ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

無敵の力はどこから来るのか

あなたが男性なら、子供と相撲を取ったり、プロレスごっこをしたことがあると思う。あるいは、あなたも子供だったが、ずっと小さい子供を相手にそんなことをしたかもしれない。
そんな時、あなたは、自分が勝つにしろ、相手に怪我をさせないよう手加減をしたはずだ。力の差があり過ぎる場合は、馬鹿でない限りそうするだろう。

もう亡くなったが、アンドレ・ザ・ジャイアントというプロレスラーがいた。彼にとっては、他のプロレスラーとの対戦が、子供を相手にする大人のような感覚だったのだろう。身長が230センチで体重も200キロをはるかに超えていて、大男揃いのプロレスラーも、彼の前では子供のようなものだった。
彼も、時には、エキサイトして見せたり、苦しい顔もするのだが、それは、ファンサービスというか、自分がプロレスラーを続けるための業務上の義務のようなものだろう。
大人が子供相手のプロレスごっこで本気にならないのと同様、アンドレも決して本気で戦ったりなどしなかった。彼は、実はとても繊細で優しい男で、相手に怪我をさせることをひどく恐れていたのだ。
彼と同時代の世界チャンピオンですら、「あいつと俺達人間を、同じに考えないでくれ」と言って、力そのものでは、自分でも全く歯が立たないことを隠しもしなかった。

あなたも、世間の中にあっては、アンドレのようでなくてはならない。
子供を相手にするプロレスラーのように、全てのことを、子供の遊びにしてしまうのだ。そうすれば、どんなことも、あまりに簡単なので、全て自動的に進んでしまうのである。
しかし、そうなっても、あまり欲をかかず、手加減や引き時を心得ていなければならない。
ただの遊びとして、優雅に、できれば気品を持って人生を楽しむべきなのだ。

そして、その力が自分のものではないことを知り、謙虚でなければならない。
その気になれば、いくらでも得られが、快楽に溺れてはならない。
アンドレは、いくらでも金が入ってくるので、贅沢三昧になり、ビールを毎日1ダース飲み、自分で歩くこともしなくなった。それで、40歳を過ぎると、実力的にも、無敵とはいえなくなったし、身体のあちこちに障害が起こり、46歳の若さで亡くなってしまった。
プロレス史上最強と言われたルー・テーズが、素質的には恵まれていなかったと言いながら、46歳の時には、まだ誰にも負けないと思っていたことを自伝の中で明かしていたのとは大変な違いだ。

この世を動かすのは、量子を活動させる力、生物を生かし、進化させる力、星々を動かす力などがあり、それは、なんらかの知性が司っているに違いない。
その至高の力の所有者を神と呼ぶなら、神に全てを委ね、完全とは言えないまでも無に近付けば、世間であなたに逆らうような力はない。

そうなる方法は、傲慢な自我を支配し、全てを神に明け渡す道を見つけることだ。
自我が邪魔をしない限り、無限の力はあなたと一体である。
聖書の詩篇91篇は、そのための心構えを説くものだ。実際、これにより、第1次世界大戦中、5年も戦いながら、1人の死者も出さなかった英国の一連隊があった。率いたのは、ウィットルゼイ大佐と言われる。大佐の指示で、この部隊の全員が、詩篇91篇を暗記し、定期的に唱えたのだ。
これが、至高の力を味方に付ける最も簡単な方法の1つなのだろうと思う。
誰でも奇跡を起こせる2つの言葉(全文掲載)









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ギリシャ神話、古事記を教養として読むは愚かなり

西洋人の著作の中には、さりげなくギリシャ神話のお話が引用されていることがよくある。
こういったことをもって、「西洋では、ギリシャ神話の知識は常識的な教養だ。これについて知らないと、知的な人間と認められない」というのを見たことがあるが、そんなことを主張したがる人は多いような気がする。
そういった部分もあるのかもしれないが、ギリシャ神話とは、常識でもなければ、教養でもない。ましてや、知的人間であることを宣伝するためのものでもない。
もし、ギリシャ神話が尊ばれるとしたら、その中に真理が隠されているからである。だが、真理が明かされるかどうかは、読者によるのである。教養だの見栄のためにそれを読む者は、真に重要なものを得ることはない。彼らはただ、表面的な奇妙なおとぎ話を知るだけなのだ。

それは日本の古事記も同じである。
古事記は、歴史でも文学でもおとぎ話でもない。あれが文学として優れているなんて言う偉い人がいたが、そんなことを本当に信じているのだろうか?
子供に、ギリシャ神話や古事記の読書感想文なんてものを書かせてはいけない。それは、旧約聖書の読書感想文を書くのも同じだ。大人に分かるような感想文を書くことで、それを読んだ意味を失ってしまうのである。
逆に言えば、子供は、ギリシャ神話や古事記、旧約聖書を読めば、本当の意味が分かってしまうのだ。しかし、それは決して大人に説明できるようなものではない。

