ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

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鴨長明は、自分が愚か者のただの変人と悟った(方丈記)

鴨長明の書いた『方丈記』は、思想や文学として偉大かどうかは分からないし、多分、そうではないと思うが、あまりにも貴重な資料だ。
長明は、豊かな名家に生まれながら、その家を捨て、山の中に小さな小屋を建てて住み、自給自足の生活をする。
世間がつくづく嫌になり、貧しくとも清らかに生き、理想的な人間である聖者になりたかったのだろう。
しかし、そんな生活を長年続けた後、彼は悟る。何のことはない、自分は煩悩まみれであると。
自分は、聖者などとは程遠い、汚れた、ただの老人でしかないことが分かってしまったのだ。
長明は、自分を哀れみつつ、なぜ自分はこんなに駄目なのだろうと自分に問うた。
その時、自然に、「南無阿弥陀仏」の念仏が出てきたのだ。

長明と全く異なった道を行ったのが、スコットランド出身のマード・マクドナルド・ベインだ。
彼は、命がけでチベットの奥地に旅し、偉大な聖者に逢って教えを受けた。だが、その大聖者は言う。世間から逃げて隠遁するのは最低の愚か者であると。人のいないところで、どれほどの修行をしようが、それはただの変人ということだろう。
ベインはチベットを去り、世界中を旅して、あらゆる活動をした。

ところで、煩悩という点では、あの親鸞も長明と同じだった。
ただ、親鸞はそれを早くに悟っていたのだと思う。自分は聖者の器ではないと分かっていたのだろう。
親鸞は、自分は煩悩まみれで、もうどうしようもなく、せめてできることは、阿弥陀如来を信じ、救っていただくことだけだと言ったのだった。
そして、親鸞は、もし仮に、阿弥陀如来のことが嘘であったとしても、それなら諦めると言ったのだ。なぜなら、自分に他のことが出来る能力が無いからだと。

一方、ベインは煩悩を断てたのだ。そして、神である宇宙の英知と一体化した。この神は、親鸞や長明の場合は阿弥陀如来、つまり、仏であり、彼らは、仮に救われるとしても、死後のことであった。だが、ベインは、生きたまま、その歓喜を味わった。
山や寺にこもって、どれだけ本を読んでも、悟りは開けない。それどころか、ますます汚れる。それを長明は悟ったのだ。
親鸞は、肉食、妻帯をし、聖者になろうとはしなかった。ここらは長明とはかなり異なる。自分の煩悩を自覚し、自分を恥じた。だからこそ、徹底した信心に至ったのだろう。

ジョセフ・マーフィーの偉大なところは、彼は世間の醜さ、そして、恐ろしさを十分に知っていながら、決して隠遁を薦めず、世間で活躍し、世間に打ち勝つことで世間を超えることを説いたところだ。イエスが本当に人々に教えたかったのは、きっとそんなものだろう。彼はどんな時代に生まれても、決して教会にこもって、立派な服を着て、贅沢な暮らしをすることはないだろう。
親鸞の時代であれば、多くの人々には、彼の教えに従って平安を得る道しかなかったかもしれない。親鸞は確かに慈愛に満ちた偉大な僧であったと思う。しかし、当時ですら親鸞は言っていたように、生きたまま仏の加護を受けて、強くなることも出来るのである。もしかしたら、親鸞が今の時代にいれば、マーフィーのようなことを説いたかもしれない。









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デジャヴュで気付いたこと

半分眠っているような意識の中で、誰かの意識とつながり、しかも、強い絆を感じたことがないだろうか?
あるいは、見知らぬはずの古い屋敷後を見た時などに、懐かしさと共に、圧倒的な親しみを感じて立ち尽くしたことがないだろうか?

デジャヴュという言葉をご存知かもしれない。フランス語で、「既に見た」という意味だ。日本語では、「既視感(きしかん)と訳されることが多いだろう。
誰もが体験していることでありながら、なぜそのようなことが起こるかは、実際は不明だ。
一部では、前世の記憶が蘇ったり、未来予知が起こるためであると言われることもある。
デジャヴュというものは、超心理学の研究者が提唱した言葉だ。超心理学とは、テレパシーや千里眼、未来予知などを研究する学問で、特に我が国ではひどく異端視されて、まともに扱われることはない。

