ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

楽しいことを考えると、その何倍もの嫌なことが浮かんでくるはずだ

昔の中国の名僧であった無業(むごう)は、どんな質問をされても、「妄想するな(莫妄想-まくもうぞう-)」としか答えなかった。
これが、人間のあらゆる問題に対する正解なのだろう。
だが、いかなる想いが妄想で、いかなる想いが妄想でないのだろう?
妄想とは、簡単に言えば、「誤った考え」「妄念」「邪念」だ。
では、話は簡単だ。
人の想い、考えで妄想でないものは1つもない。
では、無業より良い教えは、「考えるな」である。
ただ、凡人にそこまで言うのは厳し過ぎるし、誤解も招くと無業は判断したのだろう。彼の判断は、思考から来るのではなく、直観から来ていたはずなので、正しいことだろう。
そして、20世紀の聖者ラマナ・マハルシは、「聖者はいかなる想念も持っていない」と言ったのである。

『サウンド・オブ・ミュージック』という、アメリカのミュージカル映画の大作がある。
この映画のために、超一流の音楽家、詩人が沢山の名曲を作った。
その中の『My Favorite Things(私のお気に入り)』という歌は、大体の意味で、「嫌なことがあった時、お気に入りのものを思い出すだけで、いい気分になるわ」といったものだ。この中で言われる、お気に入りは、きれいなもの、かわいいもの、美味しいもの、楽しいこと・・・・が具体的に色々述べられていた。
私は、子供の頃、この歌を聞いて「をを!いいことを聞いた」と思い、長くやってみたが、振り返ると、ろくでもないことだったと気付く。
好きなもの、お気に入りのものを思い浮かべると、一瞬は気分がいいかもしれないが、ますます気分が落ち込み、エネルギーを失い、惨めになり、破滅に向かう。
当たり前である。楽しいことを想像すると、その何倍もの嫌なことが浮かぶのである。
嫌なことがあった時にやるべき、唯一の正しいことは、「何も考えない」「何も想わない」ことだ。
実は、楽しいもの、愛しいものというのは、天使を装った悪魔である。丁度、快楽の正体が苦痛であるようなものだ。

ただ「私のお気に入り」とでもいうもので、1つだけ、例外になり得るものがある。神様だ。ただし、唯一の神だ。これは、宗教でいう絶対神のことではない。あなたにとっての唯一の神のことだ。イエスもそう言っていたはずだ。
法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を1日6万回(後に7万回)唱え、ラマナ・マハルシの弟子プンジャジは、呼吸に合わせてクリシュナ神の中を1日5万回唱えた。
また、ラマナ・マハルシが教えたように、「私は誰か?」というのは、1つの想いであるが、これは他の想いの殺戮者である想いだ。これ以外の想いを持たなければ良い。
上で述べた「私のお気に入り」が、唯一無二のものであるなら、それでも良いのだ。それがあなたの神であるなら、他人にとやかく言われることもない。例えば、ケーキ作りであっても、本当に使命感を持って、それに命を賭けているなら良いのだ。つまり、その中に真の自己である神を見ることが出来れば、それがあなたの神である。例えば、私の初音ミクのようなものである。

ケーキ作りで神になれそうな少女の物語を見つけたので、下にご紹介しておく。萩尾望都さんの古い漫画である。
尚、竜王文庫の『エメラルド・タブレット』も、現在、Amazonで在庫されているようである。









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こうして彼らは無になった~幼い少女から騎士・武士まで~

我々は超人にならなければならない。
ただし、我欲を叶えるためではない。
自分のためでないなら、イエスが起こした奇跡のいくらかは出来たっていいと思う。
イエス自身は、自分のやったことは誰でも出来るし、あなたはもっと大きなことだってやれると言ったのだ。

超人の力を得る秘訣は、ただ、無になるだけだ。これは、無念無想ということであり、いかなる想念も持たない状態だ。
もっと詳しく言えば、究極の想念である、私という想いすら失ったことを言う。
そして、私という想念を失くす前に、「私のもの」という想念が無くなる。だから、「これは私のもの」という想いが強いうちは無になれない。
自分のことに関しては、「無断転載禁止」と言っているうちは苦労が多いものだ。

