ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

家族を幸せにする方法

家族を幸せにしたければ、主人は家に不必要なお金を入れないことです。大丈夫だと思うなら、全く入れなくてもいいのです。奥さんが働いてやっていけますから。
しかし、それは主人にとって厳しいことかもしれません。普通の家の主人は、給料を持ってくることだけに存在価値がありますが、家にお金を入れないなら、主人に本当の価値がなければなりません。それに比べれば、給料を持って帰る方がよっぽど楽です。
普通の男は、給料を持ってこなければ用無しです。もっとも、給料は持って帰っても、家の中に居場所のない、名前だけの主人は多いと思います。
そして、普段、家にお金を入れない主人が、わずかでもお金を渡すと、奥さんはそれを凄く有り難く思うのです。普通の家の奥さんは、主人が毎月給料を持って帰っても、それが当たり前になっていて、感謝なんてしません。それは実は異常なことです。

ある時、公園で寂しそうにお弁当を食べている背広ネクタイの男を見て、もしかしたら、会社をリストラされたのに、奥さんに言えずに、帰宅時間までうろうろしているのかもしれないと思いました。
実際、そんな人のために、あたかもまだ勤務先があるかのように家族を欺くため、奥さんなどからの電話を勤務先のふりで取り次いでくれるというサービスがありました。今はメールの時代ですから、あまり無いとは思いますが、メールを使えない人もいますので、需要はあるかもしれません。
しかし、もしそんなものがあるとしたら、いったい何のための妻なのかと思います。旦那が苦しい時に支えになってこその妻のはずですからね。

主人が家にお金をほとんど入れなくても、主人が立派であれば、妻子は明るくまっとうな人間でいます。妻子は鍛えられますし、その力は生涯役に立ちます。
逆に、主人が家に潤沢にお金を入れる家の奥さんや子供は駄目な人間になります。一方的に主人に養われていたら、力の付けようがなく、何も出来ずに快楽ばかり求めるようになります。それは非常に不幸なことです。
私の知っているある家では、主人は家にほとんどお金を入れず、若い頃は奥さんの貯金にまで手を出し、会社の退職金なども前借りして使い切っていました。それで主人は遊び歩いている訳です。そして主人は病気になって若くして死にましたが、彼は家族の業を背負ってあげたのだと思います。妻子は健康で立派になりましたから。そして、その主人は家族に慕われていました。
とはいえ、そこまでする必要はありません。おそらく、そんな家では、妻子や夫婦のそれぞれの家族に業と言いますか、隠れた問題があり、その解消のために、そんな苦しい療法が必要だったのかもしれません。言っては悪いですが、その家族も、やはりその周辺にいろいろ問題がありました。
普通は、簡単に言えば、主人があまり稼がなければ良いのです。給料が安いだけで家族は幸せになれます。

最近は、学生の就職が大変だと言われます。就職活動をする大学生が、数十とか数百の応募をして、一件も内定を得られないという話もよくあります。
それは、応募するところを間違っているのです。学生の多くは、企業の安定性や待遇を見て応募します。仕事がしたいのではなく、給料が欲しいのですね。
仕事自体はいくらでもあります。私は、長いニート生活の後、「行けば入れてもらえる」職場に喜んで入りました。そんなところでも、入れてくれるなら有り難く思いました。そう思っていましたから、職場の人はみんな親切にしてくれました。そんな職場には、大卒はまずおらず、中卒や高校中退の人も多かったですが、私は後に大企業や一流大卒ばかりの会社に入ることになりますが、その中卒、高校中退の人達の方がずっと優秀でした。そして、そんな職場での経験が人生の宝となったと思います。
働く場所は、直観で決めれば良いと思います。すると、大抵は、面接に行った1件目に入ることになるのではないかと思います。給料は安くても良いのではなく、安いほど良いのです。そう思っていれば、間違って危ない職場に入ることもないでしょう。
余計なことを言うなら、給料は安くて良いと思っていたら、案外に多く入ってくることもあります。政木和三さんに聞いたことがあります。「私はお金なんてちっとも欲しくないのですが、どういうわけか1億ほど納税することになってしまうのです」。ジョージ・アダムスキーも言います。「私は富を蓄えようと思ったことなどないが、金に困ったこともない」







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人間の最も大切な仕事とは

ぼーっとすることも、人間の大切な仕事だ。
ひょっとしたら、最も大切な仕事かもしれない。

私は、小学校に入った時のことをよく憶えている。
規則の多さと、その規則の分かりにくさにはすっかり参ってしまった。こんな規則を理解し、憶え、実行できる他の子達は、みんな天才なのかと思った。
図書室を使うにも、学年によって使って良いスリッパと使っていけないスリッパがあることが分からない。1年生は赤色らしかったが、そんな細かいことを憶えていられない。
私は、何をするにも、「ぼーっとするな!」と怒られ、すっかり自信を失くした。

それは今でも続いている。
複雑怪奇な仕事の手順や、会社のルールがさっぱり理解できず、憶えられない。他の有能な人間の仕事の仕方を、私はただ驚嘆の目で眺めているだけだ。
最近は、会社法だのという、企業が守らなければならない多くの法律が出来、それに則った企業活動をしなければならないのだが、私には、それらの法律はまるで、「キャラメルを食べる時には、まず包装材をすみやかに4分の1以上剥ぎ取り、軽く内箱の底を上方に押して、押し出された反対の側の内箱の端を軽くつまんで引き出し・・・」といったことのように思える。

学校でも、会社でも、我々はぼーっとすることが出来ない。
吉本隆明さんは、娘達(後に著名な漫画家と作家になる)が子供の頃、彼女達が何か大事なことをしていたら、それを邪魔しないよう心掛けたというが、その何かには、ぼーっとすることも含めていた。ぼーっとしている娘達に買い物に行かせるくらいなら、この日本最高の思想家は、自ら買い物籠を持って市場に行った。決して子供達を甘やかしたのではなく、彼には邪魔して良いことと悪いことの区別が付いていたのだ。今の普通の親は、子供が本当に大切なことをするのを最大に邪魔しているのだし、そもそも、子供達は、馬鹿なことを大切そうにやらされているのだ。
そして、大人になる頃には、社会の複雑なシステムに順応できなくなることに恐怖を感じ、ぼーっとすることに不安と罪悪感を感じる人間になる。

社会のルールは、個人の利益の追求から生まれた欲望の仕組みを維持するものだ。それに従えば安らぎはない。
ソクラテスは「汝自身を知れ」とか言ったらしいが、どうやればそれを知ることができるのかが伝わっていない。ソクラテスは教えたかもしれないが、彼を利用する権威者達には都合の悪い教えなので、いつか消えてしまったのだろう。その教えとは、「ぼーっとしろ」である。
知性を道具として適切に使えるのはその「私自身」である。私自身がルールを定めることはあるが、それは非常にシンプルで数も少ない。
カート・ヴォネガット(米国の作家)は言う。「私の知る地球のルールはただ1つ。人に優しくしろ」

私は、今日も大切な仕事をしよう。
そうすれば、不安も恐怖もない。ぼーっとする心に不安や恐怖、それに怒りや貪欲のつけ入るスキはないからである。そして、現実的な仕事でも、個人の利益ではなく、真に人々を幸福にすることが出来るようになるだろう。
共に良い仕事をしようではないか?







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天才ケストラーを超えて

アーサー・ケストラーという、恐ろしく頭の良い男がいた。肩書きは、小説家だとか哲学者だとか言われるが、彼にそのような肩書きは不要だ。彼は、「ジ・アーサー・ケストラー」だ。
その天才が、「ホロン革命」という本の中で、人間の脳は出来損ないだと書いていた。
人間の脳は、魚類や爬虫類といった下等動物の脳を、理性の脳である新皮質が覆っているだけの不完全な形で発達した。そのため、理性は本能を支配することが全くできない。
そして、その巨大な知性は、動物的本能に動かされ、幻想と欲望を果てしなく生み出す、どうにも始末に終えないものになった。
それはまるで、怒ったサルに核爆弾のスイッチを預けたようなものだと言う。
なるほど、そう言われれば、確かにそんな気がする。

石ノ森章太郎さんの「サイボーグ009」で、人類を創造した宇宙人が、長い時を経て、制作物である人類の様子を見に地球に来たら、そのあまりの出来の悪さに失望し、いったん人類を滅ぼして作り直すことに決めたという話がある。
石ノ森章太郎さんは「幻魔大戦」の東丈(スポーツも勉強も駄目な、チビで劣等感の塊)といい、「人造人間キカイダー」のジロー(不完全な機械の心を持ち、悪の誘惑に抵抗し切れない)といい、自分が出来損ないと悩むヒーローをよく描く。おそらく、石ノ森さん自体が、そのような悩みに苦しんだのだろう。
009達は、相手が創造主であるとしても、大人しく滅ぼされることを認めず、敵うはずのない相手に挑むことになった。
都築真紀さん原作・脚本の「魔法少女リリカルなのは Movie the 1st」(劇場版)で、フェイト・テスタロッサ(9歳の魔法使いの少女)は、自分は、母親だと思っていたプレシア・テスタロッサに作られた人工生命体であることを知り、しかも、プレシアに「失敗作」と言われて捨てられる。

我々もまた、出来損ない、失敗作なのだろうか?
動物は本能だけなので正しく生きるが、人間は本能と知性のバランスが悪く、それらが組み合わさると、果てしなく強欲となり、その実現のために、とどまることなく凶悪となる。
フロイトは、人間の本能が壊れていると言ったが、明らかにそうではなく、本能と知性の相性が絶望的に悪いのだ。

しかし私は、確かに、本能の理性への侵食を抑えることに成功した。これは本来なら、釈迦のような覚者(悟りを得た者)にしか出来ないことと思われていたが、私のような凡人に可能であったことは、客観的に見て注目に値する。
平均的な知性しか持たない私が天才ケストラーに勝ったかもしれない。そして、ケストラーは自殺しなくても良かったのだ。頭が良過ぎるのも災いかもしれない。

本能の理性への侵食を抑えるためには、ただ食を慎めば良い。
そうすれば、性欲も支配出来る。ナポレオン・ヒルは、人間の最大のエネルギーは性エネルギーであり、これを利用すれば成功できると言ったが、それは最終的には破滅の道だ。世俗の成功と破滅は等しい。歴史の中で例外など1つもないのに、なぜそんなことに気付かないのか?確かに、本当は惨めな世俗の成功者達は、様々な理由で自分の悲惨さを隠す。しかし、大衆もまた、欲望に目が眩んで、真理が見えないのだ。

私に関する少食のコツを言うなら、神経的に、感情に対して敏感な場所である胸に意識を集め、思考を離れることだ。頭脳は道具として使うべき時に使えば良いが、普段は意識を胸に集めぼうっとしていると良い。それを「心を静める」とか「無になる」などと気取ったことを言うと難しく感じる。ぼうっとすることなら得意なはずだ。授業中や仕事中に「ぼうっとするな」と怒られたらしめたものだ。いつまでたっても、ぼうっとしていて出来ない仕事なら、人類に対して害をなすものだ。早目に手を引けば良い。
釣りはせっかちな人には向かないと言うが、それは小賢しい工夫では歯が立たないという意味だ。ぼうっとしていて、自然に良い方法が閃いてこそうまくいくのだ。昔から、賢者には釣り好きが多い。
009は創造主に打ち勝ち、フェイトは母親がどうであれ幸福に生きる。
そして、それこそが、創造主が我々を生み出した目的だったのかもしれない。

余談だが(私の話は全て余談みたいなものだが)、原作者の都築真紀さんが全て脚本を書くアニメ「魔法少女リリカルなのは」シリーズの第2作「魔法少女リリカルなのはA's(エース)」の中で、人の理性と本能とハートの関係が、魔道書(理性)と、その防衛プログラム(本能)とハート(少女ハヤテの心)の関係で表現されていた。都築真紀さんは天才であるようだ。







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アニメ制作会社に抗議する親

根本的には、漫画やアニメに子供向けという作品は無いし、創るべきでもない。

今、子供向けの、特に、女の子向けのアニメといえば「プリキュアシリーズ」くらいしかないように思う。これらの作品は全て「プリキュア」の名前を冠してはいるが、それぞれは別ものである。
私は、1年目の「ふたりはプリキュア」は面白いと思ったが、同じ登場人物でありながら、2年目の「ふたりはプリキュアMax Heart」は惹かれるものがなく、途中で見なくなったので、結局、どんな話になったのかさっぱり分からない。3年目以降のものも、時たまテレビで見たが、全くつまらない。2年目以降は、かなり徹底して子供向けということを意図して制作しているように思う。
その2年目の「ふたりはプリキュアMax Heart」の映画で、プリキュアという、2人のヒロイン同士が激しく戦う場面があった。これを見た子供が泣き出したことで、多くの母親が制作会社に抗議したと聞く。実は、プリキュアの2人は、敵に心を操られて戦ったのだが、子供達にはそのあたりの事情が分からなかったのだろう。しかし、あの場面は、プリキュア達は、相手を攻撃しながら涙を流すという、実に感激的なものだったのだ。
いずれにしても、子供が気分を害したからと言って苦情を言う親も信じ難い。

少し昔、子供向けで、やはり女の子が主な対象の人気アニメであった「カードキャプターさくら」という作品の映画を劇場に見に行ったことがあった。
劇場には、親に連れられた子供達も沢山いた。ところが、1時間を超えるこの映画の終盤あたり、つまり、クライマックスの頃、子供達の多くがむずかり(機嫌が悪くなること)出し、騒ぐ子まで出てきた。1人が騒ぐと、別の子も騒ぐ。ストーリーが子供には難しくて理解できないし、子供的な面白く楽しい雰囲気ではなく、シリアス(深刻、まじめ、本格的)なものであった。素晴らしい映像技術で迫力はあったのだが、そこに来ている子供達の期待するものではないのだ。
実際に、立ち上がって帰っていく親子も少なからずいた。

子供の「面白くない」という主張が通ってしまう。それで、子供は、「大人は自分を喜ばせる義務がある」「大人は子供のためにいるんだ」という、とんでもない誤解をする。
フロイトによると、幼い子供というのは、万能感を持ち、自分を神様や王様と感じているところがあるというのに、そのような甘やかしをすれば、傲慢な人間になるのは当然かもしれない。

現在は、多くのアニメが深夜放送されている。別に成人アニメでもなければ、暴力的でもなく、倫理的な表現への配慮も十分にされている。登場人物もほとんどが少年少女で、一見、子供向けにすら見える。おかしなことに、子供向けアニメの雰囲気を守っている作品も多いように思う。実際、子供がそれらの作品を見たところで問題がある訳ではない。私は、むしろ、見ると良いと思う。だが、これらを子供が見る時間帯に放送すれば、やはり、モンスターペアレント達の激しい抗議が予想される。
多くの深夜放送アニメと子供向けアニメの違いは、ストーリーや心理的な表現力の違いだ。おそらく、制作者は、特に子供が作品を見た場合の配慮は基本的には考えていない。しかし、大人への配慮があれば、それは子供への配慮でもあると私は思う。大人には良いが子供には悪いというものなど絶対に無い。
ところが、アニメや漫画の扱いに現れてしまっているというだけで、勘違いをしている大人は、子供に対し、この世の醜いものを隠してしまおうとしている。

「美少女戦士セーラームーン」のアニメが、ただ子供を対象に制作していたのは、せいぜいが2年目のシリーズまでで、実際には、本当に子供向けと言えたのは1年目くらいのものと思う。ところが、その1年目の最終あたりで、セーラームーンの仲間の4人のセーラー戦士達が次々に敵に殺されていき(後で無事復活する)、子供達がショックで御飯を食べなくなったということが話題になったことがある。まあ、それは大袈裟に言っただけで、1日絶食したなんて子供もいないと思うし、制作者の方も、そんな話をギャグに使ったくらいだ。
ところで、仲間のセーラー戦士達が殺されながらも、不屈の心で敵の本拠地に単身乗り込み、敵のボスであるクイン・ベリルとの最終決戦に挑んだセーラームーンとクイン・ベリルが交わした会話が印象的だ。
クイン・ベリルはセーラームーンに、「なぜそこまでして、この世界を護ろうとする?お前もいつかは知るだろう。この世が既に醜く穢れていることを」と言うが、それはまるで、親が子を哀れみの心で諭すようですらあった。しかし、クイン・ベリルの圧倒的なパワーに苦境に立たされながらも、セーラームーンは言う。「私はこの世界を信じている。みんなが護ろうとしたこの世界を」と。

ところで、ストーリーは理解できなくても、劇場で熱心に最後まで映画を見ている子供もいたはずだ。
親が熱心に見ているからだ。子供というのは、本来、かなりテレパシックなもので、特に、親の感情には敏感だ。そんな子供は親の感情に同調しているので、そこにいるだけで楽しいのだ。
しかし、現代の多くの子供は、今の普通の親と同様、個人的な自分だけの快楽を優先することを憶えてしまっているので、精神感応の能力を失ってしまっている。
ただ、高貴な精神の力は、子供にだけあるのではなく、人間であれば誰でも持っているし、錆び付いていても、その気になれば開発できる。人類を救う鍵はそこにある。







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不屈の心

優れた心の特性として、公平、平等、誠実、信念、前向きさ、明るさなどが上げられると思う。
ところが、我々は、そのような心が欲しいと思いつつ、なぜかその反対の性質を持ってしまう。
心が弱いからだ。
心には美しい性質は確実にあるのだが、それを表すには強さが必要なのである。

人間にとって、最も重要なのは、実に不屈の心だ。
誰かを憎む心が起こった時、それに負けて憎んでしまうのは、不屈の心が無いからだ。
誘惑に耐えることができるかで人格が分かるが、人格と不屈の心は異なるものではない。

何度かご紹介したが、スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンが共演した1973年のフランス・アメリカ合作映画「パピヨン」は、胸にパピヨン(フランス語の蝶)の刺青のある囚人パピヨンの不屈の心が凄まじく表現されていた。この映画を見ることには、高額なセミナーに参加したり、名著を読むこと以上の価値がある。
ジョージ・アダムスキーは、目標を達成する秘訣は、目標を変えないことと諦めないことと言ったが、そのためには不屈の心が必要である。

個人的な欲望を捨てることが幸福への秘訣であるが、そのためには不屈の心が必要であると指摘する者が少ない。なぜなら、無欲な者にとって、不屈の心は当たり前のものだからだ。
不屈の心を持たずに、個人的欲望を捨てた者はいない。不屈の心が無いと欲望に負けてしまうからだ。

いかなる出来事も自分の意思であるとする絶対肯定こそが、至高の英知と溶け合い、神に近付く道であるが、不屈の心が無ければ不可能なことだ。
キリスト教では、「アーメン(然り)」と言って、神の思し召しをいかなる時も肯定するが、本当にそうあるには不屈の心が必要なのである。
浄土系仏教では、「南無阿弥陀仏」と言って、宇宙に遍満する無限の光である至高の英知(それを擬人化して阿弥陀如来と呼ぶ)を絶対的に信頼することを誓うが、それは不屈の心を目指しているのである。
荘子は、全て成り行きにまかせて作為するなと言ったが、それは弱い心には叶わない。無為自然であるには不屈の心が絶対に必要である。

不屈の心を養成するトレーニングは日常に溢れている。学校や職場はそのためにある。
だが、楽に力を付けたいなら、食の慎みという優れた方法がある。厳しく食を慎むことで、不屈の心を容易に養える。あまり過激にやる必要はない。ごく当たり前のことをやれば良い。満腹するまで食べて自分を甘やかさなければそれで良いのだ。志あるなら、お菓子の一切はやめるべきだろう。たったそれだけのことで、不屈の心をかなり持つことが出来る。その後でなら、日常の訓練も楽になるだろう。
食の慎みが出来れば、性欲の支配は割に容易い。いつまで経っても食欲や性欲に負けているようでは見込みはない。
とはいえ、食欲や性欲が強敵であることも認めよう。だから、「パピヨン」を見ると良い。ゴキブリすら食べられるまでに餓えながら、友情を守ったパピヨンを見ると良い。(ただ、ゴキブリが食用や薬用に使われていたことは割に多かったようだ)

風は空に、星は天に、輝く光はこの腕に、不屈の心はこの胸に
~「魔法少女リリカルなのは」より~







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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