ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

何が起きても平然としていた人達の素敵なお話

本日は、日本全国各地で荒れた天気であったと思う。
しかし、それだけのことだ・・・というのが、今回のテーマである。

よく、「雨が降ったら憂鬱」という言い方をするが、なぜそうなのだろう?
雨が降っている時に道を歩いていて、近くを自動車が走ると、私も嫌な気持ちになっていたものだ。
アスファルトに溜まった水が、自動車のタイヤにはじき飛ばされ、自分の方に飛んでくるような気になったからだ。
しかし、実際にそんなことになった記憶がない。
つまり、多少気を付ければ、そんな被害に遭うことはまずないのだ。
万一、水をかけられたとしても、それは不運だったというだけのことだ。忘れるしかないじゃないか?
それなのに、どうも気になっていたのだ。
なぜだろう?

それは、私にとっては、小学1年生の時、授業で、「雨が降って良いこと、悪いこと」といった課題が扱われたことが原因だったのである。
先生のその質問に、子供たちが手を上げて答える。
良いこととしては、「農家で作物が育つ」などと発言した子がいたが、私には思いつかないことだった。私は、「君んち、農家だったの?」と思ったものだった。
「カエルが喜ぶ」
君、カエルと話が出来るのかい?(凄いな)
実際、ほとんど私には言えないようなことばかりなので、私は、「こいつら天才か?」と思い、アホな私がこんなとこにいてもいいのだろうかと真剣に思ったものだった。
しかし、カラクリが分かった。
それは、こんな問題は、小学1年生用の立派な試験問題でもあり、教科書だったか、副教材だったか忘れたが、ちゃんと答が書いてあるのだ。
そして、「雨が降ったら嫌なこと」の中に、「車に水をかけられる」というのがちゃんとあり、ご丁寧に、迫真に満ちた絵まで描かれていた。自動車がはじいた水をかけられる寸前の、悲鳴でも上げていそうな、同い年(小学1年生)くらいの子供達だった。
よっぽど運の悪い子だろう。
そして、先生の「雨が降ったら、どんなことが嫌ですかあ?」の質問に、「ハイ!」と元気よく手を上げ、指名されたら、「車に水をかけられること!」と答えれば、よく出来ましたであり、試験問題にもそう解答したら、○(丸)なのである。
私も、授業中の指名対策、および、試験対策として、それを憶えてしまった。
それが不幸の原因だったのだ。

私は一度もなかったが、雨が降って、道に水がたまり、私の近くを無神経なドライバーが運転する自動車がスピードを落とさずに走り過ぎ、そのタイヤがはじいた水が、絶妙なタイミングで私に襲い掛かり、結果、私がパンツの中までぐしょぐしょになったとする。
だが、それを悪いこと、嫌なことと思わなければならないという決まりなどないのだ。
実際、それはただの出来事だ。
それに良い悪い、好き嫌いの判断をするのは人間だ。
そして、そんな是非好悪の判断をすることが、人間の不幸の原因なのである。
学校は、不幸な子供生産工場なのかもしれない。

別の面白い例で考えてみよう。

谷川流さんの小説、『涼宮ハルヒの驚愕』の初回限定版の付録の小冊子『涼宮ハルヒの秘話』では、主人公のキョン(高校2年生男子)が中学3年生だった時の思い出話が語れている。
夏のある日、学校から帰ったキョンは、クラスメイトの、変わり者の女友達である佐々木と、自転車の二人乗りで塾に向かっていた。
だが、その時、激しい夕立となってしまう。
荷台に乗っていた佐々木が言う。
「このままじゃパンツの中まで濡れ鼠だ。どこかで雨宿りしよう」
読んでいる私はなかなかドキっとしたが、キョンが認識したのは、「雨宿りしよう」だけだった。キョンは、その時も、それからも、佐々木を女だと認識していないのだ。彼にとっては、彼女は男友達と変わらない。
ずぶ濡れのセーラー服の佐々木を無頓着に見るキョンに、佐々木は、「あまりこっちを見ないでくれないか」と抗議しいても、キョンには意味が分からない。佐々木の夏服のセーラー服は、スケスケだったのだが・・・
そんなキョンに、佐々木は、「やれやれ」と頭を振り、「君は時々忘れるようだが、僕は遺伝子的に紛れもなく女なんだよ」と戒め、やっとキョンは、不本意ながらだろうが、佐々木に謝る。
佐々木も、「僕の貧相な胸部なんてマジマジと見たところで益にはならないだろう?岡本さんのならまだしもさ」と、自分と違い、見ごたえ十分の豊かな胸を持つ、色っぽい女子クラス委員長を引き合いに出して、キョンを放免せざるを得ないことを認める。
佐々木は、胸のことだけでなく、自分のことを「僕」と言い、クラスメイトの男子を「君」と呼ぶ、そして、やたら理屈っぽく、やや女らしさに欠けるところがあった。
しかし、実は、佐々木は大変な美少女なのだ。
この付録の、いとうのいぢさん描く、中学生の時の佐々木が可愛い。こんな姿の佐々木と雨宿りして平気だったキョンは大したものである。