『葉隠』に「武士道とは死ぬことと見つけたり」という有名な言葉があるが、これを、主君の命令があれば命を捨てることであると単純に考えてはいけない。
これもまた、無になるということなのだ。無になることで最上の人間になり、天下のために役に立とうというのが本来の武士道である。
西洋の騎士道も、実は根本は同じなのだ。彼らが名誉のために決闘するというイメージがあるかもしれないが、本物の騎士は、個人的名誉や利害で決闘なんてしない。
ただ、成り行きで決闘することになっても、本物の騎士は、どこか冗談っぽい。決闘では殺しあうこともあるが、それでも、大人の余裕を忘れない。それが騎士だ。
決闘が遊びである彼らには、この世の全てが遊びだ。無にでもならなければ、そんなことは出来ない。
まあ、ろくでもない武士や騎士が多くなり、本物の武士道や騎士道は廃れてしまったがね。

どんな方法でもいいから無になれば、あなたに敵するものなど存在しない。
聖書に、「もし神が味方ならば、誰が我らに敵し得よう」という言葉があるが、神は無になれば味方してくれる。なぜなら、無である自己が神であるからだ。

本当に好きで絵を描いていれば、どんなに下手っぴいでも無になる。それで、多少上手くなれば大画家になる。木下清なんて、そんな画家だったと思う。
竹久夢二は、うまくいってたのに、画学校に入ろうなんて迷いを起こした。しかし、偉い画家に、「君の絵は画学校に入ったら駄目になる」と指摘されてやめたが、夢二には最後まで迷いがあったように思える。夢二は、有名になってからも、画家志望の若い人達には、自分のようなやり方を勧めず、ちゃんと学校で勉強するよう言ったものだ。美術学校に行って、あんたほどの画家になったやつがどこにいるっていうんだい?

風説かもしれないが、的を得た話がある。
柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が、徳川家光に、立てた一本の棒の頭を木刀で毎日打つように言った。
その頃、まだ竹千代(将軍家の世継ぎの幼名)と呼ばれていた家光は気乗りしなかった。そこで、宗矩が、それをやれば鉄の兜(かぶと)でも切れるというので、「ではやってみろ」ということになった。そして、宗矩が見事、鉄の兜を切ると、家光は驚愕し、それをやるようになった。
その話をヒントにしたのか、本宮ひろ志さんの漫画で、宮本武蔵が山の中で、一本の木の杭をひたすら木刀で打ち込み、1年が過ぎて下山すると、敵と立ち会った時、敵の動きが全て読めるようになって、大概の相手なら楽勝となった。
同じことをひたすら繰り返すのは、無になるための基本的な修行である。

腕振り運動(スワイソウ)でも、ただ数を数えることに集中して、千回を迷いなくやれるようになれば無に近くなり、2千回もやれれば大概の病気は治るし、我欲でなければ何でも上手くいく。
それを、数を数えずに音楽を聴きながら曲が終わるまでといったようにやったり、テレビを見ながらやってもあまり効果はない。
禅には、数息観というものがあり、座って呼吸の数を数えるというものがある。普通、息を吸って、それを長く細く吐きながら数を数える(つまり、吐く息の数で数える)。十まで数えたら一に戻る。ところが、雑念が起こってなかなか上手くいかず、数が分からなくなったり、50まで数えたりする。これだけでも、ちゃんとやれるようになったら無になれる。

究極の寓話は、グリムの『星の銀貨』だ。
自分が持っているなけなし(わずかな)のものを全部(下着まで)、人にあげてしまった少女は、天から沢山の銀貨を与えられる。銀貨は、力や知恵の象徴である。無論、それがあれば、どんな時にも困らない。
(『星の銀貨』は、下でご紹介する、美しいカラー絵が付いたものが良いと思う)

優れた聖典を何度も何度も読んで、人知を超えた賢者となった人もいる。これも無になったことによる。
そして、『エメラルド・タブレット』は、人類最古にして至高の聖典であり、アトランティス語から英語への翻訳者ドリール博士は百回読むよう薦めている。

