ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

最低の駄目男がソクラテスになれた訳

学校時代、他の子達が、70点は取っていて、よくできる子は100点を取っていた試験で、せいぜい10点か20点しか取れなかった。
スポーツもさっぱりで、友達もいなかったし、憧れた女の子はいたが口も利けなかった。
大人になってからも、人付き合いは下手で、要領も悪いので、ずっと、底辺のみっともない仕事しかやれなかった。
そんな男が、「俺はなんて駄目なやつなんだ」と思わず呟いた時、誰かが、「君はちっとも駄目じゃない。自分でそう思っているだけさ」と言った。
その時、男は何かを感じて、何日もずっとその言葉を考え続けた。「俺は駄目なやつだと、自分で思っているだけだ」
男はすっかり変わってしまった。誰もが、彼を偉大な賢者と見るようになったのだ。

これは実話だし、著書に引用した世界的作家もいる。しかし、彼に何が起こったか、誰も説明していない。いや、できないのだ。有名な作家にも、本当のことは分からないのだ。

この男は、わずか数日で、ソクラテスと同じになってしまったのだ。
ソクラテスは、自分が知恵者だの賢者だのとは、本当に、全く思っていなかったのだ。
そして、ソクラテスは、世に賢者の誉れ高い人の噂を聞くと、すぐに訪ねて行き、熱心に対話した。その結果・・・。ソクラテスは自分の方が知恵があると結論せざるをえなかった。だが、それでも、ソクラテスは、自分は何も知らないと、本当にいつも実感していたのだ。
例えば、ソクラテスは有名な作家を訪問し、その作家の作品について尋ねてみた。すると、その作家は、自分の作品についてソクラテスに多く語るのだが、ソクラテスは、作家がその作品のことを何も知らないことが分かったのだ。
だが、作家は自分ではそのことに気付いていない。
もし、ソクラテスが孔子を尋ねたらどうなっただろう?
ひょっとしたら、ソクラテスは、孔子は何も知らないことを見抜いたかもしれないのだ。
だから、荘子は、孔子をずっと馬鹿にしていたのかもしれないのだ。荘子もまた、自分は何も知らないと知っていたのだ。

インドの聖者ラマナ・マハルシに誰かが言った。
「あなたは、なぜセミナーをしないのか?」
マハルシは答えた。
「やってるじゃないか?私は毎日、演壇に登って熱弁をふるっている」
もちろん、マハルシのそんな姿を見た者はいなかった。マハルシが会話をすることすら稀だった。
沈黙に勝る雄弁は無いのである。
毎年、世界中の何十万の人々が、マハルシの沈黙の雄弁を無意識に求め、彼のところに来たのだ。

小賢しい人の知恵が消えた時に現れる真の英知、光の生命・・・それを掴むと、あの不幸な男のように、瞬間に人を超えたものになることもあるのだ。
黒住宗忠は、死の手前で、まさに、光が自分に来るのを見たのだ。それを受け入れると、死の病はたちまち癒えた。そして、彼には、イエスのような知恵と力が備わった。
きっと、自分の駄目さ、どうしようもない煩悩、無知、弱さ・・・それを、本当に、腹の底から分かった時、光が訪れるのだと思う。

アニメ『BLOOD-C』で、ヒロインの少女、小夜(さや)が、時々、不思議な光を見るのだが、どうしても掴めないというのが、とても興味深かった。私も、あれと同じ光を見たことがある。だが、私は恐れてしまったのだ。あの作品を見て、自分の経験を思い出した人は、他にもきっといるだろう。また、あの光をUFOと感じることもあると思う。









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紙の本は電子書籍の百万倍の表情がある

紙の本と電子書籍の違いは何だろうか?
本当は、こんなことは理屈や分析に拠らず、感じれば分かることだが、現代人の直観は鈍いか、あるいは、直観を無視するよう教育されている。
紙の本と電子書籍では、表情が100万倍も違うのだ。だが、それを信じられない人が多い。

