ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

人生はやはり面白い

創造主は、我々を楽しませたいに違いない。
私がいつもお話しているように、食を慎み、腕振り運動をし、不要なものを求めないようにすれば、健康になるだろうし、まあ、お金に困ることもない。
しかし、それで満足していては何にもならないのである。
いかに厳しく食を節し、大変な数の腕振り運動をしても、それだけで止まってしまっていれば、困難が襲ってくるだろう。
健康で、生活にゆとりが出来たなら、次は存分に楽しまなければならない。
しかし、自分だけ安楽でいれば良いと思っていると、苦難がやってくる。それは、苦難を克服することで楽しませるためだ。
また、間違った楽しみ方をしている場合は、必ず苦痛を味わう。間違った楽しみ方とは、肉体感覚だけを喜ばせたり、他者を苦しめることだ。快楽と苦痛が同じものであるというのは事実である。
正しい楽しみ方とは、他者を喜ばせることである。ただし、他者を喜ばせるには力が要る。自分の面倒を自分で見れない人が、他人の役に立ったりはしない。

ただ、イエスくらい力があれば、いくらでも他人を喜ばせることもできるが、そうなると、今度は加減を知らなくてはならないのである。
例えば、ホームレスの人に毎日、高級な料理をご馳走するなど、馬鹿のやることである。
反キリスト主義者の誤りは、このあたりの解釈の誤解にある。
オスカー・ワイルドの『善をなす魂』では、イエスに救われた人々・・・目を開かされた盲人、罪を許された娼婦、死から蘇ったラザロらが、その後、皆、不幸になっていて、イエスを愕然とさせるのである。
大きな恵みを与えられても、内なる英知を求めることを忘れてしまっては、かえって不幸になるのは確かである。だが、仮にそうであっても、それはイエスの責任ではない。しかし、我々も、与える時には慎重になるべきという警告ではあるかもしれない。

黒住宗忠は、全て神様に任せてしまえば、面白いこと、楽しいことばかりであると言った。
なぜなら、我々は、万物を創造し、星を運行させ、生物を進化させる無限の英知である神の表現体だからである。偉大なことが出来て当たり前なのであり、自分自身が、それを見て、驚愕して楽しむのである。









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サルトル、エマーソン、マーフィーが明かした秘法は同じだった

小説の中には、一人称で語られる、つまり、全体を通して、「私は・・・」「僕は・・・」といった調子で書かれたものがある。この場合は、主人公である1人の人物の視点で描かれた作品ということである。だが、そうでなくても、どんな作品でも、大なり小なり、主人公の視点が大きな割合を占めているだろう。登場人物達の視点が公平に取り上げられていたら、さぞ締まらないものになるのは間違いない。
『フランダースの犬』では、主にネロの視点で語られるし、『三銃士』だって、ダルタニアン視点の描写が当然多い。『若草物語』では、4人の姉妹のそれぞれの感情が表現されはするが、やはり、作者自身でもあるジョーの視点で描かれている。

ところで、小説は、主人公ではなく、別の登場人物の視点で描き直すと、実に斬新で面白いものだ。
実際、ある作品を、本来の主人公とは異なる登場人物を主人公にして作り直すこともある。ただ、小説作品で、そんなことを同じ小説の形で行う権利があるのは著者だけであるので、古典的作品を映画で行うようなものが多いだろう。例えば、『アーサー王物語』をランスロットやマーリンを主人公にした映画にする等である。