長い引用だったが、キョンや佐々木にとって、雨は確かに不都合であったが、別に好きでも嫌いでも無いし、良いとも悪いとも思っていなかった。
単に、雨が降ったというだけのことだ。
また、この時のことは思い出にはなったかもしれないが、2人はそれを特別とも見なしていないだろう。
我々も、出来事に対し、そのようでなければならない。
荘子は、全てをあるがままに見、思慮分別を離れ、是非好悪の判断をしないことが、永遠の道(タオ)と一体化するために必要な態度であると述べたが、これが2400年伝わっている至高の英知なのである。

アニメ『ノワール』の第4話『波の音』で、政情不穏な国を狙い、武器調達や兵士の派遣、さらに、軍事訓縁といったビジネスで稼ぐハモンド社長は、殺し屋に殺害された2人の部下について、
「あいつらは不運だった」
と言って、一瞬、険しい顔で目を閉じるが、すぐに不適な顔に戻り、
「が、それだけのことだ」
と言う。
私は、その場面を妙に気に入ったのだが、悪人ながら、出来事に感情的に反応しない態度だけは立派なものだと感じたのだ。
別に、彼は、部下のことを嘆いたのではないだろうが、「次は自分」と恐怖しないところが素晴らしい。
そんな冷酷非道なハモンドも、別れた妻との間の娘ロザリー(15歳)を愛していた。
普段、ロザリーに優しい顔を見せることはないが、社長室のデスクに、明日、誕生日を迎えるロザリーの写真と、さっき購入した、彼女へのプレゼントの包みを見て微笑む。それは、ただの父親の顔だ。
その目の前に、霧香が現れ、無表情にハモンドに銃口を向ける。
全てを悟ったハモンドは穏やかな顔だった。さすが、ただ者ではない。
だが、ハモンドは一瞬、ロザリーの写真とプレンゼントに目をやり、表情を曇らせる。
霧香は眉一つ動かさずに引き金を引き。仕事は終わった。
霧香は、そこを離れ、全くの平静さを持って歩いていると、向こうから、オレンジが入った袋を抱えたロザリーが歩いてきた。
ロザリーの顔を知っている霧香は、一瞬表情を変えるが、すぐに無表情に戻った。
だが、ロザリーの持った袋からオレンジがこぼれたのは、神のいたずらか。
霧香は、自分の方に転がってきたオレンジを拾うと、ロザリーの抱えた袋に入れた。
自分とほぼ同い年の霧香を見て、親し気に微笑むロザリー。おしゃべりでもしたかったのだろう。しかし、霧香は、そっけなく行ってしまう。一瞬、当惑したロザリーだが、すぐに明るい顔に戻って、足早に歩き出す。
いつも冷たいが、本当は彼女も大好きなパパのところに行くのだろか?既に、彼女を見ることもないパパのところに。

制作者が意図的にやったのかどうかは分からないが、登場人物達が、出来事に感情的に巻き込まれないところが、なんとも素晴らしい作品であった。
霧香も、ハモンドも、ロザリーも、ただ殺しの劇を演じた役者のようだ。
我々も、どんな運命であろうと、このように人生という劇を演じなければならない。
我々はただ、神の決めたシナリオ通りに人生という劇を演じる役者である。それが幸福であろうが不幸であろうが、我々に何の関係があろう。
ウィリアム・バトラー・イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人)は、『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、ハムレットもリヤも陽気だからだ」と書いた。
自らも最高の劇作家であったイェイツならではの洞察であろう。
シェイクスピアが陽気であることを、イェイツは知っていたのだ。
我々の運命を書いた神も陽気なのである。
それなのに、役者である我々が深刻振っては滑稽であろう。









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飽食をやめられない性質が変わることがあるか?