ある意味でだが、紙の本と電子書籍の違いは、本物の女の子とゲームやアニメに出てくる女の子ほどの差がある。
だが、いわゆる2次元の女の子が本物に匹敵する、あるいは、超えることはある。それは、見る者の想像力によってだ。だが、だから、ゲームなどの女の子が良いということでは全く無い。なぜなら、巷にあるゲームやアニメの女の子は性的魅力に偏重してデザインされており、また、人間としての面倒な部分はほとんど省かれ、やはり、本物の女の子の100万分の1なのだ。

紙の本と電子書籍の表情が100万倍違うと言っても、ピンとこない人が多いだろう。
もちろん、単なる視覚や理屈においての両者の差はそれほどではない。だが、人間の魂は、目に見えない100万倍の表情を捉え、対応する能力がある。それによって、人は進歩する。
とりあえず、かなり単純な範囲で述べよう。
紙の本はもろい。だから、大切にし、注意して扱う。元々、本をぞんざい(粗略)に扱う者の精神性は低い。電子書籍も、それを扱うタブレット端末を、最初は丁寧に扱うが、慣れるとそうでもなくなる。また、機器を大切に扱うのは良いことではあるのだけれど、本を大切にするというのとは意味が違う。
紙の本は、見る場所によって雰囲気がかなり異なる。明るい太陽の下、暮れかかった夕陽の下、蛍光灯の下・・・だが、本当は、はるかに複雑で微妙な光が存在する。自ら発光しない紙の本の文字は、それらを反映するが、それは、気付かなくても、心に影響を与える。風が吹き、ページがめくれそうになった時も、心は何かを感じる。そして、光の変化や風の起こり方は微妙であるが、偶然ではない。射し込むべき光が射し込み、吹くべき風が吹いたのだ。だが、それは人の理屈では分からない。しかし、紙の本の読書は、文章だけではなく、そんなことも教えてくれるのだ。

300ページある本を読んでいる時、不意にあてずっぽうにページをめくり、104ページを開いたとする。それは偶然ではない。104ページは開かれるべくして開かれたのだ。
実際、聖書の愛読者には、時として、気の向くままに聖書のページを開き、そこに書かれていることが、神からの自分へのメッセージだと感じることがある。
私は、数日おいて読んだ別の本の、同じページ(ある時は46ページだった)に、同じ言葉が書かれていて、それが非常に気になっていた言葉だったという経験をよく憶えている。
このような、共時性体験は、紙の本ではよく起こる。

本に書かれた文字は霊である。だから、行間には深い意味が隠されている。その本の重さが500gなら、その本の秘めたエネルギーはその数百万倍かもしれない。

平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』にあった場面を1つ借りて話をしよう。
部室のソファで、小鷹(高校2年生男子)はうたた寝をしていた。そして、10年前の親友の夢を見ていた。親友だった小さな男の子は、あの時の言葉を言う。その親友が、母親に言われた言葉だった。「百人分、大切にできる本当の友達を作りなさい」。半分眠っているような小鷹は、その言葉を口に出していた。
今は、どこで何をしているか分からない彼が、10年前の自分と今の自分に語っているようなものかもしれない。
その時、不意に物音がする。
近くで本を読んでいた、三日月夜空(小鷹のクラスメイトの女子)が、なぜか動揺して、読んでいた本を落としたのだ。
夜空の、驚愕とすら言える様子に小鷹は驚く。

あくまで、小説の場面を借りただけで、この小説に書かれていた訳ではないが、本は落とされたのではなく、落ちたのだ。それは、本に書かれた文字が関与したのだ。それを読み、共鳴した夜空の精神が、その場の状況に影響を・・・大きな影響を与えたのだ。世界とは、実に、そのように成り立っているのだ。その働きを、老子や荘子は道(タオ)だと言ったのである。夜空の心が、小鷹に夢を見させたのだ。そして、大切なことを思い出させた。その共時性が、2人が、そして、世界がつながっていることを明らかにしたのだ。

