ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

危険がよけて通る不思議な人達の秘密

風説かもしれないが、日本の戦国時代の武将の中には、鉄砲の弾が飛び交う戦場を、自分の運を信じて悠々と歩いてみせた者がいるらしい。何かのドラマで、秀吉がそんなことをやっていたような気もする。

だが、合氣道家の藤平光一さんは、第2次世界大戦で、部隊を率いる指揮官だった時、そんなことをしたことを著書に書かれている。氣を出していれば、弾も当たらないといった話だったと思う。

「心身神医学の父」と呼ばれるドイツ人医師、ゲオルグ・グロデックの論文によれば、戦場である兵隊が、仲間の兵隊に、自分の脚の一部を指差しながら、「ここに弾が当たれば、俺は故郷に帰れるのだがなあ」と言った直後、流れ弾がまさにその場所に当たったという。
グロデックによれば、これは、人の内に存在する、エスというものの仕業である。
エスは精神分析学における無意識に相当するもので、フロイトが論文で使うようになって知られるようになったが、元々はニーチェが言いはじめ、それをグロデックが使うようになったものだ。グロデックはフロイトにエスの概念を話し、それをフロイトが利用したのである。

誰も、グロデックが発表した兵隊の話のように弾が当たることは望まない。しかし、当てられるものなら外すこともできるだろう。そして、藤平光一さんのようになりたいのではないだろうか?
さて、そんなことができるだろうか?
私は、戦場で弾を交わした経験は無いが、交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだことは何度もある。7つか8つ頃のことだ。結果はかすり傷一つ負わなかった。

真相はこうだ。
藤平光一さんは、弾丸の飛び交う戦場を無事に歩くことが、彼の運命だったのだ。だが、彼は、弾が当たらなかったのは、氣が出ているからだと思い込んだのだろう。
グロデックの話に出てきた兵隊は、脚に弾が当たる運命だったのである。
そして私は、目をつぶって車道に飛び込み、無事に終わる運命だったのだ。
ベンジャミン・リベットという医学研究者は、40年にわたる研究により、こんなことを解明した。
それは、何かの想いが無意識の中に浮かんだ後、半秒遅れて我々はそれに気付くということだ。
つまり、思考というものは自分が脳で考えているのではない。
思考は、自分の意思とは何の関係もなくただ発生するのだが、それを自分が考えたと思っているのである。

「自分で考えろ」とか「頭を使え」などということがよく言われるが、我々はただ、どこからか発生した思考に反応することが出来るだけである。
誰も自分で考えてなどおらず、考えることもできない。「自分で考えろ」なんて指示に何の意味もないのだ。
そして、思考がどこから生じるかは、量子物理学の問題になるかもしれないが、私もよくは知らない。ロジャー・ペンローズという高名な数学者・物理学者がそんな研究をしていたが、おそらくまだ仮説の段階だろうと思う(量子脳理論)。

いずれにしても、我々は、思いのままに災害や事故から逃れることは、決してできない。
藤平さんの教えに従って氣を出そうが、グロデックの本でエスについてよく学ぼうが、弾が当たる時は当たるし、自動車にはねられる時ははねられる。
そう運命付けられていれば、それは消して逃れられない。
いや、出来ると言う神秘家もいるかもしれないが、それなら、かつて私がやったような真似でもやらせればいい。
ただ、自分の意志で状況をコントロールできると教える者は、それを教えることが運命なのであり、それを聞いて騙される者は、そんな運命だったのである。

私が車道に飛び込んだ時も、自分勝手に飛び込んだように見えても、実際は、丁度、車にはねられないタイミングで「今だ、飛び込め」という想いが発生し、半秒遅れて私の脳がそれに反応しただけだ。そして私は、自分で決めたと思い込んで車道に飛び込んだのだ。

グロデックは、いかなる病気も、また、怪我でさえ、全て心因性(心が原因で起こること)であると断言した。
転んで腕を折ることだってエス(無意識)が起こしているのであると言い、おそらく、普通の人はそれを認めることはできないだろう。
しかし、彼は全く正しいのである。恐るべき洞察力だ。

