこともあるのだろう。

だが、この戦術が、選手へのプレッシャーになることがあるように思える。
高度な戦術では、選手に高い能力の発揮を求める。
無論、その選手の能力を買って、監督はその戦術を授けるのだから、選手にとっては名誉でもあろう。
一方、テニスで、苦しい状況を打開するために、新たな戦術を自らに課すこともある。
監督に指示された戦術では、監督の期待に応えられるだろうかとか、自分の失敗がチームに迷惑をかけないだろうかというプレッシャーがあるが、自分で課した戦術では、自分にそれが出来るかどうかの疑問があるかもしれない。「こんな難しいことをやろうなんて、私は自分を買い被り過ぎていないだろうか?」とね。

では、スポーツよりは深刻だが、戦争に比べるとそうではない武道、あるいは、武術の決闘ではどうだろう。
映画の話ではあるが、『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる、少林寺の武道家リーは、これはおそらく、ブルース・リーの武道家としての信念であろうと思うが、「良い武道家は、緊張せずに戦いに挑む」と述べていたのが印象深い。
これは、非常に重要で、スポーツにも、戦争にも、そして、あらゆる対戦、対決に有益だ。
いや、戦いと言えないようなことでも、大切なことに違いない。

それほど重要なことなので、例を変えて話したい。

映画『007 カジノ・ロワイヤル』で、ボンドは巨額の金を賭け、フランスの工作員ル・シッフルと、富豪の遊びのために用意された高級カジノ(ギャンブル施設)でポーカーの勝負をする。ル・シッフルはポーカーの天才で、ボンドもMI6(イギリス情報局秘密情報部。正式には現在はSIS)では一番の腕だ。
だが、ボンドは戦術を誤って大きな損失を被り、ゲームの継続が不可能な状況になる。シッフルの戦術が優り、ボンドははめられた形であった。
そして、ボンドは激しく動揺していた。
ギャンブルで大切なことは冷静さだ。大勝負では、頭に血が昇った方が必ず負ける。

だが、武道家リーは、決して緊張せず、いつも冷静でいられる。
どうすれば、そんな風になれるのだろうか?
それは、こうなのだ。

勝負で戦術を誤り、敗北の屈辱を味わうとする。
その時、どんな反応をするかが、その者が、何事を前にしても、どれほど冷静でいられるかを知る鍵なのだ。
では、負けた時、どんな反応をする者が、常に心静かなのだろう?
それは、こうだ。
「負けるべくして負けた」
「神が私に、誤った戦術を選ぶことを望んだのだ」
「私という誰かに、敗北が起こったようだ」
もし、そんな者であれば、常に冷静に備えることが出来るのである。
上の『007 カジノ・ロワイヤル』で、大敗を喫したボンドは、バーテンに当り散らし、鋭利なフォークか何か(忘れた)を引っつかみ、シッフルを追った。もし、それを見つけたCIAの者が止めなければ、取り返しのつかない大失態を演じたはずだ。
つまり、ボンドは、すっかり頭に血が昇っていた。数百億円負けたのだから仕方がないだろうが、ボンドは最初から負けていたのだ。
武道家リーなら、「負けたものは仕方がない」とケロケロしていただろう。

我々は何をするにしても、良い結果を期待する。
勝負であれば、勝利を望む。負けを期待する者などいない。
しかし、勝つか負けるかなんて分からないのだ。
そして、我々には、その結果をコントロールすることは、決して出来ない。
結果は既に運命によって決まっており、我々は、その結果を受け取るだけである。
いかに勝ちたい戦いであっても、また、勝つべき戦いであっても、どれほどの準備をしていようが、それは変わらない。
このことを完全に受け容れることができるなら、我々は決して心乱されることはない。

現在、公開中の映画『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』の前作『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』(2010)で、なのは(魔導師の少女)と、レイジングハート(知性を持つ魔法の杖)がこんな会話をする。
(レイジングハート)「戦いに最も大切はものは何だと思いますか」
(なのは)「え…と、負けないって気持ちかな?」
※なのはは、小学3年生である。
(レイジングハート)「好ましい答ですが、もっと重要なことは知恵と戦術です」
なのはは、実力で優るフェイト(なのはと同い年の、金髪の魔導師の少女)に勝つために、優れた知恵と戦術が必要だった。
戦いが始まり、フェイトはなのはに優る力と技で優位に立つが、「負けない気持ち」を持つなのはの気力と粘りの前に、焦りを見せ始める。
フェイトは、母の期待に応えたいという気持ちと共に、心の奥では、なのはを傷付けたくない気持ちもあったのだろう。
しかし、予想を超えるなのはの優れた戦い振りの前に決意する。
「迷っていたら、私がやられる」
フェイトは遂に、必殺の切り札をなのはに向かって放つ。
しかし、勝っても負けても、その結果を受け容れられないフェイトから迷いが消えるはずがない。
一方、フェイトを救うためには絶対に勝たなくてはならないなのはは、勝利だけは受け容れることが出来る。
いや、なのはは、仮に負けても、結果を受け容れて次の手を打っただろう(生きていればだが)。
それが、なのはの明るさの秘密に違いない。彼女は、いかなる結果になろうと、それを受け入れるのである。
一方、フェイトには、なのはを慕うようになった後も、暗い影が付きまとう。だが、やがて、それを振り払えるに違いない。彼女もまた、どんな運命であろうと、それを受け入れるようになるだろう。