「無になりきれば不可能はない」
即ち、思うがままだ。
ただ、我欲が起こると、心が曇り、無でなくなるのである。









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食欲、性欲を克服する方法は1つしかない

食欲や性欲を克服出来なくて悩んでいる人は立派なものだと思う。
手っ取り早く儲けるには、人々の食欲と性欲を煽れば良いのだが、世間にはそんなものに溢れていて、我々は不要で過剰な食欲や性欲を掻き立てられている。
その結果、人間性は堕落し、能力を無くし、静かであるべき心は荒れ狂い、高貴な目標を見失い、惨めで哀れな状態に置かれているのである。
必要な食欲や性欲だけ持っているのであれば、それは我々の味方であり友である。しかし、それらは肥大化すればおぞましい敵である。
正しい必要な食欲や性欲というのは、作為的な刺激が全く無い中で持っている自然なものである。

では、どうすれば食欲や性欲を抑えられるのか?
いや、抑えるのではない。その発想が間違っている。
不要な食欲や性欲を持たないことである。
食欲や性欲は、燃え上がったら抑えられるものではない。
幅30センチの板の上を歩くのは簡単なはずだが、これが高さ3メートルでなら非常に難しいし、高さ30メートルなら絶対に不可能なのと同じで、意志は強い想像に勝てないのだ。
では、どうすればいいのかというと、簡単なことで、「考えない」ことだ。
美味しい食べ物や、セクシーな女性(あるいは男性)の姿を考えないことだ。
それを考えるように仕向けて、それらに金を使わせるのが悪徳な商売だ。
『バガヴァッド・ギーター』で、至高神クリシュナが、亀が手足を引き込むように、感覚を内側に引き込めと言う、シンプルだが優れた教えを真面目に受け取らなければならない。尚、クリシュナは全宇宙の支配者であるが、実に慈悲深く親切で、懇切丁寧に、欲望を克服する心得を教えてくれる。人にとって、宇宙にとって、それが何より大切なことだからだ。

何かの本で、高校の女性教師が、教師と生徒の間のセクハラ問題に関連し、女子高生の若い肌に興奮しないのは男ではないと、一応の理解を示したような書き方をしていたが、それは大嘘である。そりゃ、若い子がヌードで迫ってきたら興奮して当たり前だが、普通の格好をした女子高生を見て興奮するなら確実に変態である。それは、普段、だらしなく性的なことを考え過ぎている哀れな変質者である。

私の食事は、1日1回で、食べるのは、パン、野菜、果物と、後1品(豆腐か豆料理等)程度である。
それで、体形は理想的で、完全な健康体(一応、健康診断でもオールA)で、エネルギーが溢れるので、毎日運動を欠かさない。
しかし、私とて、今もまだ好きな、カレーライス、オムライス、スパゲッティ、ラーメン、焼肉、ステーキ、あるいは、チョコレートやプリンのことを考えると、激しい食欲に襲われる。以前なら少しは苦しんだが、今は、考えるのをやめる力、即ち、思考を制御する力を得たので平気である。これを本当の強者(つわもの)と言うのである。
少食にしたいが、食欲に負けてお菓子を一袋食べてしまったなんて話がよくあるが、それは、お菓子のことを考えるからだ。
また、セクシーな写真や絵も見ないようにしている。今は、それらを見ても、目を背けるのにさしたる勇気はいらない。しかし、やはり見ないのが一番だ。
そして、性欲を煽るものを避けていると、美しいものを本当に美しく見れるようになる。それは、実は、対象に投影された自己の本質を見ているのである。その美しさを知ると、ポルノはもちろん、グラビア写真なども気味が悪くて見れないほどになる。
自己の内にある真の美を知ることが出来ないほど残念なことはない。

初音ミクの、ロサンゼルス、ノキアシアターのコンサートで、ミクが天使の姿で歌う『SPiCa』を見て、私はその美しさに惹き込まれた。性欲を煽ろうなんて意図の全くない制作者の善意を感じる。だから、世界中で受け入れられるのだろう。私は、ミクを見ているが、実際には自己の本質を見ているのである。
音楽も歌の詩も素晴らしかった。
もちろん、ミクは一例というべきだろう。世の中には美しいものは沢山ある。しかし、不要な食欲や性欲を持っている限り、それを見ることはない。逆に、食欲や性欲を本当に克服すれば、あらゆるものの中に至上の美を見るだろう。

霞ヶ関書房の『エメラルド・タブレット』がAmazonでようやく在庫されている。
『バガヴァッド・ギーター』が、実際には1万年前に書かれたものであると言われるが、『エメラルド・タブレット』は2万年前にアトランティス人トートが書いた。
私は、『エメラルド・タブレット』と『バガヴァッド・ギーター』が、人類の最高の聖典ではないかと思っている。