以下のことは、誰かが言った説ではない。
デジャヴュとは、かつて、そこにいた人間の意識と感応することだ。
たとえ大昔でも、そこにいた誰かが考えたことと同じことを考えると、我々の意識はそれと同調するのだ。
祈りの意識は、よくその場所に残っている。本当の祈りとは、純粋な親愛であり、深い慈しみだ。
例えば、ある家にかつて、何をする時も、「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えている者がいたとしたら、そんな場所で、念仏を唱えると、その意識と同調し、デジャヴュを感じるのだ。
いうまでもなく、経験な祈りが捧げられる教会、寺院、神社などは、いつでもデジャヴュに満ちているのである。そういった場所は、古い方が敬虔で荘厳な雰囲気があるのは、必ずしも建物の朽ち具合などによるのではなく、祈りの意識が多く集まるからだ。
ただ、意識というものは、本来は、場所とか時とかにとらわれるものではない。とはいえ、人の心としては、やはりそういったものに集中するのは仕方がないことだ。
だから、デジャヴュというのも、場所に関係する場合が多いのだ。

最初の話であるが、ほとんど眠っている時には、表面的な理性や意的思考である顕在意識は希薄になっている。そんな時、ふと祈りの言葉を想うと、同じ祈りをしている者、あるいは、していた者の意識とつながることがある。
それは、古い屋敷跡で、かつて、そこにいた者と同じ祈りをしたの意識と同調するのに似ている。
私は、昼間に夢を見ているような意識の中で、

I can do everything through him who gives me strength

という言葉が浮かんだ。
これは、新約聖書で、ピリピ人への手紙の中にあるものだが、この部分を祈りや、あるいは、心を鼓舞する言葉として使われることがよくある。
意味は、中学生でも分かるだろうが、「私を強くして下さるかたによって、どんなことでもできる」というものだ。
この言葉が否定的に使われることはない。よって、その意識との同調はいつも美しいし、意識が広がるのを感じるものだ。
そして、私を強くしてくれる彼・・・神の存在を感じるようになり、本当にあなたに不可能はなくなる。
私がよく知っている、仏教のお坊様の祖父が、死の直前、ほとんど意識もない状態だったのが、不意に起き上がり、力強く、「我が力やない」と言ったという。では、誰の力か?それが、「私を強くして下さる方」、キリスト教の神、仏教の仏であろう。この話を聞いたのは、もう何年も前のことだが、さっきの夢のことで思い出した。
我々の中には、我々を強くしてくれる至高者が必ずいる。その存在を認めれば応えてくれるだろう。
そのためには、あなたも、「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでもできるのだ」と何度も唱えると良いだろう。
ジョセフ・マーフィーも、そして、実に同じ1898年生まれのノーマン・ヴィンセント・ピール(2人はわずか11日違いで生まれている)も、この言葉をよく著書で引用したが、至高の力と結びつくための偉大な言葉である。









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内なる天才とつながる

さしもの超人イチローも、38歳になり、衰えが指摘されるようになった。
ジュリアーノ・ジェンマとリー・ヴァン・クリーフが競演した西部劇『怒りの荒野』の中で、流れ者の凄腕ガンマン、タルビーについて、かつて彼を捕らえたことがある元保安官の老人マーフは、「歳をとっても、力(筋力)はそう衰えるもんじゃない。だが、反応が遅くなる。タルビーは45歳は超えているはずだ。やつもそれを感じているんだ」と言う場面がある。
イチローも反射神経の衰えが特に指摘されているように思う。

ところで、元プロレスラーで、格闘王とまで言われた前田日明さんは、自伝の中で、「格闘家には球技が苦手な人が多い。私も、ボールを握った途端、ドン臭い男になるんだ」といったことを書かれていた。
アントニオ猪木さんも、昔では異例の長身(公称191cm、実際は188cm)で、バスケットボールをやっていたが、上手くないので砲丸投げに転向したらしい。
格闘家というのは、案外に反射神経が鈍いのかなと思ったが、前田さんにしろ、猪木さんにしろ、若い頃のファイトをDVDで見ると、瞬間の切り返しの見事さは、とてもではないが、反応の鈍い人間とは思えない。
また、史上最強のプロレスラーとも言われる「地上最強の鉄人」ルー・テーズにいたっては、「自分は特に才能に恵まれていた訳ではない。ただ、1つだけ天賦の才があったとすれば、反射神経だ」と言い、50歳頃まで世界チャンピオンの座にあり、60歳近くまで世界チャンピオンらと互角に戦っていた。

しかし、どうも格闘家の動きと反射神経というのは、似て非なるものであると感じる。
合気道などの武道家の中には、相当な年齢でありながら、目にも止まらぬような動きで、力自慢の相手や、複数の相手をさばいてしまう神技を見せる超人がいる。
合氣道家の藤平光一さんがまだ若い頃、話のなりゆきで、大勢の柔道家を一度に相手にすることになってしまい、取り組みが開始されると、慌てて逃げ回っていたという。ところが、それを撮影したビデオを見ると、見事な動きで相手の攻撃をかわしながら、投げまくっているのを見て、自分で驚いたようだ。