キリスト教国でも、大人は旧約聖書を理解できず、権威的だが馬鹿げた解釈を受け入れてきた。それは子供を戸惑わせる。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンは子供の時、教会の牧師に、教会の教えが納得できないことを訴えたが、牧師に、「君の考えは悪魔から来ている」と言われた。すると、エマーソンは「それなら僕は悪魔になり切る」と言った。そして、エマーソンはアメリカ最高の賢者になったのだ。

タルムードは旧約聖書の解説書で、それはユダヤ人に大いなる知恵を与えたが、もっと深い旧約聖書の解釈はカバラーである。だが、言葉にできるはずのないことを言葉にしようとしたカバラーは、あまりに抽象的で複雑だ。それは歴史の裏側に隠され、もし正しく用いることができる者がいるとすれば、霊的な魔法使いだけだった。実際、カバラーは魔法の技法である。
しかし、子供の時に、旧約聖書やギリシャ神話、あるいは、古事記に親しめば、楽々と魔法の力を得るのである。ただし、長じてから、教養としてそれらを上書きすることで、魔法の力は失われる。そして、ガラクタに過ぎない教養が残るだけだ。

人が持つべき魔法の力を得るには、7歳の子供になって、それらを読むことだ。
7歳の子供は、高級車や高価な服や宝石を求めたりしない。それらに興味を持つとしたら、単に楽しいからだ。
友達を紹介する時、彼の父親の職業を言ったりしない。彼の好きな遊びを言うものだ。
見た家がどんな家か言うのに、「10万ドルの家」なんて言ったりしない。壁の色や庭の花のことを言うものだ。
7つの子供のようにギリシャ神話や古事記を読めば、世間からすれば不思議な力を得る。
私が昨日以前に書いた私が使ったような力も、ごく普通のことになる。
私も、子供の時にギリシャ神話を読み、とても面白かったことは憶えているが、内容は全く憶えていないのだ。それで良いのである。









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それがどうした!

私にとって、岡本太郎の言葉の中で、最も重要なのは、「爆発だ」よりも、「いいじゃないか」である。

「嫌われたっていいじゃないか」
「誤解されたっていいじゃないか」
「グラスの底に顔があっても、いいじゃないか」

そう言う気持ちは、本当はもっと強い言葉が似合うものである。

「嫌われなければならない」
「誤解されなければならない」
「グラスの底に顔がなければならない」

「嫌われる」「 好かれる」
「誤解される」「 分かってもらえる」
「世間の常識の観念に従っている」「世間の常識からはみ出している」

それがどうした!
そんなことはどうでも良いのである。
もっと大切なことがあるのである。

アニメ『魔法少女リリカルなのは』で、金髪の少女フェイトが、幼い時の母親とのことを思い出すシーンがある。
思い出の中で、母親は、小さなフェイトに優しく微笑みかけるが、なぜか、フェイトに「アリシア」と呼びかける。
「違うよ、母さん。あたしはフェイトだよ」
しかし、母親は何度も、彼女をアリシア呼ぶ。
戸惑うフェイトだが、優しい母親に笑顔を返す。
「まあ・・・いいのかな」
なぜ母親が、自分をアリシアと呼んだのか、フェイトには分からなかった。しかし、フェイトにとって大切なことは、母親が笑顔になることだった。それに比べれば、名前なんかどうでも良かった。
だが、5年後に制作された、ほぼ同じストーリーの劇場版では、そこでフェイトは葛藤するように変えられた。それでも、フェイトは「そんなことはどうでもいい!」と迷いを振り切り、やはり、大切なことは母の願いを叶えることで、そのために全霊を尽くして戦うことを決意した。
その戦いが、正しいことなのかどうかは関係ない。フェイトの心は「それがどうした!」と叫んでいたのだ。フェイトにとって大切なことは、母への愛だけだった。

本当に大切なこと、本当に守りたいものの前では、世間ではどんなに後生大事にしたがるものでも、どうでも良いのである。

マード・マクドナルド・ベインは、初めて、偉大な聖者である師に逢った時、自分がこれまで、どれだけのことを学んできたかを一生懸命に話した。巨大な師には及ばぬまでも、自分も相当なレベルに達していることを分かって欲しかったのだろう。
それを師は、穏やかに聞いていたが、最後に言う。
「それが本当かどうかは、どうでもいいことなのだよ」
その瞬間、ベインは悟る。これまで学んできたことは全て捨て、彼は偉大な神人に生まれ変わったのだ。
ベインの心には「それがどうした!」という思いが広がっていたのだと思う。

「それがどうした」
英語で、“What then?” だ。
アイルランドの詩聖 W.B.イェイツの詩に、まさに、“What then?” というのがある。
ある優等生の少年がいた。
良い学校に入り、立派な仕事を成し遂げ、高い地位を得、素晴らしい友人に恵まれた。世間は彼を賞賛する。まさに成功者の一生である。
彼は誇らしげに言う。
「愚か者よ、騒げ。私は何一つ間違いを犯さなかった。私は勝った」
その時、プラトーンの幽霊が叫んだのだ。

それがどうした!
What then?