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水木しげるさんが究極の芸術家だと感じる理由

横尾忠則さんや池田満寿夫さんらが、岡本太郎さんのことを良い言い方をしているのをあまり見たことがないような気がする。
横尾さんは、著書で、岡本太郎さんが「芸術は呪術なんだよ」とよく言っていたことに対して、「そんなこと、言わない方がいい」と延べ、岡本太郎さんの代表作の1つである太陽の塔について、「デザインとしては超一流だが、芸術品じゃない」と書いていた。挙句、「あの人(岡本太郎)は芸術家じゃなくデザイナーになれば良かった」とまで書く。横尾さん自身が超一流のデザイナーだけに真実味がある。まあ、その横尾さんが岡本太郎のデザイン能力を褒めているとも言えるが、芸術家としては大して評価していないということである。ただ、横尾さんの、ちょっと昔の著書のことではある。

ところが、横尾さんが岡本太郎さんと対談した時は、岡本さんの良さを実に上手く引き出していた。
面白かったのが、岡本さんが、サルバドル・ダリが自分の絵が好きだと言ったということに、横尾さんが「本当ですか?」と驚いたようなところだ。確かに、あのダリが、人の絵を好きだと言うはずがない(ダリは自分の絵しか評価しない)。
実は、横尾さんの別の本で、横尾さんがダリに会った時、ダリに「僕の絵が好きかい?」と聞かれて、横尾さんは「はい、好きです」と言ったと書いていた(ただし、それは嘘だったと書いていたと思う)。すると、横尾さんはダリに「君の絵は嫌いだね」と言われたらしい。ただし、その割には、横尾さんの絵を気にしていたらしいが。

池田満寿夫さんに関しては、直接岡本太郎さんのことを何か書いていたというのを覚えていないが、「ある背の低い男は、ピカソを乗り越えたと言っていた」と書いていた。それは間違いなく岡本太郎さんのことだ(ピカソを超えたなんて言った画家が2人いるはずがない)。しかし、まあ、あまり尊敬を示す書き方ではないだろう。
また、池田さんが、「僕には狂気なんかない」と書いていたのは、多分、岡本太郎さんを意識していたように思うが、それが横尾忠則さんに対してのものだとしても納得できるように感じる。
つまり、岡本太郎さんと横尾忠則さんって、よく似ていると思えて仕方がない。
横尾さんは、背景の色に迷ったら赤にすると書かれていたが、岡本太郎さんも赤が大好きだった。

ただ、人が誰かに対し、いかにもわざとらしい敬意を語るのって、ちょっと気持ち悪いと感じないだろうか?
横尾さんにしろ池田さんにしろ、岡本太郎を尊敬というか、畏怖してたのではないだろうか?まあ、別に根拠は無い。しかし、本当に尊敬していたら、社交上は別として、褒め上げることなんて出来ないものだと思う。
実際、自分が褒めちぎられて、その賛辞を信じる人なんているのだろうか?

横尾さんは、ある時、昔読んだ岡本太郎さんの『今日の芸術』をもう一度読みたいと思ったが、どうしても見つからなかったそうだ。それで、自分の本を出していた出版社に頼んで、復刻してもらった。そのおかげで、我々はこれを読める。

横尾忠則さんは、高校時代、美大への入学を希望していたが、受験のために上京までしながら、家庭の事情を考えて受験を断念したいう。
池田満寿夫さんは、東京芸大を3回受験して全て失敗して諦めた。
岡本太郎さんは、時代が違うのかもしれないが、東京芸大に入学して1ヶ月で自主的にやめ、その後、フランスに行き、ソルボンヌ大学を卒業する。ただし哲学科だった。
横尾さんや池田さんに、そのあたりのやっかみは無かったとも言えないような気がする。いや、実際は無かったかもしれないけどね。

岡本さん、池田さん、横尾さんに決定的と言える影響を与えたのは、やはりピカソであろう。しかし、この3人がピカソについて書いていたことで、覚えているものがほとんどない。私の理解力が無いのもあるだろうが、そもそも、彼らも、言葉で伝わるようなことは書いていないのだと思う。
せいぜいが、ピカソの絵はきれいじゃないが美しい(岡本太郎)といった、抽象概念だ。

