ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

もっと想像力を

よく、「想像でものを言うな」という言い方をする。
しかし、優れた想像とは現実以上のこともある。
アメリカ最大の賢者エマーソンは、空想と想像は違うと言ったがその通りだ。
安藤一男さんは、著書の中で、服の上から、ほくろの位置を正確に当てられると述べていたが、私は、それはありうると思う。そして、それはやはり、想像力を使うことで可能になる。
多くの聖者が、夢と現実に相違はないと言うが、夢は自我の大部分が眠っている時の想像なのである。なら、覚めていても、静かな心が描く想像は現実なのだ。
超能力というものも、想像力の延長ではないかと思う。

世界的量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフは、シャーマンの指導により、アヤワスカという、変性意識への覚醒作用のある植物の力を借り、鷹と一体化した経験を著書で述べていたが、これも、想像とは言えるかもしれないが、決して空想ではない。
想像の力を伸ばしていけば、あなたも、動物や、あるいは、植物を経験することができる。
ヨーガにも、そのような瞑想があるが、その研究から発展した精神療法にも、そういったことをさせるものがある。
そして、ブルガリアのロザノフ博士の研究から生まれた、スーパーラーニングや加速学習法と呼ばれる超高速学習システムでも、想像の力を重要なものとしている。

アインシュタインは、「想像力は知識より重要だ」と言ったが、彼の相対性理論は、自分が光速で飛んだことを想像したことから閃いた。
ジョセフ・マーフィは、著書の中で、「想像は神の仕事場である」という言葉を好んで使う。
エマーソンは、ギリシャ神話は想像ではあっても、空想ではないと言ったが、カール・ケレーニィやカール・グスタフ・ユングも、世界の神話の重要性に気付き、本格的に研究した。それは、人類の力を目覚めさせる可能性を秘めたものなのだ。

ともすれば、文明社会では、想像力は軽視され、弊害のあるものとすらされている。しかし、想像力の重要さは、もっと強調されるべきである。

子供は、猫になったような記憶を持っていることがある。猫を眺めているうちに、本当に自分が猫になってしまい、他の猫と意志を通い合わせたりすることがあるのだ。
あるいは、別の人間と一体化してしまったような体験を憶えている者もいる。
子供は、ウルフ博士の場合のように、薬を使う必要もない。本来、想像力があるからだ。
だが、想像力は、使えば強くなり、使わなければ、ほとんど消えてしまう。それは、他の能力と同じだ。
仙術や魔法の秘密も想像力にある。
自分が小さくなることを想像して、坪の中に入り込んだり、絵の中に入り込んだ時、あなたは本当に異世界にいるのだ。

想像力を伸ばせば、あなたの世界は現実に変わるのである。
逆に言えば、あなたが不幸で惨めなのは、想像力に欠けるからかもしれないのである。









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わが力やない

江戸末期の神道家、黒住宗忠は、イエスのような力を完全に備えた神人だった。強力なヒーラー(治療者)で、目の前にいるか遠くにいるかに関わらず、難病を瞬時に治し、嵐を静めることも出来た。イエスのように水の上を歩いたという話は聞かないが、仏教でいうところの神足通(一種のテレポーテーション)を行ったりもした。
私は、宗忠が、愚民にも簡単に覚えられ実践できる教えを何か1つ残していてくれたらなと思うことがある。その意味では、「南無阿弥陀仏」の念仏を唯一のものとした法然の教えは有難いものと思う。
無論、神道でも、「天照大神(アマテラスオオミカミ)」の名を唱えることは、仏教の「南無阿弥陀仏」と全く同じことであるが、偉大な指導者がそう教えてくれていれば、庶衆に定着したかもしれない。

ところで、宗忠が、難病(ハンセン氏病)患者に対し、「ありがたい」という言葉を1日百回言うように教えたことがあった。だが、効果が現れない。宗忠は、それなら千回言えと指示した。それでも駄目なら、「では1万回」となった。患者は素直に従ったところ、1週間後、吐血し、気を失ったが、意識が回復した時、病気は治っていた。
なぜこんなことが起こったのか、いろいろ言う人がいるが、なるべく現代の科学に沿った言い方をするなら、自然の力、つまり、自然治癒力を呼び覚ましたということで、宗教的と言うのもおかしいが、一応、そういうことにするなら、神に全て任せることができたということである。
「ありがたい」と、1日1万回も言っていれば、自分の力というものを全く思わなくなり、いたるところにある不可思議な力を感じざるをえないようになる。その力こそ、自然の力であり、神の力だ。
これは、「南無阿弥陀仏」という念仏も全く同じだが、こちらは、最初から、阿弥陀仏(阿弥陀如来)という至高の存在を信じて全て任せるという意味なのだから、その信仰さえあればより強力な効果が本来はある。経典にも、心のこもった念仏であれば、1回、あるいは、10回でも驚くべき力があると書かれている。
法然上人は、自分は他に何も出来ないからと、「南無阿弥陀仏」を1日6万回唱えたという。

