ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

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[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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孔子VS荘子~論語のように生きられる訳ないだろ~

『論語』といえば、お釈迦様とほど同時代といわれる2500年前に孔子が書いた、人類の英知の極地とも言われる名著で、現在も、特に経済界などで信奉者が沢山いる。
ところが、孔子を徹底してけなし、ほとんど馬鹿にした人が、孔子より100年ばかり後の人と言われる荘子だ。

『論語』は、これを読み込んでいれば、いかなる場所でも、重々しく引用できる名言だらけだ。
仁義礼学という、道徳、知性、品格など、人間が人間たる価値とは何で、それをどう高めるかといったことが、人類最高の英知の持ち主が説いているのであえる。
一方、荘子の言葉も数多く引用されるが、どうも論語とは雰囲気が違う。あまり重々しくもないし、知られてはいるが、意味はよく分からないといったものもある。「無為の為」だの「無用の用」なんてのは、言葉として面白い程度に思われているかもしれない。

『論語』は、数多くの貴重な教えに満ちている。
一方、『荘子』に書かれていることは、つまるところ1つだ。それは、「なりゆきにまかせろ」だ。言い方を変えれば、「作為をするな」、「思慮分別を捨てよ」であるが、やはり、一見すると軽薄な感じもする。

荘子は、なぜ、あそこまで孔子を叩いたのだろう?
また、荘子は、友人だった、孔子的な思想を持った恵子(けいし)も、しょっちゅう、からかってやり込めていたようだ。

以下は、本には書かれていないことである。
荘子は、論語を熟読し、非常に感動し、孔子こそ、人類最高の英知の持ち主であると思ったのだ。論語に書かれていることは全く正しいと納得していた。
だが、ふと思ったのだ。では、私は、論語に書かれている通りに生きられるのかと。いや、自分はまだ恵まれた立場だし、努力くらいは出来るかもしれない。しかし、今の生活に追われ、学問などに全く縁の無い衆庶(しゅうしょ。庶民のこと)となると、全く絶望的だ。
立派な人間になるのに論語が良いものだとしたら、下々の人達は駄目な人間でいるしかない。しかし、論語を暗誦するまで読み込んだ愚か者もいれば、学問など知らなくても素晴らしい人間もいるではないか?
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の者達だって、論語を誤解している訳でない。ちゃんと理解しているのである。
いや、くどくど言わず、簡単に言えば、論語は素晴らしいが、「こんなこと出来るかあ!」と言いたいのである。

同じことを悩んだのが法然だった。
浄土系仏教の経典である『観無量寿経』には、極楽浄土に行くために、常に良いことを、心からの行いとしてやれと書かれている。そりゃ、それができないなら、阿弥陀仏の名前を呼びさえすればいいとも書かれている。しかし、やはり、立派な行いをしろと長々と強調しているのだ。それも、心がこもっていないと駄目なのだ。
法然は、そんなこと、貧苦に喘ぐ一般庶民に教えられるかいと思ったし、正直言って、自分も完全に出来るとは思えなかったのだろう。
だが、彼が敬い、傾注していた、中国の偉大な僧であった善導も、『観無量寿経』の解説書に、道徳的な規律や心がけについては、やはり大切であるとはっきり書いているのである。
しかし、法然は、考えに考えた末、とんでもないことを言い出した。
『観無量寿経』や、善導による解説書には、いつも良いことを心から行えと書かれている。一方、それができない愚か者は、阿弥陀如来の名前を呼ぶだけでも救われると書かれている。つまり、結論はこうだ。
「観無量寿経には、結局、ただ、阿弥陀仏の名前を呼びさえすれば良いと書かれているのだ。厳しい行をしろと書かれているのは、実は、この厳しい行を捨てろという意味である」
なんとも凄い発想である。
私は、思わず、青池保子さんの大長編漫画『エロイカより愛をこめて』に登場する、大ナルシストの泥棒で、漫画のタイトルにその名を冠するエロイカ伯爵を思い出す。彼は、素晴らしい美術品を見ると、「これを私が目にしたということは、神が私に、これを得よと言っているということだ」として、堂々と盗むのである。なんとも自己中心主義、なんともご都合主義であるが、この「なんとも」がつくのと、ただの自己中心主義、ご都合主義とは、何か違うのである。