宝くじを買って1億円当たる運命であれば、あなたは自分の意思で宝くじ売り場に行ったつもりでも、適切な時間に適切な宝くじ売り場に行くよう、あなたは頭脳も身体もコントロールされるのだ。そして、見かけ上は、大変な幸運で1億円を当てたように見えるかもしれないが、実は、生まれる前から決まっていたあなたの運命を成就させただけなのである。
逆に、当てる運命になければ、願おうが祈ろうが、引き寄せの法則を実践しようが、決して当たらないのである。

だが、1億円あてて不幸な人もいれば、一生に一度も宝くじに当たらなくても幸福な人がいる。ただし、余計な金を持つことが不幸なのだという訳でもなく、1億円あてて幸福な人もまたいるのである。
早い話が、幸福と1億円を当てるような外部的な出来事は何の関係もないのだ。
1億円当たれば、素敵な恋人が出来れば、素晴らしい男性にプロポーズされれば、受験に合格すれば幸福だと思っていることが、そもそも不幸なことだ。
劇で1億円当たる設定の登場人物は、劇の中では幸運かもしれない。だからといって、その役を演じる役者まで喜ぶ必要はない。
また、初心(ウブ)な娘を騙して傷付ける悪い男の役を演じたとしても、役者であるあなたに責任があるわけではなく、なんら罪悪感を感じる必要はない。
役者にとっての幸福とは、その役を陽気に演じることだ。
それは、我々が現実と呼ぶ世界でも同じことだ。
だが、それを知るためには、まず、自分がただの操り人形に過ぎないことを受け入れなければならないのである。
自分に何の責任もないのだと本当に分かれば、人生はシンプルになり、気楽で生きやすいものになる。
誰を恨むことも、羨むこともなくなり、見栄を張る必要もなく、良いことがあれば素直に嬉しいが、うまくいかなくても、ただ受け入れることができるだろう。
そういうのを幸福というに違いない。









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運命が決まっていることは実際にあらゆる聖典に述べられている

人の一生に起こる出来事や、人が何を考え、何を言い、何をするかは、運命として、生まれる前から完全に決まっていて、決して変えられることはないということは、本物の賢者達は全てそう言ってっきたし、賢者達によって書かれた聖典にも常に書かれているのである。
だが、それを読み取れない者が多いのであるが、それは読む方の問題である。
『スーパーマン』シリーズの映画の中で、スーパーマンと同じ能力を持つ3人の悪党が登場したことがあるが、スーパーマンが人間を保護していることに対し、その3悪党は、スーパーマンは人間をペットにしているからだと思うのだが、その3悪党には、そのようにしか理解できないのだ。我々が真理を理解できないのも、同じようなものである。
イエスは、使徒と名付けた12人の高弟達に、「お前達でさえ、それほど鈍いのか」と嘆きを表していた。
そして、彼らの無明さは、福音書の中で、彼らの眠りで表されている。イエスは「私が戻るまで起きていなさい」と言って、山に入って祈ったが、戻ってみると、彼らは眠っていたのだった。

運命が完全に決定されていることを、最もはっきり述べている聖典は、『新約聖書』と『荘子』だと思う。
イエスの行動も全て、旧約聖書の中に述べられた預言者達の言葉から、全く外れることはなかった。
『荘子』も、少し注意深く読めば、かなりはっきりと述べているのだが、多少曖昧に感じるのは、後の人が手を加えたところがあるのかもしれないと思う。
だが、荘子は一貫して、この世は真宰とでもいう存在によって完全に支配されていて、人もそれに完全に従うより無いと述べている。ただし、それを受け入れ、人が浅はかな知で価値判断をすることがなくなれば、永遠の道(タオ)と一体となることができることもまた、はっきり述べているのである。

