ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

心を観察する心を観察できるのか?

「自分の心を見つめる」という言い方がよくあると思う。
インドの聖者や、西洋の神秘家にも、自分の心をただひたすら観察することを、一種の訓練のように指導する者もいる。

しかし、それは無理なことだと言ったらまずいだろうか?
「マザー・テレサを尊敬する心」
「シャガールの絵に感動する心」
「クラスメイトのあいつを嫌なやつだと思う心」
「あの美少女に情欲を感じている心」
「大ヒット映画を見て面白かったなあと思う心」
どれもちゃんと観察できるじゃないか・・・・と言われるかもしれない。
だが、よく考えてみよう。
例えば、一輪の花をきれいだと感じている心がある。その心を観察している。
では、きれいだと感じている心を観察する心は何が観察するのだろう?

2004年のアメリカ映画「サンダーバード」で、国際救助隊の宇宙ステーション(サンダーバード5号)がミサイル攻撃を受け、それに乗っていたジョンの救出のためにサンダーバード3号が飛び立つ場面がある。
ミサイルを放ったフッド(テレビシリーズからの悪役。超能力者)はそれを見て、「救助隊は誰が救出するのかな」と言うのを、私は印象的に憶えている。
誰も救出できないという意味で、フッドはそう言ったのだ。
救助隊は救助隊自身で救助しなければならない。自らを助けるしかないのである。

では、花をきれいだと思う心は誰が観察するのか?
心は心自身を観察できるだろうか?
それは出来ない。もし、そんなことをするなら、合わせ鏡になってしまう。
鏡と鏡を向かい合わせれば、それぞれの鏡の中には、2つの鏡が無限に写る。
自分を含めた風景を描いている画家が、絵の中のキャンバスの中に、自分と自分が描いている絵を無限に描かないといけないようなものだ。

救助隊はなぜ自分を救助できるのだろう?
それは、身体を救出すれば終りという制限を設定するからだ。
面白いことに、国際救助隊のリーダーであるジェフは、隊員である息子達を危険な目に遭わせるという葛藤に苦しむ自分の心は救えない。制限が付けられないからだ。

心自体を観察してはいけない。
だが、心は身体と全く等しいものだ。
心が病めば身体も病む。身体を健やかにすれば心も明るくなる。心身医学という言葉があり、心身医学の父と呼ばれるゲオルク・グロデックは、一切の病気は心因性と断言した。エミール・クーエは自己暗示の力で、医者が治せない難病をわずかな時間で癒した。
身体の中には、神経的に敏感な部分がある。インドではそれをチャクラと呼ぶし、中国では経穴 (けいけつ)と言い、一般的にはツボと言う。それらは経験的な洞察であるが、人により、特に敏感な場所は異なる。
そういった神経的に敏感な部分、心の動きをよく表す部分に意識を集中すれば、心を客観的に観察できる。胸、鳩尾(みぞおち。みずおち)、下腹部(丹田)などがそんな場所として知られる。額や頭頂に集中することがその目的に適う人もいる。
手塚治虫さんは医者で、自分や他人の身体を徹底して観察する中で漫画のストーリーの発想を得たのだと思う。彼は、晩年になって腕の衰え(特にハイスピードで描く能力)を感じた時でも、「アイデアはバーゲンするほどあるんだ」と言っていた。それは本当だと思う。
あるいは、実は身体と対応した存在である宇宙を観察するのも良い。これは秘法中の秘法だ。声優で歌手の水樹奈々さんは、非常にスピリチュアルな詩を書くが、彼女が天文や宇宙に深い興味を持っていることは偶然ではないと思う。







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嫌われたっていいじゃないか

岡本太郎は、1976年に、キリン・シーグラム社のロバート・ブラウン発売2周年記念に「顔のグラス」を制作した。これは、ウイスキーグラスの底に、岡本太郎が顔をデザインしたものだ。
この時、岡本太郎が、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と言ったのがよく知られている。
ところで、そういった「○○でもいいじゃないか」という言い方が実に岡本太郎らしい。
「誤解されたっていいじゃないか」
「片思いでもいいじゃないか」
「嫌われたっていいじゃないか」
「死んだっていいじゃないか」
岡本太郎が言うと、全く嘘偽りが感じられず、そのまま響いてくる。