法然は、極楽浄土に行くためには、良い行いや心がけなど一切不要で、ただ、阿弥陀仏の名を呼べば良く、それは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば良いということだとし、自分も、これ以外の考えは持たぬと言い、遺書にもそう書いた。
別に、法然は、良い行い、良い心がけを否定したのではない。それらは良いものだし、それをするのは望ましい。しかし、「できんだろ?あんたにも俺にも」と言ったのだ。
口先だけ立派なことを言っても、実際にやってることは全然違うセンセイ達とは偉い違いではないだろうか?
法然の弟子の親鸞となると、その念仏もあんまし楽しくないなあとまで言い出した。さらに、肉は食うし、子供は作る。しかし、親鸞は法然を超えたと言われる名僧だ。まあ、親鸞の話は今回は置いておく。

イエスは、人々に、律法(モーセが教えた規律)を守れと言った。盗むな、殺すな、嘘を言うな、親を敬え、夫や妻以外と性行為をするな・・・などである。
しかし、誰かがイエスに、「一番大切なのはどれですか?」と尋ねたら、イエスは「神を愛せよである」と即答した。
法然流に言えば、神を愛せよ以外は、それ(神を愛せよ以外の律法)を捨てるために、とりあえず言ったのだということになる。
とんでもない話と言われそうだが、その通り(法然の言う通り)ではないだろうか?
昨日も書いた、藤圭子さんの『命預けます』ではないが、「嘘もつきます、生きるため」で、嘘をついたことのない人はいないし、犯罪にはならなくても、事実上の盗みなら、いっぱいやっているはずだ。その自覚が無いことの方が悪い。

そうだ。イエスも、ただ、神を愛し、信じなさいとだけ言ったのだ。
具体的には、詩篇23や91の通りに祈れば良いのだし、それをやった人達は奇跡を起こしている。
それは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることと全く同じだ。

ただ、イエスも法然もこう言っているのだろう。
「それだけやれば、後のことは自然にできるようになる・・・はずだ。多分・・・」
まあ、堅いことは言わないことだ。人の本性は善なのである。多分・・・









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「下駄を預ける」と「命を預ける」

「下駄を預ける」という言葉がある。決定、処置、責任などを全て任せるという意味で、昔の言葉だから下駄だが、今なら靴になるのだろう。これを預けてしまったら、自分は身動きできないのだから、ある程度は、相手を信用していないと出来ないことだ。しかし、あまり信用できない相手だと心配だろう。

1980年代終わり頃のアイドルで、今は、羽生善治さんの奥さんである畠田理恵さんは、谷村新司さんが、「ガラスケースに入れて飾って置きたくなるような子だ」と言ったらしいが、本当に人形のような美少女だった。まさに、万人が好ましく思うような清純で素直な雰囲気に溢れていたのだが、彼女のデビュー曲の『ここだけの話 〜オフレコ〜 』は、こんな子に、わざと意味深なことを言わせて男性ファンを喜ばせようとしたのだろうが、「時計外して、あなたに預けた」という歌詞があった。今なら、さしずめ、携帯かスマホを預けるといったもので、「(あなたが拒否しない限り)今夜は帰りません」という意味であるのは、言うまでもない。これほどの美少女に言われたら、まさに男冥利につきるというものだろう。

ところが、もっと昔だが、宇多田ヒカルさんの母親で、演歌歌手の藤圭子さんが大人気歌手だった時に、『命預けます』という大ヒット曲があった。
作詞は、石坂まさをさんで、だいたいの内容は、「私は、ろくでもない女かもしれないが、こんな私でよかったら、あなたに命を預けます」というものだった。
当時、19歳の、これも日本人形のような容姿で、アイドルとしての面もあった藤圭子さんが「嘘もつきます、生きるため。酒も飲みます、生きるため」と歌うのは、今のアイドルではちょっと考えれないし、また、歌ったら滑稽に違いない。
しかし、「命預けます」とは、なんとも素晴らしい言葉ではないだろいうかと思う。
「下駄を預ける」とか、「時計を預ける」なら、一時的という雰囲気が強く、必ずしも相手を完全に信用しているとは言えないかもしれないが、「命預けます」となれば、「死んでも文句は言いません」ということであり、自分を完全に明け渡している。