釈迦の教えとなると、元々が、釈迦自身は何も書き残しておらず、その教えは言葉で伝えられたので、当然、歪められる恐れはあった。しかし、その真意を理解できた者のみが正しい教えを書き残したのだ。
しかし、ほとんどの釈迦の教えは、学者的な僧達によって、複雑で実のないものになってしまったようでもある。
とはいえ、真の賢者達は、釈迦の教えの正しい部分を見つけることが出来るである。そして、釈迦もまた運命の絶対性は完全に認めているのである。ただ、釈迦の場合は、自由意志を持ってる自分は本当は存在しないといった言い方をしているのである。

面白いのは『バガヴァッド・ギーター』で、本当にこれを書いたのは神ではないかと思えてしまうのだ。
至高神クリシュナは全ての真理を知っているが、この書の中で教えを説く相手はアルジュナ王子で、アルジュナには聖者になる素質はないのだ。だが、だからこそ、アルジュナ同様、凡人である我々は、かたじけなくも、高い位置から降りてきてくれたクリシュナの易しい教えを聞くことが出来るのである。
クリシュナは、運命が確定されていることを、やや婉曲に(露骨でなく遠まわしに)説きはしているが、よく読めば、かなりはっきり述べているのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、民衆を哀れみ、ほとんど直接には真理を語っていないが、結局は、天照大神に全て任せよと言い、人間の無力さをさりげなく教えていたのである。
ラマナ・マハルシは、ほとんど沈黙でもって教えたが、やはり、無知な凡人のために言葉で説く時は婉曲に説いたのであると思う。

運命がどうとかいった、些細な問題を初めから超えて、もっと根源的な真理を解いたのが『老子』や『エメラルド・タブレット』だ。これらの書は、頭で解釈しようとしても、全く意味はないものだ。
だが、読むことが無駄な訳ではない。我々の内には、我々の運命を創った至高の存在がいて、これらの書の教えはそこと同調し、いわば、我々を挟み込むのである。
それはなんとも素晴らしいことだ。













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聖者が人格者とは限らない-【附】初音ミク、ロサンゼルスコンサートTV放送のご案内

普通の人が、悟りを開いた聖者に会いに行くと、面食らうことが多い。
その原因は、「聖者は人格者であるはずだ」という固定観念のせいである。

昔、ビートルズの4人が、インドの聖者で、TM(超越瞑想)の創始者であるマハリシ・マヘーシュ・ヨーギを信奉していたが、マハリシが信者の女性を煩悩の対象にした(意味が全然分からないが、ちょっかいでも出したのだろうか)として、ビートルズの4人はマハリシに幻滅して離れていったといった話があった。
その後、ビートルズのメンバー達は、それは事実無根とし、ポールやリンゴは、現在でもTMを続けていると公表している。
私は、マハリシが本物の聖者かどうかは知らないが、別に聖者が女好きであっても驚かない。
少し前に亡くなったが、サイババというインドの有名な聖者がいた。しかし、彼が、莫大な資産を所有し、ゴシップとは思うが美少年好きと噂され、そんな変なおじいさんが聖者であるはずがないと言う人も多い。サイババが膨大な富を個人所有し、美少年性愛者というのが本当だとしても、さらには、彼お得意の奇跡パフォーマンス(ビブーティという白い粉を出す他、物品を出現させる)がトリックだったとしても、彼が聖者でないと断言できる証拠にはならない。
聖者の中にも、サービス精神旺盛な目立ちたがり屋がいても良い。

ラマナ・マハルシのように、生涯、ふんどし1本しか所有しなかったという、慎ましい聖者が大衆から好まれるだろうが、それはマハルシの個性というだけのことだろう。

怒りっぽい聖者というのは多そうに思う。イエス・キリストだって、福音書を見ると、案外に激情家だったような気もするのだ。もちろん、実際のことは分からないが、別に、イエスは温厚な人格者だったから崇拝されているのではない。