『涼宮ハルヒの憂鬱』および、その後の涼宮ハルヒシリーズでは、主人公は、「俺は・・・」と一人称で語り続けるキョンである。ハルヒは主人公ではなく、ヒロインとでもいうものだ。
しかし、これを、「私は・・・」とハルヒ視点で語ると面白いかもしれない。だが、そんなことをしなくても、作品中で、ハルヒや、あるいは、別の登場人物達の視点や感情が、キョンを通して描かれることは多い。それを、キョン自身は気付いていないように描いてしまうこともある。読者は分かるが、語っているキョン自体は分かっていないという奇妙なものだが、これもまた、小説を面白くする手法の1つかもしれない。
むしろ、ハルヒ視点のものを、著者が本当に描くよりも、ハルヒの視点や感情がぼかされるのが良いに違いない。
『僕は友達が少ない』は、主人公は小鷹という高校2年生男子だが、著者自身がヒロインの三日月夜空視点で少し描き直した企画が実施されたが、読んでみて案外に面白くないと感じたものである。やはり、ものごとは、曖昧に語り、想像させることが大切なこともある。俳句や和歌に風情があるのは、著者が語ることを最小限にすることで、後は読み手の想像力に委ねるからである。

ところで、物語には、登場人物が1人か、ほとんど1人というものがある。その場合は、一人称で語らず、むしろ、客観的に描くことで、読者の想像力に訴え、作品に深みを与えるものである。
ゆえに、読み手に想像力や深い思想がなければ、何の価値もない作品になることもあるが、読むべき者が読めば、壮大であったり、深遠な作品になるのである。これは、登場人物が多い小説でも同じであるが、1人の登場人物を見つめるものは、特にそうで、読者が試されるのである。そのような作品として、『老人と海』や『マッチ売りの少女』が思い浮かぶ。こういった作品を読みながら、読者は想像力を働かせているうちに、物語の1人の登場人物を見守る神になるのである。そして、その神の視点で自分を見つめるようにもなる。
偉大な文学を読む意味もそこにある。
『新約聖書』の4つの福音書は、主人公のイエスを、4人の異なる著者が客観的に描いた物語である。そして、この物語は、それよりも昔に、既に予言されていることが展開していくのである。読者は、イエスの言葉を学ぶ真摯な弟子であると共に、イエスを見守り、イエスの物語を決定した神に近いものなのだ。イエス自身、父なる神と自分は一体であると言う。実に、読者、主人公、著者と真の著者である神、全てに区別が無いのである。

サルトルは、小説を読むことは、その小説を再度、自分で書くことであると言った。
エマーソンは、いかなる偉大な人物の物語を読む時も、自分のことが書かれていると思わなければならないと言った。
ジョセフ・マーフィーは、『ヨブ記』など、古代の偉大な書を読む時は、かつて自分がそれを書いた時のことを思い出して読めと言った。
福音書を読む時、我々は、教えを受ける者であり、イエスであり、神なのである。









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仙人になる原理と方法

仙人とは何かというと、ちょっと難しい。
日本では、深山に住み、霞を食って生きている、白髪と長い髭のお爺さんのイメージがあるかもしれないが、それは、我が国で、たまたまそうなっただけだろう。
中国の古典『神仙伝』『列仙伝』に、数多くの仙人が登場するが、長く生きていても姿は若い仙人や、美しい女の仙人である仙女もいる。
『荘子』にも、雪のように白い肌をした、乙女のような華奢な身体つきの仙人が登場するが、これが大変な力を持っている。

仙人とは、簡単に言えば、神に近い人間のことだ。
だから、神に出来ることが全て出来るとは言わないまでも、神に出来て人に出来ないことが出来る。どのくらい出来るかというと、仙人にも色々なレベルがあり、神に極めて近いものもあれば、人間を超えてはいるが、何かの分野で達人とか超人と言う程度の者もいる。
また、仙人は、神と違い、肉体を持っている。ただ、これもレベルによるだろうが、肉体をかなり自在に支配する力を持っている。70歳でありながら30歳にしか見えないというレベルもあれば、1000年以上生きていて、見かけは17歳ということもあるかもしれない。