今の多くの女性は、靴や携帯を預ける程度の気持ちで身を任せるのだろうし、男の方も、それが気楽だと思っている。命を預かることが出来る強い本物の男は滅多にいない。
古いだろうが、女は、命を預けられる男を見つけ、男は、素晴らしい女の命を預かることが出来るようになって欲しいものである。

これは、恋愛や結婚に限らない。
大物が、自分の立場をぐらつかせる危険もあるような貴重なものを、配下の若い者に預けるということをすることがある。自分の信頼を無言で表しているのであり、それをされた者は、この親分のために命を捨てる覚悟をするだろう。

さて、神や仏に命を預けるなら、天下無敵であり、大安心の境地に至る。
およそ、いかなる聖者も聖典も、教えているのは、ただその一点だ。
ラマナ・マハルシも、黒住宗忠も、釈迦も、イエスも、法然も、親鸞も、バガヴァッド・ギーターも、聖書も、観無量寿経も、老子も、荘子も、全てそうだ。
聖書の詩篇91は、神様に命を預けたということだし、南無阿弥陀仏の念仏は、阿弥陀仏に命を預けたという意味だ。
神仏は、その期待に応える。だが、命を預けてしまえる者は少ない。









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開運は力まずお金をかけず

霊とか、超能力、宇宙人、占いや開運術といった方面では、怪しげな人もいるものだ。
そういったことを語る人は全部怪しいという人もいれば、あの人は怪しいが、この人はまっとうだなどと言う人もいるだろう。
しかし、この世に、怪しくない人などいない。
もし、全く怪しくないという人がいるなら、その人が一番怪しいだろう。
誰がより怪しいとか、あまり怪しくないなんてこともない。
科学者も政治家もスポーツ選手も企業の役員も超能力者も占い師も救世主も、みんな同じだ。
世の中は、みんな怪しい。そして、みんな自分は怪しくないと思っているのだから、一番怪しいのは自分だということになる。

こういう前提で言うのだから、少しも蔑む意味ではないが、中岡俊哉さんという、実に怪しい人がいた。心霊写真に関するようなことでよくテレビにも出ていたらしいが、幅広い超常現象、神秘現象の専門家で、著書は200冊以上もある。
著名な怪しい人というのは、商売気が強過ぎるために、反発を受けている人も多い。しかし、彼等の大半はフリーランスであり、商売熱心なのは当然のことだろう。たまたま儲かっているとしても、明日は一文無しになるかもしれないような立場だ。そして、いかに独断的に見えても、皆、悪意というものは無いものだ。だから、売れているような怪しい人というのは、こちらが賢く扱えば、非常に役に立つことが多いのである。表向きは怪しくない啓蒙家や教育家などと比べると、毒が多い分、薬にもなるのだ。

中岡俊哉さんの本を見ると、おかしな論理が見られる部分も確かにあると思う。だが、捨て難い点も多いのだ。
玉石混交(ぎょくせきこんこう)という言葉がある。価値のあるものとないものとが、入りまじっていることで、中国の仙道の根本の書といえる『抱朴子』の中にある言葉だ。
しかし、世の中は、全て玉石混交だ。悪いもののない良いものなんて存在しない。
中岡俊哉さんの本も玉石混交なのだろう。