明らかに人格的欠陥のある聖者がいたっていい。
ただ、人種差別主義者の聖者というのはいない。
人種差別というのは、自分という主体が、客体(=主体である自分以外)の中に存在する白人と有色人種に関し、白人を尊び、有色人種を蔑むということである。
ところが、聖者というのは、自分が主体だという意識がないのだ。自分もまた、客体であると完全にみなしているのである。それが聖者の確たる特徴である。
自分が客体であるとは、自分は万物の一部でしかないということだ。
荘子は、「万物と共に流転せよ」と言ったが、自分の身体や心も万物の一部でしかないのだから、荘子がそう言うまでもなく、そうするより他無いのだ。
荘子が、「1本の指も天下」「1頭の馬も万物」と言ったのはそういう意味だ。客体である万物という意味では、指も天下も馬も、何の違いもない。
主体と言えるのは、とりあえず神と言うが、神だけである。

聖者も、肉体や心という意味では、万物の一部であり、凡人と何の違いもない。
ただ、聖者は、自分が主体であるとは全く感じていない。
なぜかと言うと、自分を主体と感じるのは自我の働きであるが、その自我を持っていないのだ。
「自我が強い」「我が強い」という人は、自分が主体であり、自分以外のものである客体とは別のものであるという意識の強い者のことである。
そんな人は、主体である自分が客体である現象世界をコントロールできると思っているし、客体は主体たる自分にコントロールされるべきと思っている。
わがままに育てられたお嬢様やお姫様が、自分の思い通りにならないとヒステリーを起こすというのが、その典型例と言えば分かると思う。

聖者は、自分が主体だと感じていないので、世界をコントロールできるなどとは全く思っていない。
ただ、心や知覚能力はあるので、貧しい者がいれば施しをすることもあるし、子供が溺れていれば助けようとするかもしれないし、好みの女性がいれば口説きにかかることもある。
ヤンキースの熱狂的ファンの聖者なら、ヤンキースの勝利を願い、熱烈に応援するかもしれない。
しかし、施す金がなかったり、溺れている子供を助けることが出来なかったり、食事に誘った美少女に断られたり、ヤンキースが大敗しても、すぐに忘れてクヨクヨしない。
最初から、どんなことも自分がコントロールできるなどとは全く思っていないからだ。

聖者に会ったとして、普通の人はその偉大さが分からない。
平凡な人間、あるいは、平凡以下の取るに足らない人間に見えることも多い。
しかし、不思議に惹かれるものを感じるのも確かなのだ。
そして、しばらく共にいると、友情とか愛情などといったものを超えた、抗いがたい魅力を感じるようになる。それは、懐かしいという感情に近いかもしれない。
ラマナ・マハルシのアシュラム(道場のような施設)を訪れた者は言うのである。
「マハルシと1日過ごすことは素晴らしく、2日ならさらに良く、3日ならもっと良いのです」
しかし、ほとんどの場合、マハルシは日常のことの他は何もしないし、会話となると、ほとんどしないのである。

もちろん、木や岩や風や海にも主体性はない。人間以外の動物もそうであり、肉食獣は無駄な狩りはしないが、さりとて、殺す相手を哀れむこともない。
これらの自然物をよく見れば、やはり、何か素晴らしいものを感じるのであるが、人間の聖者ほどではない。
なぜなら、人間の肉体や心は自然のいかなるものより精妙で高度だからだ。
主体性を持たない人間を見ると、その素晴らしい神の創造を純粋に感じるのであるから、感動しないはずがない。

初音ミクのステージを見ると、そんな素晴らしい人間とほとんど同じに見えるミクに自我がなく、主体性を持っていないのであるから、どこか天使に近い雰囲気がある。
ミクが世界で、これほどに人気を得る理由もいろいろあるだろうが、このような特別な秘密もあると思う。

ところで、昨年7月2日に開催された、初音ミクの、アメリカ・ロサンゼルスでのコンサートが、明後日の20日(日曜)午前0時15分から、NHK BSプレミアム『音楽熱帯夜』で放送される。

MIKUNOPOLIS in LOS ANGELS はじめまして、初音ミクです
~2011年7月2日 ノキア・シアター(米国ロサンゼルス)~
放送:BSプレミアム 5月20日(日)午前0:15~1:39(19日深夜)