人間にとって、本当に大切なことのためには、そんなことは、本当にどうでもいい、下らないことなのだ!
そして、それは、嫌でも思い知る。
この優等生も、遠くなく、破滅の淵で絶望する。いや、気付かないフリをしても、すでにそうなのだ。
だから、ことさらに勝ち誇ってみせるのだ。
真の勝利者は静かなものである。
本当は惨めな敗北者である世間の成功者をよく見よ。外面に惑わされず、その正体を見抜け!
そして、愚かなことに、そんなものを目指す者がいかに多いか。
世間の権威にひれ伏し、塾や予備校に通い、良い大学を目指し、良い会社や機関に就職し、徒党を組んでどこまでも争う。
行き着く先が地獄であるのは明らかであるのに、欲望にとりつかれた浅ましく卑しい心には何も分からない。
そして、惨めな地獄の牢獄で、やっとプラトーンの声を聞くのである。
だったら、今すぐ言おうではないか?
「世界中に誤解された?」「いいじゃないか」「誤解されなければならない」
「皆に嫌われた?」「いいじゃないか」「嫌われないといけない」
「損をした?」「それがどうした」「損しなければならない」
「失敗した?」「それがどうした」「失敗しなければならない」
真に価値あるものを失わないためには。









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私は簡単に引き寄せができる

アメリカの科学技術者で、『ヒマラヤ聖者の生活探求』の著者であるベアード.T.スポールディングは、インドに住んでいた4歳の時、教師にアルファベットを見せられたが、彼はアルファベットを知らなかったのだろう。教師に「分からない」と言った。すると、教師は、「分からない」という考え方を捨てて、「チャンと分かっている」という態度に切り替えないといけないと彼に教えた。そのおかげで、スポールディングは14歳で、名門カルカッタ大学を卒業した。
スポールディングは、本に書いてあるごときことは、もうチャンと分かっているという態度でいなければならないと言う。
関英男博士も、これからは、勉強しなくても、全部分かる時代になると著書で述べられていた。
これらの意味を、よく考えてみると良いと思う。

私は、小学4年生の時、何かのきっかけで天体望遠鏡が欲しくて仕方がなくなった。そして、それは手に入るという態度でいた。
すると、1ヶ月もたたない頃、従兄が、私に天体望遠鏡を譲りたいと言って来た。
晴れて反射式天体望遠鏡を手に入れた私だが、天文の知識など全くゼロだった。しかし、土星を見たいと思った。写真などでは何度も見た土星の輪を、直接見たかったのだ。
しかし、土星が、どの方角にあるのかという大雑把なことすら全く知らない。しかし、私は、土星を見つけられないなどとは考えなかった。
そして、何も考えずに、ある星を選んでファインダーで捕捉し、接眼レンズを覗きながら、望遠鏡の角度を微調整し、ピントを合わせると、その星には環があったのだ。あまり高倍率ではなかったので、ごく小さかったが(高倍率だと捕捉が難しい)、その感激は大きなものだった。それ以降も、私は、いつでも土星を捉えることができた。
尚、私は、初めて反射式天体望遠鏡の操作をした時、まるで10年も使っているように楽々と扱えたのだった。

また、中学校の夏休みのことだ。
私は、ずっと前に見たテレビ番組を思い出し、それをもう一度見るだけではなく、ビデオ(当時はデジタル録画はなかった)に収めたいと思った。あるテレビドラマの1つの回だった。それでどうしたかというと、ただ、テレビを付け、リモコンの録画スイッチを押す準備をしたのだ。あの番組の再放送が行われているとか、行われる予定があるとかの情報など、全く知らないし、調べもしなかった。しかし、私は、それを録画できないなどと考えもしなかった。そして、そんなことを試みて2~3回目だったと思うが、まさに、あの番組のあの回が始まり、望み通り録画した。
他の番組でも、同じことを何度かやったものだ。
あまりに馬鹿げた話に感じるかもしれないが、誓って事実である。
私が子供の頃は、インターネットなど無かったが、グーグルで検索するより簡単に、テレビを付けたら、その場で欲しい情報を得たものだ。まるで、テレビ局を個人用に持っていたようなものである。