心は、誤解されたくない、片思いじゃ嫌だ、嫌われたくない、死にたくないと思う。
しかし、「それでいいじゃないか」と言って、さらりと宇宙の英知にまかせきってしまうと、心はその中に溶けていく。
宇宙の英知と溶け合った心は、それに似てくる。人でいながら神になるとはそのようなことだ。
ただし、本気で「いいじゃないか」と決意しなければ駄目で、決意したフリなど通用しない。

岡本太郎は、「産んでもらったんじゃない。生まれてきたんだ」と言う。
いきはよいよい、かえりはこわい。
「行きは良いが、帰りは・・・・。それでも良いか?」「良い!」
我々はそうやって生まれてきた。
子供たちは、そういう輪廻転生の歌を毎日歌ってきた。そして、この世の定めを心に刻んだ。それとまっすぐに向き合った。しかし、今の子供はそれをしない。
帰りは闇である。しかし、それに敢えて挑み、深い闇を解き放つことで自由の扉を開くのである。
「闇でもいいじゃないか」
そんな強さを身に付けることも人生の目的なのかもしれない。

ところで、ここでとりあげたわらべ歌の「とおりゃんせ」は、ゲーム機なんかなかった時代では、我が国では、子供達が集まってよくやっていた。
男の子が腕で門を作り、皆でこの歌を歌いながら、女の子がその下を通る。つまり、男の子と女の子が一緒に遊べるものだ。
歌の終りで、男の子がさっと腕を下ろすと、女の子が1人捕まる。それが、女の子にとっては恐くもあるがスリルでもあり、この遊びの楽しさの一つだろう。
ところが、可愛い女の子はやたらと捕まるものだ。
歌は「とおりゃんせ、とおりゃんせ~」と最後が長く伸びる。好きな子が来るまで伸ばせば良いのである。
だが、しつこく捕まえようとする男の子は好かれない。良い女の子は、公平無私な男の子が好きだ。そして、天神様のはからいでたまたま捕まえられた時に生命がはじけるのである。




【ETERNAL BLAZE】
今回の記事を書いていたら、この歌は「とおりゃんせ」と全く符合するように感じた。
水樹奈々さんの2005年の歌。作詞も彼女自身の手による。水樹さんは、2009年に続き、今年も紅白歌合戦の出場が決まったようである。
最初、たまたまこの歌を聴いた時、彼女がこんな可愛い人だとは思わなかった。




【歓喜】
岡本太郎の、魂から響いてくる貴重な作品と言葉。
人生そのものが芸術であった岡本太郎の激しく破天荒なエピソードも満載である。

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大自然との合一

「美人だなあ」とか「スタイルがいい人だなあ」と言われて嬉しくなることがあるかもしれない。
しかし、不思議だ。
嬉しいというのは、心の働きだ。
しかし、褒められたのは身体のはずだ。なぜ心が喜ぶのか?
逆に、「ブスだね」「デブだね」と言われて怒ったり、悔しがったりするのもおかしいかもしれない。
貶されたのは身体であって心ではない。

ところが、こんなこともある。
心が長期に渡って辛いことを感じると本当に病気になる。辛いのは心のはずが、身体が病むのである。
逆に、楽しい知らせを聞いて、身体が元気になったりする。
今のところ、うまくやれる者は少ないが、精神分析で心の中の抑圧を除くと、病気や身体の悪い症状が劇的に改善されることが実際にある。
精神分析ではないが、エミール・クーエは自己暗示で、難病を奇跡のように治した。クーエの方法が広く使われたら医者は廃業になるかもしれない。

これらのことは何を意味するのだろう?
それは、身体と心が同じものであるということだ。
賢い人はそのことを知っているので、身体を治療するにも、身体にあまり注目せず、心を治すことで簡単に身体を治す。こういった医療を心身医学という。
逆に、心を治療するために、運動したり、健康的な食事をして身体のコンディションを良くすることで効果を上げることも多い。
ゲオルグ・グロデック(心身医学)やリチャード・パンドラー(神経言語プログラミング)らは、器質性の病気も全て心因性と決め付けているようだが、それで相当な成果を上げている。