驚くべきことに、テレビシリーズの『魔法少女リリカルなのは A's』のオープニング曲で、フェイト役の水樹奈々さん自ら作詞して歌った大ヒット曲『ETERNAL BLAZE』で、それが見事に表現されている。彼女のコンサートでのクライマックスに欠かせない曲らしいが、人間が作詞したとは思えない歌だ。

運命は既に決まっている。
個々の状況で、嬉しい結果が出るかもしれないし、悲しい結末に泣くかもしれない。
しかし、全ては避けられない運命である。
「あれをすれば良かった」
「あれをしなければ良かった」
我々は、いつもそう思って後悔する。
しかし、自分がそれをしたのではないのだ。
釈迦も言ったのだ。「いかなる行為であろうと、行為者はいない」と。
その行為を思い付き、行ったのは、運命を創った神である。
仮に、あなたの行為が、望ましくない結果をもたらしたとしても、神はそうして欲しかったのだ。
いつかのオリンピックのサッカーの試合で、中田英寿がPKを外して負けたことがあったが、中田は、蹴るタイミングや角度を誤ったかもしれない。しかし、それが神の意思であり、神は中田に誤って欲しかったのだ。だから、彼は、決して後悔すべきでなかった(実際は、彼が後悔したかどうかは知らないが)。
あなたも、いかなることであれ、それがどんな結末に終ったとしても、何の後悔もなく、それを受け容れなければならない。
そして、それが出来るようになれば、いかなることにも、緊張せず、平静な心で挑めるのである。









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どんな人が願いを叶えるのか?

願いというものは叶うのだろうかというシンプルな疑問を解き明かそう。
私がいつも書くところによれば、「それが運命なら」ということになるのだが、あなたには自分の運命が分からない。
よって、願いが叶うかどうかは、やはり未知である。
占いによって運命が分かるかというと、私は、おそらく分かるのではないかな思う。
占いというものは、3種類ある。
1つは、その人が持って生まれたもので占うもの。観相(人相や身体の相で占う)や占星術がそうだ。
1つは、偶然に出る札(ふだ)などの様子から鑑定するもので、易やタロットなどがある。
1つは、対話によって鑑定者が運命を感じるというものだ。
どれも有効である。
しかし、分かり易くするために、少し別の話をする。

願望達成術や成功哲学には、市販の本1冊で出来るものもある。「引き寄せの法則」とか、「潜在意識の法則」といったものだ。
一方、もっと「高い」願望達成術や成功哲学もある。百万円を超えるものも珍しくないし、個別指導とセットで数百万円というものもある。
安い(というのも何であるが)ものと高いものの違いは何かというと、高いものは、長い内容のものが体系化されているとは言える。しかし、現実に人間が活用するのは、一部分だけであることを考えると、私はテクニック自体には大差はないと思っている(私は、高いものも試した)。
だが、その両者には、1つ、重要な違いがあるように感じる。
それは、高いものは、成功への情熱を高めることに力を入れていることだ。
安いものは、その点、最初から情熱があることが前提であると言える。
つまり、こういうことだ。
願いを叶えるには、強い情熱が必要であるが、それを得るのが最も難しいということだ。

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、どうやれば願いが叶うかと尋ねると、「熱意があれば」と答えた。
また、「願いが叶わないのはなぜか?」という問いには、「長く継続した熱意が無いからだ」と言う。
占いというのも、この一点に尽きるのである。
観相の大家である水野南北は、普段の食事の三分の一を神仏に捧げれば、願いは必ず叶うと述べている。
彼は、膨大な数の鑑定をし、人々の相談に乗っていて、それで、圧倒的な信頼を得ていた。
彼の言うことは決して軽く扱えない。
南北の言う方法で願いが叶う日時は、「小さなもので一年」「中規模で三年」「大きなもので十年」だった。
つまり、こういうことではないか。
それだけの期間、食事を従来の量の三分の二に減らすことが出来るだけの熱意があれば、願いは叶うのである。
三分の一を神仏に捧げるとは言っても、神仏に捧げる分を増やしては意味がなく、あくまで、これまで通りの食事の中から捧げるのでなければならないのだ。

