本日は、日本全国各地で荒れた天気であったと思う。
しかし、それだけのことだ・・・というのが、今回のテーマである。
よく、「雨が降ったら憂鬱」という言い方をするが、なぜそうなのだろう?
雨が降っている時に道を歩いていて、近くを自動車が走ると、私も嫌な気持ちになっていたものだ。
アスファルトに溜まった水が、自動車のタイヤにはじき飛ばされ、自分の方に飛んでくるような気になったからだ。
しかし、実際にそんなことになった記憶がない。
つまり、多少気を付ければ、そんな被害に遭うことはまずないのだ。
万一、水をかけられたとしても、それは不運だったというだけのことだ。忘れるしかないじゃないか?
それなのに、どうも気になっていたのだ。
なぜだろう?
それは、私にとっては、小学1年生の時、授業で、「雨が降って良いこと、悪いこと」といった課題が扱われたことが原因だったのである。
先生のその質問に、子供たちが手を上げて答える。
良いこととしては、「農家で作物が育つ」などと発言した子がいたが、私には思いつかないことだった。私は、「君んち、農家だったの?」と思ったものだった。
「カエルが喜ぶ」
君、カエルと話が出来るのかい?(凄いな)
実際、ほとんど私には言えないようなことばかりなので、私は、「こいつら天才か?」と思い、アホな私がこんなとこにいてもいいのだろうかと真剣に思ったものだった。
しかし、カラクリが分かった。
それは、こんな問題は、小学1年生用の立派な試験問題でもあり、教科書だったか、副教材だったか忘れたが、ちゃんと答が書いてあるのだ。
そして、「雨が降ったら嫌なこと」の中に、「車に水をかけられる」というのがちゃんとあり、ご丁寧に、迫真に満ちた絵まで描かれていた。自動車がはじいた水をかけられる寸前の、悲鳴でも上げていそうな、同い年(小学1年生)くらいの子供達だった。
よっぽど運の悪い子だろう。
そして、先生の「雨が降ったら、どんなことが嫌ですかあ?」の質問に、「ハイ!」と元気よく手を上げ、指名されたら、「車に水をかけられること!」と答えれば、よく出来ましたであり、試験問題にもそう解答したら、○(丸)なのである。
私も、授業中の指名対策、および、試験対策として、それを憶えてしまった。
それが不幸の原因だったのだ。
私は一度もなかったが、雨が降って、道に水がたまり、私の近くを無神経なドライバーが運転する自動車がスピードを落とさずに走り過ぎ、そのタイヤがはじいた水が、絶妙なタイミングで私に襲い掛かり、結果、私がパンツの中までぐしょぐしょになったとする。
だが、それを悪いこと、嫌なことと思わなければならないという決まりなどないのだ。
実際、それはただの出来事だ。
それに良い悪い、好き嫌いの判断をするのは人間だ。
そして、そんな是非好悪の判断をすることが、人間の不幸の原因なのである。
学校は、不幸な子供生産工場なのかもしれない。
別の面白い例で考えてみよう。
谷川流さんの小説、『涼宮ハルヒの驚愕』の初回限定版の付録の小冊子『涼宮ハルヒの秘話』では、主人公のキョン(高校2年生男子)が中学3年生だった時の思い出話が語れている。
夏のある日、学校から帰ったキョンは、クラスメイトの、変わり者の女友達である佐々木と、自転車の二人乗りで塾に向かっていた。
だが、その時、激しい夕立となってしまう。
荷台に乗っていた佐々木が言う。
「このままじゃパンツの中まで濡れ鼠だ。どこかで雨宿りしよう」
読んでいる私はなかなかドキっとしたが、キョンが認識したのは、「雨宿りしよう」だけだった。キョンは、その時も、それからも、佐々木を女だと認識していないのだ。彼にとっては、彼女は男友達と変わらない。
ずぶ濡れのセーラー服の佐々木を無頓着に見るキョンに、佐々木は、「あまりこっちを見ないでくれないか」と抗議しいても、キョンには意味が分からない。佐々木の夏服のセーラー服は、スケスケだったのだが・・・
そんなキョンに、佐々木は、「やれやれ」と頭を振り、「君は時々忘れるようだが、僕は遺伝子的に紛れもなく女なんだよ」と戒め、やっとキョンは、不本意ながらだろうが、佐々木に謝る。
佐々木も、「僕の貧相な胸部なんてマジマジと見たところで益にはならないだろう?岡本さんのならまだしもさ」と、自分と違い、見ごたえ十分の豊かな胸を持つ、色っぽい女子クラス委員長を引き合いに出して、キョンを放免せざるを得ないことを認める。