だが、身体の複雑精妙な働きを心が知っている訳ではなく、ましてや、心が支配しているわけではない。
心が無理矢理、「病気よ治れ」と念じて、病気が治る訳ではない。
同じく、心の摩訶不思議な働きを心自身が知る訳でもない。それどころか、「自分のことが一番の謎」と言われるほど、心は心のことを何も知らない。
しかし、身体も心も、見事に機能している。
それならば、一体である身体と心を創った者がいるのだろう。少なくとも、それが大自然であることは誰しもが認めると思う。
なら、大自然には計り知れない知恵があると考えねばならない。
この身体が偶然に進化したものであると考える者は愚か者であるに違いない。それは、サルがデタラメにキーボードを叩いたらエンサイクロペディアが出来る可能性があると言う様なものだ。
我々は大自然の一部であると考えるなら、その大いなる知恵は宇宙全体を創ったのだろうと想像できる。なぜなら、身体の中に見られる諸法則は宇宙全体を動かしているものと矛盾せず、同じものであるからだ。
人は、あらゆる存在の中で、唯一、自由意志を与えられているのには訳があるのだろう。
人生の謎はそこにある。その自由意志で偉大なこともするかもしれないが、数え切れない悲惨や不幸を生み出している。
心は、身体の働きすら完全に理解する可能性を持たない。だが、そんなことを楽々とやれる、かの大いなる知性に従うことは出来る。
心はこの大いなる知性に従うことで、それと溶け合い、一体となれるに違いない。
エマーソンは「神が心に流れ込んできた瞬間は忘れることができないものだ」と言ったが、それは、心と大いなる知性が溶け合うことを言っているのだろう。
アブラハム・マズローの至高体験、ロマン・ロランの大洋感情、W.B.イェイツのエクスタシー、夏目漱石の天賓、岡本太郎の爆発・・・いや、一級の芸術家でそのことを言わなかった者は1人もいない。
賢者達は、短い言葉でそれを言い表した。例えば、

なりゆきにまかせろ
南無阿弥陀仏
アーメン(然り)
なるようになる
この世に偶然はない
Let it be
全ては神の思し召し

といったようなことだ。これらを、その結果に何らの憂いもなく、自らの意思として肯定できることが、かの大いなる知性に従うということで、そうすれば、人生からあらゆる苦悩が消えることとなる。







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身体や心より貴く偉大なもの

うろ覚え(確かでない記憶)であるが、新渡戸稲造は、西洋人の婦人に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのですか?」と言われ、困惑したが、では、日本には武士道ありとして、「武士道」を英語で書いたという。
この、「日本人は宗教なしで、どうやって道徳を教えるのか?」というのは、よく聞くようにも思う。これは、「どうやって」という質問ではなく疑問であり、「道徳を教えるのに宗教が必要である」という意味だろう。
しかし、私はそれはおかしいと思う。別に、道徳を教えるのに宗教が必要ではない。イエスは道徳を教えたのではない。彼は聖霊を教えたのだ。

少し話を変えて説明する。
私にとって、特に中学校時代は痛い(辛い、虚しい等をまとめて、一応「痛い」と書いた)思い出ばかりであった。別に恋愛やクラブ活動のことではない。
本当にやりたいことをする時間のほとんどを奪われ拘束されていたからだ。これについては、誰もが同じと思う。
「子供に好きなことばかりやらせたら、ロクなことをせず、駄目な大人になるじゃないか?」
と言われるかもしれない。その通りだ。
子供は、小学生の頃には、従うべき貴いものを完全に忘れるよう仕込まれ(動物の調教に近い)、個人の心に従うようになってしまっているので、好きなことをやれと言われたら、ゲームやテレビや食べることといった、個人の心が命ずることしかしない。これは、現代の日本の大人も同様だ。
宗教は、本当は、個人の心を超えた、目には見えないが確実に存在する貴く偉大なものを教えるためのものであった。
だが、大昔に、ほとんどの宗教自体が、個人の心に従う者達のものになってしまったので、せいぜいが道徳を教えるしかなくなったのだ。しかし、道徳というのは偏見だらけのものだ。実際にあったらしいが、自分の子供を塩焼きにして君主に奉げることが最上の道徳とされたところもあったのだ。

目には見えないが、貴く偉大なものが存在するというのは当たり前のことではないだろうか?
自然に進化したとされる生物の最も単純なものでさえ、その機能は人間には驚異であり、それを作ったものに比べれば我々の能力は足元にも及ばない。まして、最も精妙な人間の身体となると、もはや神秘とか奇跡以外に何とも言えない。これらが偶然に出来たなどと考えるのはよほどの愚か者であろう。では、神と呼ぶかどう呼ぶかはさておき、我々の頭脳や、それに等しい心を超える何かは確実にある。しかし、我々は、その偉大なものに従わずに、個人の心にのみ従う愚を犯しているのである。
それは、形も大きさもないので、どこにでもある。心を鎮めれば、即ち、個人の欲望を捨てればすぐに通じる。温かい印象やフィーリングとして交流してくる。直観や閃きとして現れる。
個人の心ではなく、それに従えば、心はそれに似てくる。全能の力を帯びた心に何も恐いものはない。