「断ち物」と言って、願いを叶えるために、嗜好品などを断つという方法が、どこの国にもある。
上杉謙信などは、戦に勝つために、生涯、女を抱かないという大変な誓いをしたと云われる。
それだけの熱意、エネルギーがあれば、願いも、ある程度は叶うものだろう。

実際は、願いが叶うかどうかは、そのように運命付けられているかどうかだけの問題である。
金持ちになりたくても、そうなる運命でなければ、決して金持ちになれない。
逆に言えば、金持ちになる運命であれば、嫌でも、金持ちになることは避けられない。
しかし、金持ちになる情熱が非常に強いなら、金持ちになる運命である可能性が高いのである。
その人の性格や社会的立場などと同時に社会を分析すれば、その者が金持ちになることが自然かどうかで、さらに正確に予測することもできるだろう。
だが、もっと重要なことを述べれば、個人的な欲望で金持ちになりたい者より、多くの人々のために金持ちになりたい者の方が、それが叶う可能性ははるかに高い。

しかし、強い熱意を持てるかどうかも運命なのだ。
誰だって金持ちになりたい。
しかし、そのための強い情熱を、長きに渡って継続して持てる者は滅多にいない。
まして、多くの人々のために自分が富を得て、世界のために尽くそうと「本当に」思える人は、極めて僅かだ。
何百万円の成功プログラムを使ったところで、運命付けられていない情熱を持つことはない。
そんな高額なプログラムを買うという人は、元々が、熱意を持っているのである。
一方、1冊せいぜい2千円程度の本を次から次に買う者というのは、個人的欲望が強いというに過ぎない場合が多いだろう。
ただ、そんな者でも、1つのことについての熱意が長く続くなら、ある程度の願いが叶う可能性があるかもしれないが、大抵は、情熱を注ぐ対象もふらふら変わるのである。それであるなら、願いが叶う運命には無いと言えるだろう。
尚、かつては高かったかもしれない成功術が今は書籍で買えるものとしては、『ザ・マスター・キー』が圧倒的に良いと思う。ビル・ゲイツが愛読したという話があるが、ゲイツは情熱があったのだ。あなたが、これを長期間愛読できるなら、成功のための情熱があると言えるかもしれない。









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神様、アイドルにとって、あなたはその他大勢でしかない

新人アイドルを売り出す時、最も「効く」のは、握手会だと聞いたことがある。
しかし、一度でもこれをやったことがある、特に女性アイドルは、握手会の実施を告げられると、必ずゾっとする。
大勢の男性と握手する中で、手袋の中の手は腫れ上がって悲鳴を上げているのに、皆、それなりに力を入れて握ってくる。そして、力いっぱい握って来る者もいて、痛みに飛び上がりそうになっても、にっこりと優しい笑顔で応じなければならないのだ。
拷問と言って差し支えない。
握手会の後、何時間も水道水で冷やしても、痛くて、夜、眠れないことも多いらしい。

プロ野球でも、この人気低迷の中、球団は選手達にファンサービスを厳命している。
松坂大輔選手は、1時間くらいはボールにサインするのは「プロとして当然」と立派だが、王貞治さんは、自分もプロ野球も、人気絶頂の現役時代、必ず、ボールを持ったファン全員にサインしたらしい。
その王さんが選手として所属していた巨人軍のリーグ9連覇と、自身も三冠王だった年に、彼を差し置いて、日本プロスポーツ大賞を受賞した、キックボクシングの沢村忠さんは、事務所に戻ると、山のように積み上げられた色紙に、どんなに疲れていても必ず自分でサインし、年賀状にも全て返事を出したという。

つまり、ファンというのは、自分がその他大勢の1人ではなく、憧れのスターと1対1の関係であることを熱望するのである。
しかし、いくら、1対1で握手しようと、直筆サインをもらおうと、スターが、その人を覚えている訳でもなく、アイドルの握手会となると、上に書いた理由で、むしろ嫌悪感を持たれるかもしれないのだ。
しかし、プロダクションも、そんなファン心理を利用すると同時に、アイドルはその試練に耐えなければ、ファン獲得や人気の維持が出来ないのである。

