鴨長明の書いた『方丈記』は、思想や文学として偉大かどうかは分からないし、多分、そうではないと思うが、あまりにも貴重な資料だ。
長明は、豊かな名家に生まれながら、その家を捨て、山の中に小さな小屋を建てて住み、自給自足の生活をする。
世間がつくづく嫌になり、貧しくとも清らかに生き、理想的な人間である聖者になりたかったのだろう。
しかし、そんな生活を長年続けた後、彼は悟る。何のことはない、自分は煩悩まみれであると。
自分は、聖者などとは程遠い、汚れた、ただの老人でしかないことが分かってしまったのだ。
長明は、自分を哀れみつつ、なぜ自分はこんなに駄目なのだろうと自分に問うた。
その時、自然に、「南無阿弥陀仏」の念仏が出てきたのだ。
長明と全く異なった道を行ったのが、スコットランド出身のマード・マクドナルド・ベインだ。
彼は、命がけでチベットの奥地に旅し、偉大な聖者に逢って教えを受けた。だが、その大聖者は言う。世間から逃げて隠遁するのは最低の愚か者であると。人のいないところで、どれほどの修行をしようが、それはただの変人ということだろう。
ベインはチベットを去り、世界中を旅して、あらゆる活動をした。
ところで、煩悩という点では、あの親鸞も長明と同じだった。
ただ、親鸞はそれを早くに悟っていたのだと思う。自分は聖者の器ではないと分かっていたのだろう。
親鸞は、自分は煩悩まみれで、もうどうしようもなく、せめてできることは、阿弥陀如来を信じ、救っていただくことだけだと言ったのだった。
そして、親鸞は、もし仮に、阿弥陀如来のことが嘘であったとしても、それなら諦めると言ったのだ。なぜなら、自分に他のことが出来る能力が無いからだと。
一方、ベインは煩悩を断てたのだ。そして、神である宇宙の英知と一体化した。この神は、親鸞や長明の場合は阿弥陀如来、つまり、仏であり、彼らは、仮に救われるとしても、死後のことであった。だが、ベインは、生きたまま、その歓喜を味わった。
山や寺にこもって、どれだけ本を読んでも、悟りは開けない。それどころか、ますます汚れる。それを長明は悟ったのだ。
親鸞は、肉食、妻帯をし、聖者になろうとはしなかった。ここらは長明とはかなり異なる。自分の煩悩を自覚し、自分を恥じた。だからこそ、徹底した信心に至ったのだろう。
ジョセフ・マーフィーの偉大なところは、彼は世間の醜さ、そして、恐ろしさを十分に知っていながら、決して隠遁を薦めず、世間で活躍し、世間に打ち勝つことで世間を超えることを説いたところだ。イエスが本当に人々に教えたかったのは、きっとそんなものだろう。彼はどんな時代に生まれても、決して教会にこもって、立派な服を着て、贅沢な暮らしをすることはないだろう。
親鸞の時代であれば、多くの人々には、彼の教えに従って平安を得る道しかなかったかもしれない。親鸞は確かに慈愛に満ちた偉大な僧であったと思う。しかし、当時ですら親鸞は言っていたように、生きたまま仏の加護を受けて、強くなることも出来るのである。もしかしたら、親鸞が今の時代にいれば、マーフィーのようなことを説いたかもしれない。
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長明は、豊かな名家に生まれながら、その家を捨て、山の中に小さな小屋を建てて住み、自給自足の生活をする。
世間がつくづく嫌になり、貧しくとも清らかに生き、理想的な人間である聖者になりたかったのだろう。
しかし、そんな生活を長年続けた後、彼は悟る。何のことはない、自分は煩悩まみれであると。
自分は、聖者などとは程遠い、汚れた、ただの老人でしかないことが分かってしまったのだ。
長明は、自分を哀れみつつ、なぜ自分はこんなに駄目なのだろうと自分に問うた。
その時、自然に、「南無阿弥陀仏」の念仏が出てきたのだ。
長明と全く異なった道を行ったのが、スコットランド出身のマード・マクドナルド・ベインだ。
彼は、命がけでチベットの奥地に旅し、偉大な聖者に逢って教えを受けた。だが、その大聖者は言う。世間から逃げて隠遁するのは最低の愚か者であると。人のいないところで、どれほどの修行をしようが、それはただの変人ということだろう。
ベインはチベットを去り、世界中を旅して、あらゆる活動をした。
ところで、煩悩という点では、あの親鸞も長明と同じだった。
ただ、親鸞はそれを早くに悟っていたのだと思う。自分は聖者の器ではないと分かっていたのだろう。
親鸞は、自分は煩悩まみれで、もうどうしようもなく、せめてできることは、阿弥陀如来を信じ、救っていただくことだけだと言ったのだった。
そして、親鸞は、もし仮に、阿弥陀如来のことが嘘であったとしても、それなら諦めると言ったのだ。なぜなら、自分に他のことが出来る能力が無いからだと。
一方、ベインは煩悩を断てたのだ。そして、神である宇宙の英知と一体化した。この神は、親鸞や長明の場合は阿弥陀如来、つまり、仏であり、彼らは、仮に救われるとしても、死後のことであった。だが、ベインは、生きたまま、その歓喜を味わった。
山や寺にこもって、どれだけ本を読んでも、悟りは開けない。それどころか、ますます汚れる。それを長明は悟ったのだ。
親鸞は、肉食、妻帯をし、聖者になろうとはしなかった。ここらは長明とはかなり異なる。自分の煩悩を自覚し、自分を恥じた。だからこそ、徹底した信心に至ったのだろう。
ジョセフ・マーフィーの偉大なところは、彼は世間の醜さ、そして、恐ろしさを十分に知っていながら、決して隠遁を薦めず、世間で活躍し、世間に打ち勝つことで世間を超えることを説いたところだ。イエスが本当に人々に教えたかったのは、きっとそんなものだろう。彼はどんな時代に生まれても、決して教会にこもって、立派な服を着て、贅沢な暮らしをすることはないだろう。
親鸞の時代であれば、多くの人々には、彼の教えに従って平安を得る道しかなかったかもしれない。親鸞は確かに慈愛に満ちた偉大な僧であったと思う。しかし、当時ですら親鸞は言っていたように、生きたまま仏の加護を受けて、強くなることも出来るのである。もしかしたら、親鸞が今の時代にいれば、マーフィーのようなことを説いたかもしれない。
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