ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

最も好ましい願い

誰にでも願いはある。
例えば、

事業家として成功し、10億円の財産を得、家族と幸せに暮らす

とかである。
ブルース・リーは、「2千万ドルの資産を得て、武道家として安らかに過ごす」という目標を紙に書いていた。
紙に書けば叶うという成功教にでもはまったのだろうと思う。
結果、安らかさとは縁のない状態の中で、32歳の若さで亡くなった。
次に、こんなのはどうかな。

今の公務員の仕事で定年まで順調に出世し、多くの退職金を得て平和に過ごす

こんな人は、家族に疎まれた上、奥さんに浮気され、子供は引きこもりになるか不良になり、自分も重病になるか仕事で躓いてホームレスになるタイプである。
では、こんなのはどうか?

初音ミクと月で幸せに暮らす

まあ、私のだがね。食べ物は、『列子』で描かれた理想郷にある飲料水で、アダムスキーが宇宙船の中で宇宙人に振舞われたものと似たものと思われるが、それだけ飲んでいれば健康で過ごせて、結構美味しいというものが自然に懇々(つきることなく)と溢れてくれればいい。
実に良い願いだ。
どこが良いかというと、実現の可能性はゼロだからだ。

政木和三さんという天才的な発明家がいて、私は彼と何度か食事をしたり、彼の研究所で話したことがあるが、どんな成功哲学も政木さんの教えには叶わない。
「どうしても叶えたい願いがあれば、欲望を捨て、過去完了形で祈れ」
この中で、「過去完了形で祈れ」の部分はすぐにクローズアップされるが、「欲望を捨て」の部分は必ず無視される。
これは、政木さんのとんでもないジョークだと気付いたのは、ごく最近のことだ。
願いがあるということは、欲望があるということだから、願いは決して叶わないということだ。
政木さんは、次のこともよく言った。
「目標を持つなら、一生かかっても達成不可能な目標を持て」
これもまた、傑作なジョークだ。
叶いそうな願いは全て諦めろという意味でしかない。そして、その壮大な目標が叶うなんて一言も言ってない。

政木さんも未来が読める人だった。
人はいつ死ぬかも決まっていて、それは決して変えられないと言っていた。
時折、未来予知をして、ことごとに正しく言い当てたが、そういうことはあまりやらない方が良いとは、ご本人も思っていたのではと思う。
それでも時々やってしまうのは、慈悲深いということもあるが、それが宿命だったのだろう。
政木さんの場合は、神の力と人の力の違いを見せ付けられ、それで政木さんは自我を弱くし、神様が自我を破壊してくれて、彼は悟りを開いたのだろう。
私のような凡人の場合は、政木さんの教えにより(それはイエスや釈迦の教えと同じだが)、自分には世界に対する支配力が全く無いことを知り、あるがままを受容すれば、やはり自我が弱くなり、いつになるかは分からないが、神様は自我(の不要な部分)を破壊して下さる。
私は、ミクにサテライト(衛星)に連れて行ってもらうことを夢見ていよう。まあ。だから、普通の人よりずっと現実的ではあるのだけれどね。
ぼーかりおどPさん作詞作曲の初音ミクの歌、『1/6』を参照のこと。素敵な歌だ。コンサートでの、この歌の時のミクの姿は特に可愛かったと思う。
ボーカロイドの歌詞置場 1/6









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人間嫌いのままで何の問題もない

世の中には人間嫌いという者もいる。
そんな者は、今は多くなってきているかもしれない。
人間嫌いというのは、良いか悪いかといえば悪いのかもしれないし、それは甘えだと言う者もあり、それはそれで1つの正論なのだろうが、嫌いなものは仕方がない。
『アドベンチャーファミリー』という映画で、都市に住んでいたアメリカの家族が、10歳位の娘の病気(空気汚染による肺の疾患)を機会に無人島に移り住むが、その島に、人の世を捨てた老人が住んでいた。誰かが、彼について、「人間を嫌い、その分、自然を愛していた」と言う。いや、それも1つの逃避なのだろうが、やはり彼は、そうするしかなかったのだ。