面白いことに、昔の本はタブレットだった。このタブレットとは、板という意味だ。だが、それは紙という柔らかいものに進化したのだ。
3万年以上も前に書かれたという至高の聖典『エメラルド・タブレット』は、エメラルド色(鮮緑色)の特殊合金のタブレットに書かれているらしい。
永遠の英知は、永遠に残るものに記された。
しかし、ニュートンも、岡田虎二郎も、本当に重要な手記は、死ぬ前に燃やして灰にしてしまった。ソクラテスは書きさえしなかった。
文字そのものが重要なのではないのだ。
文字の霊とでもいうものが大切なのである。だから、文字は、いずれ消えていくものであることを暗示するものに記されている必要があるのである。









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タブレット端末での学習や読書は思考能力を葬り去る

最近、タブレット端末を子供の教育に使うことを、肯定的に語るものをよく見る。
だが、実際に自分でタブレット端末を使って学習し、本当に良いと理解した上で推奨している人など、見たことがない。
子供達自身が、タブレット端末を使った勉強を楽しく語るような映像もあるだろうし、今度は増えるに違いない。しかし、それは単に、作為的に作られた宣伝である。

もしかしたら、タブレット端末を使った学習や読書は、子供に限らないが、特に子供達の脳や神経、そして、それと不可分である精神に深刻な影響を与えるかもしれないのだ。

タブレット端末を使うことが効率的な場面というのは確かにある。
既に、銀行や郵便局、あるいは、駅やコンビニの現金自動預け払い機(ATM)は数多く導入され、便利に使われている。
飲食店でも、タブレット端末で注文を出せるようなところもあるらしい。
こういった、単純な操作を行うことには向いている。

教育においては、もし役に立つとすれば、教育そのものではなく、やはり、事務的な部分だ。例えば、講座の予約や、教材の注文などといったことだ。それだったら、ずっと以前から行われており、有益なものである。
だが、教育自体に導入することは、話が全く違う。

教育とは、本質的に効率の良いものではなく、便利になれば良いというものではない。
本当の勉強とは不便なものだ。
例えば、重要な疑問が起こった場合、それが重要であるほど、答に行き着くには、さんざ不便な思いをしなくてはならない。
簡単に答が得られるような疑問であれば、大して重要ではない。そりゃ、簡単なことであれば、場合によっては、コンピュータを使うのも良い。しかし、それも気を付ける必要がある。例えば、ベラドンナという花がどんな花かは、コンピュータを使って調べても良いかもしれない。しかし、それで、その花の形や色が分かり、いくらかの情報が得られたことで、ベラドンナについて分かったと思うべきでない。コンピュータの教えるベラドンナは、本物の1/1000でもないのだ。
格闘ゲームをやっても格闘技は分からないばかりか、むしろ、誤解と偏見を持つことが多いだろう。それと同じことである。

今の生徒や学生は、どんなことでも、誰かに聞けば答が得られると思っている。
極端な話だが、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題の答を、平気で人に聞くし、自分に納得できるよう説明してくれなければ不満に思い、相手を責めたりするのだ。
このブログへのコメントでも、「全然分かりませんでした」「面白くありませんでした」といった、単純な不満を書き込んでくる人がよくいる。誰も、あなたに分からせる義務も、面白がらせる義務も無いということが分からないのだ。
これは、何でも誰かが教えてくれる、面白いものは外から与えられると思い込まされてしまった者の悲劇的な姿なのである。
コンピュータを使って、一通りの解答を示すことは出来るかもしれない。
しかし、そうやっているうちに、何でも答は1つだと思うようになるのだ。
また、コンピュータ相手に、「この答はおかしい」と反論し難いのが普通だ。およそ、思想統制なんてのは、反論を封じて行うものじゃないのかね?

