ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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偉人達の仕事は神秘体験から始まった

人生で偉大な仕事を為した人達が、なぜその仕事をするようになったかについてたまたま話したり、書いたりしているのを見ると、それが神秘体験からだったということがよくある。
このブログでよくご紹介している腕振り運動を我が国で普及させた電波工学の世界的権威であった関英男博士が、高次元科学の研究を始めたきっかけもそうで、若い研究者だった関博士が、宇宙からの電波を観測していた時にそれが起こったようだ。
神秘体験というのも、それぞれの人によって、色々異なるのかもしれないが、共通するのは、日常とは異なった意識の状態になっていることと言えると思う。多くの場合、自分が万物と一体化した感覚、宇宙に意思があり、それが非常に親しみを持っていると感じたとか、全て良しという絶対肯定の確信などといったものが含まれるようであるが、関博士のものが、まさにそうであったようだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、19歳の時、ままならぬ人生に嫌気が差し、青酸カリの錠剤を呑もうとしたまさにその瞬間に訪れたようである。ただ、ウィルソン自身、そんな過激なことをしなくても、そのような神秘体験が得られることを知り、それを教えようともしている。それはつまり、強い緊張を解いた時に訪れるものだ。関博士にしろ、宇宙からの電波を集中して観測し続け、緊張を解いた時に起こったのである。ウィルソンは、精神病の妻の様子を注意深く見守っていた男が、妻の回復で緊張を解いた時に、ある不思議な感覚が起こり、以来、賢者になってしまったという話を著書で紹介していたことがあった。
アイルランドの詩人W.B.イェイツは、芸術家であると共に、求道者であったのだろう。彼は、神秘体験についてよく書いているので、どれが最初なのかは分からないが、彼は自伝的小説である「まだらの鳥」の中で、日常とは明らかに異なる意識の中で精霊の少女を見たことを美しく描写していた。少女は、イェイツの投影であるマイケルに、「あなたはいつ仕事を始めるつもりですか」と非難めいた言葉を言ったようだ。
アイザック・ニュートンが錬金術の研究を行っていたことは知られているが、そのきっかけが神秘体験であることは予想できるが、あまりはっきりとした記録がない。ニュートンは、死の前に、ほとんどの手稿を燃やして捨ててしまったのだ。ところが、オカルティズム(神秘主義)とはあまり縁のなさそうなルネ・デカルトが、実は神秘体験から真理の探究を始め、いまだ科学の世界で物議を醸しているエーテル理論などを閃いたことは、多分、間違いないと思う。
アメリカ最高の賢者である、哲学者、思想家のラルフ・ウォルドー・エマーソンは、詩人でもあるが、彼は詩の中で、自分の魂の中に神の魂が溶け込んできた感動的な体験を語っているが、これこそが、偉人たちに偉大な人生を始めさせた神秘体験の本質であろう。

どうすれば神秘体験を起こせるかというと、上に述べた通り、精神の緊張状態を長く続け、それを解放することで起こることが多い。その緊張とは、関博士のように、注意深い観測のようなことが多いが、精神の憂鬱な抑圧状態が続き、それが何かのきっかけで解放されたという場合も多い。コリン・ウィルソンがまさにそうで、ずっとノイローゼ状態だった彼が、青酸カリで人生を終わらせようとした時、一瞬、心が解放されたのだろう。死の恐怖からの解放ということでは、あの偉大なラマナ・マハルシもそうだった。ただ、ウィルソンは、単に、鉛筆の先などに強く集中して、一瞬、緊張を解くということを繰り返すだけで、似たことが起こるとよく著書に書いている。皆さんも、鉛筆が良いかどうかは分からないが、壁のシミか何かを凝視して、一瞬で緊張を解くといった練習でもしてみると良いかもしれない。弓の名手に神秘体験者が多いのも同じ原理かもしれない。
神秘体験が、不可思議な能力、超能力のようなものをもたらすのは、関博士によると、見えない脳とでもいうものが発達するからなのかもしれない。関博士は、この見えない脳をインドの古代科学から見つけたのだと思うが、アンタカラーナと呼んでいて、これが発達するほど、超能力も強くなる。面白いことに、仏教の浄土教の聖典である『観無量寿経』の中に、最高の力を持つ如来(仏様)と、それより少しだけ劣る菩薩との違いは、見えない頭部の盛り上がりの大きさが、菩薩はやや小さいとさりげなく書かれている。
中国の曇鸞(どんらん)という名僧は、中国の仙術の秘本を入手したが、インドの僧に、もっと凄いのがあるぞと、その『観無量寿経』を与えられ、たちまち恐れ入って仙術の本を捨てたという。彼の碑文を読んで、やはり『観無量寿経』を熱心に研究したのが道綽(どうしゃく)だ。『観無量寿経』はとても短いお経である。

