ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

名作のほとんどは世に出ない

世界的な文学作品であっても、もし、出版の時期や場所が違っていたら、全く世に知られることなく消え去っていたと考えられる作品はいくらでもあるらしい。
例えば、『アンクル・トムの小屋』などはそうであると聞いたことがある。
また、私は本を手にしたことが無いので、その本の解説あたりに書かれているのかどうか知らないのだが、『ハリー・ポッター 賢者の石』は、著者のローリングが原稿を持ち込んだ、どの出版社も、全く見向きもせず、その中で、たまたま原稿を自宅に持ち帰っていた出版社の社長の家の幼い娘が偶然それを読み、社長である母親に「続きが読みたい」とねだったのが出版のきっかけであったという。

逆に言えば、ことによったら世界的な作品になっていたかもしれないのに、誰にも知られることなく消え去ったか、あるいは、今でも知られることなくひっそりとどこかに存在している作品だって、いくらでもあるはずだ。
別に文学に限らず、アインシュタインに匹敵、あるいは、凌ぐ才能を持ちながら、肉体労働者で一生を終えた人なんてのも、きっと沢山いるはずだ。
いや、それどころか、実際は、世に知られない傑作、世で出ない天才の方が圧倒的に多いのではあるまいか?
かつて、モハメッド・アリに番狂わせと言われたKO負けを喫するまでは無敵の世界ヘビー級王者だったジョージ・フォアマンは、「私より強い若者なんていくらでもいる」と言ったらしい。
だが、世に出ることが、それほど重要なことであるとは限らない。そして、業績によって人の価値が決まるのでもない。人間の本質的な価値に優劣などはない。アインシュタインだって、自分が重要人物だとは全く思っていなかったことは、彼の普段の言動からも明らかなのだ。

1949年に出版された、ポーランド出身のアメリカ人、ジョージ・アダムスキーの小説
PIONEERS OF SPACE
A Trip to the Moon,Mars and Venus

宇宙の開拓者
月、火星、そして、金星への旅

は、最も悪いタイミングで出版されたのだと思う。もう少し後の時代か、別の時代に出版されていたら、もしかしたら世界的な作品になっていたかもしれない。
アダムスキーは、結局、小説家としては有名にならなかったが、その後、宇宙人とのコンタクティー(接触者)として有名になった。しかし、その評価は賞賛よりは非難が圧倒的に多く、一般的にもペテン師のイメージがあることが多いと思う。
アメリカは、第2次世界大戦を、本土はほとんど無傷で終え、戦争による好況を背景に、軍事、経済の躍進を目指し、国民への思想統制を強め、原子力エネルギーの利用を大々的に推し進めようとしていた。そんな時に、あのような小説が人気が出れば、アメリカ政府にとってはあまりに都合が悪かった。
小説に描かれた、地球より数万年進歩した火星や金星の様子は、感覚的に本物のユートピアだと感じることが出来るものだった。人々は皆平等で、誰もが豊かであり、平和に、そして、活気に溢れて生きている。貨幣経済や暴力というものは、歴史的な概念でしかなく、もはや彼らはそれを理解することすら困難になっていた。科学は、地球のものとは異なった思想での発展を遂げ、非常にシンプルだが、極めて高度で安全である。まあ、ここに簡単に表現できるようなものではないばかりか、小説においても、実際に火星や金星の様子を見た地球人も、表現する術を持たないと述べる。
平等や平和が、怠惰と衰退しかもたらさないという考え方をする者もいると思う。私もかつてはそうだった。競争あってこそ、進歩があると思えたのだが、それは一種の洗脳であり、国家の思想統制であろう。今は、そんな考え方の方がおかしくて仕方がない。
アダムスキーの一般的なイメージの低さは、アメリカ政府が仕組んだことであるのだと思う。丁度、日本人が、二宮尊徳に関する作り物のイメージを持っているのが、戦後のアメリカによる日本人への思想統制戦略であったようなものだろう。
尚、上記のアダムスキーの著書は、今年8月、徳間書店より、『UFO基本教書 地球人よ、ひとつになって宇宙へ目を向けなさい!』として、初めて翻訳が出版された。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

