ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

私が警官を退かせたパワーとは

私は、2008年8月から1日1食の菜食主義をほとんど完全に継続しているが、2009年8月から開始した肉体トレーニングも、欠かした日はほぼない(3日ほど体調不良で休んだ)。
ただ、肉体トレーニングの意味が変わってきた。
夜の10時頃から、腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動などをやるのだが、以前のように、腕立て伏せを数百回連続でやっていた頃は、明らかに強力な肉体の獲得を目指していた。それは欲望であろう。
昨年7月に、それで右肩を痛め、現在は治っているが、トレーニングのやり方を変えた。
以下のようなものだ。

ストレッチ運動の後、腕立て伏せを20回やる。
以前は、ボクサーがやるような超高速でやっていて、200回以上もやればフラフラになるし、確かに腕力増強著しかった。
しかし、今は、床ギリギリまで胸を落とし、そこから、もったいぶった感じで、身体をまっすぐ保ったまま腕を伸ばすが、伸ばしきって尚、床を突き離すように身体を高く上げる。腰が天上から吊られているような感じである。
プロレス式のやり方とも違うが、以前、ビデオで見た、柔道王、木村政彦の道場のやり方に似ていなくもない。
このやり方なら、20回程度でも、少しこたえる。
その後、ヒンズースクワットを200回行う。さほど厳しくはないが、この地味な運動はなかなか辛いものである。
そして、腹筋運動は、膝を垂直に立て、両手を頭の後ろで組み、完全に仰向けに寝た体勢から、ゆっくり上体を巻き込むようにして起こしていき、肘が膝に付く位まで起こす。余裕はあるが、30回で終わる。
そして、もう一度腕立て伏せに戻る。
これは夜だが、朝は、腹筋運動と腕立て伏せだけはそれぞれ1セットずつ同じようにやる。

朝は元気があるので、むしろ爽快であるが、夜は疲れているので、やや辛い。
ところで、これらの運動の目的は、体力をつけるとか、美しい肉体を創ることが目的ではない。
数ヶ月前から、そんな意図が全く無くなり、本当に、いったい何のためにトレーニングしているのだろうかと思ったものだ。
健康のためなら、こちらは既に10年ほど続けている腕振り運動を1日1000回もやれば十分と思う。

結局のところ、少し辛いことを、毎日欠かさずにやることが良い修行になっているのだ。
何の修行かというと、私は、およそあらゆる修行の目的は、自我を弱めるためであると思っているし、そうでなければならないと思っている。
以前の私がやっていたようなトレーニングのように、自己の利益や我欲のためにやっていることは修行ではない。
肉体トレーニングのように、本質的には良いことであっても、目的がなく、辛いことをするのを自我は嫌がる。自我はやめようとするだろう。しかし、それを敢えてやり、自我の要求が通らないことを示して、自我を屈服させることで、自我を弱くするのである。
だから、やること自体は、「本質的には良いこと」「少し辛い」「無目的」であれば何でも良いのである。

新渡戸稲造の『武士道』に、修行に関する素晴らしいお話がある。
江戸時代、ある立派な武士が、1人の町人に目を留め、近寄って尋ねる。
「お前は何者だ?」
問われた町人は、戸惑った様子で、
「何者でもありません。ただの職人で御座います」
と答えた。
しかし、武士は納得しない。
「これでも、わしの目は節穴ではない。その立ち居振る舞い。お前がただ者でないことは明白じゃ。お前が何者か教えてくれぬか?」
町人は、本当に困って、
「何者と言われましても・・・」
と言って、少し思案した後、こう続けた。
「もし、何か私に、他の人と違ったところがあるとすれば、私は、毎夕、墓場に行くという習慣が御座います。私は生来の臆病者で、それをなんとかしたいと思い、墓場にでも行けば、少しはそれが治るのではないかと考えたので御座います。もう長年、1日も欠かさず続けておりますが、効果があったかどうかは何とも・・・」

この町人は、初めこそは、臆病な心をなんとか出来ると考えて、墓場通いを始めたのであろう。
当時の墓場は、ろくに明かりのない夕刻に行けば、さぞ恐ろしいものであったろう。
彼の自我は、それをするのが嫌だったはずだ。しかし、それを抑えて、毎日続けるうちに、目的などもなくなり、恐怖と戦いながら墓場に行くことそのものが目的になったに違いない。
それが、この町人の自我を希薄にし、普通の人間を超えさせたのである。
自我は、自分の思い通りにならず、屈服させられると弱くなるのである。