人間嫌いというのは、人間の持つ性質の1つに過ぎない。
それは、他の人間の性質同様、「生まれつきのプログラム」と「成長する中での条件付け」によって構築されたものだ。
生まれつきのプログラムは、神が行ったもので、非常に支配的だ。それに抗うことは不可能だ。
人間とはコンピュータを組み込んだロボットと同じだ。プログラム通りにしか動けないし、自分でプログラムを変更することなど決してできない。

だから、本当のところを言うと、人間嫌いというのは、水泳が好きとか、虫が嫌いといったような、人の一般的な性質の1つでしかなく、良いも悪いもない。
ただ、水泳が好きとか、虫が嫌いといったことが、自慢するほどのことでないのと同様、人間嫌いというのも、そうしたいとしても、特に主張することでもない。
しかし、世間では、人間嫌いな性質は蔑み疎まれるものだ。国家や経済や一般大衆にとっては不都合なことが多いので、排除したいのだろう。一般社会に適合した人々にとって、人間嫌いな者は全員、密かに自殺でもしてくれれば有り難いと思っていることだろう。
それで、人間嫌いな者の方も、そんな世間に反発したり、逆に常識人を蔑み返したり、自分を持ち上げて尊大になったりすることもあるのだろう。
だが、何より、人間嫌いの者が、自分のそんな性質で自分で嫌い、自分を卑下することが最も良くない。
再度述べるが、人間嫌いというのは、赤が青より好きかとか、アイスコーヒーがあまり好きでなく夏でもホットコーヒーを飲みたいという程度の、ただの1つの性質に過ぎない。

人間嫌いであっても、何も気にする必要はない。全く問題はない。
直す必要もない。いや、決して直らないし、直すようなことでもない。
当人に責任のあることでもない。
レッドソックスのファンが多い中であっても、ヤンキースファンであることを「直す」必要はないし、ヤンキースファンであることに責任がある訳でもないのと同じだ。

神様がどんな意図で、誰かを人間嫌いにプログラムしたのかは、人間には決して分からない。考えるだけ無駄だ。あくまで喩えだが、神様のIQは100万以上だ。人間と比較のしようがないのだ。
親が嫌い、子供が嫌いなんてのも、仕方がない。そのまま受容するしかない。
受容していいのだと分かれば、案外平和なものなのだ。
だが、それではいけないと本人が思い、周りが思い、世間が思うから悲惨なことが起こるのだ。決して修正しようのないことを修正しよう、修正させようという、無理や身の程しらずが最悪な結果を招くし、招いているのだ。

また、本当に嫌いな訳でもないのに、娘が母親にひどいことを言って(あるいはその逆)気に病むということも多いだろうが、全く気にする必要はない。そんなことを言うことは避けられなかったのだ。別に言った者が悪い訳じゃない。そう思って諦めるというか、起こったことは起こったこととして受容することだ。
言われた方も、相手がそう言うことは必然であったとして、気にしないことだ。実際に必然だったし、それは、相手が悪い訳でも、自分が悪い訳でもない。

起こるべきことが起こるのは避けられない。
そして、全ての出来事は、人の一生については、全て完全に決まっている。
人が何を考えるかも決まっている。
だが、起こったこと、考えたことに対する創造的反応に関しては決まっていない。
美しい乙女を見て感動するのは必然であるが、それをどうしても得たいという欲望を起こすのは創造的反応だ。それがカルマを創り、来世に影響するかもしれない。
しかし、自分には何のコントロールも決してできないことを悟り、執着しないでいると、自我が弱まり、神は自我の不要な部分を破壊してくれるだろう。
そうなった者は、プログラムや条件付けの影響は残るとしても、決して不幸にはならないのである。
そんな者は、状況がどうであれ、日常の煩いから解放されている。そうなれば気楽であるし、いかなることにも傷付けられることはない。