1000年に1度が、たまたま今年だった

福嶋原発の大惨事の原因は、1000年に1度しかないような規模の津波の対策をする必要はないという認識があったことだと言われる。その1000年に1度が今年だったわけだ。
これはアメリカでは全く考えられないことで、アメリカでは100万年に1度でも、可能性があれば備えるという。
しかし、別にアメリカでなくても、私のようなソフトウェア開発者は、その可能性がいかに僅かでも、論理的にあり得るならば、それは必ず起こると考えてシステム開発するのは当然で、問題は、その可能性に気付くかどうかということなのである。

あるソフトウェア技術者は、夜中に突然目が覚め、冷たい汗を流してぞっとした。別に幽霊を見たのではない。自分が開発したシステムに、可能性はほとんどないながら、それがもし起これば、悲惨な結果をもたらすことに気付いたのだ。

例えば、こんな話ではどうだろう。
テロ組織が、あなたの住む町で、10件の家に爆弾を仕掛けたと表明する。町の世帯数は十万とする。爆弾が当たる可能性は0.01パーセント。文字通り、万に1つだ。まあ、滅多に当たるものではない。しかし、それでもあなたは平気でいられるだろうか?
コンピュータシステムを開発する際、ユーザーとの打ち合わせを行うのだが、我々システムエンジニアが、「こんなことが起こる可能性はありますか?」と尋ねると、ユーザーはよく、「それは滅多に無いねえ」「まず、無いよ」「ほんのたまにある程度だよ」と言うことがある。ユーザーの感覚では、それは、「ない」に等しいのだ。しかし、それは、システムエンジニアにとっては「ある」以外のなにものでもないのである。

どうせいつかは死ぬんだ。それが、たまたま今日になっただけのことさ。
~『レイアース』(CLAMP原作のアニメのオリジナル作品)より~









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

怠惰や憂鬱から逃れるには

なぜ働くのかと問われて、働かないと退屈だからと答える人がいる。そんな人が、仕事以外に趣味が無いわけではなく、むしろ多趣味だったりする。
一方、1日中ベッドから出ずに過ごせるというくらい怠惰な人もいる。劇作家のサミュエル・ベケットもそうだったらしい。彼は、ノーベル章授賞式に行かなかったのだが、その理由は、面倒だったかららしい。
怠惰な子供というのは、ちょっと考えにくい。子供が活動的なのは、よりよく生きるための経験や知識を得るための本能的なものだろう。
では、経験や知識が十分であったり、あるいは、生きる意欲があまり無い人というのは怠惰なのかもしれない。
しかし、個人が得られる経験や知識など知れているし、生きる意欲が本当に無いなどという人は極めて稀だ。
だから、本当に怠惰な人などいないのだと思う。もし怠惰に見えるなら、単に、その人は、現在の自分の状況に嫌気がさしてうんざりしているのだろう。
もっとも、楽しい環境を作るのは自分の責任かもしれない。一般的には、そう認識されているだろう。
ところが、谷川流さんの『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ハルヒは、中学1年生の時から、「面白いことは待っててもやってこない」「待ってるだけの女じゃないってことを世界中に訴える」までに、いろいろやったが、結局、何も変わらずに、憂鬱に落ち込んでしまったというわけだ。だが、本当は、彼女が気付かなかっただけで、世界は、確実に面白い方に動いていたのだ。そんな小説が売れているのだから、特に、主な読者である若い世代も退屈なのかもしれない。
実際そうで、多くの人が退屈なのだと思う。その理由は、生きていくためには、世間の枠組みの中で動くしかないのだが、その世間が恐ろしくつまらない仕組みで、馬鹿馬鹿しくて付き合ってられないからだ。なら、世間を超えればいいということになるが、我々は、自分にはその力が無いと思い込んでいる。なぜそう思い込んでいるのかというと、それは、そう信じ込まされているからだ。なぜ、そう信じ込まされたかというと、多分、国家やそれと結託する大企業にとって、それが都合が良いからだろう。ただ、必ずしも国家に悪意あってのことかどうかは分からない。その方が秩序があって、国民が幸福になれると思ったのかもしれない。しかし、そうだとしたら、国家はアホだ。国民はちっとも幸福ではない。
結論から言えば、我々は世間を超えられる。世間の中で言うなら、人間を超えられると言って良い。
イエスだって、最後に弟子達に言ったのは、「私はこの世に勝ったのだ」だった。そして、「お前たちも、私と同じ、あるいは、もっと大きなことができる」と断言したのだ。
我々は、自分の思っているよりはるかに高い力を持っている。それは、世間で成功して大金持ちになるなんてケチなものではない。逆に、そんなものばかり求めていたら、世間の牢獄に閉じこもるケチな存在になるのである。