学校の部活でも、あるいは仕事でも、辛いのを我慢して続ければ、自我が弱くなって、結果、自己の内部の高い存在と融合していくのである。
これがいわゆる、苦労が人を育てるとか、辛い経験のある者ほど他人に優しいという結果になる。
ただし、あまりに辛いような場合は、自我が強く反発してしまい、かえって自我が強くなる。
例えば、校則が厳し過ぎることに反発して不良化したり、いじめが酷過ぎて自殺したりである。自殺は、自我が自分を守ろうとする最後の手段なのである。
また、限度を超えて他人から辛くあたられると、やはり、冷酷な人間になるのである。
『新世紀エヴァンゲリオン』で、ミサトさんが言ったように、「本当に嫌だったら逃げていい」のである。
あるいは、「自殺するなら引きこもれ」である。

我々も、ちょっと辛いことを、毎日欠かさずやることで、自我を弱くし、神仙に近付くのである。
本質的には良いことだが、毎日やるには辛いことを続け、それをやめたいと願う自我の要求をはねつけ、自我を屈服させることなら何でも良い。
1冊の本を呆れるほどの回数読んで、高次の存在に近付いた人もいる。
私が昔、TM(超越瞑想)を始めた頃、朝鮮出身で日本で起業した社長さんに、「それを1年365日、1日もかかさずやれば大したものだがな」と言われたが、彼も苦労人だけあり、よく分かっていた。
私は、TM自体はあまり良いとは思っていないのだが、1年間欠かさず続けたことで、驚くべきことがあった。自動車を運転していて、信号無視で警察に捕まったのだが、相手の高飛車で傲慢な態度を受け流し、気が付いたら、その警官は、「それじゃ・・・」と言って去ってしまった。考えられないことではないだろうか?
まあ、言い換えれば、私にとってTMは辛いものでしかなかったということで、TMの宣伝とはまるで異なる成果であったとは言えるかもしれない。
(ただし、クリント・イーストウッドやポール・マッカートニーのように、TMを賞賛する人もいる)

私は、今後も、毎日、トレーニングを続けるだろう。
実際は、かなりのナイス・バディになり、何かと身体の強さを発揮することも確かにあるのだが、そんなことは取るに足りないことなのである。

皆さんも、是非、正しい修行をして、真の力を得て欲しい。
ただ、くれぐれも無理をせず、ちょっと辛い程度のことをやることをお薦めする。
過度に厳しいことをやろうとするのは、それで何か良い思いをしたいという欲望なのである。そんな人は、欲望が強ければ、ある程度はそれをやり遂げる。しかし、自我はますます強くなり、いつかは破綻するのである。
あまり厳しいことでなくてもいいが、毎日、決して欠かさずにやることだ。自我は、自分の都合で休むのが好きだ。しかし、自我のそんな要求など、決して通らないことを自我に思い知らせることが大切である。そうすれば、自我は屈服して弱くなるのである。









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人生という悪夢から目覚めてみれば

以前に購入していた、1972年のイギリス・イタリア映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』のDVDを観た。
アッシジのフランチェスコと呼ばれるキリスト教の聖人の若き日々を描いた作品だ。
イタリアの豪商の息子であったフランチェスコは、おぼっちゃまながら18歳の健康な若者だった。
しかし、戦争に行って悲惨を体験し、さらに熱病に冒されて命からがら家に戻り、生死の境をさ迷う中、精神の変革が起こった。
回復したフランチェスコは別人になっていた。
鳥や花といった自然の姿に、イエスの教えの真意を感じた。
人々は、戦争から帰ってきたフランチェスコは頭がおかしくなったと言ったが、クレアという美しい娘だけは、「おかしかったのは以前のあなたの方」と言った。

フランチェスコの家は、布製品を扱う商人であると共に、染物工場を持っていた。
意識の変革を起こした後のフランチェスコは、彼の家の工場で、劣悪な環境で重労働を強いられた人達を見て涙を流し、彼らを抱きしめる。
そして、商品や金庫の金を窓から投げ捨てた。
美しい話ではあるが、それは正しいことなのだろうか?
フランチェスコが裕福な家に生まれ、贅沢三昧で生きてきたのは、彼の運命だ。
同じく、彼の家の労働者が過酷な労働を強いられ、自由もなく貧しいのもまた運命だ。
フランチェスコの父親は強欲で自己中心的な商人であるが、彼がそうなったのも運命だ。
誰も悪くないのだ。
フランチェスコの父親が、貧しく不幸な人々に何らの慈悲を感じないとしても、それが神が彼に与えた性質であり、フランチェスコの父が好きでそうなった訳ではない。
彼が非道な行いをしたとしても、いわば、それは彼がやっているのではない。全ては神の意志に従っているのであり、彼に責任はなく、責任と言うなら、それは神にある。
フランチェスコが彼の家の労働者の状況を見て涙を流す必要はない。彼は、罪悪感も感じていたのかもしれないが、そんな必要も全くない。なぜなら、決めたのは神だ。
彼が悪い訳でもなければ、誰が悪い訳でもない。
もし、彼が、自分に責任があると思っていたら、それこそ不遜だ。彼は、自分の意志で善いことも悪いことも出来ない。彼には、神の決めた運命のシナリオを書き換える権利などないのだ。
だが、彼が、不幸な人を見て哀しく感じるようになったのもまた、神の意志なのである。