読者の方からのご質問にお答えしたい。
同じようなご質問が2つあったが、知りたいと思っている方が多いものだと思う。
それは、飽食をやめられない性質を変えられるかというものである。

我々の性質は、生まれついてのものと、生まれてからの条件付けによって創られたものとで出来ている。
『BLOOD-C』というアニメの一番最初で、「人は生まれか?育ちか?」という疑問が提示されたが、どちらでもない。両方である。
我々を性質付けているものを、プログラミングと呼ぶのは、現代的というだけでなく、なかなか的を得ていると思われる。
我々の頭脳、あるいは、DNAには、生まれつき(先天性)のプログラミングと、環境による条件付け(後天性)のプログラミングとがある。
そして、そのプログラミングは、ある普遍的な英知によって行われているが、その英知をとりあえず神と呼ぶ。
我々は、生まれる前に、神によってプログラミングされており、また、生まれてから、どのような環境でどんなプログラミングがされるかも、神の意志による。

人は、食を慎むことが圧倒的に好ましい。
このことについて、江戸時代の観相(顔や身体の相で運命を鑑定する占術)の大家であった水野南北が、「食が全て。人の運命はただ食の慎みで決まる」と確信を持って述べたのは、南北自身の膨大な数の鑑定から、「万に1つの外れもなし」であった自信からであった。
しかし、南北はただ、「食を慎め」と言ったのであり、それが出来るかどうかまでは配慮しなかったかもしれない。

食を慎めるかどうかは、その人のプログラミングによって決まる。
食を慎むようプログラミングされていれば、楽か苦しいかはともかく、嫌でも食を慎む。
逆に、飽食であるようプログラミングされていれば、食を慎むことは決して出来ない。
飽食で肥満し、何かと問題があるからといって、いかに善意であれ、その人に対し、「食を慎め」と言ったところで、その者のプログラミングが飽食であるようになっているなら、全く無駄なことである。

ただ、プログラミングは、環境による条件付けの部分もあることは述べた通りである。
よって、プログラミングは変化する。そして、時によっては、大きく変化する。
私も、2008年7月までは、大変な飽食・大食であった。肉が好きで、甘いものも大好物で、好きなだけ食べていた。
それが、2008年7月末に、瞬間的に、1日1食で菜食となり、間食の一切もぴったりやめた。
その時は、私も自分の意志でそうしたのだと誤解していたが、そんなことを自分の力で出来るはずがない。
どういう理由かは分からないし、理由があるのかどうかも分からないが、神が私のプログラミングを変えたのだ。
こういったこともあるのである。
ただ、自分でプログラミングを書き換えることは決して出来ないのだ。
プログラミングを書き換えることが出来るのは神だけである。
そして、人の一生の運命は、完全に決まっている。プログラミングが変わることもまた運命である。
我々は、運命に対し、完全に無力であり、何のコントロールも出来ない。
ところで、特殊なダイエット法で少食になり、痩せたという人がよく話題になる。
しかし、そんなものでうまくいった人なんて稀なのだ。うまくいったというのは、元々が、そんな運命だっただけのことなのである。

しかし、運命を無条件に受け入れるなら、運命がどうであろうが、自分がどんなふうにプログラミングされていようが、全く問題ではなくなるのである。
自分は、世界や人生の出来事に対し、何の影響を及ぼすことも出来ない。
さらに、自分が何を考え、何をするかも、全て予め、完全に決まっている。
ただし、出来事に対して、どう反応するかだけは決まっていないのである。
出来事に対して、感情的に反応するか、あるがままに受け入れるかの反応である。
そして、全てをあるがままに受容すれば、自我は弱くなる。そうすれば、もはや、運命と言っても、それは単に神がシナリオを書いた劇という意味しか持たなくなる。我々のプログラミングは、登場人物のキャラクター(性格)に過ぎない。