人が、今の人を超えたら、世間も楽しいものに変わるだろう。本当に賢い、力のある人は、平等であること、親切であること、見下す人などいないことを自然のこととして受け入れるのである。
私が子供の時に読んだ、ジュール・ベルヌの『海底二万里』で、ネモ艦長がアロナックス博士に、「専門家というのは、専門以外のことはあまり知らないものだ」と言ったのが印象的だ。新しい世界では、そんなことはなくなる。なぜなら、今のように、利権によって分野の異なる専門家が交わらないということが無くなるからだ。ジョージ・アダムスキーの1949年の小説『宇宙の開拓者』(邦訳:UFO基本教書 地球人よ、ひとつになって宇宙へ目を向けなさい!)でも、火星の科学者が、地球の科学者は専門が違う者が協力しないので、全てをあまりに複雑にしてしまい、このままでは、他の惑星のような高度な科学を持てないと言わせている。あれから軽く半世紀を過ぎたが、何も変わっていないのである。
まずは、我々が個人的に、世間や世間の人を超えなければならない。それを成し遂げた先人を手本にしたり、彼らを通して伝えられた、この世のものでない知恵を学ぶということは、是非行うべきだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

あの輝きを取り戻す方法

制作された英国や米国より日本でヒットしたと言われる、1971年の映画『小さな恋のメロディ(原題:Melody)』の脚本を書いたのは原作者のアラン・パーカーで、映画の内容も、だいたい、原作通りだ。ちなみに、お話自体は、映画製作者のデヴィッド・パットナムの体験である実話らしい。
私は、高校生の時、原作(翻訳)を読んだ中で、よく憶えている場面がある。主人公の11歳の少年ダニーと、彼のクラスメイトで親友のトムがバスに乗っていたのだが、停留所で乗ってきた中年の男女を見たトムが、「年寄りってのは、どうしてあんなに薄汚ねぇんだろうな」とつぶやき、「どいつもこいつも口をへの字に曲げやがって」とはき捨てるように言うところだ。年寄りといっても、老人のことではなく、中年以上の大人のことである。口のへの字に曲げていたのは、主にトムの行儀が悪かったのが原因であるが、それにしたって、「薄汚い」とか「口をへの字」とは辛らつだ。しかし、私はトムに大いに同調してしまった。確かに、大人達の顔はとても悪い。顔といっても、形とかではなく、表情とか雰囲気とか、内側から滲み出ている心のようなものだ。これを読んでから、改めて電車の中とかで大人達を観察すると、大半の大人がそうであった。それは、映画の中でも表現されていた。「日本もイギリスも同じなのだなあ」と妙な感心をしたものだ。
そして、今の日本の大人達の表情は、ますます悪くなっているのは間違いないと思う。はっきり言って、心が腐っているのだ。