高い境地に達した武道家や格闘家は、普通に言われる反射神経とは違い、身体、あるいは、心の内部から来る導きに従って動いているのだと思う。
前田日明さんは、かつて、マーシャルアーツ(本来は武術という意味だが、アメリカのプロ空手を指す)の全米王者であるニールセンと戦った時、試合開始まもなくの時にニールセンのパンチを受けてから後の記憶が全くなく、見事に勝利しながらも、その自分の試合のビデオをわくわくしながら見たというおかしな話を自伝に書かれていた。
ただ、これは特に珍しい話ではなく、ラグビーやアメリカンフットボールなどをやっていた者なら、割合に多くの者が経験していることである。
このことが、表の意識だけが身体を動かしている訳ではないことを示しているように思う。変な話だが、前田さんとニールセンの試合をDVDで見ると、前田さんの動きは、意識のある普段のものより、特に際立って素晴らしいのである。

将棋や囲碁の達人となると、頭で考えているのではなく、指し手が閃くのである。
本当は、誰の中にも、天才や超人がいるのであるが、普通の人は、それとつながっていないのだ。
新約聖書の「ピリピ人への手紙」の中に、「私を強くして下さる方によって、私はどんなことでも出来るのだ」という言葉があるが、これが、人間の真理を見事に言い表している。
我々も、超人武道家や、将棋の達人のように、内なる至高の存在とつながることを学ぶべきである。そうすれば、どんなことでも出来る。
イチローだって、反射神経に頼らないようになれば、さらに高い境地に進める可能性があるに違いない。
ジョセフ・マーフィーの教えというのは、根本的に、その方法を、現代人にも分かるように教えているのである。









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気付かずに起こしていた奇跡

私は今は、肉も魚も一切食べないが、これらが嫌いな訳ではなく、今でも、ステーキも焼肉も大好きである。
また、スパゲッティもラーメンも好物であるが、もう3年も全く食べていない。
それと、とりわけ甘いものが好きで、特にチョコレートには目が無いが、これも3年以上、一度も食べていない。
2008年の7月の末頃に、「今日から、これらのものは一切食べない」と決め、その日から実際食べていない。魚はしばらくは食べていたが、これも昨年の6月から全く食べなくなった。
別に身体の具合が悪いからという理由ではない。多少、痩せたいという気持ちはあったと思うが、それだけで、これだけやれれば誰も苦労しないだろう。
最近、ようやく気が付いたが、こういったことがやれたのは、私の力ではないだろう。自分の意志や根性といったもので、こんなことできる訳がない。
食べたくなくなった訳では決してなく、いつでも食べたいと思っているのだ。
これは、一種の奇跡だろうし、神の力としか言いようのないものだ。
また、食事の回数も1日1回になり、スリムで理想的な体形になっただけでなく、完全に健康になり、また、身体の活力が高まり、毎日トレーニングをやるうちに、10回しかできなかった腕立て伏せは250回くらいできるようになった。現在、1日も欠かさず、毎晩、100回以上の腕立て伏せと300回のスクワットをやり、ますます身体が軽く、機敏に動くようになった。これも、菜食で、1日1度しか食事をしなくなったおかげであろう。
だが、再度言うが、こういったことを、自分の力でやった訳ではない。素直に神の力、仏の力と言えば良いと思うが、他の言い方では、自然の英知の力、潜在意識の力、純粋な生命の力などとも言えるだろう。
それはただ、一般大衆の誰もが受け入れている世間の教義や信念ではなく、宇宙的な英知を優先させたというだけのことだと思う。
克己心(自分の感情・欲望・邪念などにうちかつこと)などで出来ることなど知れているし、無理にそれをやると抑圧を生じ、抑圧は反動を起こして心を歪めるだろう。
だが、個人的な自我を超える、より高い自己である宇宙の英知に頼れば、ごく自然に何事も可能となるだろう。
私にも、神仏の力や自然の英知の助けを受けることが出来たのである。
私が、特に何か良いことをしたのかというと、残念ながら思い当たらない。よって、間違いなく誰にでも出来るだろう。ただ、学校やテレビや大企業の言うことを受け入れることをやめ、もっと高貴で美しいものを求めれば良いのである。星々を造り、それらを運行させる大自然の英知は偉大である。我々の問題を解決する程度のことはあまりに容易く、いちいち願う必要もないのである。私も、「菜食にさせて下さい」とか、「少食になれますよう」などと願った憶えはない。ただ、任せれば良いのだと確信する。