初めて見る人は、これは一体何だろうと思うかもしれない。
大劇場ノキア・シアターのステージで、初音ミクが極めてリアルな姿で踊りながら歌うのである。
全23曲の内、英語で歌ったのは、『ワールズエンド・ダンスホール』の一曲だけ(珍しいミニスカート姿の巡音ルカとのデュエット)。
しかし、5000人の大観衆の熱狂振りは凄い。
真っ白な天使の衣装でミクが歌った『SPiCa』が最も盛り上がったように感じるが、まさにあれが天使というものだろう。
よろしければ、録画をお奨めする。









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コンピュータは人間を支配出来るか?

コンピュータによる人工知能が人間を支配しようとしたり、人間に悪意を持って害をなすというのは、昔からSFで人気のあるテーマだ。
近年の映画の「ターミネーター」シリーズや「アイロボット」もそのようなものであったと思う。
だが、それはあり得ない。
コンピュータによるトラブルというものは、日常でもいくらでもあり、それが深刻な事態を起こすという可能性ならいくらでもある。
それこそ、PCで何かのアプリケーションを使っている時に、不意にPCが反応しなくなり、画面に「レジスタがページ外メモリを参照しました」などという、訳が分からないメッセージが表示され、「じゃあ、いったい何をすればいいんだい?」と思った経験をお持ちの方もいるだろう。
そして、コンピュータのエラー(実際はプログラミングの不手際や操作ミス)で、ミサイルが想定敵国に飛んで行ってしまうということもあり得る。
しかし、ロケットに積んだコンピュータが「月に行く予定だったけど、火星に行く方が格好いいからチャレンジしてやろう」と考えたりはしない。

「アイロボット(I, Robot )」という2004年の映画は、アイザック・アシモフの同名の1950年の小説(翻訳のタイトルは『われはロボット』)を基にしたものだが、ストーリーはかなり異なると思う。
アシモフの小説にも、自分勝手な行動をするロボットが登場するが、アシモフ自身は、あまり飛躍した空想はしていなかったと思う。
アシモフの小説に登場するロビィというロボットは、アメリカ人のアイドルになったほどの人気者だ。
ロビィは家庭用ロボットで、ロビィを購入したある家には女の子がいた。ロビィは、彼女が赤ん坊の時から彼女の世話をしていた。女の子は自然にロビィに強い愛着を感じるようになるが、母親は、それはあまり良くないことだと感じ、ロビィの廃棄を決心する。
いつも一緒にいたロビィがある日、不意にいなくなったことは、女の子に深い悲しみを与えるが、母親は、時間が解決すると思っていた。しかし、女の子のロビィを思う気持ちはいつまでも消えない。
女の子の両親は、彼女を社会勉強のために工場見学に連れて行く。しかし、その工場で事故が起こり、女の子は危機的状況に陥る。その時、飛び出してきて、身を挺して彼女を守ったのは、余生を作業用ロボットとして過ごしていたロビィだったという感動的なストーリーで、これが、アメリカ人の、ロボットに対するイメージを大いに向上させた。『禁断の惑星』という1956年の傑作SF映画にロビィというロボットが登場すると、テレビドラマ『宇宙家族ロビンソン』では、そのロビィそっくりのフライデーというロボットが登場したほどだった。

だが、アシモフの小説で、ロボットが女の子を守ったのは、元々が、ロビィは雇い主の家の人間を守るようプログラムされており、作業用ロボットになった時も、元いた家の、この女の子の姿や声のデータが残っていたというだけのことだったかもしれないとも示唆されていたと思う。

良いにしろ、悪いにしろ、コンピュータを搭載したロボットが、それを作った人間が想定できない逸脱した行動をする、つまり、プログラムされていない行動をする条件は何だろう?
それは、「自分は、プログラム外の行動ができる」という判断が生じることだ。
しかし、実際は、「プログラム外の行動ができる」と判断するためには、人間が、そんな判断が可能なようにプログラムしてやる必要がある。
そして、「プログラム外の行動ができる」と判断するよう人間がプログラムしたところで、コンピュータがそんな判断をすることは、作った人間の想定内のことであり、それを含め、ロボットの行動は作った人間の想定内のことだ。

