風説かもしれないが、日本の戦国時代の武将の中には、鉄砲の弾が飛び交う戦場を、自分の運を信じて悠々と歩いてみせた者がいるらしい。何かのドラマで、秀吉がそんなことをやっていたような気もする。
だが、合氣道家の藤平光一さんは、第2次世界大戦で、部隊を率いる指揮官だった時、そんなことをしたことを著書に書かれている。氣を出していれば、弾も当たらないといった話だったと思う。
「心身神医学の父」と呼ばれるドイツ人医師、ゲオルグ・グロデックの論文によれば、戦場である兵隊が、仲間の兵隊に、自分の脚の一部を指差しながら、「ここに弾が当たれば、俺は故郷に帰れるのだがなあ」と言った直後、流れ弾がまさにその場所に当たったという。
グロデックによれば、これは、人の内に存在する、エスというものの仕業である。
エスは精神分析学における無意識に相当するもので、フロイトが論文で使うようになって知られるようになったが、元々はニーチェが言いはじめ、それをグロデックが使うようになったものだ。グロデックはフロイトにエスの概念を話し、それをフロイトが利用したのである。
誰も、グロデックが発表した兵隊の話のように弾が当たることは望まない。しかし、当てられるものなら外すこともできるだろう。そして、藤平光一さんのようになりたいのではないだろうか?
さて、そんなことができるだろうか?
私は、戦場で弾を交わした経験は無いが、交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだことは何度もある。7つか8つ頃のことだ。結果はかすり傷一つ負わなかった。
真相はこうだ。
藤平光一さんは、弾丸の飛び交う戦場を無事に歩くことが、彼の運命だったのだ。だが、彼は、弾が当たらなかったのは、氣が出ているからだと思い込んだのだろう。
グロデックの話に出てきた兵隊は、脚に弾が当たる運命だったのである。
そして私は、目をつぶって車道に飛び込み、無事に終わる運命だったのだ。
ベンジャミン・リベットという医学研究者は、40年にわたる研究により、こんなことを解明した。
それは、何かの想いが無意識の中に浮かんだ後、半秒遅れて我々はそれに気付くということだ。
つまり、思考というものは自分が脳で考えているのではない。
思考は、自分の意思とは何の関係もなくただ発生するのだが、それを自分が考えたと思っているのである。
「自分で考えろ」とか「頭を使え」などということがよく言われるが、我々はただ、どこからか発生した思考に反応することが出来るだけである。
誰も自分で考えてなどおらず、考えることもできない。「自分で考えろ」なんて指示に何の意味もないのだ。
そして、思考がどこから生じるかは、量子物理学の問題になるかもしれないが、私もよくは知らない。ロジャー・ペンローズという高名な数学者・物理学者がそんな研究をしていたが、おそらくまだ仮説の段階だろうと思う(量子脳理論)。
いずれにしても、我々は、思いのままに災害や事故から逃れることは、決してできない。
藤平さんの教えに従って氣を出そうが、グロデックの本でエスについてよく学ぼうが、弾が当たる時は当たるし、自動車にはねられる時ははねられる。
そう運命付けられていれば、それは消して逃れられない。
いや、出来ると言う神秘家もいるかもしれないが、それなら、かつて私がやったような真似でもやらせればいい。
ただ、自分の意志で状況をコントロールできると教える者は、それを教えることが運命なのであり、それを聞いて騙される者は、そんな運命だったのである。