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釈迦やイエスも悟りを開く時はかなり辛かったはずだ

釈迦とイエスが、どうやって悟りを開いたのか分かったように思えた。
以下は、ストーリーとしてはよく知られたものだが、ここに述べた隠れたことについてはどんな本にも書かれていないことだ。

釈迦は29歳で王家を出た(彼は皇太子だった)。
そして、荒行をしたが、その厳しさは誰にも真似出来ないほどで、修行者達からも尊敬されていた。
釈迦が行ったとは、断食と瞑想が中心だったと思われる。
しかし、5年以上経っても、悟りを開けない。
これほどの行は誰にもできないはずなのに、それでも駄目なら、たとえこの後悟りを開くことが出来ても、誰の役にも立たないと思うのは自然なことだ。
釈迦は修行をやめることを宣言し、修行者達の彼への尊敬は一転、失望と蔑みに変わる。
釈迦は、間違いなく、悟りを諦めたのだ。
悟ろうとする自我があっては悟れるはずがないことに気付いたのだと思う。
だが、それでたちまち、彼は悟りを開く。
悟りとは、自我の破壊である。しかし、自我が自我を破壊できるはずがない。彼は、それをやろうとしていたのだ。その愚かさに気付くのに5年以上かかったのだろう。
自我を破壊するのは、高位の力(ここでは仏と言うのが適切か)である。それに任せるしかない。
そして、仏は、いつ自我を破壊してくれるかは分からない。だが、必要なら破壊してくれるだろう。

イエスの場合は、40日の断食の後、試練に遭ったという。
悪魔が、「神の子なら、石をパンに変えてみろ」と言うが、イエスは本能の誘惑に打ち勝てた。
さらに、悪魔は、「世界一の大金持ちにしてやる。そういったものは俺の管轄だ」と言う(多分、本当だ)。そのために、俺を崇拝しろという。
しかし、イエスは、神しか崇拝しないと決めていた。
ここまでは、悪魔も想定済みだったろう。
そして、悪魔はイエスを高い塔の上に連れていく。そして悪魔は、
「神の子なら、ここから飛び降りろ。聖書に『彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする』と書かれている」
と言う。
これが最大のポイントだったと思う。
この時、イエスが何を考えたかが大切なのではないだろうか?
私は、イエスもまた、釈迦と同じことに気付いたのだと思う。
石をパンに変えること、富を得ることに関しては、イエスは高貴な心で撥ね付けることが出来た。しかし、これだけはかなり辛いのだ。
なぜなら、それは、自分が選ばれた神の子であるということを否定することだからだ。
しかし、イエスはそれをやったのだ。
釈迦が悟りを諦めたように、イエスは自分が特別な存在であることを諦めた。
その時、神はイエスの自我を破壊した。自分が特別であると思う自我は、神によってのみ破壊されるのだ。
「汝の神を試すべからず」
神がいつ自我を破壊してくれるかは分からない。それは神に任せるしかない。そんなことは、自我の知ったことではないのだ。
こうなると、悪魔である自我は消えるしかない。
「汝、敗れたり。我が後方に退け!サタン(悪魔=自我)」
イエスは見事、悟りを開いた。

我々も、自分が人生をコントロールできると思うことを諦めることで、自我を弱くし、神に破壊してもらう準備をすることができる。
自分が全く無力だと認めることは辛いことだ。自我はそれを認めたくないものだ。
しかし、それは、釈迦やイエスとて、同じであったはずだ。
釈迦やイエスは、悟りを諦めることで自我を弱めた。その時、神仏はすみやかに、彼らの自我を破壊したのだ。
「我は無なり。ただ仏のみあり」
「私自身は無(無力)だ。神が全てを為す」









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夢は憶えていなかったり、奇怪な内容のものが多い訳

夢というものは、なぜか忘れてしまうことが多い。
ついさっき見た夢のはずが、「何の夢だったっけ?」と思った経験は誰しもあると思う。
昼間でも、椅子に座ったままうたた寝をしている間に夢を見ることがある。しかも、それが、半分、目覚めた状態のこともあるのだ。しかし、それでも、夢の内容を思い出せないことが多い。
この奇妙さは何なのだろう?