プログラミングも神の決めた運命であり、自分では変えられないと言うと、人は「ではプログラミングは変わらない」と思ってしまう。
それが自我の性質だ。自我は、自分の思い通りでなければ認めないという、自己中心的なものなのだ。
プログラミングも変わることがあるのだ。
私など、子供の頃から、プログラミングがころころ変わった。
夢中になった女の子がいても、ある日、彼女を見て、「いったい、この子のどこが良かったんだろう?」と本気で疑問に思うこともよくあった。
食べ物の好みも極端に変わることがあった。
それは、自分で変えたのでは決して無い。変えたのは神である。
神の意図など絶対に分からない。そもそも、意図があるのかどうかも分からない。
アインシュタインは、「神は老獪(経験豊富で悪賢いこと)だ。ただし悪意はない」と言ったが、これが、ギリギリ分かることなのだろう。

しかし、自我を弱くすれば、運命がどうであろうと、プログラミングがどうであろうと、それはもう他人事だ。
そして、自我が消えてしまえば、自分という個人は存在しない。
4月7日以降のこのブログは、根本的には自我を弱くするためのことだけを書いている。
それだけが、我々を平安に導く唯一の道であるからである。









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私が警官を退かせたパワーとは

私は、2008年8月から1日1食の菜食主義をほとんど完全に継続しているが、2009年8月から開始した肉体トレーニングも、欠かした日はほぼない(3日ほど体調不良で休んだ)。
ただ、肉体トレーニングの意味が変わってきた。
夜の10時頃から、腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動などをやるのだが、以前のように、腕立て伏せを数百回連続でやっていた頃は、明らかに強力な肉体の獲得を目指していた。それは欲望であろう。
昨年7月に、それで右肩を痛め、現在は治っているが、トレーニングのやり方を変えた。
以下のようなものだ。

ストレッチ運動の後、腕立て伏せを20回やる。
以前は、ボクサーがやるような超高速でやっていて、200回以上もやればフラフラになるし、確かに腕力増強著しかった。
しかし、今は、床ギリギリまで胸を落とし、そこから、もったいぶった感じで、身体をまっすぐ保ったまま腕を伸ばすが、伸ばしきって尚、床を突き離すように身体を高く上げる。腰が天上から吊られているような感じである。
プロレス式のやり方とも違うが、以前、ビデオで見た、柔道王、木村政彦の道場のやり方に似ていなくもない。
このやり方なら、20回程度でも、少しこたえる。
その後、ヒンズースクワットを200回行う。さほど厳しくはないが、この地味な運動はなかなか辛いものである。
そして、腹筋運動は、膝を垂直に立て、両手を頭の後ろで組み、完全に仰向けに寝た体勢から、ゆっくり上体を巻き込むようにして起こしていき、肘が膝に付く位まで起こす。余裕はあるが、30回で終わる。
そして、もう一度腕立て伏せに戻る。
これは夜だが、朝は、腹筋運動と腕立て伏せだけはそれぞれ1セットずつ同じようにやる。

朝は元気があるので、むしろ爽快であるが、夜は疲れているので、やや辛い。
ところで、これらの運動の目的は、体力をつけるとか、美しい肉体を創ることが目的ではない。
数ヶ月前から、そんな意図が全く無くなり、本当に、いったい何のためにトレーニングしているのだろうかと思ったものだ。
健康のためなら、こちらは既に10年ほど続けている腕振り運動を1日1000回もやれば十分と思う。

結局のところ、少し辛いことを、毎日欠かさずにやることが良い修行になっているのだ。
何の修行かというと、私は、およそあらゆる修行の目的は、自我を弱めるためであると思っているし、そうでなければならないと思っている。
以前の私がやっていたようなトレーニングのように、自己の利益や我欲のためにやっていることは修行ではない。
肉体トレーニングのように、本質的には良いことであっても、目的がなく、辛いことをするのを自我は嫌がる。自我はやめようとするだろう。しかし、それを敢えてやり、自我の要求が通らないことを示して、自我を屈服させることで、自我を弱くするのである。
だから、やること自体は、「本質的には良いこと」「少し辛い」「無目的」であれば何でも良いのである。

新渡戸稲造の『武士道』に、修行に関する素晴らしいお話がある。
江戸時代、ある立派な武士が、1人の町人に目を留め、近寄って尋ねる。
「お前は何者だ?」
問われた町人は、戸惑った様子で、
「何者でもありません。ただの職人で御座います」
と答えた。
しかし、武士は納得しない。
「これでも、わしの目は節穴ではない。その立ち居振る舞い。お前がただ者でないことは明白じゃ。お前が何者か教えてくれぬか?」
町人は、本当に困って、
「何者と言われましても・・・」
と言って、少し思案した後、こう続けた。
「もし、何か私に、他の人と違ったところがあるとすれば、私は、毎夕、墓場に行くという習慣が御座います。私は生来の臆病者で、それをなんとかしたいと思い、墓場にでも行けば、少しはそれが治るのではないかと考えたので御座います。もう長年、1日も欠かさず続けておりますが、効果があったかどうかは何とも・・・」