では、以下に、我々も仙人になれるということが、現実的なことであることをお話する。

人間の中には神が存在するのである。
特に仙人にならなくても、内にいる神に全面的に頼り、その力を借りることが出来るなら同じことである。
ジョセフ・マーフィーは、神は、潜在意識の奥深くに存在すると言う。一応、神と言ったが、他にも、大霊とか、至高者、あるいは、宇宙の英知と言う場合もある。そして、マーフィーは、神と意志を通じ合わせる能力のことを、テレサイキック(telepsychic)と言い、通常の超能力(サイキック)の上にtele(遠距離)という言葉が付き、潜在意識の奥深くという、普通の人間にとっては遠くにある場所と通信することで、無限の英知、無限の力の助けを借りることを意味している。

仙人は、人間が、この内なる神、あるいは、内なる英知と一体化する前の段階として、自らの意志で、神には及ばないながら、奇跡の力を発揮できる存在と言える。つまり、人が、内なる神と似てくるのであり、そんな者のことを仙人と言うのだ。
これについて、喩えで話そう。
ジョージ・アダムスキーは、人とペットがいつも一緒にいれば、ペットが飼い主に似てくることを引き合いにしたことがある。同じように、人が常に神を想い、その存在を感じていると、人は神に似てくるのだ。つまり、自我と、神である真我が溶け合い、両者が一体化するのである。
聖書にも「神と和らぎ(親しくし)、平和でいなさい。そうすれば幸福になるでしょう」と書かれている。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、彼が書いた不思議な手記の中に登場するアラブ人に、「偶然を自分の意志とした時に、私は神に近付く」と言わせている。偶然とは、神の意志であり、本来は必然だ。それが起こることを、自分の意志であるとすれば、自分は既に神なのである。

仙人になるのは難しいかもしれないが、人のままで、無限の力の援助を得ることは、誰でも、いつでも出来るし、現に受けている。望ましい助けを得ることができるかどうかは、我々次第である。
自ら神と融和して仙人となるか、平凡な人間であっても、全て神に委ね切って大安心を得るかである。ラマナ・マハルシは、いずれも実は同じことであると言う。









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愉快な冒険者

「寝覚めが悪い」という言葉がある。「寝覚め」でも「目覚め」でも同じだと思うのだが、「寝覚めが悪い」で、過去の悪い行いのせいで、起床時に、良心に責めさいなまれるということで、これは、多くの人の経験から生まれた言葉だろうし、おそらく、大なり小なり、誰でも覚えがあることと思う。
なぜ、寝覚めの時なのか不思議なものだが、心の無い、眠りの状態というのは、善の状態なのだと思う。そのため、冷酷非道な悪人であっても、夢の中では、悪いことをしようとしたら、邪魔が入ったり、恐い目に遭ったりするのである。
これらから考えると、我々の内奥にある、善なる魂は、心の活動により、隠れてしまうと考えて間違いないのではないかと思う。日中でも、心を静めて、無我の状態になれば、崇高なことをしたり、奇跡を起こしたりするものだ。

ところで、自分が悪いことをしたというのではないが、寝覚め、あるいは、目覚めの時の気分が悪いということがあるかもしれない。
特に、月曜の朝がそうであるなら、社会生活・・・具体的には、学校や会社などが面白くないのであろう。そんな人は、もし土日が休みなら、土曜の朝は特に気分がいいだろうし、長期休暇の最初の朝など、天国にいる気分かもしれない。
本当なら、私も、小学校や中学校の夏休みの初日の朝は気分が高揚したはずであるが、ラジオ体操のような集団行動をしなければならなかったので、どちらかというと憂鬱で、最も喜びに溢れたのは、夏休みが始まる前日の下校の時だった。まあ、ここでも通知表というものがあり、学校というのは、つくづく、子供の気持ちを重苦しくさせることで、子供に無力感を与えたいもののようだ。学校というのは、国家の奴隷生産工場なのであるから、当然、そうなのであるが、我々はその影響を脱し、奴隷をやめなければならない。

