この世にもう1人の自分がいるという話を聞いたことがあると思う。
それは、ドッペルゲンガーと言われ、自分のドッペルゲンガーを見ると死ぬとか言われている。
ドッペルゲンガーとは、「歩く分身」程度の意味と思う。
ところで、ゲーテは青年時代にそれを見たというが、歳をとっても十代の美少女と恋愛したりして長生きした。その他でも、ドッペルゲンガーを見た後でも問題なく生きていたという話も多い。
確かに、ある種の脳の疾患では、自分を他人に感じるという症状があるという話もあるが、その場合は、明確に自分を見る訳ではないだろう。
いずれにしろ、先程述べた通り、ドッペルゲンガーという言葉自体、別に怖い意味ではなく、これから説明するように非常に良いものかもしれない。
禅のお話に、『倩女離魂(せいじょりこん)』なんてロマンチックなものがある。
倩女という名の美少女がいて、どういうわけか2人に別れてしまう。しかし、最後に向かい合って微笑み、1人になるというものだ。
エドガー・アラン・ポーの短編『ウィリアム・ウィルソン』という傑作では、ウィリアムは、学童時代から青年になるまで、もう1人の自分につきまとわれて苦しむ。ただ、このウィリアムってのは相当なワルで良心の欠片も持っていない。その彼が捨て去った良心が、もう1人のウィリアムになったようなものなのだ。
尚、この作品は、アラン・ドロンとブリジッド・バルドーが競演という豪華版で映画化されている。『世にも怪奇な物語』という5作の作品からなるもので、私が大好きな作品だ。若きジェーン・フォンダの実にミステリアスな作品も含まれている。
『マジック・ストーリー』というお話では、おちぶれて乞食になった男の傍に、もう1人の自分が現れる。2人は不思議な共同生活を送るが、ある日、男は勇気を振り絞って、もう1人の自分に話しかける。
「君は誰だ?」
その質問は、もう1人の自分を面白がらせた。
「僕は君だ」
そして、もう1人の彼は、神を手本に作られたものだという。もう1人の彼は、乞食の彼を導くために現れたのだろう。
ドッペルゲンガーなんて、ちっとも怖いものでないばかりか、なんとも有難いものではないか?
さて、もう1人のあなたは存在するだろうか?
もちろん、存在する。
遠い宇宙を航行する宇宙船の中で笑っているかもしれない。
あなたは、もう1人の自分に情報を送っているのだが、もう1人の自分からの情報はなかなか受け取れない。そこが問題なのだ。
それで、あんまり無視されると、もう1人の自分はわざわざやってくる。とはいっても、一瞬でやって来ることが出来るのだけどね。
種を明かせば、もう1人の自分が遠くにいるような状況もあなたが作ったものなんだろう。
本来は一心同体なんだから。
聖典なんかに、視聴嗅味触の五感と心を支配すれば悟りに至るというが、もう1人の自分と接触するには、それとは別の感覚(直感)が必要なのだ。しかし、五感と心の活動が盛んだと、邪魔されて、直感が働かないのだ。五感と心が静かになれば、直感と閃きを感じるようになり、もう1人の自分と一体となれるのだ。
五感と心を静かにするには、欲望を持たないことだ。
欲望を捨てると、もう1人の自分とぴたっとくっつく。もう1人の自分は、神を手本に作られた者だ。それと一体であるあなたに一切の災難は降りかからないし、望まずとも幸運に恵まれる。
ただ、欲を捨てるのは難しい。
それなら、もう1人の自分に問いかけてみるのだ。
神を手本にして作られたもう1人の自分を信頼し、何でも尋ねてみると良い。すると、直感や閃きで答を返してくれる。それを通常の心で感じるかどうかは気にする必要はない。我々が思っているような形の答ではないのだから、無理に答を感じようと思ったり、答があったと勝手に思い込むようなことをしてはならない。
答が来るのは潜在意識の中だ。自分では気付かなくても、答はちゃんと来ているから安心すれば良い。
そうえいば、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の歌(OP曲。タイトルは『冒険でしょでしょ』)の出だしが、「答はいつも私の胸に」だったと思うが、さすが天才、畑亜貴さん(作詞者)だ。その歌の時の絵も良い。中学1年生のハルヒが大人になり(といっても高校1年生だが)、天に手を伸ばすと、天からの手がそれに答える。まさに、神の意思が働いて創らせた映像と思う。
さて、もう1人のあなたは、神を手本に作られたと書いたが、神そのものでもあるし、それはあなた自身でもある。それを、昔から三位一体とか言ったのだ。
ヨブ記にも書かれている。「神と仲良くして、平和に過ごしなさい。そうしたら幸せになれる」ってね。もう1人のあなたとお幸せに。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
それは、ドッペルゲンガーと言われ、自分のドッペルゲンガーを見ると死ぬとか言われている。
ドッペルゲンガーとは、「歩く分身」程度の意味と思う。
ところで、ゲーテは青年時代にそれを見たというが、歳をとっても十代の美少女と恋愛したりして長生きした。その他でも、ドッペルゲンガーを見た後でも問題なく生きていたという話も多い。
確かに、ある種の脳の疾患では、自分を他人に感じるという症状があるという話もあるが、その場合は、明確に自分を見る訳ではないだろう。
いずれにしろ、先程述べた通り、ドッペルゲンガーという言葉自体、別に怖い意味ではなく、これから説明するように非常に良いものかもしれない。
禅のお話に、『倩女離魂(せいじょりこん)』なんてロマンチックなものがある。
倩女という名の美少女がいて、どういうわけか2人に別れてしまう。しかし、最後に向かい合って微笑み、1人になるというものだ。
エドガー・アラン・ポーの短編『ウィリアム・ウィルソン』という傑作では、ウィリアムは、学童時代から青年になるまで、もう1人の自分につきまとわれて苦しむ。ただ、このウィリアムってのは相当なワルで良心の欠片も持っていない。その彼が捨て去った良心が、もう1人のウィリアムになったようなものなのだ。
尚、この作品は、アラン・ドロンとブリジッド・バルドーが競演という豪華版で映画化されている。『世にも怪奇な物語』という5作の作品からなるもので、私が大好きな作品だ。若きジェーン・フォンダの実にミステリアスな作品も含まれている。
『マジック・ストーリー』というお話では、おちぶれて乞食になった男の傍に、もう1人の自分が現れる。2人は不思議な共同生活を送るが、ある日、男は勇気を振り絞って、もう1人の自分に話しかける。
「君は誰だ?」
その質問は、もう1人の自分を面白がらせた。
「僕は君だ」
そして、もう1人の彼は、神を手本に作られたものだという。もう1人の彼は、乞食の彼を導くために現れたのだろう。
ドッペルゲンガーなんて、ちっとも怖いものでないばかりか、なんとも有難いものではないか?
さて、もう1人のあなたは存在するだろうか?
もちろん、存在する。
遠い宇宙を航行する宇宙船の中で笑っているかもしれない。
あなたは、もう1人の自分に情報を送っているのだが、もう1人の自分からの情報はなかなか受け取れない。そこが問題なのだ。
それで、あんまり無視されると、もう1人の自分はわざわざやってくる。とはいっても、一瞬でやって来ることが出来るのだけどね。
種を明かせば、もう1人の自分が遠くにいるような状況もあなたが作ったものなんだろう。
本来は一心同体なんだから。
聖典なんかに、視聴嗅味触の五感と心を支配すれば悟りに至るというが、もう1人の自分と接触するには、それとは別の感覚(直感)が必要なのだ。しかし、五感と心の活動が盛んだと、邪魔されて、直感が働かないのだ。五感と心が静かになれば、直感と閃きを感じるようになり、もう1人の自分と一体となれるのだ。
五感と心を静かにするには、欲望を持たないことだ。
欲望を捨てると、もう1人の自分とぴたっとくっつく。もう1人の自分は、神を手本に作られた者だ。それと一体であるあなたに一切の災難は降りかからないし、望まずとも幸運に恵まれる。
ただ、欲を捨てるのは難しい。
それなら、もう1人の自分に問いかけてみるのだ。
神を手本にして作られたもう1人の自分を信頼し、何でも尋ねてみると良い。すると、直感や閃きで答を返してくれる。それを通常の心で感じるかどうかは気にする必要はない。我々が思っているような形の答ではないのだから、無理に答を感じようと思ったり、答があったと勝手に思い込むようなことをしてはならない。
答が来るのは潜在意識の中だ。自分では気付かなくても、答はちゃんと来ているから安心すれば良い。
そうえいば、アニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の歌(OP曲。タイトルは『冒険でしょでしょ』)の出だしが、「答はいつも私の胸に」だったと思うが、さすが天才、畑亜貴さん(作詞者)だ。その歌の時の絵も良い。中学1年生のハルヒが大人になり(といっても高校1年生だが)、天に手を伸ばすと、天からの手がそれに答える。まさに、神の意思が働いて創らせた映像と思う。
さて、もう1人のあなたは、神を手本に作られたと書いたが、神そのものでもあるし、それはあなた自身でもある。それを、昔から三位一体とか言ったのだ。
ヨブ記にも書かれている。「神と仲良くして、平和に過ごしなさい。そうしたら幸せになれる」ってね。もう1人のあなたとお幸せに。
↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。


人気ランキング参加中です |
![]() ![]() |