見えない脳が発達した関博士の鋭い洞察から良しとして普及させた腕振り運動に効果があるのは当然のことと思える。
腕振り運動は、健康や知力の増大に効果があるが、その原理は、GTP(複数のグラビトン粒子を含む粒子)の体内での増大だ。GTPは、生まれてから減る一方で増えないが、腕振り運動で増やすことができる。それで若返る。GTPの増大に関しては、関博士は実験でも確認している。もっとも、GTPを直接観測する方法は無いので、間接的な影響からの推測であることは仕方がない。ただ、結果は出ているので、我々は真面目に腕振り運動に取り組み、後は自分で確認するしかない。
尚、GTPは呼吸が穏やかなほど保持される。息の荒い人があまり知的でなくて品格に劣り、健康が乱れ勝ちであることは納得できるのではないかと思う。天使のような人は、しばしば、呼吸をしているのかどうか疑わしいほどだ。ちなみに、心と呼吸は根が同じだ。だから、呼吸を整えると、心が静まり、心を透明化する悟りへとも繋がりやすい。呼吸は穏やかであるように。
地球や天と共鳴する腕振り運動
腕振り運動の効果、最新レポート













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私は他人のために祈れない

昔、成功に関するある本を読んでいて、「ああ、私は成功には縁が無いかもしれないなあ」と思ったことがある。
その本は、アメリカのマーブル教会の牧師であるノーマン・ビンセント・ピールが書き、1959年に出版するや驚異的な販売記録を上げた、「積極的な考え方の力」だ。その本の中で、ピールは、出会う人ごとに「祈りを砲撃」をせよということを書いていた。具体的には、「この人に全ての良きことが雪崩れのごとく押し寄せますように」と念じろというのである。
近頃では、銀座まるかんの創業者である斎藤一人さんが、同じことを著書の中によく書かれていると思う。
正直、私には出来ない相談である。
そりゃ、やるだけなら当然出来るし、実際に何日かやってみたが、その不自然さ、異様さは耐え難かった。
大体、自分に良いことを引き寄せるために、上辺だけ、他人への愛や思いやりを示すなんて、下心たっぷりで女の子にプレゼントをするようなものである。いや、それよりずっと悪い。女の子にプレゼントをする時は、元々、自分でも愛や善意で無いと分かっているので、自分を欺いてはいない。また、その場合、本当に純粋な子を相手にすることは無い。予想に反して純粋な子だったら、さっさと謝るし、そもそも、相手にされないだろう。
しかし、祈りは純粋であるべきだ。それを偽りの気持ちで行えば、良心に反することであるので、後ろめたさを感じ、心が分裂するのである。
そんな嫌な思いまでして、金持ちにはなりたくないものだと思ったのだし、やっても成功しないだろう。
大体、そんなことを、本当に愛の気持ちでやれる人間がいるなど、私には信じられない。また、偽りと気付きつつ、後ろめたさも感じずに、それをずっとやれる者がいるとなると、人間不信とならざるを得ないだろう。

例えば、あなたが最も好ましく思う人物が、そのようなことをする姿を自然に感じるだろうか?もしそう思えるなら、その人物に対するあなたの認識は単なる幻想なのである。
さらに言えば、なぜ人々が、あなたに良きことを祈ってもらわねばならないのか?彼らは、力ある存在であり、余計なことをしなくても、自らの力で全てをなし得るだろう。そう思ってあげる方がずっと良いのではないだろうか?