アイルランドの詩聖W.B.イェイツが『ラピス・ラズリ』という詩で、「リア王もハムレットも陽気だ」と言った意味はとても重要だ。
その、『ブラザー・サン シスター・ムーン』という映画で、フランチェスコを演じた役者が本当に泣いたり、貧しい労働者を演じた役者達が本当に自分を哀れだと思ったとしたら滑稽な話だ。
『ラピス・ラズリ』で、イェイツは、「主役を演じるに足る役者は、自分が泣いたりはしない。なぜなら、ハムレットもリアも陽気だと知っているからだ」と言う。
人生とは、神が完全なシナリオを書いた劇に過ぎない。
そして、役者は、自分がいかに不幸な役を演じていても、自分が本当に不幸な訳ではないことを知っているように、我々は、自分の状況を気楽に眺めなければならない。
あまりに熱心に演じるあまり、世界を本当だと思ってはならない。それは、夢の中の恐ろしい出来事に、本当に恐怖するようなものだ。
もし、フランチェスコが本当に悟りを開いたのなら、不幸な人達を見ても動揺しない。
彼は、その人達のために尽くすかもしれないし、そうではないかもしれない。
それは、全て、神の定めたシナリオ通りに運ぶだけだ。悟りを開いた人は、それを知っているので、自分が何をしても、実は何もしていないことを知っているのだ。

こんな男がいる。
彼の母親は、身障者だった。
それで、母親は、やむなく、彼にいろいろな頼みごとをする。
彼は面倒に思っていたが、断ると罪悪感に苦しむことになるので、嫌々引き受けることが多かった。
しかし、悟りを開いた彼は、平気で母親の依頼を断るようになった。
以前も、実際はよく断っていたが、その都度、自己嫌悪に苦しんだ。
断られた母親の方も、「この脚であそこまで行くのは、それはもう大変だったのよ」と、哀れな様子を息子に訴えていた。
しかし、彼は今は平気だ。自分の意志など何の関係もなく、何が起こるかは既に決まっているのだ。いったい何を思い煩うことがあろう。
そうすると、母親も、息子に過度に頼らず、自分で出来ることをやるようになり、身体も心も少しはしゃんとしてきた。親切で手を貸してくれる人も現れた。

あなたも、いかなる場合でも、罪悪感や自己嫌悪を感じてはならない。
その必要がないばかりか、もし、そのようなものを感じるなら、それは、神の主体性を奪うという不遜を犯しているのである。
また、全く同じ理由で、どんな人に対しても、嫌悪したり、批判をするべきではない。
その人の行いや考えがどうであれ、彼は、神の決めたシナリオ通りに演じさせられているだけに過ぎない。
おなたと同様、誰も、何もしていない。我々は、ただの操り人形に過ぎないのである。

重要なことは、世界がただの劇であることを、本当に理解し、実感できるかどうかだ。
いくら言葉で、人生は夢だ、世界はただの劇だと言ったところで、それを信じられないなら、あなたは得体の知れない苦しみから解放されない。
そのために、我々が出来ることは、自我を弱くすることだけだ。
最終的な自我の破壊は、神にしかできないし、いつ壊してくれるのかは全く分からない。
しかし、自我を弱くすることで、その状態に近付くことは出来る。
その方法はいつも書いてある通りで、いろいろある。自分の気質に合ったものを選んで、熱心にやるしかない。
実は、このブログは、4月7日以降は、本質的には、自我を弱くする方法についてのみ書いてある。
世界がただの劇だと分かった時の驚きはなかなかのものだ。それを知る時を想い、わくわくしても良いと思う。
悪夢から覚めた時、「ああ、夢だった・・・良かった!」と思った時と似ているが、それと比較にならないのだから。

ところで、『ブラザー・サン シスター・ムーン』で、クレアを演じた、17歳のジュディー・バウカーがとてもきれいだった。
ところが、彼女は、その10年後、『タイタンの戦い』で、アンドロメダ姫を演じた時の方が、もっと美しくなっていた。そして、その時でも、特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンがインタビューで述べたように、「無垢な魅力」という言葉がぴったりだった。
一度、ご覧になってみると良いと思う。









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なぜ「大きな夢を持て」と子供達にけしかけるのか?