この町人は、初めこそは、臆病な心をなんとか出来ると考えて、墓場通いを始めたのであろう。
当時の墓場は、ろくに明かりのない夕刻に行けば、さぞ恐ろしいものであったろう。
彼の自我は、それをするのが嫌だったはずだ。しかし、それを抑えて、毎日続けるうちに、目的などもなくなり、恐怖と戦いながら墓場に行くことそのものが目的になったに違いない。
それが、この町人の自我を希薄にし、普通の人間を超えさせたのである。
自我は、自分の思い通りにならず、屈服させられると弱くなるのである。

学校の部活でも、あるいは仕事でも、辛いのを我慢して続ければ、自我が弱くなって、結果、自己の内部の高い存在と融合していくのである。
これがいわゆる、苦労が人を育てるとか、辛い経験のある者ほど他人に優しいという結果になる。
ただし、あまりに辛いような場合は、自我が強く反発してしまい、かえって自我が強くなる。
例えば、校則が厳し過ぎることに反発して不良化したり、いじめが酷過ぎて自殺したりである。自殺は、自我が自分を守ろうとする最後の手段なのである。
また、限度を超えて他人から辛くあたられると、やはり、冷酷な人間になるのである。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、ミサトさんが言ったように、「本当に嫌だったら逃げていい」のである。
あるいは、「自殺するなら引きこもれ」である。

我々も、ちょっと辛いことを、毎日欠かさずやることで、自我を弱くし、神仙に近付くのである。
本質的には良いことだが、毎日やるには辛いことを続け、それをやめたいと願う自我の要求をはねつけ、自我を屈服させることなら何でも良い。
1冊の本を呆れるほどの回数読んで、高次の存在に近付いた人もいる。
私が昔、TM(超越瞑想)を始めた頃、朝鮮出身で日本で起業した社長さんに、「それを1年365日、1日もかかさずやれば大したものだがな」と言われたが、彼も苦労人だけあり、よく分かっていた。
私は、TM自体はあまり良いとは思っていないのだが、1年間欠かさず続けたことで、驚くべきことがあった。自動車を運転していて、信号無視で警察に捕まったのだが、相手の高飛車で傲慢な態度を受け流し、気が付いたら、その警官は、「それじゃ・・・」と言って去ってしまった。考えられないことではないだろうか?
まあ、言い換えれば、私にとってTMは辛いものでしかなかったということで、TMの宣伝とはまるで異なる成果であったとは言えるかもしれない。
(ただし、クリント・イーストウッドやポール・マッカートニーのように、TMを賞賛する人もいる)

私は、今後も、毎日、トレーニングを続けるだろう。
実際は、かなりのナイス・バディになり、何かと身体の強さを発揮することも確かにあるのだが、そんなことは取るに足りないことなのである。

皆さんも、是非、正しい修行をして、真の力を得て欲しい。
ただ、くれぐれも無理をせず、ちょっと辛い程度のことをやることをお薦めする。
過度に厳しいことをやろうとするのは、それで何か良い思いをしたいという欲望なのである。そんな人は、欲望が強ければ、ある程度はそれをやり遂げる。しかし、自我はますます強くなり、いつかは破綻するのである。
あまり厳しいことでなくてもいいが、毎日、決して欠かさずにやることだ。自我は、自分の都合で休むのが好きだ。しかし、自我のそんな要求など、決して通らないことを自我に思い知らせることが大切である。そうすれば、自我は屈服して弱くなるのである。









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人生という悪夢から目覚めてみれば

以前に購入していた、1972年のイギリス・イタリア映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』のDVDを観た。
アッシジのフランチェスコと呼ばれるキリスト教の聖人の若き日々を描いた作品だ。
イタリアの豪商の息子であったフランチェスコは、おぼっちゃまながら18歳の健康な若者だった。
しかし、戦争に行って悲惨を体験し、さらに熱病に冒されて命からがら家に戻り、生死の境をさ迷う中、精神の変革が起こった。
回復したフランチェスコは別人になっていた。
鳥や花といった自然の姿に、イエスの教えの真意を感じた。
人々は、戦争から帰ってきたフランチェスコは頭がおかしくなったと言ったが、クレアという美しい娘だけは、「おかしかったのは以前のあなたの方」と言った。