イエスも、「汝の隣人を愛せよ」とか「父母を敬え」と教えているが、私が、元々キリスト教に違和感を感じていたのも、これが理由だった。
ただし、イエスは祈るだけでなく、具体的な行動を要求したのだ。それなら、たとえ心がこもっていなくても、力になってやれる。善意はやはり形で示すものだ。

そして、私と同じことを考えたかもしれない偉人がいた。
彼は、アンチ・キリストだった。だが、イエスの能力といったものは評価していた。それは、イエスの比喩を使って話す言葉の力だ。彼は、詩人で劇作家でもあったからだ。
その人物は、アイルランドのW.B.イェイツだ。20世紀最大の詩人とも言われるノーベル賞作家である。
彼は、実に、人間は愛することは出来ないと言ったのだ。なぜなら、愛は神の領域のものであるからだ。
ただ、人は憎むことをやめることは出来るという。なぜなら、憎しみは、人の領域のものであるからである。
そして、イェイツは、少なくとも、本物の愛の手前には至ったのだ。不意に、それは彼に訪れた。全てを肯定する崇高なる意識と1つになったのだ。彼には、それがどうやって起こるのかは分からなかった。ただ、憎むのをやめた時に起こりやすいと感じた。

憎むのをやめるというのも、決して易しいことではないが、これであれば、私にも可能であると思われるのだ。
人の心とは、憎むことは出来るが、愛することは出来ないのだ。だが、憎むことが出来るなら、それをやめることも出来るはずだ。
愛と見えるものは、ただの欲望という執着である。人は、欲望を愛と取り違えているだけだ。
では、どんな時、人は愛していると言えるのだろう。それは、実に、憎しみの主である心が消えた時なのだ。
インドのヒンズー教や中国の老荘思想では、心が消えた状態が悟りであり、永遠の存在と一体になることだと教えているのだ。

個々の目標を定めなくても、心が消え、永遠の存在と一体となれば、あらゆることが可能である。
逆に、わざとらしく、他人を思いやる振りをし、愛することが出来る振りをすれば、ますます自我を強固にし、迷い苦しむことになるのだ。
愛さなくてもいい。憎むのをやめれば良いのだ。そうすれば、人生はきっと耐えやすいものになるだろう。







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老子、荘子のすゝめ

老子と荘子の思想を合わせて老荘思想と言われるのはまあ良いとしても、これを道教という宗教のように扱われることには問題があると思う。別に老子や荘子は宗教ではない。確かに、中国には、道教という宗教もあるのかもしれないが、それは、なりゆき上、そうなっただけであると思う。
そもそもが、仏教やキリスト教にしたって、釈迦が仏教という宗教を作ったわけではないし、イエスがキリスト教という宗教を作ったわけではない。後の世の人達が、彼らの教えを使って、それらの宗教を作ったのであり、言って見れば、これらも、なりゆき上、そうなっただけだ。
実際、キリスト教徒ではないが、イエスの教えを学んでいたり、仏教徒ではないが、釈迦の教えを学んでいるという人も多いのである。
ゲーテ、カント、ヘレン・ケラーらが崇敬したエマニュエル・スウェーデンボルグは、教会からは火あぶりの刑にされかけたが、イエスの教えを伝統的なキリスト教とは全く異なる形で崇拝していたし、アメリカ最高の哲学者ラルフ・ウォルドー・エマーソンも、教会に用は無かったが、イエスの教えには重きを置いていた。宇宙人とのコンタクティーとして知られるジョージ・アダムスキーも、自分はクリスチャンではないが、イエス自身の偉大さと、その教えの崇高さは認めていると言っていた。