サッカー日本代表の人気選手が、子供達を指導するようなイベントがあり、最後に、そのスター選手が、子供達に向かって、「大きな夢を持って欲しい」と言っているのをテレビで見た。
あれを見て、不自然さを感じないような人が本当にいるのだろうか?
夢を持てなんてことは、けしかけるようなことだろうか?
自然にさせてあげればいいんじゃないのか。

あのサッカー選手自身は、善意だったか、それとも、サッカー界や関係企業の宣伝と割り切っていたのかもしれないが、彼自身、変なものを感じていたのではないかと思う。
実際、あなたも、子供達に向かって、「大きな夢を持ちなさい」なんて言ってるところを想像してごらん。正常な感覚なら、違和感を感じると私は思う。

夢と言っても、一般社会の推奨しない目標を選んだら、それはいい夢じゃないって言われるのだ。
そもそも、子供の頃の夢は空想に過ぎない。
分別ある大人なら、それを否定はしないまでも、自己中心的なところや、欲の過ぎた部分は戒めるものなのだ。
賢い人なら、子供達に、ちやほやされたり、お金が沢山儲かるようなことが、素晴らしい夢だと誤解させたままにすることはない。
しかし、本当に貴い行いのほとんどは、賞賛や富とは縁が無いだけでなく、多くは、否定されたり、危険だったり、蔑まれることすらあることを、今は誰も教えない。
そして、「夢は必ず叶う」だの「夢を諦めないで」だのという妄想を、子供と一緒になって歌ったりするのだ。
偉大な人間というのは、運命を受け入れた人達であり、自分勝手な夢にこだわった人ではない。
しかし、子供達は、国家や企業の都合に迎合する夢をけしかけられるか、そうでなければ本当に貴い夢の芽を奪われるかのどちからなのだ。

目標なんてのは、決めろと言われて決めるものじゃない。
必要な時に、聖なる英知が、その子にささやくのだ。
そのささやきを聞き逃さない人間になることが必要なのだ。
激しい運命の元に生まれた者なら、ベートーヴェンの『運命』のように、運命が突然に激しく扉を叩くかもしれない。
そんな時に、運命を受け入れることが出来るだけの知恵を育てていなければならない。
そのようなことのために、企業の宣伝になるような種類の夢も、国際学力コンテストも何の意味もない。
だが、国も企業も、そして、その配下のマスコミも、それを決して認めないだろう。
しかし、我々の周囲には、知恵の欠片が散らばり、輝いていることも確かなのだ。
子供達が、自然にそれらを手にし、正しく導かれるよう助ける・・・いや、邪魔しないことである。









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自分の神剣を手に入れる

人間を滅ぼすのは暇な時間だ。
圧政に抵抗する勢力が自滅するというのは、そういった抵抗勢力グループのリーダー達が、上納された金でのうのうと出来る立場になり、暇な時間を持ってしまうからなのだ。
なぜ、暇が悪いのかというと、暇だと、人間はつまらないことを考えるからだ。
ニートの何が悪いかというと、やはり暇なために、余計なことを考えることだ。
もし、暇でも何も考えないなら、ニートでも構いはしない。
暇でも、無念無想でいられる人なら、お金に困ることはない。
岡田虎二郎が、経済的な窮乏を訴える人に、「金?腹に力がつけば金はいくらでもできますよ」と言った意味もそこにある。
虎二郎は、1日中、腹から力を抜くなと言った。人間は、腹から力が抜けた時に、ろくでもないことを考えるからだ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、いつも下腹部に手をやって、油断なく、下腹に力を込めていたという。
宗忠は金には何の興味もなかったが、やはり豊かだった。

つまらないことを考えるのは自我である。人間の不幸の原因は自我が活発なことだ。
どんな方法でも、自我を静かにさせるなら、人に不可能はない。しかし、それは難しい。
「黙せよ。そして、自分が神であると知れ」
と聖書に書かれている通りだが、どうやって自我を黙させるかが書かれていないのである。
その方法は、自分で見出せということである。
我々が、命をかけて見つけなければならない神剣とは、実に、自我を沈黙せしめる秘術なのである。
岡田虎二郎は、そのつもりで岡田式静坐法を教えた。
しかし、人々は、岡田式静坐法を健康法だと誤解した。確かに、健康にも効果があったが、虎二郎が49歳の若さで急死すると、人々は離れていき、岡田式静坐法も忘れられた。
虎二郎が若くして死んだのは運命だ。人は、運命を避けることは出来ない。だが、真の人にとっては、死も運命も恐れるに足りないものだ。