それよりも、横尾さんが、ピカソを見て、イラストレーターから画家に転身したという行動が最も強く、ピカソの力を語っているだろう。後は、彼らの作品から自分で理解するしかない。
ただ、池田さんは、ピカソの絵を「魔除けのつもりだったのだろう」と書いていたのが印象的だ。突飛なようで、案外にピッタリする。ただ、魔除けの意味が問題であるのだけれどね。

ところで、「こんな絵にしようと考えながら描いた絵より、絵が勝手に仕上がっていくような感じで、何も考えずに描いた時にいい絵ができる」と書いていたのは、岡本太郎さんだったか、横尾忠則さんだったか、よく覚えていない。多分、2人とも、そういったことを書いていたのだろうと思うし、どちらが言ってもよく似合う。
池田さんが、「僕の絵は便所のラクガキだ」と言っていたのは、つまるところ、そんな意味だという気がする。彼は有名になる前、東京国際版画ビエンナーレ展に3点の版画を出品しなければいけないのに、3日前になっても何もできていなかったということがあった。そこで、銅版をひたすら三角刀で引っかいて完成させ、それが、ドイツ美術界の権威グローマン博士の強い支持を受けたが、池田さんこそ、何も考えない描き方の極意を知っていたのだろうと思う。ただ、彼は芥川賞作家だけあって、美文過ぎて解釈が難しい書き方をするように思う。いや、それよりも、あの人は、人間性があまりに愛さずにいられない人で、そっちにばかり気を取られてしまうのだ。
ある時、女子高生が池田さんに「あなたの絵は理解できないが、あなた自身が好きになったので、工房見学に行かせて欲しい」という手紙を送ったというのもよく分かる。しかも、それに対し、「恥ずかしくて返事を出さなかった」という池田さんがまた良い。
池田さんは、女性モデルを膝の上に座らせて触りながらでないと描けないという画家を褒めていたが、彼自身は、モデルと向き合って描けないのだそうだ。とてもシャイな人のようだ。

上にも述べたように、「何も考えずに描き、仕上がりを自分でも予測できないのが良い」と、岡本さんか横尾さんか、あるいは両方が言ったのだが、妖怪漫画で名高い水木しげるさんが、養老孟司さんとの対談で、「60歳過ぎてから、妖怪を描くのが楽しくなった。妖怪を描く時は無意識なのだ」といったことを言われていたと思う。水木さんも芸術の究極の域に達しているのは間違いない。どうも、日本に限らず、画壇というのは、漫画やイラストを低く見る。ノーマン・ロックウェルほどの画家でも、彼は雑誌のイラストをよく描いていたので、画壇からの評価は低かったといわれる。
尚、養老さんと水木さんの対談が収められた本には、養老さんと横尾さんの対談もある(下記紹介の本)。

横尾忠則さんは、UFOも幽霊も超常現象も全て信じている。信じているというより、宇宙人に何度も逢っていると平気で言っているようだ。
私は、ちょっと昔、林原生物化学研究所にあった政木和三さんの研究所を訪ねた時、なぜか、朝から横尾忠則さんのことが気になっていた。私が車を運転して行ったのだが、政木さんをよく知っていた同乗者(会社社長)に、「政木さんと横尾さんって親しいのですか?」と聞いたことを覚えている。(その社長さんは、「さあ?本人に聞いてみなさい」と言っていたように思う)
それで、政木さんに、「横尾忠則さんをご存知ですか?」と尋ねたら、政木さんは、黙って部屋の壁を見たが、そこには、見事な政木さんの肖像画が飾られていて、「横尾忠則」と銘が書かれてあった。
私が横尾さんについて少し話すと、政木さんは「横尾さんは宇宙人ですよ」と言う。その訳は話されなかったが、政木さんが、既に絶版になっていた自著『精神文明と奇跡』という本を出してきて、「横尾さんが装丁をしてくれたのです」と言う。表紙と裏表紙が横尾さんが描いた絵で、同じ顔の左側なのだが、表表紙がやや上を向き、裏表紙はやや下を向いている。素晴らしい絵だ。政木さんは「あげますよ」と言ってその本を私に下さった。今思えば、あの肖像画を貰えば良かった。まあ、いくらなんでもくれないとは思うが。