武道の修行でも、例えば、突きや蹴りを何万回と延々繰り返すことで基礎を作るのだが、これは、西洋のスポーツの解釈では説明できない訓練だ。
数万回もやれば、自分の力でやっているという感覚はなくなり、自己を喪失し、動かされているという状態になる。そんな時、純粋な自然の力、神仏の力が身体を動かしているのだ。それを掴めば、人を超越した力が備わるのは当然である。
ある剣術の達人は、木刀で1本の杭にただひたすら打ち込むことを1年続け、その後、たまたま、かなりの猛者に襲われるが、相手の動きが簡単に読め、ほとんど何もせずに倒せた。柳生宗矩も、少年時代の徳川家光に、それをやれば、鉄の兜でも切れると教えたという話がある。

私は、浄土真宗の立派なお寺の住職を長年勤めたお坊様の息子さんから、そのお坊様の死に際のお話を聞いたことがある。
ずっと意識を無くして眠っていたそのお坊様が、急に起き上がり、一言、「我が力やない」と言って絶命された。
浄土系仏教では、自己の力ではなく、仏の力に全面的に頼る絶対他力を説くが、このお坊様はそれを完全に実践したのだろう。この時、経典にあるとおり、阿弥陀如来が2人の菩薩(観世音菩薩と大勢至菩薩)を伴って迎えに来ていたに違いない。









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学力エリート達が哀れでならない

昔から、いわゆるエリート校に通う子供達が、我が国が軍隊を保有することを肯定するような発言をすると、「この子達が、将来、日本の指導者になったら、世の中はどうなるだろう?」と不安視するといった話がよくある。
私は、あまりに馬鹿らしくて苦笑するしかない。
たかだかペーパーテストの成績が良い者が、なぜ指導者にならないといけないのだろう?
そう考えるのは、試験の成績の良い者が指導的な立場なるという、ロクでもない理屈を信じさせられた国民が沢山いたということなのだろう。
むしろ、ペーパー試験の成績を良くするトレーニングを押し付けられて、本当に大切な能力を破壊されてしまった子供達を哀れみ、それを是正するよう働きかけるべきであろう。

国際学力コンクールのようなものがあり、我が国も力を入れているらしいが、上海や韓国、香港、シンガポール等に全く敵わず、将来、日本はこれらの国に支配されるような立場になると心配するようなことも聞く。
しかし、私には、本当に、そんな馬鹿な考え方をする者がいるとは、にわかには信じられないのだ。
以前、テレビで上海か香港の学校で、子供達が猛烈な詰め込み勉強を強制させられている様子が放送されているのを見た。まあ、ごく一部の状況をピックアップしただけかもしれないが、呆れたものだった。しかし、それらの学校では、試験成績だけでなく、身体や心も鍛え、洗練させる高度な教育をしていると主張されていたように思う。だが、どう見ても、極めて視野が狭く、レベルの低い粗悪な教育としか思えない。
なるほど、こんな教育をされた子供達が、偏見や情緒の歪みゆえに、国や世界を脅かすことをする大人に成長するかもしれないという不安なら、多少の同意をすることはやぶさかではないが、それよりも、私には、やはり、そういった教育をされる子供達が哀れだ。
人が内に秘めた、至高の英知に触れる機会を奪われ、それがいつか、言いようのない苦悩になり、道を求めてもがくが、何もできない苦しみを味わうのだ。なんという悲劇であろうか?
馬鹿者に教育された者は、自分に叩き込まれた馬鹿げた偏見や迷信を、おそらくは大きな苦しみと共に吐き出さない限り、本当に優れた者にはならない。
その苦しみは、俗世の教育の成果が大きければ大きいほど激しいものとならざるをえないだろう。