朝の目覚めの時の気分は大切である。今の日本人で、これが良い人は、まずいないだろう。そして、最悪の気分の人が増えている。それは、世間の奴隷であることを意味し、人間性を失ってしまったことを表している。眠りの時に輝いている善なる魂の警告なのだ。
映画『タイタニック』で、ジャックは、「今日は未知の日」だと言い、それを受け入れて喜び、賛美すると、心の汚れた上流階級の人達をも感激させた。
世間では、今日は未知なんかじゃない。全部決まっている、うんざりする毎日だ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、戯曲『カルヴァリー』で、イエスすら屈服させたローマ兵士に言わせる。「予期できぬことでさえあれば、起こるのが最善」と。
CLAMP(4人組の女性漫画家ユニット)の『カードキャプターさくら』で、世界最高の魔導師クロウ・リードの転生であるエリオルは、しもべのスピネルに問う。「この世で、一番楽しいことは何か知ってるかね?スピネル」。スピネルは、思いつかないのか、「何ですか?エリオル」と尋ね返すと、エリオルは深い確信を込めて言う。「予想しないことが起こることさ」と。

未知を選べ。予想できない日々を楽しめ。人生は冒険であるのが本質だ。
将来の心配をして、受験に励み、良い就職を目指す者は、皆、心が歪み、荒れ、その薄汚れた目標を成し遂げた後で、人として悲惨な状態になっていることが分かるだろう。
わくわくせよなどと言うが、そのためには、人生が予想不可能な冒険であることを受け入れなければならない。
世間的な安心をつかんで冒険なんか出来るはずがないではないか?
聖書の詩篇23と91は、それを行う勇気を与えるものである。暗記するまで読むと、あなたは、心楽しい、勇敢なadventurer(アドベンチャラー。冒険者)である。

もう何も恐くはないよ 結んだ視線そらさずに
大切な「今」始める
~『ETERNAL BLAZE』(作詞、歌:水樹奈々)より~









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情けは必ず人のためになる

「親切が仇(あだ)になる」という言葉がある。仇とは、「害をなすもの、とか、危害」という意味だ。
この言葉は、断じて嘘である。親切が害になるはずがない。
こう言うと、「ろくでなしや、甘ったれに金を与え続ければ、そいつらをますます駄目にするじゃないか?」と反論したがる人もいるかもしれない。
それはおかしい。
そんな愚かな行為を親切と解釈することが、あまりにおかしいのだ。

自我を満足させる行為は親切ではない。親切の中に自我はない。
ろくでなしや甘ったれに金を与えるのは、単に自己満足なのだ。

過保護が悪いという。
全くの嘘だ。保護はいくら大きくても良いものだ。
しかし、問題になる過保護とやらは、全く保護していないばかりか、弱い人達を守る衣服すら剥ぎ取っているのだ。
世間でいう過保護は、保護する力を奪い去りながら、保護しているという幻想で自己満足しているだけなのだ。
子供達の保護が足りない。全く足りない。子供達は、みんな死に絶えている。少しは保護したらどうなのか。

我が心の師、政木和三は「情けは人の為ならず」について、「情けは、巡り巡って自分に返って来るので、おおいにかけろ」と述べた。
半分は合ってる。
しかし、情けは人のためにもなるのだ。
情け、親切、思いやり、慈愛・・・善意が人のためにならないはずが無い。そして、自他の区別なく良いものなのだ。

親切とか情けは、100万円持っている人が10万円をやることじゃあない。30万円でもない。
100万円全部あげることだ。
それ以外を親切とも、情けとも、思いやりとも、慈愛とも言わない。
数千億円あるものが百億円出すのは、愛ではない。欺瞞か、そうでないなら、ただの見栄か気紛れだ。
見栄や気紛れが悪いとは言わない。だが、見栄や気紛れで売名をしてはならない。それは、本人に仇をなす。
私は、相当な見栄っ張りの気紛れでいよう。

こんな時には、見栄も本当に有難いものだと思った。
~「ダイヤモンド製造家(H.G.ウェルズ)」より。ダイヤモンド製造実験を行っている男が、その実験に必要な炭を買う金を、女性達への見栄で恵んでくれた男に対して思ったこと~









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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