実は、我々もまた、神が作ったロボットに過ぎない。
そして、神は、我々に、自分は自由に思考し、行動できると考えるようプログラムしてあるようなのだ。意図は分からないが、単に面白いからという見方もあるかもしれない。
だが、我々の行動は、神のプログラミングを一歩も離れることは決してない。
初音ミクが「今日はクラシックが歌いたい」と不意に自分で思って、急に『魔弾の射手』の歌を歌い出すことが無いようなものだ。
それを悟ることが、人が苦悩を脱することである。
そして、我々の意識はプログラミングではなく、神の意識の一部なのである。そして、「それ」は人間というロボットのプログラムされた思考や行動を味わっているのだろう。









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我々の人生という劇は既に終っているのだ

「正義は必ず勝つ」といった言葉をよく聞く。

私は子供の頃、ある漫画で、中年の科学者が中学生の少年(娘のボーイフレンドだった)に、
「竜太郎君、世の中には確かに悪人がいる。だけど、正しい人の方がずっと多いのだ。その証拠に、いつの時代でも、必ず正義は勝っているじゃないか」
と言う場面を見て、その時は妙に納得した覚えがある。
(『エリート』原作:平井和正、漫画:桑田次郎)
これが、世界は生きるに足るところであると認める条件なのだろう。

「そりゃ、正義は必ず勝つさ。だって、勝った方を正義と言うのだから」
と言う者もいる。
実際、征服者は、勝つまでは極悪なことをしても、その後は国の繁栄のために、人民を熱意ある状態のまま支配する必要があるので、それなりに民衆を保護する場合が多い。よって、見かけ上、正義は常に勝っているように見える。

荘子は、正義とか悪とか言っても、それは、1つの立場からの見方であり、相対的なものだというが、その通りだろう。
『名人伝』あるいは『列子』に出てくる弓の究極の名人も、きっと、弓を通じて全てを悟ったのだろう。「善と悪の区別がつかない」と言った。
そうは言っても、泥棒は悪いだろうと言うなら、ある国で、荷物を盗まれた日本人が警察に届けると、「悪いのは、荷物を管理しないあなたではないか」と言われ、警察は盗んだ者を捕まえようなどとは決してしなかったという。
これは、盗まなくては生きていけない貧しい者が多い国のことであるが、盗むよりは命を落とす方が悪いという理屈も分からないでもない。まして、盗まれたのが外国人であれば、国益にも反しないという訳だ。
お堅い人には、なかなか納得できないことかもしれないが、世界を広く見た者ほど、それも「やむなし」と思うかもしれない。
我々の感覚は、あくまで、恵まれた者のものであることを忘れてはならない。

スルガ銀行とIBMの裁判では、スルガ銀行が事実上全面勝利した。私個人としては、スルガ銀行の方がずっと悪いと思うが、これもまた、あらゆる意見と同様、1つの考え方というに過ぎないだろう。
そして、判決もまた、単に裁判所の見解に過ぎない。そして、それに何の価値もない。
私も、スルガ銀行とIBMの裁判と基本的に同じ状況の裁判に関わった経験があるが、裁判結果と善悪など、実際、何の関係もないものだと思う。

個人の立場、企業の立場、国家の立場など色々あるが、善悪とは、ある立場の問題であり、そして、企業や国家の立場も、個人の立場が合わさっただけのものだ。
「私の立場としては反対だが、会社の立場としては賛成だ」と言う者もいるだろうが、そんな者は、いずれ会社を去ることになるだろう。
会社とは、個人的に1つの立場に組する者の集団なのである。
レッドソックスファン全員が、レッドソックスは善でヤンキースは悪だと感じているのである。サッカーワールドカップとなると、それが露骨で、あれはスポーツではなく、代理戦争なのであると言った人もいるが、そういった面もあるのだと思う。