私など、引きこもりで、身体は学校に行っていたが、授業を聞いた憶えはなく、昨日も書いたが、大学となると、淀川長治さんのように出席もしなかった。
世間を忌み嫌い、働く気もなく、親が金持ちでもないのだから、本来なら、社会の最底辺にいてもおかしくない。しかし、およそ苦労したことはなく、常に豊かで、いい思いばかりしてきたと言って良い。
つまり、社会に出てから、何もかも順調なのだ。
それは、1つには、19歳の時にジョセフ・マーフィーの本を読んだのと、その後、中岡さんの本を読み、その「ど」が付くほど単純な開運法を実践したからと言える。
私が最初にやった仕事は、歩合制のセールスで、10人の新人が入れば、10日で9人までは辞めるという厳しい仕事だった。しかも、よほど話し上手で人付き合いが上手くないと勤まるはずもなく、引きこもり気質の私に最も向かない仕事のはずだった。
だが、案外に楽しく過ごしていたのだ。どうやったかというと、中岡さんの本にある通り、生まれ年の守護仏の真言を唱えていただけだった。例えば、ウサギ年生まれなら文殊菩薩で、真言は「オン、アラハシャ、ノウ」だし、犬年、猪年なら、阿弥陀如来で、真言は「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」である。
正直、特に、この方法が良いというのではない。いや、間違いなく良いのだが、他の方法もあるということだ。
最近、私がよくお奨めしている、聖書の詩篇23や91を読んだり、南無阿弥陀仏の念仏を唱えるというのも全く同じことだ。

中岡さんが、簡単でお金のかからない開運法を教えてくれたのは有難いことだった。
開運法は、ごく簡単で、お金がかからないものでないと、取り組めないし、続かない。
そして、うまくいくかどうかというと、うまくいって当たり前である。うまくいかないとしたら、余計なことを考え過ぎていたり、欲をかき過ぎているのだろう。
多額の寄付金を騙し取られたなんて人もいるし、会ったこともあるが、欲が強い人が多かったような気もする。
もし、悪霊というものが人につくとしても、それを取るのにお金がかかるはずがない。詩篇の91を読んだり、念仏を唱える以上の浄霊なんてあるはずがない。
金持ちというのは、私も沢山知っているが、煩い事が多いもので、あまりなることはお奨めしない。しかし、豊かであるだけなら、さほどでない。
野の花が自然に咲くように、人が豊かであるために努力は必要でない。
「金?金は、腹に力が付けばいくらでも出来ますよ」と岡田虎二郎は言ったが、腹に力が付くとは、大きな力に任せ切ることで、虎二郎も、「絶対他力」であると断言した。中岡さんの教えた方法もまた、自力を必要としない、絶対他力だった。









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『太陽がいっぱい』を400回以上見た映画解説者の心の牢獄

映画解説者の淀川長治さんが、映画『太陽がいっぱい』の解説の際、この映画を400回以上見て、見る度に必ず涙を流すという話をされていたのを、印象深く憶えている。
これは、映画の作品としての力であると共に、淀川さんの生まれ育ったバックグラウンドの強い影響があったのだろう。淀川さんは、非常に複雑な育ち方をしたが、生まれた時の事情も特殊であった。彼は父より30歳若い妾の子だった。父の本妻は、長治さんが生まれて数日で他界。その後、長治さんの実母が本妻になっている。妾とかの話は、私は全く何とも思わないが、いかに昔とはいえ、いろいろあったはずだ。長治さんは、慶応の入学試験に失敗して、日大に入学するが、出席することはなかった。表面的に述べれば、「ああそう」程度の話かもしれないが、同じような学校時代を送った私は、彼にいったい何があったのだろうと考えざるをえないのだ。

画家の横尾忠則さんとの対談では、淀川さんは幽霊を見た話を真面目に語っていたが、横尾さんも、霊や宇宙人の存在を認め、また、宇宙人と逢った話も著書に書かれていたこともあり、淀川さんも、気分よく話し、かなり饒舌になっていたように思う。

非常に気に入った、あるいは、心を動かされた映画やテレビドラマ、アニメ、小説を繰り返し見たり読んだりすることはよくあると思う。
しかし、いかに『太陽がいっぱい』が傑作とはいえ、400回以上見て、しかも、見れば必ず涙を流すというのは、普通の人からすればやはり異常であり、これは、淀川さんの抑圧された心の苦しみがいかに大きいかを感じるのである。

単に面白いとか、楽しいと思う作品をこれほど見たりはしないものだと思う。
淀川さんは、アラン・ドロン演じるトムと自分を重ね合わせていたことは間違いないと思う。トムの育ちは、映画の中で、あまり語られていないが、幸福な子供時代を過ごしたはずがないということは容易に想像できる。そして、トムはとても有能だが、それは、自分を守るために、身に付けざるを得なかった、汚く惨めな能力だ。
汚れた、卑しい、誰にも誇れない能力を得て、それに頼る人間・・・象徴的な言い方をするなら、黒い手、あるいは、悪魔の手を持った人間だ。淀川さんも、自分は黒い手を持っていると思っていたに違いない。