ラマナ・マハルシは、どんな考えが起こっても、「その想いは誰に起こったのか?」と問うよう指示した。
いかなる想いであろうが、構いはしないと言う。つまり、人の全ての想いはつまらないものだということだ。
そして、魔法の言葉「私は誰か?」と問えば、想念は破壊される。これを根気良く繰り返せば、やがては、想念が起こることはなくなる。
想念の最も根本は、私という想いだからだ。だから、そこに意識を引き戻せば、どんな想いも消えてしまうのである。
ただ、マハルシの「私は誰か?」という言葉の、彼が使ったタミール語は、「自分とは何か?」に近いという。
スコットランド出身の聖者マード・マクドナルド・ベインに降りたイエスもまた、「自分とは一体何か」を納得いくまで自分に問えと言っていたのである。
あなたも、「自分とは何か?」と、常に問えば良いだろう。
法然は、1日6万回、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えたという。後には7万回となったと云われるが、80歳まで生きた彼は、老齢になって眠る時間が少なくなったからかもしれない。つまり、1日中唱えていたのだ。人と談話していても、小さな声で念仏を唱えていたと云われる。そうであれば、つまらないことを考えるはずがない。

自我を滅ぼし、神仙になることは、日頃のたゆみない努力により達成される。
1日中、たゆみなく続ける、想念を消し、自我をひれ伏させる何かを探すのは、わくわくするものだ。
神剣エクスカリバーを見出したアーサー王子の喜びを我がものに出来るのだからだ。
だが、エクスカリバーを手にした時が、真の戦いの始まりだ。だから、それを早く見つけることだ。









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気晴らしを諦めれば神仙になる

常に気晴らしを求めている人が多いが、それは、社会がそのように人々を駆り立てていることが原因だろう。
気晴らしは、より刺激の強いものが、次々に必要になるが、決していつまでも満足しない。
そして、いつも不満で、惨めさを感じざるを得なくなる。
偽りの快楽を求める限り、本当の楽しみは決して得られない。

気晴らしを諦めることが、喜ぶべき真の自分を実現する道である。
ミルトン・エリクソンは、少年時代、辞書ばかり繰り返し読んだ。また、17歳の時にはポリオに感染して、目玉以外を動かせなくなった。だが、彼はどんな時も、気晴らしを求めず、その状態で出来ることを淡々とやったのだ。だから、彼は、そう噂されたが、実際に、魔法を使ったと言って差し支えないほどの超人的な精神科医になれたのだ。
エドガー・ケイシーは、9歳で自分専用の聖書を得ると、それを毎日読んだ。気晴らしは一切求めなかった。そして、13歳までに13回通読し、その後も、およそ気張らしを持たず、ただ熱心に聖書を読んだのだ。

楽しみを持ってはならないと言うのではない。ただ、次々に別のものを求めてはならないと言っているのだ。
私は、通勤電車の中では、iPod touchで音楽を聴いているが、毎日、同じ曲(数曲)を聴いているのである。来る日も来る日も同じだ。
すると、当然飽きてくるが、それでも、自我の要求に応えずに、同じものを聴いていると、自我が屈服して小さくなる。
すると、音楽の中の真の豊かさが、深い心と共鳴するのである。
自我があらゆる不幸の原因であり、不安と恐怖を感じるのは自我で、これが、内なる輝きを覆い隠すのだ。
これが弱くなれば、偽りの快楽とはまるで違う、真の喜びが訪れる。

アダムとイブが楽園エデンを追われた理由は、蛇に騙されて知恵の木の実を食べたからだが、その意味は、気晴らしを求めて自我を大きくしてしまったということだ。
知恵の木の実の知恵とは、英知ではなく、自我の卑小な知恵である。それは気晴らしを求めてさ迷う、浅はかな知恵だ。
我々が内なるエデンに戻るには、気晴らしを諦めれば良いのである。
世間が、ゴテゴテ飾ったパッケージで押し付けるガラクタを一切拒否するのだ。
どうせあなたは、心が苦しくて辛いはずだ。言いようのない不安に怯えているのだろう。
それなら、より苦しくなる気晴らしなど、毅然として捨て、真の喜びを求めるべきである。
『バガヴァッド・ギーター』や『エメラルド・タブレット』、あるいは、聖書をひたすら繰り返し読むことだ。
無論、『アシュターヴァクラ・ギーター』や、『荘子』、『老子』でも良いだろう。
何かの本を百回読んだら、連絡をして欲しい。その人は、もう相当、天使に近付いているだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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