タブレット端末は、従来のキーボードやマウスより操作性が良いので、もっと教育にITをという趣旨であろうが、IT教育自体に恐ろしい欠陥があるのだ。
タブレットの操作自体にも、致命的な悪影響があるが、ここでは、読書という行為のみについて少し語ろう。
私は、しばらく、iPod touchでずっと読書してみた。
すると、明らかに、理解力は著しく低下し、紙の本の読書では感じる、文面とは異なる何かが精神の中に浸透したり、逆に、発想が起こるといったことがなく、読書の楽しさを感じられず、苦痛なだけであった。そして、ついにやめてしまった。興味深いはずの文章を用意したに関わらずだ。タブレット端末で読書する度、しばらくはものを考えることが全くできないほどなのだ。恐ろしい体験だったと思う。
操作自体には文句はない。本を注文するといった操作であれば、実に良いと感じるだろう。
しかし、勉強や読書に使ってはならないと強く感じた。

おそらく、タブレット端末、あるいは、ITを使った教育に批判的な研究者も、実際は非常に大いに違いない。しかし、そんな人たちの意見は、決して、決して、メディアに取り上げられない。特に日本ではそうだろう。
だが、理解できる者は、子供達のために、あるいは、人類のために、黙っていてはならないのである。









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家族の死の時にも自由が利かなかった人たち

フィギュアスケートの浅田真央選手の、グランプリファイナル戦直前の緊急帰国と、全日本選手権出場の決定で、いろいろ思い出すことがある。
もう何十年も前のオリンピック大会で、ある西洋人の金メダル候補の選手がいた。だが、彼は、妻の出産日が近かったため、競技を欠場して帰国した。後悔はしていないと言う。当時は、オリンピック選手は純粋なアマチュアで、民主的な国の選手であれば、ほぼ完全に個人の意志が優先されたということもあった。
これと逆だったのが、プロレスのジャイアント馬場さんで、お母さんが亡くなれた後だったと思うが、知らせを聞いて、馬場さんはすぐに故郷の実家に帰ろうとしたが、決まっていたバラエティ番組の出演を断れなかった。テレビ局が許可しなかったのだと思う。当時の馬場さんは、野球の王、長嶋にも並ぶスーパースターで、テレビの力は絶大であり、自由の利かない立場だったということだろう。それで、馬場さんは、母親の骨も拾えなかった。
ある年配の普通の女性の話であるが、彼女はただ1匹の犬と一緒に生活していた。他に家族はなかった。犬は部屋で飼っていて、一緒に寝るほど可愛がっていた。だが、その犬も歳を取り、ある朝、とても容態が悪かった。しかし、彼女は仕事を休むことが出来なかった。「帰って来るまでがんばってね」と言い残して、やむなく出勤したが、帰宅した時には、犬は死んでいた。尚、犬には、決して、寂しいとか悲しいという感情はない。そんな感情があるように人の方で感じるだけである。

奴隷というものがあった時代には、奴隷達は、親が死にそうだったり、自然な感情として、その数倍辛い、わが子が死にそうな時でも、全く自由はなかっただろう。
いや、現代でも、浅田さんのような状況で、国家が自由を与えてくれなかった人は必ずいるはずだ。
自由が利くなら、是非、そうすべきだろう。だが、そうでないならどうすれば良いか?それが宿命と、黙って受け入れるしかない。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツの謎の手記の中で、あるアラブ人は、家族を殺された時、家を奪われた時、そして、自分の死期を悟った時、至上の歓喜を感じた。イェイツは何か難しい説明もしていたが、彼が、神の思し召しを受け入れたというのではないとは書いていた。よく分からないが、きっと彼は、神と一体化する体験をしたのだ。
我々も苦しい時には、そうすればいいのだし、その可能性を与えられているということなのだろう。
イェイツのこの手記が書かれているイェイツ論の名著と、運命を扱った3つの素晴らしい本を以下にご紹介しておく。









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プロレスの暗黙のルールこそ人生成功の鍵だ

プロレスは八百長だろうかと尋ねられたら、「八百長じゃないけど暗黙のルールはある」程度が答になると思う。
ところが、こんな回答に納得できない人がよくいる。日本人の大半はそうで、結果、世間的には、「プロレスは八百長」という見解が一般化している。