イエスの教えも、釈迦の教えも、形の違いはあっても、根源的な真理を説いているのであり、その点は、老子や荘子も同じである。
ところで、イエスの教えを弟子達が書いた福音書や、釈迦の教えを書いた経典も、必ずしも悪意ではないだろうが、改ざん、誤訳、そして、後の世の付け加えも多く、必ずしも純粋な形で伝わっていない。その点は、老子や荘子にも無い訳ではないが、聖書や経典に比べれば、マシなのではないかと思われる。そして、老子や荘子の良いところは、教えを説いた者自体が著述したということである。この点も、必ずしもそうとは断言できないし、特に、老子に関しては、老子という人物の実在が疑われているが、老子全81章には内容や文体の一貫性が認められ、一人の賢者が書いたものであろうと考えられている。荘子に関しては、少なくとも、内編(他に、外編、雑編がある)は、荘子本人の著述であろうと言われている。それはともかく、老子、荘子の内容の素晴らしさは疑いようもなく、釈迦やイエスの教えと同等であると言っても良いと思う。そこで、宇宙の真理を、手軽にと言っては何であるが、比較的、誤解の恐れが少なく学べるものとして薦められるのである。道元や良寛も、荘子を読んで、その英知に惹かれたようである。

老子と荘子は実際にはかなり異なる。老子の方が荘子より百年ほど前で、老子と孔子が同時代であるという説が割合に有力と思う。実際、荘子の中には、老子が何度も引用されており、孔子は、あまり良い役回りではないことが多いが登場させられている。
老子はエッセイ的、あるいは、論文的であり、ほとんど固有名詞(人名、地名等)はなく、普遍的真理を述べ、非常に重厚で、神秘的に感じるかもしれない。一方、荘子は、やはりエッセイ、論文的な箇所もあるが、全体的には物語的な記述が多く、読みやすく面白い。
いきなり老子を読んで、意味が分かる人はいないと思うし、それどころか、ずっと分からないままということが多いというか、それが普通かもしれない。だが、荘子は、その深い意味はともかく、読んでいて理解できないということは、まあ、ない。
ただ、老子は、理屈で理解するものではないと思う。無心に読んでいれば、頭では分からなくても、深い心に感じるものがあり、いつしか、真理をものにするというものである。むしろ、頭で分かろうとしない方が良いと思う。

面白いのは、荘子は、世間常識を破壊するための書であるとも言われるが、それは、2千年以上前のことだけでなく、現代においても全くそう言えるのである。世間というものがいかに進歩しないかということは驚くべきものである。
尚、物語という意味では、列子も面白い。列子は、伝説の寄せ集めのように思われ、タオイズムの書としては、老子、荘子の後に置かれることが多いが、実は、列子こそ、最高の知恵の書と見る者もいる。
老子、荘子、列子を読み、世間の教義や信念を超え、真理をものにすれば、世間から見れば、神秘な力を得ることになるだろう。それは不思議なことではなく、人の力を制限しているのは世間の妄念や偏見であるのだから、当然のことと思う。







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サタン(悪魔)との対決、私の場合。

新約聖書によると、イエス様は、40日の断食の後、サタン(悪魔)と対決したらしい。記述は無いが、サタンの方は体調万全だったと思われる。

サタンは、飢えたイエス様に石をパンに変えてみろと言ったようだ。神の子ならそのくらいできるだろうって、煽ったのだね。
すると、イエス様は、「人はパンだけで生きるのではない」と言ったようだ。
しかし、人が食べ物なしで生きられる訳でもない。どういう意味だろう?
ただ、パンなんて、世の中にいくらでもあるのに、わざわざ、石をパンに変えることはないだろうと思う。イエス様の時代には、コンビニはなかったが、1個や2個のパンなら、どこかにあっただろう。