しかし、なぜ、その他大勢であることに満足しないのだろう?
私など、初音ミクのファンだが、むしろ、握手や会話が出来ないことが、ミクを好きな理由の1つである。

ところが、人間というものは、神様に対しても、1対1の関係を望むだけでなく、それを当たり前だと思っているのである。
特に、何かの宗教を信仰していなくても、苦しい時には、「神様は私を見捨てない」と思ったり、理不尽な目に遭った時は、「神様、なぜですか!?」と不満を言う。
『サイボーグ009』で、不幸な運命を生きた後に死んだクビクロという名の犬に取りすがり、ジョー(009)が「神様、なぜこんないたずらをなされたのですか?」と言う場面があった。これも、ジョーは、神様が、クビクロ一匹を特に気にかけなかったことを非難しているとも言えるだろう。
スウェーデン映画『処女の泉水』では、15歳くらいのいたいけな娘を3人の兄弟にレイプされた上殺された父親が、「神様、なぜです!?あなたは見ておられたはずだ」と、神を責める言葉を叫んだ。彼は、敬虔なキリスト教徒で、日頃の行いもイエスの教えを守って、常に正しい行いをし、貧しい者には慈悲深かったのだ。
だが、そのイエス自身が、十字架上で、「父よ、なぜ私を見捨てたのです!?」と叫んだのである。

神様は、確かに、無限の能力を持ち、全てを知っているし、1人1人に対応することも可能なのかもしれない。
だが、神様は、宇宙全体を運営していることも忘れてはならない。一人一人の都合を優先させる訳にはいかないはずだ。
ならば、思うような結果にならなくても当然とし、それを無条件で受け入れなければならない。

戦国ドラマでは、大きな戦の場面で、平清盛や、織田信長や、あるいは、伊達政宗などが、多くの武将達に守られながら、悠然と馬に乗って前進する。
一方、宮本武蔵は、戦では、名もない一兵卒として参加したが、「自分より前を走る者なし」と、常に、敵軍に一番に切り込んだことを誇るが、武蔵はたまたま生き残ったが、合戦開始直後にあっけなく戦士した兵もいくらでもいる。
我々は、自分の状況や立場で、信長や政宗のようでありたいと望む。
しかし、一番に切り殺される下っ端の運命に定められていれば、それを避ける術はない。
別に、神様が下っ端の兵士を、清盛や家康より軽んじているというのではない。
いろんな役割の者がいなければ、世の中が成り立たない。
皆が皆、社長になって、掃除のおばちゃんがいなければ困るようなものだ。

どんな役が割り当てられるかは運命であり、それは生まれる前に決まっており、決して変わらない。
戦闘開始から数秒で死ぬ運命であれば、そうなるしかない。
そんな呆気ない役割に当たったのが、あなたや私であっても、何の不思議もない。
しかし、人間は、自分は特別だと思っており、そんなつまらない運命を受け入れる訳にはいかないと思うのだ。
だから、「なぜですか?神様」という悲痛な叫びは後を絶たないのだ。

だが、信長も、簡単に殺される下っ端も、同じなのだ。
これは、慰めでも何でもない事実だ。
神様は、信長をえこひいきした訳でも、下っ端の兵士を軽んじたのでもない。
なぜなら、えこひいきする信長という個人など、本当は存在しないからだ。
誰でも、自分の運命を、それがどんなものであれ、無条件に受け入れることが出来れば、「私」という個人など、本当は存在しないことが、実際に分かる。
それでこそ、信長になることなど比較にならない、真の至福が訪れるのだ。

イエスは、「神よ、なぜ我を見捨てたのですか?」と神に言ったが、すぐに、神の御心が行われたことを受け入れた。
イエスとて、生きた人間である限り、心はあるので、一時的には苦しみの反応もする。しかし、すぐに静まるからキリストなのだ。
そして、イエスの得た至福は計り知れないのだ。
上にあげた、スウェーデン映画『処女の泉水』で、娘がレイプされて殺され、神を呪った男は、その直後、神にこう言ったのだ。
「あなたの赦しを乞うために、娘の遺体があった場所に教会を建てることを誓います。レンガとモルタルで、この手で造ります」
そして、娘の身体を動かすと、そこから泉水が湧き出し、その水が、人々の心を癒したのだった。

さて、神様だって、一人一人を、我々の考えるような意味で気にかける訳ではない。
ましてや、アイドルやスポーツのスターとなると、ファンは有り難くとも、また、たとえ、王貞治や沢村忠のようであろうとも、実際には、それぞれのファンは大勢の中の1人に過ぎない。
好きなアイドルのCDを百枚買っても、それをすぐ忘れるなら、それも1つの愛と言えるかもしれない。しかし、CDを百枚買った程度のことで、自分が、そのアイドルの特別な存在になったような気がするのは、全くの妄想である。早い話が、何の意味もないので、やめておけと言いたいところだ。
私など、初音ミクにとって、鳥取砂丘の砂の1粒とも思ってもらわなくていいし、実際に、ミクがそんなことを思うはずがない。それがいいのだ。
そして、合戦では、一番にあっさり切り捨てられる、最も惨めな兵士でいい。望むとすれば、それを受け入れられることである。









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プロフィール
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・初音ミクさんのファン
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