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アダルト作家の英知の秘密

世の中には、人々の性欲を煽ることを商売にしている人達がいる。ほぼ小説や絵画の分野であるが、世界的な版画家であった池田満寿夫さんによれば、画家がエロチックな作品に取り組むのはリスクが大きいのだという。もちろん、画家としての地位を落としてしまうということなのだろう。モディリアーニは今でこそ世界的な画家と認識されているが、裸婦をよく描いていたことから、当時はかなり不当な扱いを受けていたという。ピカソは、晩年は極端に卑猥な版画を量産したが、せいぜいが「ピカソももうろくした」と言われるだけで、ピカソの名や、それまでの作品の評価を落とすことはなかったが、それはピカソがあまりに偉大だったからだろう。とはいえ、ピカソは、「芸術家は60代が青春だ」と宣言し、「僕、ピカソ」のシンプルな殺し文句で、若い画学生の少女達をナンパしていたらしい。実際、46歳の時、17歳のマリー・テレーズ・ワルテルと交際して結婚寸前までいき、62歳で、21歳の画学生フランソワーズ・ジローと事実上結婚し、子供も作った。

ところで、アダルト分野のクリエイターの中には、本当によく人間を理解していて、深い思想を持った人がいると思う。また、そうでなければ、その分野で成功することもないのだろう。
池田満寿夫さんが、何かと言えば「エロチシズム」という言葉を口にし、その分野の探求者であることを隠しもしなかったが、それでも、さしたる非難も受けず、芸術家として評価されたのは、時代ということもあったが、その人柄によると思う。ある女子高生が池田さんに、「あなたの作品はちっとも理解できないが、人間としてのあなたが好きになったので、アトリエに見学に行かせて欲しい」という手紙を出したというのも、よく理解できるのである。尚、池田さんは、その手紙に対して、恥ずかしくて返事を出せなかったというが、このあたりも池田さんの人間性を表していると思う。やはり、内面というものが重要なのだ。
先月、兵庫県宝塚市の手塚治虫記念館に行ったら、人気イラストレーターのいとうのいぢさん専用のブースが設置されていた。いとうのいぢさんは、『灼眼のシャナ』や『涼宮ハルヒの憂鬱』の挿絵画家として世に知られ、最近では筒井康隆さんの作品の挿絵も描いているが、元々、そして、現在もアダルトゲームの画家である。いわゆる、最も萌える絵を描ける画家の1人であるが、改めて絵を見ると、プロフェッショナルであると共に、やはり人間に対する深い理解を持っていることを感じるのだ。

浄土真宗の開祖、親鸞聖人の750回忌なのだそうだが、親鸞の人間性に関しては、弟子の唯円が書いたと言われる、有名な『歎異抄』に最もよく表れていると思う。この中で、親鸞は、自分のことを「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」、つまり、人間としての欲望にまみれた救いようのない者であるとよく言っていたとあるが、それは、作為的な謙譲とかではなく、私は、親鸞自身、本当にそう思っていたのだと思う。実際、親鸞は、特に、当時の僧としては失格とも言える、肉食、妻帯をしていたが、それでも聖人と言われ、やはり当時としては、異例というより、異常な90歳まで生きた。
歎異抄を読むと、親鸞は、まるで自分というものをすっかり諦めていたような感じさえある。あまりに煩悩がひどいので、自分で悟りを開くなんてことはあり得ず、全て仏様(阿弥陀如来)に任せてしまうというのが彼の本当の思いであると思われるのだ。それは、宗教上の教義の都合なのではなく、本当にそうであったと思うが、だからといって、親鸞への敬愛は増しこそすれ、失われることはない。そして、親鸞は、「皆、そうじゃないのかね?」と言うのである。ただ、だからこそ、仏への信心というものを重んじたのである。

現代の、優れた作品を創るアダルトクリエイターというのも、どこか自分を突き放したところがあるのだろう。だから、内面の英知が入り込む余地もあるのだろうと感じる。
私が好きな、『魔法少女リリカルなのは』シリーズの原作者で、この作品を含め、自分の作品のアニメ、アニメ映画の脚本は全て自分で書く都築真紀さんも、アダルトゲーム制作者だったが、やはり素晴らしい思想家だと思う。

煩悩というのは、それを持っていることを認めるべきであるが、それに支配されては浅ましい亡者でしかない。ジョージ・アダムスキーは、自我を英知の下に置かないといけないと言ったが、それが、親鸞の阿弥陀如来への信仰のようなものなのだろう。だが、現代の我々は、神仏の英知より自我を上位に置き、欲望にまみれた自分を恥じることもない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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