私が小学校4年生の時、初めて天体望遠鏡を手に入れ、夜空の満天の星を見上げ、土星を見ようと思った。
もしサタンが、1つの星を指差し、「あの星を土星に変えてみよ」と言っても、私は、「土星はどこかにある」と信じていたので、そんなことは願わなかったはずだ。
そして、何も考えずに望遠鏡を向けた最初の星が土星だったのだ。私は、それからも、そうやって、主に土星を、そして、木星、火星、金星を自由に観測したものだった。
そして、天体望遠鏡自体も、私は、とても欲しいとは思っていたが、手に入れるあては全く無かった。しかし、それ(天体望遠鏡)は、どこかにあると思っていた。すると、私は何もしなかったが、ある人が急に私に譲ってくれたのだ。
お金が欲しい人や、素晴らしい恋人が欲しい人だっていると思うが、それらも、あなたのためのものが、この世界のどこかに必ずあるのだ。無理に得ようと思わなくても、必要なものなら、必ず手に入るのである。

また、サタンは、イエス様に、この世の栄耀栄華を見せ、私を崇めるなら、これらをお前にやろうと言ったようだ。
イエス様は、サタンを礼拝することは出来ぬと断った。
だが、私なら、それ以前に、まっぴら御免だ。権力や栄華など、楽しいのはごくわずかの間で、やがてあらゆる煩い事、そして、災厄が起こり、遂には悲惨な最期は免れない。人類の歴史の中で、例外は1つだってないじゃないか?
これは、1つ目のことと併せて憶えておくと良い。たとえ世の中にあるものでも、得がたいものや、不要なものを望んではいけない。手に入れても、行き着く先は破滅だ。『老子』には、人々に貴重な宝を、最初から見せないよう書かれている。老子は親切なのだね。なら、我々も、そんなものは欲しがらないことだ。

最後に、サタンは、イエス様を高いお城の天辺に連れて行き、神の子なら、飛び降りても、神様が天使を来させて助けてくれるはずだからやってみろと言ったようだ。
イエス様は、「神を試してはいけないのだ」と言って断ったそうだ。
しまったなあ。実は、私はもうやってしまったのだ。7歳くらいの頃、住んでいた団地の前に、交通量の多い車道があり、遠くの信号機まで行くのが面倒で、「目をつぶって飛び出したら車は来ない」と信じて、いつもそうやって渡っていた。今なら、恐いというのもあるが、やはり、やってはいけないと思うので、やらない。
五井昌久さんという聖人と讃えられる宗教家の方が、修行時代、神様に、自動車がびゅんびゅん走っている道路の前で、「目をつぶって渡れ」と言われたらしい。五井さんは、恐かったが、神様の命令なら仕方ないと思って渡ろうとしたら、神様に、「馬鹿野郎!目をつぶって道路を渡るやつがあるか!」と怒られたらしい。私は、小さかったから怒られずに済んだのだろうか?
だが、私は、神様を試したのではない。神様に全て任せていたのだ。当時の私に、試すといった知恵はない。試したのでなければ、どんな結果が出ても、良い悪いは無い。
あなたも、神様に任せてしまうことだ。なるようにしかならないが、なるようにはなる。それで困った結果になったような憶えは、私にはない。







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人の最高の能力は一体化すること

真面目にプロスポーツ選手になりたいと思っている子供なら、その目指すプロ選手と話す機会があったら、「毎日、何時間練習すればいいですか?」と尋ねると思う。答は「1日中」しかないと思う。
プロスポーツに限らず、楽器演奏家、歌手、俳優、将士、画家、作家、発明家といった、名人、達人でなければ出来ない仕事は、全て同じだろう。
私がやっているようなITの仕事でも、例えば、本物のプログラマーの場合は、やはり1日中プログラマーなのだ。