フランチェスコの家は、布製品を扱う商人であると共に、染物工場を持っていた。
意識の変革を起こした後のフランチェスコは、彼の家の工場で、劣悪な環境で重労働を強いられた人達を見て涙を流し、彼らを抱きしめる。
そして、商品や金庫の金を窓から投げ捨てた。
美しい話ではあるが、それは正しいことなのだろうか?
フランチェスコが裕福な家に生まれ、贅沢三昧で生きてきたのは、彼の運命だ。
同じく、彼の家の労働者が過酷な労働を強いられ、自由もなく貧しいのもまた運命だ。
フランチェスコの父親は強欲で自己中心的な商人であるが、彼がそうなったのも運命だ。
誰も悪くないのだ。
フランチェスコの父親が、貧しく不幸な人々に何らの慈悲を感じないとしても、それが神が彼に与えた性質であり、フランチェスコの父が好きでそうなった訳ではない。
彼が非道な行いをしたとしても、いわば、それは彼がやっているのではない。全ては神の意志に従っているのであり、彼に責任はなく、責任と言うなら、それは神にある。
フランチェスコが彼の家の労働者の状況を見て涙を流す必要はない。彼は、罪悪感も感じていたのかもしれないが、そんな必要も全くない。なぜなら、決めたのは神だ。
彼が悪い訳でもなければ、誰が悪い訳でもない。
もし、彼が、自分に責任があると思っていたら、それこそ不遜だ。彼は、自分の意志で善いことも悪いことも出来ない。彼には、神の決めた運命のシナリオを書き換える権利などないのだ。
だが、彼が、不幸な人を見て哀しく感じるようになったのもまた、神の意志なのである。

アイルランドの詩聖W.B.イェイツが『ラピス・ラズリ』という詩で、「リア王もハムレットも陽気だ」と言った意味はとても重要だ。
その、『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画で、フランチェスコを演じた役者が本当に泣いたり、貧しい労働者を演じた役者達が本当に自分を哀れだと思ったとしたら滑稽な話だ。
『ラピス・ラズリ』で、イェイツは、「主役を演じるに足る役者は、自分が泣いたりはしない。なぜなら、ハムレットもリアも陽気だと知っているからだ」と言う。
人生とは、神が完全なシナリオを書いた劇に過ぎない。
そして、役者は、自分がいかに不幸な役を演じていても、自分が本当に不幸な訳ではないことを知っているように、我々は、自分の状況を気楽に眺めなければならない。
あまりに熱心に演じるあまり、世界を本当だと思ってはならない。それは、夢の中の恐ろしい出来事に、本当に恐怖するようなものだ。
もし、フランチェスコが本当に悟りを開いたのなら、不幸な人達を見ても動揺しない。
彼は、その人達のために尽くすかもしれないし、そうではないかもしれない。
それは、全て、神の定めたシナリオ通りに運ぶだけだ。悟りを開いた人は、それを知っているので、自分が何をしても、実は何もしていないことを知っているのだ。

こんな男がいる。
彼の母親は、身障者だった。
それで、母親は、やむなく、彼にいろいろな頼みごとをする。
彼は面倒に思っていたが、断ると罪悪感に苦しむことになるので、嫌々引き受けることが多かった。
しかし、悟りを開いた彼は、平気で母親の依頼を断るようになった。
以前も、実際はよく断っていたが、その都度、自己嫌悪に苦しんだ。
断られた母親の方も、「この脚であそこまで行くのは、それはもう大変だったのよ」と、哀れな様子を息子に訴えていた。
しかし、彼は今は平気だ。自分の意志など何の関係もなく、何が起こるかは既に決まっているのだ。いったい何を思い煩うことがあろう。
そうすると、母親も、息子に過度に頼らず、自分で出来ることをやるようになり、身体も心も少しはしゃんとしてきた。親切で手を貸してくれる人も現れた。