最近、私は『BLOOD-C』(原作:Production I.G、CLAMP)というアニメの最終回を短期間に30回は見た。それは、名作だからとか、感動的だったという理由ではない。
この作品の主人公の小夜(さや)ほど、心を踏みにじられた人間は、まずいない。ただの不幸ではなく、仕組まれた最悪のシナリオだった。
身体もぼろぼろになって、波にさらされ、雨に打たれ、夜闇にうなだれながら、ずっと心の傷の痛みをなめ続け、そして、遂に、心を奮い立たせて立ち上がる。それは、恨みを晴らすためと、願いを叶えるためのどちらが、小夜にとって強いのだろう?
小夜もまた、悪魔の黒い手を持っている。それを、今後、どう決着を付けるのだろう?(続きは、来年6月の映画になるようだ)

人は、心のままに生きられないことがある。
誰も、本当は、自分の心を自分で踏みにじるような醜いことはしたくない。しかし、そうせざるを得ないこともある。
トムは、惨めでいたくなかったから、野望を持ち、栄光に近付くためなら、何でも、たとえ悪いことでもしてきたのだろう。恵まれない境遇からスタートせざるを得ない者なら、仕方のないことだ。だが、そうする度に、かえって心は傷付き、その醜い傷口を隠すようになったのだ。
それが分かる者なら、あの映画は涙を流さずに見ることはできないだろう。

淀川さんは、表向きには、明るい、愛想の良い人間になったが、傷付いた心の牢獄に住んでいたことは間違いないだろう。
人が生きる目的は、心の牢獄から自分を救い出すことだ。

トムは、最後に悪事がばれたから不幸なのではない。
自分を救い出す道が閉ざされた悲劇を生きなければならないのだ。淀川さんにはそれが分かるのだ。
アイルランドの詩聖W.B.イェイツは言った。「人生が悲劇だと認識した時に、初めて人は生き始める」と。イェイツは、年老い、死の直前になっても、自分に安らぎを赦さなかった。イェイツのあの険しい顔を見れば、彼の抱えていたものが見えるようだ。

だが、人は、自分を心の牢獄から救い出すことを諦めてはならない。
それは、いかなる罪を犯した者でも可能である。どのようにしてそれをやるかはともかく、まず、それができることを信じるべきである。









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理屈を捨てれば世界は動く

『星の王子様』で、著者のテグジュペリは、子供の頃に描いた絵をけなされてから自信を失くし、絵の練習をしなかったから、絵を描けないんだという話をしていた。
ところが、星の王子様のために、羊の絵を描かなければいけなくなって困ってしまう。だが、そこで名案が浮かぶ。箱の形の小屋を描き、「この中に羊がいる」と王子様に言ったのだ。王子様は、その羊のことについていくつか質問はしたが、納得して満足する。