佐々木は、胸のことだけでなく、自分のことを「僕」と言い、クラスメイトの男子を「君」と呼ぶ、そして、やたら理屈っぽく、やや女らしさに欠けるところがあった。
しかし、実は、佐々木は大変な美少女なのだ。
この付録の、いとうのいぢさん描く、中学生の時の佐々木が可愛い。こんな姿の佐々木と雨宿りして平気だったキョンは大したものである。
長い引用だったが、キョンや佐々木にとって、雨は確かに不都合であったが、別に好きでも嫌いでも無いし、良いとも悪いとも思っていなかった。
単に、雨が降ったというだけのことだ。
また、この時のことは思い出にはなったかもしれないが、2人はそれを特別とも見なしていないだろう。
我々も、出来事に対し、そのようでなければならない。
荘子は、全てをあるがままに見、思慮分別を離れ、是非好悪の判断をしないことが、永遠の道(タオ)と一体化するために必要な態度であると述べたが、これが2400年伝わっている至高の英知なのである。
アニメ『ノワール』の第4話『波の音』で、政情不穏な国を狙い、武器調達や兵士の派遣、さらに、軍事訓縁といったビジネスで稼ぐハモンド社長は、殺し屋に殺害された2人の部下について、
「あいつらは不運だった」
と言って、一瞬、険しい顔で目を閉じるが、すぐに不適な顔に戻り、
「が、それだけのことだ」
と言う。
私は、その場面を妙に気に入ったのだが、悪人ながら、出来事に感情的に反応しない態度だけは立派なものだと感じたのだ。
別に、彼は、部下のことを嘆いたのではないだろうが、「次は自分」と恐怖しないところが素晴らしい。
そんな冷酷非道なハモンドも、別れた妻との間の娘ロザリー(15歳)を愛していた。
普段、ロザリーに優しい顔を見せることはないが、社長室のデスクに、明日、誕生日を迎えるロザリーの写真と、さっき購入した、彼女へのプレゼントの包みを見て微笑む。それは、ただの父親の顔だ。
その目の前に、霧香が現れ、無表情にハモンドに銃口を向ける。
全てを悟ったハモンドは穏やかな顔だった。さすが、ただ者ではない。
だが、ハモンドは一瞬、ロザリーの写真とプレンゼントに目をやり、表情を曇らせる。
霧香は眉一つ動かさずに引き金を引き。仕事は終わった。
霧香は、そこを離れ、全くの平静さを持って歩いていると、向こうから、オレンジが入った袋を抱えたロザリーが歩いてきた。
ロザリーの顔を知っている霧香は、一瞬表情を変えるが、すぐに無表情に戻った。
だが、ロザリーの持った袋からオレンジがこぼれたのは、神のいたずらか。
霧香は、自分の方に転がってきたオレンジを拾うと、ロザリーの抱えた袋に入れた。
自分とほぼ同い年の霧香を見て、親し気に微笑むロザリー。おしゃべりでもしたかったのだろう。しかし、霧香は、そっけなく行ってしまう。一瞬、当惑したロザリーだが、すぐに明るい顔に戻って、足早に歩き出す。
いつも冷たいが、本当は彼女も大好きなパパのところに行くのだろか?既に、彼女を見ることもないパパのところに。
制作者が意図的にやったのかどうかは分からないが、登場人物達が、出来事に感情的に巻き込まれないところが、なんとも素晴らしい作品であった。
霧香も、ハモンドも、ロザリーも、ただ殺しの劇を演じた役者のようだ。
我々も、どんな運命であろうと、このように人生という劇を演じなければならない。
我々はただ、神の決めたシナリオ通りに人生という劇を演じる役者である。それが幸福であろうが不幸であろうが、我々に何の関係があろう。
ウィリアム・バトラー・イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人)は、『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、ハムレットもリヤも陽気だからだ」と書いた。
自らも最高の劇作家であったイェイツならではの洞察であろう。
シェイクスピアが陽気であることを、イェイツは知っていたのだ。
我々の運命を書いた神も陽気なのである。
それなのに、役者である我々が深刻振っては滑稽であろう。
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しかし、それだけのことだ・・・というのが、今回のテーマである。
よく、「雨が降ったら憂鬱」という言い方をするが、なぜそうなのだろう?