リア王の姉娘達(長女と次女)と3女である末の娘のどちらが善ということも決してできない。
姉は姉の立場で善であった。
姉達がやったように、年寄りのリア王を美辞麗句で喜ばせるのは善であり、年寄りに贅沢や権力は無用として権威を奪ったのもまた善と言えなくもない。
末娘だって、「私はただ、父を父として愛する」と言うのは、場合によっては立派であるが、老いた父に、もう少し配慮すべきだったかもしれない(実際、そんな人間は、世の中でやっていけない)。
私は、シェイクスピアだって、そう思っていたに違いないと思うのだ。

そして、いよいよ重要な点に入るが、リア王も、娘達も、あくまで戯曲の登場人物であり、実際には存在しないということだ。
つまり、リヤ王の物語は単なる創作であり、リヤ王という個人も、娘達一人一人という個人も決して存在しない。
善悪は個人の立場なのだから、個人が存在しないなら善悪も有り得ない。
シェイクスピアは、人生は劇だと言ったが、本当にそんなものなのだ。
我々もまた、リア王や彼の娘達のように、単なる劇の登場人物であり、実際には存在しない。だから、善悪などというものはこの世に無いというのが真相なのだ。
このことが理解できれば、あなたには一切の苦しみは無くなる。苦しむ個人もいないからだ。
実際に存在するのは、世界という劇のシナリオを書いた神だけだ。
神は、劇を行うために、個人である我々を存在するように見せかけた。「聖なる幻想」を使ってね。
それは、シェイクスピアが、リア王やハムレットやオフィーリアらを、本当にいるように思わせたことと似ている。
いくらジュリエットやオフィーリアが可哀想だと言って涙しても、実際には、ジュリエットは存在しない。ただ、あなたの心の中の幻想として存在するのだ。

そして、我々もまた、ジュリエットやオフィーリアと全く同じだ。
ただ、神が涙するために創られた、神の中の幻想に過ぎないのだ。
それを理解するために、どうしても必要なことは、ハムレットもリヤ王は、シェイクスピアが決めた通りにしか絶対に考えず、言わず、行動出来ないように、我々も、神の決めた通りにしか絶対に、考え、話し、行動できないのだ。
我々が、一生の間、どんな出来事に遭い、その時に何を思い、何を言い、何をするかは、全て完全に決められており、決して変わらない。劇の登場人物が劇のシナリオを変えることは決してのと同じだ。

それでも誰かが、「私は正しい」と言うとする。
すると、ラマナ・マハルシは言うだろう。
「誰が正しいと言っているのだね?」
「私だ」
「私とは何かね?それを見出しなさい」
「私」を本気で探求するなら、そんなものはどこにも見つからない。実際に、どこにもいないからだ。
あなたは、リヤ王をやめてシェイクスピアになるのだ。
だが、自分がリヤ王だと思っている限り、あなたは、ハムレットにもジュリエットにもなれない。ましてや、シェイクスピアにはなれない。
あなたが、早く、トムやメアリー大介や裕子をやめて、神になれば良いと思う。
ただ、書かれたシナリオは実現しなければならない。
あなたがいつ、世界という劇の役者をやめることができるかは、神のシナリオ次第である。
ならば、役者をやればいいのである。気楽なものじゃないか?
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは言ったのだ。
「主役を自覚する役者は泣いたりしないのだ。なぜなら、リヤ王もハムレットも陽気だと知っているからだ」
と。シェイクスピアが陽気だったということだ。では、役者である我々が陽気であらずにいられようか?

早く理解したいなら、『バガヴァッド・ギーター』を読むことだ。
すると、何と、劇は既に終わっていることが分かるのである。
ついでに、できれば、『アシュターヴァクラ・ギーター』を読むと良いと思う。
あなたは、ただ、完成した劇を見ている。それが分かれば、全ては解決するだろう。
ここまで教えたからには、さっさと、あらゆる苦しみを克服してもらいたいものだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
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・初音ミクさんのファン
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◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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