さて、1日中やるとはどういうことだろう。

かつての、アメリカの名テニス・プレーヤーのジミー・コナーズが「テニス選手には2種類しかいない。ウィンブルドン(全英テニス選手権)のタイトルを持つプレーヤーとそうでないプレーヤーだ」と言ったことがあるらしい。彼自身は2度、このタイトルを手にしたが、ケン・ローズウォールのように、間違いなく世界最高の実力を持ちながら、遂に、このタイトルを手にしないまま引退した選手もいる。ちなみに、ローズウォールが40歳で進出したウィンブルドン決勝で、彼を破り、彼の最後の夢を阻んだのがコナーズだった。
また、世界ランキング1位に270週も君臨しながら、遂にウィンブルドンのタイトルだけは取れなかったのが、イワン・レンドルだった。
ところで、世界的に著名なアメリカの心理学者アブラハム・マズローは、「偉大な人間と平凡な人間の違いは、至高体験(Peek Experience)の経験があるかどうかだけだ」と言った。ただ、彼と親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、至高体験は誰にでもある、ありふれたものだということを発見し、ただ、思い出せないだけのことだと言った。マズローも後に、その通りであり、また、思い出させることもできることを理解した。
私は、かつてコナーズが言った、ウィンブルドンタイトルを得ることで持つことが出来る「何か」は、いかに平凡なテニスプレーヤーでも持てるのではないかと思う。問題は、そのプレーヤーが、「1日中テニスをしているか」「1日中、ウィンブルドンへの挑戦をしているか」の違いでしかない。つまり、テニスと一体化しているか、ウィンブルドンチャンピオンと一体化しているかだ。それを等価値と見るか見ないかは個人の自由だ。

1日中やれるものがあるかどうかが運命の分かれ目だ。
法然上人は、1日中念仏を唱えていた。その数は、1日6万回とも言われる。岡田式静坐法で知られる岡田虎二郎は、その話を引き、「生活しながら念仏しているようでは本物ではない。念仏しながら生活するようでないといけない。生活しながら静坐してはいけない。静坐しながら生活しなければならない」と言った。もちろん、本当に1日中部屋の中で静坐する訳にはいかない。その意味するところは、各自、自分で悟らないといけない。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、誰かが、「時々、ギーター(バガヴァッド・ギーター)を読むべきでしょうか?」と尋ねたら、マハルシは、「いつもが良い」と答えた。

1日中やるというのは、自己という存在が、それと一体化しているということだ。
サッカーと一体化した者かそうでないかが、本来は重要なことで、実績や年収は、その後の問題だ。
楽器の演奏では、別にそれを職業にしている訳ではないのに、プロも及ばない雰囲気の演奏をする者がいる。その者は、必ずしも腕前そのものが凄い訳ではない。ただ、高貴なものと一体化している人間とはそんなものなのだ。
聴いたことはないが、岡本太郎のピアノ演奏を聴いた者は、その演奏振りに驚き感動したらしい。腕前も相当なものだったらしいが、宇宙と一体化した太郎の演奏であれば不思議はない。
逆に、いくら上手くても、ピアノと一体化していない演奏家の演奏は、心を打たないのだ。
マイケル・ジャクソンは、いつでもすぐに楽器や音楽と一体化できたと言う。
水樹奈々さんは、ある時、延々とロックを歌っている時、音楽と一体化してしまって驚いたことを自伝に書いているが、驚いているうちはまだまだだし、その感覚はあまり続いてはいないと思う。しかし、近付いていることは確かだろう。

上で、ラマナ・マハルシが、常に読むことを薦めたバガヴァッド・ギーターという書物は真理そのものだ。だから、ギーターと一体化すれば、それは、真理と一体化したことで、悟りを開いたことになる。
ヒマラヤに住む大師達は、ギーターやヴェーダを、一度に数節、一文を一日かけて読むようだ。真理と一体化した大師達は、宇宙そのものであり、神であると言って差し支えないだろうと思う。ギーターは、聖書と比べ、改ざんや誤訳が少ない点も薦められる。
我々も、1日中やることを見つけることで、いかなる偉人とも対等以上になり、例えば、岡本太郎とも平気で語り合えるほどになるだろう。







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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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