雨が降っている時に道を歩いていて、近くを自動車が走ると、私も嫌な気持ちになっていたものだ。
アスファルトに溜まった水が、自動車のタイヤにはじき飛ばされ、自分の方に飛んでくるような気になったからだ。
しかし、実際にそんなことになった記憶がない。
つまり、多少気を付ければ、そんな被害に遭うことはまずないのだ。
万一、水をかけられたとしても、それは不運だったというだけのことだ。忘れるしかないじゃないか?
それなのに、どうも気になっていたのだ。
なぜだろう?
それは、私にとっては、小学1年生の時、授業で、「雨が降って良いこと、悪いこと」といった課題が扱われたことが原因だったのである。
先生のその質問に、子供たちが手を上げて答える。
良いこととしては、「農家で作物が育つ」などと発言した子がいたが、私には思いつかないことだった。私は、「君んち、農家だったの?」と思ったものだった。
「カエルが喜ぶ」
君、カエルと話が出来るのかい?(凄いな)
実際、ほとんど私には言えないようなことばかりなので、私は、「こいつら天才か?」と思い、アホな私がこんなとこにいてもいいのだろうかと真剣に思ったものだった。
しかし、カラクリが分かった。
それは、こんな問題は、小学1年生用の立派な試験問題でもあり、教科書だったか、副教材だったか忘れたが、ちゃんと答が書いてあるのだ。
そして、「雨が降ったら嫌なこと」の中に、「車に水をかけられる」というのがちゃんとあり、ご丁寧に、迫真に満ちた絵まで描かれていた。自動車がはじいた水をかけられる寸前の、悲鳴でも上げていそうな、同い年(小学1年生)くらいの子供達だった。
よっぽど運の悪い子だろう。
そして、先生の「雨が降ったら、どんなことが嫌ですかあ?」の質問に、「ハイ!」と元気よく手を上げ、指名されたら、「車に水をかけられること!」と答えれば、よく出来ましたであり、試験問題にもそう解答したら、○(丸)なのである。
私も、授業中の指名対策、および、試験対策として、それを憶えてしまった。
それが不幸の原因だったのだ。
私は一度もなかったが、雨が降って、道に水がたまり、私の近くを無神経なドライバーが運転する自動車がスピードを落とさずに走り過ぎ、そのタイヤがはじいた水が、絶妙なタイミングで私に襲い掛かり、結果、私がパンツの中までぐしょぐしょになったとする。
だが、それを悪いこと、嫌なことと思わなければならないという決まりなどないのだ。
実際、それはただの出来事だ。
それに良い悪い、好き嫌いの判断をするのは人間だ。
そして、そんな是非好悪の判断をすることが、人間の不幸の原因なのである。
学校は、不幸な子供生産工場なのかもしれない。
別の面白い例で考えてみよう。
谷川流さんの小説、『涼宮ハルヒの驚愕』の初回限定版の付録の小冊子『涼宮ハルヒの秘話』では、主人公のキョン(高校2年生男子)が中学3年生だった時の思い出話が語れている。
夏のある日、学校から帰ったキョンは、クラスメイトの、変わり者の女友達である佐々木と、自転車の二人乗りで塾に向かっていた。
だが、その時、激しい夕立となってしまう。
荷台に乗っていた佐々木が言う。
「このままじゃパンツの中まで濡れ鼠だ。どこかで雨宿りしよう」
読んでいる私はなかなかドキっとしたが、キョンが認識したのは、「雨宿りしよう」だけだった。キョンは、その時も、それからも、佐々木を女だと認識していないのだ。彼にとっては、彼女は男友達と変わらない。
ずぶ濡れのセーラー服の佐々木を無頓着に見るキョンに、佐々木は、「あまりこっちを見ないでくれないか」と抗議しいても、キョンには意味が分からない。佐々木の夏服のセーラー服は、スケスケだったのだが・・・
そんなキョンに、佐々木は、「やれやれ」と頭を振り、「君は時々忘れるようだが、僕は遺伝子的に紛れもなく女なんだよ」と戒め、やっとキョンは、不本意ながらだろうが、佐々木に謝る。
佐々木も、「僕の貧相な胸部なんてマジマジと見たところで益にはならないだろう?岡本さんのならまだしもさ」と、自分と違い、見ごたえ十分の豊かな胸を持つ、色っぽい女子クラス委員長を引き合いに出して、キョンを放免せざるを得ないことを認める。