他にも・・・
実は、論理的に考えるとあり得ないようなことは数え切れないほどやった。お望みなら、そして私の気が向くなら、延々と語ることができるだろう。

大切なことは、イメージすることでも、強く念じることでもない。
出来ないなどと考えないことだ。
出来て当たり前だという態度でいることである。
ただし、気楽にね。私とて、気楽さがなく、執着が強すぎると、うまくいかないものだった。

私に言わせると、涼宮ハルヒは、中学時代は肩に力が入り過ぎていた。
だが、キョンと出会ってからは、心を落ち着けることができたのだ。それで、席替えの度、必ずキョンの真後ろの席を引き当てるようなことをやったのだろう。私も、似たようなことはよくやったものである。
ハルヒが力を発揮するには、キョンのような鎮静剤が必要だったのだろう。

ジョセフ・マーフィーの『眠りながら成功する』だったと思うが、マーフィーはよく、ソフトタッチであること、つまり、気楽さの必要性を強調していたが、それを見て私は、マーフィーは本当にやり方を知っていたのだなあと思った。
政木和三さんも、著書には真面目なことばかり書いているが、何度か私と、そういった気楽な引き寄せの話をしたものだ。あの政木さんが、子供のように照れながら話をされていたのが懐かしい。
そもそもが、政木さんと何度も会ったり、親しく2人で食事をできたのも、引き寄せの1つであろうし、昨年、ライブドアブログ奨学金を引き当てたのもそうだろう。

ウォレス・ワトルズ(金持ちになる科学)も、チャールズ・ハアネル(ザ・マスター・キー)も、ロンダ・バーン(ザ・シークレット)も真面目過ぎる。そして、ある欠点がある。巨万の富なんて不要なものだ。気楽に富豪になることなんか出来やしない。私なら御免である。マゾでもない限り、億万長者など目指さないことだ。邱永漢さんが言ったように、金はある程度あれば後は同じだ。邱永漢さんは、30~40年前と思うが、使えるお金が月百万円あれば、それ以上は意味がないと言ったが、今でも同じようなものだと思う。
だが、そういったことを除けば、本当のことが書かれている素晴らしいものである。

ところで、あなたには、ハルヒのように、精神安定剤としてキョンのような存在が必ずしも必要な訳ではない。
壮大な自然の風景を見たり、荘厳な夕陽を眺めたり、美しい花を見たり、あるいは、猫と遊ぶと良い。
美しい詩を朗読したり暗誦するのも良いだろう。心を落ち着かせる美しい絵画を眺めたり、音楽を聴くのも良い。
マーフィーの言うソフトタッチでいくためには、気楽さが必要である。そのために、大きな力を発揮するのが、昨夜もご紹介した、聖書の詩篇91、あるいは、23である。以下に、詩篇23編の全文をご紹介しておこう。口語訳聖書(1955年)で、既に、著作権有効期限は過ぎている。

(ダビデの歌)
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

















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誰でも奇跡を起こせる2つの言葉(全文掲載)

ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』に、こんな話がある。
これは、英国の科学技術者F.L.ローソンの著書にあるもののようだ。
第2次世界大戦で、ウイットレイ大佐率いる1連隊は、5年間戦って1人の死者も出さなかったという。
その秘訣は、その連隊の将校、兵士の全員が、聖書の詩篇91編を暗記し、定期的に唱えたことにあるという。

アメリカの科学技術者で探検家、講演家でもあったベアード.T.スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻では、著者のスポールディングが、このF.L.ローソンをロンドンに訪ねた時の話がある。
スポールディングとローソンが見ている前で、こんなことが起こった。岩を積んだ馬車から御者が降りた後、その車体が傾き、積荷の岩が彼の上に落下したのだ。その時、ローソンは、「神の他には何もない。ただ神あるのみ」と言った。すると、下敷きになったはずの男は、全くの無傷で出て来たという。
この本では、ローソン自身が、第1次世界大戦で部下数百人を率い、1人の負傷者も出さずに、全員復帰させたことが紹介されていた。それは、この「神の他に何もなし」というローソンの思想のためであったという。
尚、この『ヒマラヤ聖者の生活探求』の第5巻は、この1冊単独でも、秘法が満載の貴重な書である。全5巻が読めなくても、1巻と5巻を読むことをお奨めする。

以下に、2005年に著作権保護期間が過ぎている口語訳聖書(1955年)の、詩篇91編の全文を掲載する。
私は今、これの暗記を目指しているところだ。

いと高き者のもとにある隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。
彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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