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自分が自分でいられる時間を持つ

昔、「5時から男」という言葉が流行した。
多くの企業の就業時刻が午後5時までだったので、仕事が終わってから元気になるサラリーマンのことをやや揶揄(やゆ。からかうこと)してそう言ったのだろう。
しかし、改めて考えると、本当の意味での5時から男(女もだが)が正常なのではないだろうか?
マイケル・ジャクソンの1987年の「ザ・ウェイ・ユー・メイク・ミー・フィール(The Way You Make Me Feel)」の歌詞にも、「9時から5時まで働いて、君の欲しいものは何でも買ってあげる」という部分があり、アメリカも事情は同じらしい。
しかし、1963年のジョージ・アダムスキーに対して行われた質問に、「異星人(宇宙人)も9時から4時まで働くのですか?」というのがあり、その頃のアメリカでは午後4時までの勤務が普通だったことがうかがえる。
アダムスキーは、進化した惑星の人々が働く時間はずっと短く、週2日程度と答えた。ただ、そもそも、彼ら(異星人)には労働という概念が無いので、「敢えて言えば」といった意味での回答であった。尚、その時代に、アダムスキーは、異星人の見るテレビ(のようなもの)の映像が3次元で、しかも非常にリアルであることや、それを録画する装置があることを話している。地球でテレビ録画機の普及が始まったのは1975年以降のことだったと思う。また、アダムスキーは、異星人の宇宙船内部の管理モニターが精妙なグラフィカル・ユーザーインターフェースであることもその頃に発表していた。当時の地球のコンピュータは、モニタ画面など持っておらず、回答は全て紙テープに孔を開ける形で出力されていたはずだ。

終業時刻が午後6時とか、それ以降の職場も多いし、5時が終業であっても、事実上の終業時刻が8時、9時、あるいはそれより遅いということも珍しくはない。
しかし、毎日、起きている時間の大半を会社で過ごすというのは、仕事に生きがいを感じているのでなければ、苦痛と言うよりは異常なことだろう。そして、会社の仕事に生きがいを感じているような人間が、はたしてどれだけいるだろう?
また、子供が学校にこんなにも長い時間拘束されることもまた、本当は異常なことなのであるが、我々はそれをすっかり忘れさせられてしまっている。
それほど長く拘束されていたら、自分が本当にやりたいことが出来ないことを、今や我々は思い出すことも出来ない。会社や学校でやることが自分の本当にやりたいことであるのは、あまりに特異なケースのはずだ。
我々は、会社や学校でやっている以外のことがあることを考えないようにさせられてしまっている。そして、会社や学校以外にあるのは、せいぜいが、下らない遊びやグルメ、テレビといったものだと信じ込まされてきた。ある時期からは携帯メールやツイッターも出てきたが、本質は全く同じであり、我々が本来持つ創造的な能力や奉仕の欲求を必要としないものばかりなのである。
イタリアの小説家、映画監督であるシルヴァーノ・アゴスティが書いてベストセラーになった「1日3時間しか働かない国」という、豊かな未来社会モデルを描いた本がある。まるでアダムスキーが伝えた進化した惑星のような社会で、いずれは地球もそのようになるのかもしれない。しかし、そのためには、我々の大きな意識改革が必要だし、それを邪魔する者達も多く出るだろう。
ヨーロッパのいくつかの国では、ワークシェアリングという、仕事を分け合う形でその方向に進んでいるが、人々の幸福度は明らかに向上していると思う。収入は減るが、自分のための時間、家族や親しい人達と過ごす時間が多くなり、人生は豊かになる。
先ほども述べたが、アダムスキーの言う異星人の世界には労働という概念はなく、それは奉仕活動のようなものであるが、人々はそれを本当に喜んで意欲的に行っているので、特別な報酬などは求めない。そもそもが個人的資産という概念がない。ただ必要なものを得るというだけのことで、不要なものを望んだりはしない。豊かな世界には、豊かな精神性が必要となる。そのような世界には、自分のものという概念はない。個人的欲望を捨てるに従って、この世は天国に近付くのであると思う。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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