私が車道に飛び込んだ時も、自分勝手に飛び込んだように見えても、実際は、丁度、車にはねられないタイミングで「今だ、飛び込め」という想いが発生し、半秒遅れて私の脳がそれに反応しただけだ。そして私は、自分で決めたと思い込んで車道に飛び込んだのだ。
グロデックは、いかなる病気も、また、怪我でさえ、全て心因性(心が原因で起こること)であると断言した。
転んで腕を折ることだってエス(無意識)が起こしているのであると言い、おそらく、普通の人はそれを認めることはできないだろう。
しかし、彼は全く正しいのである。恐るべき洞察力だ。
宝くじを買って1億円当たる運命であれば、あなたは自分の意思で宝くじ売り場に行ったつもりでも、適切な時間に適切な宝くじ売り場に行くよう、あなたは頭脳も身体もコントロールされるのだ。そして、見かけ上は、大変な幸運で1億円を当てたように見えるかもしれないが、実は、生まれる前から決まっていたあなたの運命を成就させただけなのである。
逆に、当てる運命になければ、願おうが祈ろうが、引き寄せの法則を実践しようが、決して当たらないのである。
だが、1億円あてて不幸な人もいれば、一生に一度も宝くじに当たらなくても幸福な人がいる。ただし、余計な金を持つことが不幸なのだという訳でもなく、1億円あてて幸福な人もまたいるのである。
早い話が、幸福と1億円を当てるような外部的な出来事は何の関係もないのだ。
1億円当たれば、素敵な恋人が出来れば、素晴らしい男性にプロポーズされれば、受験に合格すれば幸福だと思っていることが、そもそも不幸なことだ。
劇で1億円当たる設定の登場人物は、劇の中では幸運かもしれない。だからといって、その役を演じる役者まで喜ぶ必要はない。
また、初心(ウブ)な娘を騙して傷付ける悪い男の役を演じたとしても、役者であるあなたに責任があるわけではなく、なんら罪悪感を感じる必要はない。
役者にとっての幸福とは、その役を陽気に演じることだ。
それは、我々が現実と呼ぶ世界でも同じことだ。
だが、それを知るためには、まず、自分がただの操り人形に過ぎないことを受け入れなければならないのである。
自分に何の責任もないのだと本当に分かれば、人生はシンプルになり、気楽で生きやすいものになる。
誰を恨むことも、羨むこともなくなり、見栄を張る必要もなく、良いことがあれば素直に嬉しいが、うまくいかなくても、ただ受け入れることができるだろう。
そういうのを幸福というに違いない。
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だが、合氣道家の藤平光一さんは、第2次世界大戦で、部隊を率いる指揮官だった時、そんなことをしたことを著書に書かれている。氣を出していれば、弾も当たらないといった話だったと思う。
「心身神医学の父」と呼ばれるドイツ人医師、ゲオルグ・グロデックの論文によれば、戦場である兵隊が、仲間の兵隊に、自分の脚の一部を指差しながら、「ここに弾が当たれば、俺は故郷に帰れるのだがなあ」と言った直後、流れ弾がまさにその場所に当たったという。
グロデックによれば、これは、人の内に存在する、エスというものの仕業である。
エスは精神分析学における無意識に相当するもので、フロイトが論文で使うようになって知られるようになったが、元々はニーチェが言いはじめ、それをグロデックが使うようになったものだ。グロデックはフロイトにエスの概念を話し、それをフロイトが利用したのである。
誰も、グロデックが発表した兵隊の話のように弾が当たることは望まない。しかし、当てられるものなら外すこともできるだろう。そして、藤平光一さんのようになりたいのではないだろうか?
さて、そんなことができるだろうか?