人間にとっての幸福って、断言するが、絶対に、心が晴れやかであることだ。そして、心が晴れやかである人間の表情はとても良いのだ。
だが、どこで見る大人の顔も、本当に醜悪である。それは欲望のためだ。その欲望は、感覚と心を喜ばせる快楽ばかりを求めているからだ。ダニーやトムの時代の大人の表情を悪くしていたのは、主に不安だった。今の日本にも、不安や恐怖が強い人はいるが、そんな人達は、概ね、険しい表情をしている。そして、口をへの字にし、何にでも批判的だ。
いずれにせよ、表情や雰囲気の悪い大人というのは、皆、不幸で悲しい人達なのだ。
彼らは、寝ている時の顔も悪い。つまり、それがもう、人格の奥にまで染み付いているのだ。本当に気の毒である。

だけど、無理に表情を良くしようたって駄目だ。それは、無理に怒るのをやめようとか、妬むのをやめようとしたって無駄なことと同じだ。
心自体が、晴れやかで穏やかになってこそ、表情が明るく、少々のことで怒らず、恨まず、他人に寛容になれるのだ。
だが、人々の表情の悪さは、もう絶望的だ。行き着くところまで来たという感じだ。
そして、それは、トムの言った年寄り、つまり、中年のことだけではない。いまや、十代も後半になれば十分に当てはまるし、実に、小学生でその傾向が表れる者も少なくない。塾通いしている優等生ほど、そうなりやすいと思う。まこと、子供を幸福にしたければ、すぐに塾通いをやめさせることだ。

さて、誰でも、心晴れやかになりたいだろう。結果として、いい表情になりたいだろう。
そのためには、欲望を放棄しなければならない。こう言うと、欲望がなくなったら生きていけないなどという的外れなことを言う者がいるから困る。そんなのは当たり前だ。極端論は愚か者の癖だ。
だが、不必要なものを求める欲は捨てないといけない。そのために、創造主を信頼し、必要なものは必ず与えられると信じないといけないが、こういうと、笑われるのかもしれない。しかし、他に無いのだ。
宗教団体には入らない方が良いが、『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』を毎日読めば、きっと創造主を信じるようになるだろう。そして、表情や雰囲気も良いものになる。つまり、心が晴れやかになるだろう。至高者を信じ、過ぎた欲望から離れるからだ。実に安価なエステ(美容法)である。
『小さな恋のメロディ』のヒロインのメロディ(当時11歳のトレーシー・ハイドが演じた)は、大人達には悩まされていたが、金魚と戯れている時、ダンスをしている時、ダニーと逃亡する時の彼女は特に美しかった。きっと、あなたも、あの輝きを取り戻せるだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

2人の私

私というのは2人いるらしい・・・というのは、よく言われる。
アニメの『ちびまる子ちゃん』で、まる子のイメージの中に、天使のまる子と悪魔のまる子が現れて争うというのを見たことがある人も多いと思う。欲望のまま、楽な方、面白い方に行こうとする悪魔のまる子を叱り、辛くても善の方に引っ張っていこうとする天使のまる子というのは、我々にもよく分かるものだと思う。
フロイト流に言えば、普通、自我と言っているのは、悪魔のまる子の方で、天使のまる子の方を超自我と言う。超自我は、自我にルール・道徳観・倫理観・良心・禁止・理想を伝えるもので、フロイトは時に、超自我を、裁判官や検閲官のようなものと言った。
偶然なのだろうかと思うが、アメリカのSFの大作には、この超自我の発達していない子供がよく出てくる。『宇宙戦争』(2005年)で、トム・クルーズ演じるレイの息子と娘がそうだ。彼らは、レイと離婚した母親や、その新しい夫の家で暮らしていた。その家庭は、良心や愛より、世間体や利得を重んじる家庭で、その中で育つうちに、彼らも、損得や快楽を第一にするようになってしまっていた。他にも、『地球が静止する日』(2008年)で、ヘレンの他界した夫の息子ジェイコブもそうだった。自分の快楽、欲望が何より大切で、そうであることに全く疑問を持たない。さらに、最も極端なのは、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』に登場する、賞金稼ぎジェンゴ・フェットの息子ボバ・フェットで、ボバは、欲望と快楽以外の動機を持たない。
2人の自分のうち、自我の方しか発達させないことが、いかに恐ろしいことかを、これらの子供達がよく表しているように思う。