もちろん、学力エリートの中にだって、たまたま優秀な者がいない訳ではない。そういった者が、歪んだ教育の副作用から、社会に害をなしたこともあるだろう。だが、別に問題ない。そんな者達は、せいぜいが小悪人でしかない。
大悪人であれば尊いこともある。だが、大悪人になるには力が要る。保身のために、吊り下げられたちゃちなギフトを奪い合ってきた学力エリートにそんな力はない。
少なくとも、こう考えれば良い。エリートといったところで、釈迦やイエスの知恵と比べれば、せいぜいが猿知恵である。

今はたまたま学力試験が流行っているが、それが、例えばマージャンだと考えてみればいい。各国の教育界や、子供を持つ親達は、血眼になって、子供達のマージャン力を上げようとする。では、マージャンのトップクラスの実力を付けた子供が、偉大な指導者になると本当に考えるのか?
マージャンでイメージが悪ければ、将棋やチェスでも良い。
むしろ、学力試験より、将棋やチェスに優れた者の方が見込みがあるのではないだろうか?
ただし、将棋やチェスも、邪まな動機でやるなら、良い成果は無いものだ。

真の英知は、いたるところにあり、我々の心の深いところにもある。
ところが、世間の教義や信念を叩き込まれた者は、こんなごく自然なことも信じられない。
学力が崇拝される世になってから、尊い教えを理解できる人は少なくなってきた。
だが、表立ってはいないが、隠れて人々の進歩のために献身する方々は存在している。彼らは、「我こそがそれをしている」とは決して言わない。学校を作ってマスコミでPRすることもない。だが、求めれば誰でも助けてもらえるだろう。その助けは、普通の人が思うようなものではないかもしれない。だが、我々が、英知に対して本当に誠実であるなら、見捨てられることはない。









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汚れちまってることに気付いてこそ美しくなれる

『汚れつちまつた悲しみに…』なんて中原中也の詩がある。
「汚れつちまつた悲しみに 今日も小雪の降りかかる・・・」と、延々、愚痴をこぼすような詩だ。
しかし、汚れなければ悲惨だ。
人は、いったん汚れてこそ、本当に美しくなるのだ。
中原中也だって、それは知っていて、まだ幼い心を持っていた時の感慨を表現しただけなのだとは思う。

いや、実際はこうだ。
汚れちまったも何も、人は最初から汚れている。
ただ、それに気付かないうちは、自分がきれいだという妄想を持っているというだけのことだ。
だから、「汚れちまった悲しみに」ではなく、「汚れていることに気付いた悲しみに」というのが本当なのだ。

中学生とか高校生の頃までは、自分が釈迦やイエスに匹敵する、あるいは、それ以上だと思っている人は案外に多いと思う。
相当、甘やかされた、気の毒な子達だ。
アメリカのように、子供の頃からがんがんバイトをさせて、自分の中の汚れに早く気付くのは絶対に良いことだ。早く気付かないと、本当の美しさを得る時期は遅くなる。例えば、15歳で気付けば、50歳で美しさを得るとして、20歳で気付けば、80歳でもどうかといった感じである。
これが、大企業のサラリーマンや公務員になれば、更に遅くなる可能性が高い。200歳まで生きてやっとかもしれない。

史上最強のセールスマン、ジョー・ジラードは、「誰でも最初は優秀なセールスマンとしてスタートする」と言った。
私は、これを、「最初はみんな真面目だが、だんだん怠けるようになるからな」といった意味に解釈していた。
私が最初にやった仕事はセールスマンだったので、セールスマンがいかに怠けるかはよく知っていたのだ。
だが、ジラードの言葉は、最初は企業に洗脳されているといった程度の意味かもしれない。
いまどき、セールスする製品に、ライバル製品、つまり、同じようなライバル会社の製品が無いということは、まず、ありえない。例えば、トヨタの車を売ろうとしたら、日産にも大体同じような車がある。
セールスマンは、会社から、「部分的には他社の製品の方が優れた部分はあるかもしれないが、当社の製品の方が絶対に良いのだ」と叩き込まれる。それを信じているうちは、経験の無いセールスマンでも案外に売れたりする。私も、かけだしの頃、いきなりセールス・コンテストで優勝したことがある。
しかし、やがて、会社の言ったことは嘘だと気付く。そうなると、自分は、客を騙しているのではと思うことになる。時には、売るために、あきらかに客にとって良くないことを押し通してしまうことが絶対にある。
そんな時に、私は本当に思った。
「汚れちまった悲しみに 今日も風さえ吹きすぎる」
だが、その時は気付かなかった。自分は、元々汚れていることを。

尚、私は、『汚れつちまつた悲しみに…』は、平坂読さんの小説、『僕は友達が少ない』で思い出した。アニメでも、小説の通り、ヒロインの三日月夜空が淡々と朗読する。その時の夜空の横顔が美しかった。詩を読みながら、夜空は何を思っていたのだろう。
汚れ(穢れ)について考えるなら、神道の穢れ(気枯れ)について学ぶと良いだろう。穢れを祓うことを学べるかもしれない。









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食べ過ぎてはいけないが、少食過ぎてもいけない

人の運命は、食で全てが決まると江戸時代の高名な観想家の水野南北が言ったが、それは、簡単に言えば、「食が多ければ不運で不幸、食が少なければ、幸運で幸福」である。
水野南北は、命がけで学び、実践で磨き上げた観想で、ほとんどの運命の鑑定に成功したが、どうしても百発百中の的中とならなかった。そのため、荒行を敢行したのだが、その際、豊宇気毘売(トヨウケビメ)から、「食が全て」との啓示を受け、以降、食の多少で鑑定したところ、万に1つの失敗もなくなり、やがては、観想すら行わなくなったともいう。

また、南北は、食の慎みと共に、美食を厳しく戒め、自らも、米を全く食べずに麦を食べ、極めて質素な食事をした。酒は大好きであったが、1日1合(約180mL)と定めた。

だが、高徳な僧の中には、肉食をしたり、酒を飲む者もいる。一休や親鸞などの偉大な僧にすら、そんな者があった。
これについても、南北は明快に、「あまりに高潔であっては、教えを説くべき庶民が近寄れないので、あえてそのようなことをするのである」と言った。

ところで、もう1つ、あまりに清浄でいるべきでない理由がある。
それは、食欲や性欲といったものを、あまりに滅してしまうと、聖人にはなれるかもしれないが、世俗で生きていけなくなる。世俗の生活には、現実的には力がいる。当時も今も、その力とは、金やモノである。あまりに汚れ無き存在となれば、現実に対応できなくなるのである。
南北も、食は厳しく慎んだが、女好きは治らず、妻は8人いたという。だが、ことごとく悪妻だったにも関わらず、妾ではなく全て正妻とし、生涯、大切にした。また、南北は、人にも、食の慎みは説いたが、女に関してはおおらかで、それどころか、大いに食を慎みつつ、大いに女遊びをしろと教えたという話もある。ただ、あくまで、男の誠意を通せる範囲であることが必要とは思う。
また、南北は、食には厳しくとも、慈愛のある人情家であったと思われる。
南北の弟子で、非常な無骨者の弟子がいた。観想の方はいまひとつだったが、誠実だったその弟子に、家一軒を若い娘付きで与えたこともあった。「女中にするも良し、女房にするも良し」ということだったが、その弟子は、娘を妻にし、大事にしたという。

現代は、当時と比べても、世の中は更に汚れていると言える。江戸時代の日本というのは、実は、なかなか素晴らしい社会であったという研究者もおり、私も、いくらかの証拠から、そうに違いないと思う。
現代に生きる我々も、もちろん、食を慎み、また、性欲を煽って儲けようとする連中のカモになってはいけないが、あまりに清浄になると、やはり世間に対抗できなくなる。
私も、1日1食で、完全な菜食主義であるが、会食の際には、肉は食べないながら、魚介類やケーキの類は大いに食べるし、普段でも、黒砂糖や羊羹くらいまでなら食べて良いこととしている。また、適度であれば、萌えもありとしている。
『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは「食べ過ぎてはいけない。しかし、少食過ぎてもいけない」と教えていた。

何事もほどほどに。
孔子も徳川家康も、それが何よりと考えていた。
仏教の教えもまた、中道であり、極端に偏ってはならないとする。
どのくらいが程よく、バランスがとれ適度であるか?それを自分で正しく定め、なおかつ実践できる者のみを大人と言うのだ。
成功も悟りも、まず、大人であることがスタートの条件である。
最終的には聖人や仙人になるも良いが、まずは世間を打ち負かそうではないか?それはたやすいことである。そのためには、やはり食を慎むのが、最も簡単で確実な方法である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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