私は、戦場で弾を交わした経験は無いが、交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだことは何度もある。7つか8つ頃のことだ。結果はかすり傷一つ負わなかった。
真相はこうだ。
藤平光一さんは、弾丸の飛び交う戦場を無事に歩くことが、彼の運命だったのだ。だが、彼は、弾が当たらなかったのは、氣が出ているからだと思い込んだのだろう。
グロデックの話に出てきた兵隊は、脚に弾が当たる運命だったのである。
そして私は、目をつぶって車道に飛び込み、無事に終わる運命だったのだ。
ベンジャミン・リベットという医学研究者は、40年にわたる研究により、こんなことを解明した。
それは、何かの想いが無意識の中に浮かんだ後、半秒遅れて我々はそれに気付くということだ。
つまり、思考というものは自分が脳で考えているのではない。
思考は、自分の意思とは何の関係もなくただ発生するのだが、それを自分が考えたと思っているのである。
「自分で考えろ」とか「頭を使え」などということがよく言われるが、我々はただ、どこからか発生した思考に反応することが出来るだけである。
誰も自分で考えてなどおらず、考えることもできない。「自分で考えろ」なんて指示に何の意味もないのだ。
そして、思考がどこから生じるかは、量子物理学の問題になるかもしれないが、私もよくは知らない。ロジャー・ペンローズという高名な数学者・物理学者がそんな研究をしていたが、おそらくまだ仮説の段階だろうと思う(量子脳理論)。
いずれにしても、我々は、思いのままに災害や事故から逃れることは、決してできない。
藤平さんの教えに従って氣を出そうが、グロデックの本でエスについてよく学ぼうが、弾が当たる時は当たるし、自動車にはねられる時ははねられる。
そう運命付けられていれば、それは消して逃れられない。
いや、出来ると言う神秘家もいるかもしれないが、それなら、かつて私がやったような真似でもやらせればいい。
ただ、自分の意志で状況をコントロールできると教える者は、それを教えることが運命なのであり、それを聞いて騙される者は、そんな運命だったのである。
私が車道に飛び込んだ時も、自分勝手に飛び込んだように見えても、実際は、丁度、車にはねられないタイミングで「今だ、飛び込め」という想いが発生し、半秒遅れて私の脳がそれに反応しただけだ。そして私は、自分で決めたと思い込んで車道に飛び込んだのだ。
グロデックは、いかなる病気も、また、怪我でさえ、全て心因性(心が原因で起こること)であると断言した。
転んで腕を折ることだってエス(無意識)が起こしているのであると言い、おそらく、普通の人はそれを認めることはできないだろう。
しかし、彼は全く正しいのである。恐るべき洞察力だ。
宝くじを買って1億円当たる運命であれば、あなたは自分の意思で宝くじ売り場に行ったつもりでも、適切な時間に適切な宝くじ売り場に行くよう、あなたは頭脳も身体もコントロールされるのだ。そして、見かけ上は、大変な幸運で1億円を当てたように見えるかもしれないが、実は、生まれる前から決まっていたあなたの運命を成就させただけなのである。
逆に、当てる運命になければ、願おうが祈ろうが、引き寄せの法則を実践しようが、決して当たらないのである。
だが、1億円あてて不幸な人もいれば、一生に一度も宝くじに当たらなくても幸福な人がいる。ただし、余計な金を持つことが不幸なのだという訳でもなく、1億円あてて幸福な人もまたいるのである。
早い話が、幸福と1億円を当てるような外部的な出来事は何の関係もないのだ。
1億円当たれば、素敵な恋人が出来れば、素晴らしい男性にプロポーズされれば、受験に合格すれば幸福だと思っていることが、そもそも不幸なことだ。
劇で1億円当たる設定の登場人物は、劇の中では幸運かもしれない。だからといって、その役を演じる役者まで喜ぶ必要はない。
また、初心(ウブ)な娘を騙して傷付ける悪い男の役を演じたとしても、役者であるあなたに責任があるわけではなく、なんら罪悪感を感じる必要はない。
役者にとっての幸福とは、その役を陽気に演じることだ。
それは、我々が現実と呼ぶ世界でも同じことだ。
だが、それを知るためには、まず、自分がただの操り人形に過ぎないことを受け入れなければならないのである。
自分に何の責任もないのだと本当に分かれば、人生はシンプルになり、気楽で生きやすいものになる。
誰を恨むことも、羨むこともなくなり、見栄を張る必要もなく、良いことがあれば素直に嬉しいが、うまくいかなくても、ただ受け入れることができるだろう。
そういうのを幸福というに違いない。
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