「八百長じゃないけど、暗黙のルールはある」というのにどうしても納得したくない人は、あまり楽しい人生を送っていないと思う。その理由は、これから述べる。
世間の常識人は、「暗黙のルール」と言われたら、それを、悪いもの、怪しげなもの、美しくないものと、どうしても思ってしまうのだ。
だが、暗黙のルールは、明確なルールよりはるかに美しく、高度で、尊いものなのだ。

プロレスというのは武道でも決闘でもない。
もし、プロレスラ-が、武道家の果し合いのように、毎試合、完全に本気の真剣勝負をやったら、選手達は、試合ごとに命がけだし、見ている方も、全く面白くないものになるのは間違いない。
誰もプロレスラーになろうとはしないし、見ようともしないだろう。
武道家の本当の決闘なんて、見ても面白いものでもなんでもない。一度見たら、二度と見たいと思わないだろう。

プロレスというのは、武道や決闘を見せようとしているのではなく、野球やサッカーのように、高度な身体能力や技術で、観客や視聴者を楽しませるためのものだ。だが、プロレスは格闘技である限り、危険なもので、どうしても、普通のスポーツとは違った力加減が必要なのだろう。しかし、だからといって、演技の試合を見せたら、迫力は生まれないだろう。スポーツである限り、実力主義であるのは当然だし、そうでなければ、栄えるはずがない。その中で、優れた暗黙のルールが生まれたのだ。
暗黙のルールはとても重要なものだ。だから、団体にしろ、個人にしろ、暗黙のルールを勝手に捻じ曲げる者がいると、プロレスの質が落ち、崩壊の危機に陥るのである。
暗黙のルールが美しいほど、栄え、発展するのだ。
今は、アメリカのプロレスは廃れてしまっているらしい。暗黙のルールが美しくないからだ。

明確なルールは、デジタルであり、左脳的で、白か黒で決定できる世界だ。
暗黙のルールは、アナログであり、右脳的で、白か黒を決定できない世界だ。これは、グレイという意味ではない。グレイというのは、白と黒の割合で作られる色で、やはりデジタルの世界だ。白であると同時に黒でもある。あるいは、どちらでもないというのが、本当に右脳の力が発揮される世界だ。だが、こんなことを受け入れられない人が多いのだ。そんな人を、制限された思考の持ち主とか、唯物論者と言うのだ。

「私とあの子のどっちが好きなの?」
「両方かな」
「そんなの駄目だわ。じゃ、どっちがより好きなの?」
「なんとも言えない。僕には分からない。でも、君のことは多分好きだと思う」

こんな会話になったら、女性の方は怒るだろう。
そんな女の子のような視点でプロレスを見たら、きっと面白くないし、そういった人が、プロレスは八百長だと糾弾するのだ。
ところが、実際は、女は、こんな男と手が切れないのだ。

「もちろん、君の方が好きさ。そんなこと、言わなくても分かってるだろう?僕の目をご覧!これが嘘を言ってる男の目かい?」
嘘と分かっていても、女は、こんな男に弱い。いわゆる、本物の伊達男である。
一方、
「君だけが好きさ。あの子のことなんかなんとも思ってない」
なんてことを言う男はモテない。
嘘のつき方が、男女の間の暗黙のルールなのである。
歌にもあったと思う。「ずっと騙して欲しかった」ってね。

人生の幸福は、人生の暗黙のルールの習得如何だ。
金持ちには、金持ちの暗黙のルールがある。それを知らなければ金持ちにはなれない。
引き寄せの法則だ、潜在意識の法則だと言ったところで、こういったことが分からない者は、箸にも棒にもかからない。
そして、プロレスは、実に素晴らしい教材でもある。もっと発展すべきだ。
カミュの『異邦人』も、こういったことが学べると思う。

「結婚してくれる?」
「いいよ」
「私のこと、愛してる?」
「いいや」
彼女は、どんなことになっても、彼から離れることはなかったのだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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