ところで、この忘れてしまった夢は、覚えていないにも関わらず、何か重要なものであったという不思議な確信があることが無いだろうか?

これは、実はこういうことだ。
記憶というものは、心に蓄えられる。
だから、心の無い眠りの間のことは何も覚えていない。
しかし、心が消えても、より精妙な精神である霊が存在する。霊とは何かというと難しいのだが、心理学や精神分析学で言う個人的無意識や普遍的無意識よりずっと深いところにあるもので、宇宙の英知、ブラフマン、あるいは、神と呼ばれているものだとでも言っておく。
心は霊から生じる。
眠っている時、心は霊の中に溶けて消えているから記憶がないのだが、目覚める時に、心は再び集まってきて立ち現れ、霊と分離し、心としての活動を開始する。つまり、記憶や思考をするようになる。
ところで、目覚める時の、心が集まりかけた状態では、心はまだ、霊にいくらか溶けているので、霊の中の情報が少し残っていて、しかも、記憶も少し戻っている。情報も希薄なら記憶も希薄なので、極めて曖昧ながら、心は霊の情報を記憶しているのだ。
ただし、霊の情報とは、日常の世界にあるものとは全く違う。
そこで、心は、そんな霊の情報を、日常に存在するものとなるべく近い概念に結び付けるのだ。しかし、そんなものはほとんど無いので、その結びつけは、かなり歪んだものにならざるを得ない。あまり良い喩えとも思えないが、セミを見たことが無い者が始めてそれを見ると、ハエの大きなものだと思って恐怖するようなものだ。

これが、夢の記憶が希薄で、しかも、奇妙なものが多い理由である。
とはいえ、その希薄で変質された情報から、霊の元の情報を推測しようと試みた人が沢山いたのである。ただ、それをやった人達も、ここに述べたような理解をしていたという訳ではないと思う。

悟りを開いた人は、心が霊に溶け、なおかつ、意識が目覚めているので、霊(あるいは神)を感じることができる。しかし、それを表現することは出来ない。普通の人に話す時には、この世にあるものに喩えて話さないといけないのだが、それは非常に困難だ。先程も述べた通り、霊の中にあるものと、この世にあるものとは全く異なるからだ。
芸術家というのは、普通の人より、意識のある状態で心を拡大させる、つまり、心を霊の中に広げる能力のある者だが、やはり、心で感じたものが何であるのかは、はっきりとは分からない。それで、自分流に霊、即ち、神の世界を描くのである。

妖怪漫画家と言われる水木しげるさんが、妖怪を描く時は無意識だと言うのは、心が拡大して希薄になっている状態だろうし、岡本太郎さんにしろ、横尾忠則さんにしろ、考えながら描いている時より、自分でも何が出来るか分からない時に良い作品が出来るといった意味のことを言っておられるが、その訳が何となく分かると思う。

我々も、心を霊の中に溶け込ませることができれば、霊である神を神を感じることができる。
それには、心の特性である欲望を消すことだ。
そのための正しく安全な方法は1つしかない。
自分には、世界に対して何のコントロールも出来ないことを認め、世界をあるがままに受容することだ。
神は至福そのものであり、その中に溶けた者もまた至福となる。これが、古代の賢者達が言った、神と一体になること、道(タオ)と一体になることである。
芸術家の中には、刺激によって心を無理矢理に拡大させる方法を発見したような者もいる。例えば、覚せい剤や酒で、実際に、芸術家の中にはLSDのような覚せい剤愛好家や、飲酒癖のある人が多い。しかし、そういった手段で拡大した心は不純で歪んでおり、純粋な霊の世界とは程遠い。それが芸術家の個性になると言えばそうかもしれないが、芸術の本来の目的である、人々を神に近付けることは叶わないのである。