2人の私とは、このように、心と言ってよい自我と、より高い自分だ。より高い自分を、上に述べたように、フロイトは超自我(スーパー・セルフ)と言ったようだが、ハイヤー・セルフ(高位の自己)とか、真我と言うこともある。フロイトの超自我は、真我というよりは、真我のメッセージとかフィーリングといった感じのものと思う。真我とは、神そのものである。
それを示す良い例がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、17歳の時に家を出て、南インドのアルナチャラという所に住み、そこで聖者として一生を送るが、彼を探し当てた母親が、彼を家に連れ戻そうとした。しかし、聖者になった息子に感銘した母親は、息子の崇拝者となってそこに留まった。だが、やがて母親は重病になる。マハルシは、神に、「あなたは母の病を治すべきです」と祈るが、やがて、「葬儀に必要なものは何だろう?」と考える。母の治癒を願ったのは自我だが、真我は、母の死は避け得ぬものと知っていた。聖者マハルシの自我は透明なほどに磨かれているので、真我に従うのである。
これは、イエスが、「私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りになりますように」と言ったことと同じである。
イエスですら、自分の磔は恐ろしく、血の汗を流したという(恐怖が強いと、人は血の汗を流すという)。そして、イエスは、神に、「出来るなら、この毒杯(自分の磔)を除いて下さい」と祈ったが、それすら、「しかし、あなたの思いのままに」と引き下げたのである。
イエスは40日の断食の後、悪魔に、「石をパンに変えるよう命じよ。神の子の言うことなら実現するだろう」と言われたが、それを拒否した。自我はパンが欲しいと感じていたのは確かだが、「人はパンが無くても生きられる」という神(真我)の言葉に従ったのだ。そして、その他の悪魔の誘惑に対しても、ことごとに打ち勝った。悪魔の誘惑とは、自我の欲望である。しかし、イエスは真我に従った。そして言ったのだ。「汝敗れたり。わが後方(しりえ)に退け!サタン」と。サタンとは自我の欲望である。それが真我に敗れたのだ。
我々も、真我を自我の欲望の上に置けばキリストになるのである。

だが、全ての禁欲や苦行が真我の意志とは限らない。
我々は、真我の意志を知ることに慣れていない。世間では、真我の声より、作り物の道徳やルールに従わせようとするからだ。まあ、それにも一定のメリットがあるが、それが過ぎて、真我の声より、世間の教義や信念に従うようになってしまったのだ。
一頃、「なぜ殺してはいけないのか?」などということが問題になった。そんなこと、考えるまでもない。真我に聞けば分かるのだが、我々は真我の声が聞こえないので、そんな馬鹿な問題を真面目に論じたりしたのだ。
普通の男の場合、きれいな女の子を見たら、欲しいと思うのが自我だ。そんな時、「私(自我)はあの子が欲しい。しかし、私の意志ではなく、あなた(神)の意志の通りに」と思うべきだろう。
「私は金持ちになりたい。しかし、私の意志ではなく、あなたの意志のままに」と言えば良いし、言うしかない。
それは実現するかもしないし、しないかもしれない。だが、自我が決めることではない。自我の欲望を押し通そうとすれば、反発を受けるだろう。だが、天(真我、神)に委ねてしまえば、決して悪いようにはならない。
そうやって、個人の欲望である自我より、至高の英知を上に置くようになれば、やがて我々はキリストになるだろう。全ての制約は消え去り、神と一致した我々に不可能はなく、あらゆることを成すだろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード