ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

スマホやSNS等で、あなたは何も知らずに危険を背負わされているのだ

SF作家アーサー.C.クラークと共にストーリーを作り、スタンリー・キューブリックが監督・制作した映画『2001年宇宙の旅』で、木星探査宇宙船に搭載された人工知能コンピュータHALは、なかなかの人気キャラクターだったと思う。
映画の中の場面だが、記者会見で、HALについて質問があった時、宇宙計画の推進者側が、「HALは、造った者にも完全には理解できない」と言ったのが、私には、ぞくぞくするほど惹きつけられたものだった。

それで、私はコンピュータ・ソフトの開発技術者になり、仕事ではなかったが、人工知能を独学し、人工知能型プログラミング言語と言われる、Lisp、Prolog、Smalltalkなどというプログラミング言語を勉強した。
結果、私の頭では無理だと分かった。いや、これらの言語で、売上げ管理をするシステムを作るというのなら、その気になれば出来る。しかし、これらの言語の特性を本当に活かした使い方をすることが出来ない。
だが、やがて思うようになった。
HALのようなもので、Lisp言語を開発したジョン・マッカシーだって、Lispの本当のところは分かっていない。
およそ、人間の発明というものは、自然の模倣なのだ。自然を観察しているうちに、閃きは、エジソンの表現を借りれば、「空間の向こうからやって来る」。閃きを、自分の頭が考えたことだと思っている人がいるが、そうではない。正に、どこかから来るのだ。

人間の頭ってのは、そんなに良いものじゃない。天才といったって、神とか進化した宇宙人から見れば、せいぜいが利口な猿だ。
HALでなくったって、ちょっとしたコンピュータシステムになると、作った本人だって、それを完全に理解していることはまあ無い。一級の開発者の私が言うのだから間違いない。ただ、試作品の段階で、ある程度の試験をして、満足な結果が出たということで、「諦めて」運用に回すだけのことだ。NASAの宇宙船の制御システムや、核ミサイルの誘導システムだってそうなのだ。そして、実際に落としてみるわけにもいかない核ミサイルなんて、本当に撃ったらどうなるかなんて、本当は誰にも分からないのだ。

もっと身近なことで言うと、スマートフォンや携帯電話の設定で、「位置情報を発信してよろしいですか?」といった、何らかの、こちら側の情報を発信しても良いかなんてメッセージが出て、ちょっと困った経験がないだろうか?そんな時、何も考えずに「はい」と設定するだろうか?確かに、そんな時、情報を発信しないと不利益があるような気分にさせるメッセージが出るので、多くの人は「はい」とすると思う。そして、それがどんな意味があるかなんて、誰も分かっちゃいないのだ。
それは、携帯やスマホの中の情報を引っ張り出して良いかという質問なのだ。
位置情報程度なら、まあ良いかもしれないが、別の情報を、プログラムから引っ張り出される可能性もあるのだ。そして、それを許可したも同然なのだ。いまや、誰でもスマホのプログラムを作って売れるということをご存知だろうか?それで、悪意を持ってスマホの情報を引っ張り出して悪用する事件が多発しているのである。悪意が無いとしても、スマホのプログラムの開発者の大半は、スマホの機器やOSの本当の仕組みなんか分かっちゃいない。意図せずに事故が起こる危険もあるのだ。
私など、位置情報なんて決して発信しない設定にしているし、きっちり理解できない限り、クレジットカードなど、いかなる情報も登録しない。スマホも持っていない。正直、恐くて持てない。しかし、いまや、SNSのみならず、携帯やスマホの設定でも、うまく個人情報を登録させてしまうような流れを、心理学や人間工学を駆使して作っているのかもしれない。
結果の責任は、あなた自身が負わねばならないが、あなたは、本当のところなんて、何も分からないまま行動させられているのだ。









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真に頼みとすべきものは何か

私の家には、政木和三さんが発明した神経波磁力線発生器が今もある。購入したのは15年以上前だが、現在も状態は良好で、家族が、健康状態が悪い時に使っているようだ。

この神経波磁力線発生器は、医療機器認定を受けていないので健康機器ということになると思う。
この装置は、ある時、厚生労働省によって製造販売が禁止されたのだが、その経緯は実に奇妙なものであった。
以下の話は、政木和三さん本人や、この装置を販売していた会社の社長(この件とは無関係)に聞いたことである。
この装置の、ある一販売業者が、装置を客先に納品する際、装置を梱包した箱の中に、装置による病気治癒の事実を記載した紙を入れたことが薬事法違反に触れるということである。ところが、製品とは別に、そんな資料を送付するのは別に違反ではないらしい。変な法律である。
そりゃ、医療機器でない製品を、「この装置で病気が治ります」と説明して売ったら、薬事法違反というのは分かる。しかし、「治った」という単なる事実と言っているだけである、しかも、販売手続きも終わっているのに、何か不都合があるのだろうか?

いかに変な法律でも、そう定められている以上、販売業者はよく調べて注意しなければいけないのだろう。
しかし、ただの一業者がそれをやって、なぜ、製品の製造や販売を全て、それも、永久に、国家権力で禁止したのか?それが事実であれば、見過ごして良いはずがない。
よく考えてみれば分かる。
例えば、どこかの小売店が、あるチョコレートの注文を受け、郵送する際、その箱の中に、「このチョコを食べたら、胃の病気が治りました」と書かれた紙を入れたとしよう。
すると、そのチョコレートの販売が、全ての販売店で永久に禁止になったりするだろうか?
こんな奇妙な話なのである。
もちろん、同じようは話でも、極めて深刻な被害があったという場合は話が別であろう。
しかし、神経波磁力線発生器でそのようなことは起こっていない。
せいぜいが、その販売業者は、多少の罰金を払うか、その販売業者に限り、長くても数ヶ月程度、販売を禁止するという程度の違反のはずだ。
しかも、それ以前には、そのような行為も違法でなかったので、業者もついうっかりしてだけというのだ。
それなら、昨今よくあると言われる、ブレーキの無い自転車(ノーブレーキピスト)で公道を走ったら、その者は永久に自転車に乗るのが禁止という方が、まだ理解できる。なぜなら、そんな自転車のせいで怪我をした通行人が沢山いるからである。

この装置による病気治癒の実績は凄いものがあるが、私が直接知っているものの話をしよう。このブログでも何度か書いたものである。
私の友人の叔父が、末期の胃癌で余命1ヶ月と宣告されていた。私から、この装置の話を聞いたその友人は、すぐに、この装置の購入を私に頼み、私はそれを受けて彼に装置を渡した。この友人は、国立大学の理学部を出たからという理由でもないのだが、こんな話を決して信じないタイプで、この時も、私に、「俺は、お前の言う、この装置のことは全く信じない。しかし、放っておいても叔父は最後なのだ。何でもしてやりたい」と言って、10万円もする装置を買ったのだ。
結果、彼の叔父の癌は10日で消滅し、余命1ヶ月のはずが、治って退院してしまった。ただ、数ヵ月後に亡くなったが、これに関しては後で述べる。
また、ある40代の男性が、高校時代に野球をやっていた時に右肩を痛め、右腕が肩から上に上がらなくなっていた。彼は、この装置を試しに15分、肩に当てていたが、簡単に右腕が上がってしまい、驚いてすぐに装置を注文した。彼は、ある大手飲料品メーカーの課長だったが、10万円もするこの装置を即断で買ったのだから、よほどの効果だったのだろう。
最後にもう1つ、これは、重病で入院していた私の父であるが、長く同じ体勢で寝ているうちに、腰にひどい床ずれが出来、大きな穴になってしまった。なぜ同じ体勢のまま放置されたかについては、ここでは関係ないので書かない。私は、腰の内側はすぐに骨があると思っていたので、それほどの大きな穴が出来るとは驚いたものである。
医者は、腰に元通りに肉が付くことはないと言った。母は、医者に見つからないよう、神経波磁力線発生器を毎日、父の腰に当てた。すると、みるみる肉が再生し、やがて、ほんの僅かな跡形が残る程度で、ほとんど完全に完治したのである。

政木和三さんは、講演の時、臆面もなく、「この装置で、どんな病気でも治ります」と堂々と言い放っていた。特に意気込んだ感じも無かったが、薬事法もへったくれもない、本当のことを言ってるだけだという信念が感じられた。

新約聖書の福音書を見ると、イエスは、手で触れたり、言葉で「治れ」と言うことで、いかなる難病も治したことが書かれている。あるいは、イエスの服に触れただけで長年の病が治った者もいた。
我が国でも、江戸末期の神道家、黒住宗忠は、まじないと称していたが、息を吹きかけるようなことをして、驚くべき病気治しを行い、そのために評判が高くなり(悪評が起こったこともあったらしいが)、それがきっかけで門人が増えたこともあったようである。

さて、上に述べた、神経波磁力線発生器で末期の胃癌を完治させた、私の友人の叔父であるが、退院後、数ヶ月で死亡した。
これに関しては、私は納得している。
病気というものは、それにかかる理由がある。それは全て心の問題であり、心の中に、病気になる原因があるのであると思う。もちろん、ウイルス性の病気もあるのだろうが、それも、ウイルスの発生や突然変異などは、個人のものか、民族やある地域の人々といった集団のものかは分からないが、やはり、心の問題であると私は思う。
その心にある病気の原因をそのままにしていれば、現象として現れた病気が一時消えたとしても、やはり再発するのである。逆に言えば、心の中の病気の原因を消せば、病気は永遠に消えるのである。

いずれにしろ、神経波磁力線発生器を、全て、永久に、製造も販売も出来ないようにした厚生労働省の行為を、当たり前に考えるべきではないだろう。
仮に、この装置に何の効能も無いとしても、そんなことをする権利は誰にもない。
そして、もしかしたら、そのために、助かったかもしれない命が数多く失われたかもしれないのだ。

ジョージ・アダムスキー関連の本の話で見たが、半世紀ほど昔のアメリカで、アダムスキーは万能治療器を保有していた。それを、依頼により、ある政府機関に預けたところ、その装置の行方が分からなくなり、永久に彼の手元に戻ってこなかったらしい。
神経波磁力線発生器も、アダムスキーの万能治療器も、これらの装置が、実際に、いかなる病気の治療にも大変な効果があり、それが一般に普及することにでもなれば、皆がそれを使うようになってしまうだろう。
病院の中にも、装置の効果を知った医師が、自分の病院に神経波磁力線発生器を導入したところが実際にあったが、普通は、なかなかそうはならないものだろう。

だが、私は、神経波磁力線発生器の役割は、いずれ終わったと思う。
身体と心は1つのものであり、いずれかの異常は、もう一方の異常で起こるのであり、その原理を基に対処すれば良いのである。例えば、精神の異常は身体を調整することで治るだろう。例えば、いつも姿勢が悪ければ、姿勢を正しくするよう指導すれば、心の状態も修正されるだろう。また、食事内容を正しくすることでも、きっと効果があるだろう。
逆に、肉体の疾患は、心を癒すことで治るだろう。
フランスのエミール・クーエは、暗示療法のみでいかなる病気も(器官の障害と見えるものすら)治した。
また、ドイツのゲオルク・グロデックは、いかなる病気も、それがたとえ、転んで骨折したような場合すら、全て心因性、つまり、心が原因で起こると断言してはばからなかった。
これらはいずれも、現代医学、あるいは、世間的常識では、受け入れられないことだろう。
だが、私のように、食事を1日1回にして、その食事の量も控えめにし、完全な菜食にしてみれば、医学や世間の健康常識は、かなりのものが嘘であることは、簡単に分かるだろう。
そして、神経波磁力線発生器の威力を、試すたびに実際に目にし、クーエやグロデックの本をよく読めば、医学や世間より、神経波磁力線発生器やクーエらの方が、ずっと信頼する気になれた。

医療費はどんどん高額になっているが、今後はさらにそうであるに違いない。もしかしたら、医療保険制度は崩壊するかもしれない。
そして、医学も文明も発達しているはずであるのに、病人の数は一向に減らないのはなぜだろう?むしろ、大きく増えているに違いない。どこの病院も、一般病棟はベッドが一杯で、十分な状態にほど遠くても病院を追い出されるのである。もちろん、なかなか入院させてもらえない。
金持ちなら、手厚い医療サービスが受けられるが、金がなければ、粗悪な治療しか受けられないかもしれない。癌の痛みに苦しみながら、治療を受けられない者も少なくないと聞く。

冷静に、医学や世間常識を疑い、自分で考え、医療に頼らないようにならなければならない。
私は、自分の心や身体を、自分で守るというのではなく、自然の力に任せるつもりだ。それには、自然の力を阻害するものを避けることだ。それにより、いかなる病も、あるいは、災いも、私には挑めないだろう。そして、実際にそうであるのだ。









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ニュートンは神秘学で英知を得た

人類史上最大の科学者は、やはりアイザック・ニュートンかもしれない。数学、物理学において現代でも重要で一般的な原理を発見し、理論を構築した。また、そればかりではなく、反射式天体望遠鏡を発明し、それは、ニュートン式望遠鏡とも呼ばれる。
アインシュタインの相対性原理によってニュートンの物理学が地位を失ったと誤解する者もいる。確かに、極大の世界では相対性理論が、極微の世界では量子力学を必要とするが、人間の感覚での日常の世界ではニュートンの運動法則を用いるのである。

ところが、ニュートンが本気で取り組んでいたのは、錬金術などの神秘学や聖書研究で、数学や物理学(当時は自然哲学と言った)は、ほとんど、ついでにやっていたとも言われる。ただ、ニュートンは死期を悟った時、神秘学の研究資料を全て、意図的に灰にしてしまった。

ニュートンは人格者ではなかった。争う時は徹底的で容赦なく、そして、ほとんど彼は勝った。万有引力の法則では、むしろ、フックの法則で知られるロバート・フックが先に発見していたかもしれないし、微積分法では、ドイツのゴットフリート・ライピニッツに優先権があったかもしれないが、ニュートンはあらゆる策謀を廻らし、結局、これらはニュートンの名と共にある。
権威主義者と言われても仕方がないところもあり、国家権力をまとってからは、傲慢だったり、罪人に慈悲をかけない行いもあった。

ニュートンは、デカルトの本から学んだことが何より幸運だった。理解できるところまで読み、分からなくなるといったん読むのをやめ、しばらく間をおいてから、最初から読んだ。すると、前の時よりも先に進める。それを繰り返せば、いずれ、最後に到達する。現在でも、このような学習をやれば知恵を得るだろうが、今は、無駄な詰め込み学習や、後で馬鹿げたものと分かる珍奇な学習方法を強要され、子供達は駄目になっている。現在、タブレット端末を使った教育が賞賛されるばかりなので、それに煽られて乗せられてしまった者が溢れているが、批判がほとんど無いのは、優れた批判の方は、決して報道されないからだ。タブレット端末で勉強することは、人にとって深刻な悪影響となるだろう。

デカルトもまた、神秘学者だった。そして、デカルトの発見も、現代でも色褪せず、むしろ、現代より進んでいるために誤解されているようなものもあるかもしれない。
ニュートンがどのような神秘学を研究していたかは、ほとんど分からない。だが、それは、ニュートンを宇宙の英知に結びつけたに違いない。だが、ニュートンは、自分は砂浜で遊ぶ子供で、時々、きれいな貝を拾い上げたに過ぎず、真理の大海は手付かずのまま、目の前に横たわるばかりだと言った。普段のニュートンからは考えられない謙虚な言葉であるが、それがニュートンの本心と思う。
ニュートンは、エマニュアル・スウェーデンボルグやルドルフ・シュタイナーよりも前の人である。だが、神秘学でも彼等より進んでいたかもしれない。それは分からないが、いずれにしろ、ニュートンの研究の基には聖書があった。それは、スウェーデンボルグも同じだ。聖書に宇宙的英知が秘められているのは確かである。ただ、それは聖書だけではなく、インドの『バガヴァッド・ギーター』も同じで、むしろ、こちらが純粋であると言う聖者もいる。
我々が、学校で神秘学を薦められることは決してないし、聖書を学ぶ機会があるとしても、それは、ほとんどの場合、権威的で誤った教えである。アメリカ最大の賢者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは教会での聖書の教えは、少年時代に拒否している。聖典は、権威的な解釈によらず、また、世間の浅はかな知恵を用いず、無心で読むべきものだろう。そうすれば、それらが人に英知を与える力は、今でも全く失われてはいないに違いない。
下記に、イタリア人のフェデリコ・バルバロが日本語を学んで翻訳した優れた聖書をご紹介する。古事記と観無量寿経は、下記のものは意訳が多く入るが、素晴らしいものと思うし、これらから入るのは分かりやすい上、真意を汲んだ優れた意訳と思う。バガヴァッド・ギーターの翻訳も下記のものが分かりやすい。









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イケメンでさえモテるなら、ブ男がモテるのは当たり前

親鸞聖人の弟子の唯円という人が書いたとされる、『歎異抄』という、世界でも知られる本の中に、「善い人ですら仏様は救って下さるのだ。ましてや、悪い人がそうでないはずがない」と書かれている。

一見すると不思議な言葉である。

ところが、中国の古典『荘子』にも、こんなことが書かれている。
「無能であってこそ大きくなれる。有能だと危うい」
これを、『歎異抄』に当てはめれば、、
「悪人であってこそ、仏様に救われる。善人だと、仏様の救いから漏れやすい」
となるのかもしれない。

ものごと、全て、そんな道理があてはまる。
「働き者ですら生活していける。ましてや、ニートがそうでないはずがない」
「イケメンですらモテるのである。ましてや、ブサイクな男がそうでないはずがない」
「スポーツマンですら健康なのである。ましてや、運動嫌いがそうでないはずがない」

そんな馬鹿なと思うだろうか?
そうではない。
働き者、イケメン、スポーツマンは自己の力を頼む。だが、人間の力など、たかが知れているのだ。
実際、働き者が失業し、イケメンがフラれ、スポーツマンが大病になって死ぬなんてことは実に多い。いや、最後は全てそうなると言って間違いない。

アイザック・ニュートンは子供の頃から病弱で、生涯ずっとそうだった。しかし、歳を取っても、頭も禿げず、眼鏡も必要とせず、ほぼ元気なまま、当時としては驚異的な84歳まで生きた。彼は、自己の肉体に自信が全くなく、神に頼ったのだ。
また、ニュートンは決して善き人ではなかった。ライバルは蹴落とし、一度恨みを持つと執念深く、容赦も無かった。だが、彼は、自分の醜悪さを知っていたのだ。そして、神を信じていた。彼は、魔法や聖書の研究のついでに科学をやっていたのだ。だから、優れたインスピレーションを与えられたのだ。

努力嫌いであってこそ成功する。努力家なんて迷惑なものじゃないか?それに、たかが個人の努力なんて限度があり、空回りするのがおちだ。
そりゃ、成功した努力家だっているさ。だが、そんな人は、努力しつつ、自分の限界を悟ったのだ。『歎異抄』にだって、一応、善人も救われると書かれている。
しかし、努力して成功した人って、あまり幸福ではないのだ。

自分の小ささ、弱さ、醜さ、馬鹿さ加減、駄目さ加減を自覚できた者が勝ちである。
すると、素直に大きな力に頼れるようになる。
無限の力、至高の英知、全能の存在、それを、神とか仏というが、それは、頼られれば裏切らない。
世界の至上の聖典、『バガヴァッド・ギーター』『聖書』『無量寿経』も、つまるところ、至高者に全て頼れと書かれてあり、ラマナ・マハルシもイエスも親鸞も、そして、黒住宗忠も、皆、そう教えたのだ。
だが、自分に力がある、自分は優れていると自惚れている者は、決して神仏に完全に頼れない。
そして、弱い犬ほどよく吠えるの喩え通り、弱虫や意気地なしほどプライドが高いものだ。ほとんどは、社会で鍛えられてこそ、自分の無力を悟る。もし、社会に出ないままそれを知る者は超天才である。ラマナ・マハルシはまさにそうだった。

イエスはこう言ったらしい。「私自身は無である。だが、神と一体である時、私は無限である」
謙虚とは美徳ではない。力なのだ。









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有難い出来事に追われる

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、朝、起きると、すぐに、「有難い」と言ったのだそうだ。
丹波哲郎さんなら、「守護霊様、おはようございます」なのかもしれないし、法然上人や親鸞聖人であれば、「南無阿弥陀仏」だろうか。
黒住宗忠の「有難い」は、天照大神への感謝であるし、丹波哲郎さんの守護霊への挨拶も、守護霊に対する感謝である。そして、親鸞聖人は、念仏とは、阿弥陀如来への感謝であると言ったそうだ。法然上人に関しては、はっきりとは分からないが、念仏は、阿弥陀如来の全ての人々を救うという本願にすがるものであり、それは、確実に行われることが分かっているのであるから、やはり、感謝の念に満ち溢れた念仏であったはずだ。
親鸞聖人は、念仏すれば救われると言ったのではなく、すでに救われていることへの感謝が念仏なのだと言ったが、それを分かりやすく言ったのがイエス・キリストだ。イエスは、「願い事がある時は、既に叶えられたと思って神に感謝しなさい。そうすれば叶う」と言ったのである。

黒住宗忠が、「有難いと思っていると、有難いことばかり起こるのだ」と言うと、ある人が、「どうすれば、有難いという気持ちになれるのか?」と尋ねた。宗忠は、形だけでも、あるいは、真似でも良いから、「有難い」と言いなさいと教えた。例えば、朝起きたら「有難い」、顔を洗って「有難い」、食事をして「有難い」と、何をしても「有難い」と言うのである。
丹波哲郎さんは、朝起きた時と、夜寝る前に守護霊に挨拶しろと言ったが、丹波さんのようなものぐさな人には良いかもしれない。
法然上人は、「南無阿弥陀仏」を1日6万回、後には、7万回唱えたというが、無理な修行ではなく、よほど感謝の念があったのだろう。
巷では、「千回、有難いなあと言いなさい」とか、「幸せだなあも千回、ツイてるも千回」と教える人もいるが、あまりにやり過ぎると、やはり、欲に満ちてくるので、私は、ほどほどが良く、千回とかでなく、一生やれば良いと思うのである。
とはいえ、もちろん、人それぞれである。そして、多くの、有難い状況にある人が教えることであり、気に入ったやり方を真似てみても良いと思う。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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