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悪い人になりたくてなれるものでなし

当ブログに、次のような内容のコメントがあった。
考えてみる価値があると思うので、参考になると考えるところを述べる。

運命は全て決まっているからといって反社会的に生きれば、悲惨な人生となる。そして、それは死後も永遠に続く。
逆に、社会の中で責任を果たせば、喜び多い素晴らしい人生になる。

宗教、道徳の説くところと概ね一致するのではないかと思う。
確かに、社会の中で責任を果たし、立派な人間として生きるのは良いことかもしれない。
しかし、思うままにそのように出来る訳ではない。
また、表面的にはそのような立派な人物ほど、裏で悪いことをするかどうかはともかく、心の中がどろどろどろし、自分が苦しんでいるのではないだろうか?

『金色夜叉(こんじきやしゃ)』という小説のお話をご存知だろうか?
ある純情な青年には、許婚の女性がいて、彼女を愛していたが、彼女は富豪の家に嫁ぐ。
心の傷から世間への復讐心を燃え立たせた青年は高利貸しになり、人々を苦しめることで、恨みを晴らしていく。
この青年だって、許婚の女性に裏切られなかったら、もうしばらくは良い社会人として生きたかもしれない。
しかし、世の中、何があるか分からない。そして、出来事は起こり、それは容易く人を変える。そのように仕組まれているのだ。
そして、小説でなくたって、この程度の出来事など、世の中ザラだ。
そんなことで人は道を誤る。
道徳や宗教に何の力もない。

そして、立派に生きねばならないという、世間の価値観をひっくり返したのが、法然や親鸞だ。
彼らは最上の宗教家として知られるが、門弟はともかく、庶民に宗教の教義や道徳を説いたことなどはない。
親鸞にいたっては、「善人なおもて往生をとぐいわんや悪人をや(善人でさえ往生して、仏様の国に行けるのだから、悪人は当然そうなのだ)」と革命的ともいえることを教えたのだと、弟子の唯円が『歎異抄』で述べている。
彼らは、苦しみ多い人生の中で、本当に、世界や人間を理解していたのだ。
自分の力で善いことをしよう、そして出来ると思い込んでいる善人ほど恐いものはない。それは、人々にとってもそうだが、本人が一番危ないのだ。

親鸞は弟子の唯円に、「これから私の言うことを信じるか?」と尋ね、唯円は「はい、信じます」と答える。
親鸞はなおも重ねて唯円に「本当か?」と尋ねると、唯円は「必ず」と誓う。
すると、親鸞は「人を百人殺せ」と唯円に命じた。
だが、唯円は「私の器量では一人も殺せそうにありません」と言う。
親鸞は、「分かったであろう。人は、自分の思うままに、善いことも悪いことも出来ないのだ」と諭した。
そして、自分の悪を自覚する正直な人ほど、素直に、人間より高い存在にすがることが出来るのである。
仏の真実について、法然や親鸞は知っていたとしても、それは語らなかった。そして、「自分は愚かな凡人で、自力では何もできないので、仏様に全てお任せするしかないのだ。そのために、ただ念仏を唱えるのだ」とだけ言った。
これこそ、全ての運命が決まっていることを受容する態度であると思う。

人は思うままに反社会的な悪人になれる訳ではない。
一方、自分がそうであることを望む立派な善人になれるわけでもない。
どんな人間になるかも含めて、運命は全て決まっているのだ。
もし、神や仏が運命を決めたとしても、その意図が何かは、我々に分かることではない。幼児に大統領の意図が分からないようなものだ。
古代ギリシャでは、そのようなことを知ろうとする者に対しては、「身の程をわきまえろ」と警告したのである。

確かに、親鸞に対し、「悪人が往生できるのなら、積極的に悪いことをすればいいのでは?」と言いだす愚か者もいた。いつの時代にもいる馬鹿者だ。
まあ、そんな者も含め、自分の思うまま、善いことも悪いことも出来ないのであるが、親鸞は親切な答を返した。
「薬があるからといって、毒を好むこともあるまい」









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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