あなたも、いかなる場合でも、罪悪感や自己嫌悪を感じてはならない。
その必要がないばかりか、もし、そのようなものを感じるなら、それは、神の主体性を奪うという不遜を犯しているのである。
また、全く同じ理由で、どんな人に対しても、嫌悪したり、批判をするべきではない。
その人の行いや考えがどうであれ、彼は、神の決めたシナリオ通りに演じさせられているだけに過ぎない。
おなたと同様、誰も、何もしていない。我々は、ただの操り人形に過ぎないのである。

重要なことは、世界がただの劇であることを、本当に理解し、実感できるかどうかだ。
いくら言葉で、人生は夢だ、世界はただの劇だと言ったところで、それを信じられないなら、あなたは得体の知れない苦しみから解放されない。
そのために、我々が出来ることは、自我を弱くすることだけだ。
最終的な自我の破壊は、神にしかできないし、いつ壊してくれるのかは全く分からない。
しかし、自我を弱くすることで、その状態に近付くことは出来る。
その方法はいつも書いてある通りで、いろいろある。自分の気質に合ったものを選んで、熱心にやるしかない。
実は、このブログは、4月7日以降は、本質的には、自我を弱くする方法についてのみ書いてある。
世界がただの劇だと分かった時の驚きはなかなかのものだ。それを知る時を想い、わくわくしても良いと思う。
悪夢から覚めた時、「ああ、夢だった・・・良かった!」と思った時と似ているが、それと比較にならないのだから。

ところで、『ブラザー・サン シスター・ムーン』で、クレアを演じた、17歳のジュディー・バウカーがとてもきれいだった。
ところが、彼女は、その10年後、『タイタンの戦い』で、アンドロメダ姫を演じた時の方が、もっと美しくなっていた。そして、その時でも、特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンがインタビューで述べたように、「無垢な魅力」という言葉がぴったりだった。
一度、ご覧になってみると良いと思う。









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なぜ「大きな夢を持て」と子供達にけしかけるのか?

サッカー日本代表の人気選手が、子供達を指導するようなイベントがあり、最後に、そのスター選手が、子供達に向かって、「大きな夢を持って欲しい」と言っているのをテレビで見た。
あれを見て、不自然さを感じないような人が本当にいるのだろうか?
夢を持てなんてことは、けしかけるようなことだろうか?
自然にさせてあげればいいんじゃないのか。

あのサッカー選手自身は、善意だったか、それとも、サッカー界や関係企業の宣伝と割り切っていたのかもしれないが、彼自身、変なものを感じていたのではないかと思う。
実際、あなたも、子供達に向かって、「大きな夢を持ちなさい」なんて言ってるところを想像してごらん。正常な感覚なら、違和感を感じると私は思う。

夢と言っても、一般社会の推奨しない目標を選んだら、それはいい夢じゃないって言われるのだ。
そもそも、子供の頃の夢は空想に過ぎない。
分別ある大人なら、それを否定はしないまでも、自己中心的なところや、欲の過ぎた部分は戒めるものなのだ。
賢い人なら、子供達に、ちやほやされたり、お金が沢山儲かるようなことが、素晴らしい夢だと誤解させたままにすることはない。
しかし、本当に貴い行いのほとんどは、賞賛や富とは縁が無いだけでなく、多くは、否定されたり、危険だったり、蔑まれることすらあることを、今は誰も教えない。
そして、「夢は必ず叶う」だの「夢を諦めないで」だのという妄想を、子供と一緒になって歌ったりするのだ。
偉大な人間というのは、運命を受け入れた人達であり、自分勝手な夢にこだわった人ではない。
しかし、子供達は、国家や企業の都合に迎合する夢をけしかけられるか、そうでなければ本当に貴い夢の芽を奪われるかのどちからなのだ。

目標なんてのは、決めろと言われて決めるものじゃない。
必要な時に、聖なる英知が、その子にささやくのだ。
そのささやきを聞き逃さない人間になることが必要なのだ。
激しい運命の元に生まれた者なら、ベートーヴェンの『運命』のように、運命が突然に激しく扉を叩くかもしれない。
そんな時に、運命を受け入れることが出来るだけの知恵を育てていなければならない。
そのようなことのために、企業の宣伝になるような種類の夢も、国際学力コンテストも何の意味もない。
だが、国も企業も、そして、その配下のマスコミも、それを決して認めないだろう。
しかし、我々の周囲には、知恵の欠片が散らばり、輝いていることも確かなのだ。
子供達が、自然にそれらを手にし、正しく導かれるよう助ける・・・いや、邪魔しないことである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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