これは、よく考えれば、凄いことで、芸術の真髄と言えるかもしれない。
例えば、世界一の画家が、世界一の美女の絵を描いたとしても、その絵を見た人が、必ずしも世界一の美女と認めるとは限らないばかりか、人の好みや美的感覚とは多様なものであり、普通の美女とすら認めない人もいるに違いない。醜女とすら感じる人がいても、少しも不思議でもない。
昔、週間プレイボーイ誌で見た4コマ漫画に、2人の女子大生が海外で未開人に拉致され、神の生贄にさせられるというものがあった。ところが、未開人達は、「神への生贄は美人だけでいい。ブスを捧げると神の怒りをかう」と言っている。女子大生の1人は美人だが、1人はブスだった。ブスな女子大生は「こんな顔に生んでくれて、初めて両親に感謝するわ」と思う。しかし、未開人達が生贄に選んだのは、ブスだと思っていた女子大生の方だった。
あなたは、『モナ・リザ』が付き合ってくれと言われたら付き合うだろうか?私なら遠慮する。
だが、部屋のドアを描き、この中に世界一の美女がいると言われたら、自分が思う世界一の美女を想像すれば良いのである。
俳句や和歌は、最小の言葉だけを残し、後は読む者に想像させるという、詠み手と読む者が一緒に創るものだ。詩もやはりそうだが、およそ、芸術的な文章は書き過ぎては良くなく、できるだけ、読者に想像させないといけないのである。
どんな文章の達人であっても、美しいはずのものを徹底して写実に表現したら、読む者は、全然美しいと感じないことは間違いない。
物理学の一分野である量子力学はとても難しいと言われる。ところが、物理学など全く知らない芸術家や賢者には、量子力学の真髄を理解している人はいくらでもいる。いや、彼らが知っているのは、科学者の量子力学を超えているのかもしれないのだ。数式で表さないと有難くないと思っている人もいるが、恋愛や友情だって、その気になれば難しい数式で表すことは出来るが、あまり意味はないことだろう。
大数学者の岡潔は、道元の『正法眼蔵』を20年読んで分からなかったが、ある時、一瞬で全て理解できたという。それは、理屈で分かったのではなく、理屈を捨てた時、直観で分かったのだ。彼が、大数学者になれたのは、理屈を組み立てる天才だったということもあるが、それより先に、直観が優れていたのだろう。

思考や心で分かることにこだわると、幸福になれないし、偉大なことを成し遂げることもできない。
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉をご存知と思う。
南無は「帰依します」という言葉だとよく言われるが、帰依なんて言葉を知っている人なんていない。そんな小難しいことを言うのはやめ、「心から信じます」と訳すべきだろう。
妙法蓮華経とは、法華経というお経(かなり長いものだ)の正式名だ。
つまり、「南無妙法蓮華経」とは、「私は、法華経を心から信じます」という意味だ。
つまり、こう唱えれば、法華経を読まなくても、読んで理解したのと同じで、それを読んで得られる知恵や神秘力も得られるという、大変に素晴らしいものだ。
世間の常識で考えると、「そんな馬鹿な」となるかもしれないが、断固、本当だ。逆に、法華経を真面目に読んで、頭で理解しようとしたって、一生かかったって理解できないのが普通なのだ。
同じく、南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏(という仏様)を心から信じる」という意味で、こう唱えれば、絶対的な力を持つ阿弥陀仏様は、数多くの、スーパーパワーを持つ仏様や菩薩様を送ってきて、守ってくれるのである。中でも、阿弥陀仏の自慢の弟分である、観自在菩薩や勢至菩薩を惜しみなく送ってくれて、彼らが世話を焼いてくれ、友になってくれるのである。もう無敵と言って差し支えないだろう。

実は、聖書の詩篇91篇も同じことを言っているのだ。
これには、神様は絶対的にあなたにあなたを守るとされている。また、神様も、御使い(天使)を遣わして、常にあなたを守らせると言うのである。
では、どうすれば、そういう恵みを得られるのかというと、神様に、「心から信頼しています」と言えば良いと書かれているだけである。
イエスも、最も重要なことは、「あなたの神様を愛しなさい」であると言ったのである。
あなたの神様というのは、神様は、いつでも、呼べば答えてくれるという身近な存在であることを示しているのである。

第2次世界大戦において、イギリスのウィットルゼイ大佐率いる一連隊は、全員が詩篇91を暗記し、定期的に唱えたことにより、5年の戦闘で、1人の死者も出さなかったと言われる。
ジョセフ・マーフィーも、著書の中で、詩篇23と91を唱えることを度々薦め、その絶大な威力を強調している。そして、素直にそれに従った者は、やはり、大きな恩恵を受けているのである。
マーフィーの本を読んでうまくいかないなんて人は、まだ、自己流の考え方でやっているのだろう。その考え方は、自己流とはいえ、所詮は、世間の考え方のコピーなのだ。うまくいかない方が、よほど不思議なのである。
考えることをやめてしまうことで迷信に陥ることの弊害というものを考える人もいると思う。もっともだ。だが、自然をよく観察することを習慣とし、不要なものを求めなければ、その心配はない。捨てるべきは世間の理屈であり、道理は大切にするのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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