佐々木は、胸のことだけでなく、自分のことを「僕」と言い、クラスメイトの男子を「君」と呼ぶ、そして、やたら理屈っぽく、やや女らしさに欠けるところがあった。
しかし、実は、佐々木は大変な美少女なのだ。
この付録の、いとうのいぢさん描く、中学生の時の佐々木が可愛い。こんな姿の佐々木と雨宿りして平気だったキョンは大したものである。
長い引用だったが、キョンや佐々木にとって、雨は確かに不都合であったが、別に好きでも嫌いでも無いし、良いとも悪いとも思っていなかった。
単に、雨が降ったというだけのことだ。
また、この時のことは思い出にはなったかもしれないが、2人はそれを特別とも見なしていないだろう。
我々も、出来事に対し、そのようでなければならない。
荘子は、全てをあるがままに見、思慮分別を離れ、是非好悪の判断をしないことが、永遠の道(タオ)と一体化するために必要な態度であると述べたが、これが2400年伝わっている至高の英知なのである。
アニメ『ノワール』の第4話『波の音』で、政情不穏な国を狙い、武器調達や兵士の派遣、さらに、軍事訓縁といったビジネスで稼ぐハモンド社長は、殺し屋に殺害された2人の部下について、
「あいつらは不運だった」
と言って、一瞬、険しい顔で目を閉じるが、すぐに不適な顔に戻り、
「が、それだけのことだ」
と言う。
私は、その場面を妙に気に入ったのだが、悪人ながら、出来事に感情的に反応しない態度だけは立派なものだと感じたのだ。
別に、彼は、部下のことを嘆いたのではないだろうが、「次は自分」と恐怖しないところが素晴らしい。
そんな冷酷非道なハモンドも、別れた妻との間の娘ロザリー(15歳)を愛していた。
普段、ロザリーに優しい顔を見せることはないが、社長室のデスクに、明日、誕生日を迎えるロザリーの写真と、さっき購入した、彼女へのプレゼントの包みを見て微笑む。それは、ただの父親の顔だ。
その目の前に、霧香が現れ、無表情にハモンドに銃口を向ける。
全てを悟ったハモンドは穏やかな顔だった。さすが、ただ者ではない。
だが、ハモンドは一瞬、ロザリーの写真とプレンゼントに目をやり、表情を曇らせる。
霧香は眉一つ動かさずに引き金を引き。仕事は終わった。
霧香は、そこを離れ、全くの平静さを持って歩いていると、向こうから、オレンジが入った袋を抱えたロザリーが歩いてきた。
ロザリーの顔を知っている霧香は、一瞬表情を変えるが、すぐに無表情に戻った。
だが、ロザリーの持った袋からオレンジがこぼれたのは、神のいたずらか。
霧香は、自分の方に転がってきたオレンジを拾うと、ロザリーの抱えた袋に入れた。
自分とほぼ同い年の霧香を見て、親し気に微笑むロザリー。おしゃべりでもしたかったのだろう。しかし、霧香は、そっけなく行ってしまう。一瞬、当惑したロザリーだが、すぐに明るい顔に戻って、足早に歩き出す。
いつも冷たいが、本当は彼女も大好きなパパのところに行くのだろか?既に、彼女を見ることもないパパのところに。
制作者が意図的にやったのかどうかは分からないが、登場人物達が、出来事に感情的に巻き込まれないところが、なんとも素晴らしい作品であった。
霧香も、ハモンドも、ロザリーも、ただ殺しの劇を演じた役者のようだ。
我々も、どんな運命であろうと、このように人生という劇を演じなければならない。
我々はただ、神の決めたシナリオ通りに人生という劇を演じる役者である。それが幸福であろうが不幸であろうが、我々に何の関係があろう。
ウィリアム・バトラー・イェイツ(「20世紀最大の詩人」と言われるアイルランドの詩人)は、『ラピス・ラズリ』という詩に、「主役を演じるほどの役者は、自分が泣いたりしない。なぜなら、ハムレットもリヤも陽気だからだ」と書いた。
自らも最高の劇作家であったイェイツならではの洞察であろう。
シェイクスピアが陽気であることを、イェイツは知っていたのだ。
我々の運命を書いた神も陽気なのである。
それなのに、役者である我々が深刻振っては滑稽であろう。
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