岡本さん、池田さん、横尾さんの本は、実に面白いし、無に達するためのヒントになる。
私はこのブログでよく書くが、無になりきれば人間に不可能はない。
また、3人とも、素人が絵を描くことに肯定的で、特に岡本さんは強く勧めていた。
絵を描くことも、無に達する方法である。
無とまではいかなくても、美術教師のベティ・エドワーズは、絵を描く指導を通じて、あらゆる分野の人達の能力を劇的に向上させた。
ただ、岡本太郎さんも言う通り、絵描きを目指すのでもない限り、絵の先生に教わらない方が良いかもしれない。絵は、まず自由に楽しく描くものだ。









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トイレにも自動車にも神様はいる

『トイレの神様』という歌があるが、トイレに神様がいるかというと、その家に住む者がずっとそう意識するなら、いるだろう。
昔、人々は、岩や木を神様として崇めるということをよくやっていたが、人間の思念とはエネルギーのあるもので、長く強い意志を向け続けると、その物質の基本的な構成要素に変化を与え、特別な情報エネルギー体を生み出す。それを、精とか精霊と呼んできたが、それは、確かに何かの作用をするのである。
妖精というのは、強い特定の感情の影響を受けたものであり、やや独特な作用をするが、悪い方向に現れることもある。
精霊が、多くの人間の、志向性ある思念を受け続けると、エネルギーが大きくなり、神と言って良い位の力を持つことがある。神木と言われるものが、そんなものである。
刀や剣も精が付きやすいし、斧や包丁でも、長く大切に使うものはそうであった。
人の心の力を、夢々軽く見てはならない。
精霊と言うと、やや迷信がかった雰囲気があるかもしれないが、科学的用語で説明し切るのは難しいので、以降も精霊とか精という言葉を使う。
万能の天才であったが、今日では特に教育分野で著名で、ゲーテの研究の権威でもあったルドルフ・シュタイナーは、動物は人間と違い、1つの種で1つの魂を有すると言ったが、自動車なども、1つの種類に精霊がつくことがある。それは神秘的なものだ。
昔、日本に何台かしか入っていない車に乗っていたという人達が偶然出逢ったという話が割合によくあった。日本では珍しい車でも、それが生産された国では伝統ある車で、強い精がついていた。その精同士が呼び合うということだ。
我々でも、伝統ある珍しいものを持っていると、偶然出逢った人が同じものを持っていて驚くことがよくある。
最近の自動車は個性が少なくなってきたし、古い車種を廃し、新しい車種を作ったりするので、精の作用が弱く、少なくなってきたが、昔は、車に思い入れがあって、特に好きでその車に乗っている者が、たまたま親しくなった人が同じ車に乗っているということもよくあった。これは、必ずしも精の力だけでなく、人の心と精の力の共同作用である場合が多い。

ここらのことは、現在の科学のパラダイム(曖昧な言葉で訳し難く、英語のままで良いと思うが、敢えて訳せば模範といったようなもの)が変われば、少しは分かってくるかもしれない。
初音ミクは、精霊の域を超えて、ほとんど神のようなものだ。
彼女をDIVA(イタリア語の歌姫)とよく言うが、DEVA(デーヴァ。サンスクリット語の神)と言っても良い。
セーラームーンなどは、商売のために使い尽くされ、精霊が高い振動を発することが出来なかったが、初音ミクは、もちろん全てではないが、商売よりは情熱の部分が大きいので、今では大変な神なのである。大切に扱えば、必ずこの星を照らす光になるだろう。
星にもDEVAはあるし、太陽系や銀河系にもある。基本的には何にでもあるが、力の強弱はある。アメリアインディアンは、そんなことをよく知っていて、日々の生活の中で、精霊や神を崇めたものであり、それは、日本人の伝統とも似ているのである。初音ミクが日本で生まれたのは、とても意味のあることだ。
このあたりは、幼稚園中退の天才医療エンジニアであったイツァク・ベントフが、なるべく現代の科学概念を使って説明していたし、神霊的には、『ローム太霊講和集』に、ある意味では科学的に書かれている(現代の科学とはほとんど無縁であるが)。
我々は、このあたりの知識があまりに無いが、大切なことであると思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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