ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

空を飛びたいと思わないだろうか?

中学生くらいの頃、道を歩いていて、周りの家々の屋根を見上げ、「あそこまで飛び上がることができたら、楽しいし、格好いいだろうな」と思ったことがある。
屋根の高さが分かれば、そこに飛び上がるために必要な瞬発力は、高校の物理で計算できるだろうが、それを、生身の人間の筋肉が発生させるのは不可能だろう。
だが、飛びたいと思うからには、飛べるのかもしれない。人は、出来もしないことを望まないものだ。望むからには出来るのだ。科学なんてものを知ったから、飛べなくなくなったのではないだろうか?
英国の作家、チェスタートンは言ったものだ。「天使が飛べるのは、自分が軽いと思ってるからさ」。

『エル・カザド』というアニメで、エリスという名の少女が、異常な跳躍力を発揮することがよくあった。それは、彼女の超能力のためであるが、それは、エントロピーは必ず増加するという熱力学の法則を破るものとして知られる「マクスウェルの悪魔」を操る力によるものだ。エントロピーとは、簡単に言えば、乱雑さのことで、例えば、熱いコーヒーも、やがて冷えるのは、熱が乱雑に広がるからだ。しかし、マクスウェルの悪魔が働けば、コーヒーはどんどん熱くなり、蒸発してしまう。
科学的に、マクスウェルの悪魔は存在しないことになっているが、その割には、それに関する研究者は必ずしも減っていないという奇妙なものである。
また、この世界とは異なる世界には、エントロピーが減少する(乱雑な状態から、勝手に秩序立った状態になる)世界があるという説もある。
もし、マクスウェルの悪魔と仲良くなれば、エネルギーは無限に得られ、スーパーマンのように空を飛ぶことも可能である。

ところで、空中浮揚現象というものが、実際にあるという話は多い。まあ、そういったことを起こすのは、やはりマクスウェルの悪魔なのであろうから、科学的にありえず、それらの話は嘘であるということになっている。
しかし、まっとうな科学者にだって、マクスウェルの悪魔とお近づきになることを諦めていない者は多いことはさっき述べた。
ヨーガや仙道の行者の中には、体重を一瞬で軽くしたり、空中に浮かび上がる能力を持つ者もいると言われるが、彼らが人前でそれを披露することも、一般の人を相手に、自らがそんな力を持つと吹聴する者もいない。
また、UFOも、ロケットやジェットの力を使わずに飛び、その飛行原理は我々には不明だが、UFOの映像なら、割に見られるようになってきたと思う。
空中浮揚だって、知っている人にとっては、さほど特殊なことではないのかもしれない。

マクスウェルの悪魔は、ちょっと人見知りだ。それは、形があるものではなく、量子の中にある意思のようなものだ。人間は意志を持つので、マクスウェルの悪魔もそれに反応し、活動してはいけないところでは何もしないのかもしれない。
スコットランド出身の哲学者マード・マクドナルド・ベインは、子供の頃から、高いところから飛び降りて、大地に到達する直前に空中で停止することができたという。
世界的量子物理学者フレッド・アラン・ウルフが、その道に入ったきっかけは、子供の時、2階から1階に、階段を踏んだ憶えもないのに到達したことだった(ウルフはテレポーテーションだったかもしれないと考えているようだ)。
だが、そんなことをやったことのある人は、意外に多いのだと思う。

萩尾望都さんの短編漫画に『ハワードさんの新聞広告』というものがある。
お金持ちのハワードさんは、社交の場で人気者になりたくて、世にも珍しい「飛ぶ子供」である少年を、その母親から買い取った。
ハワードさんは、お客様の前で、その少年に飛ぶことを命じるが、その少年は従わない。
ハワードさんが、脅しても、なだめても、少年は決して飛ぼうとしない。
そのうち、客である1人の婦人が言う。
「あなた、本当はただの子供じゃないの?」
少年は、「ただの子供だよ」と答える。
騙されたと知ったハワードさんは怒り、母さんのところに帰して欲しいと頼む少年に対し、一生閉じ込めてこき使ってやると言う。
その時・・・
少年は飛び、高いところにある窓に体当たりしてこれを砕いて壊すと、血まみれになりながら飛び去った。少年は言った。「知らなかったの?ただの子供はみんな飛ぶんだ」
その後、反省したハワードさんは、この少年に謝るため、自分のバースデイ・パーティーに、「ただの子供」全員を招待すると、新聞に広告を出した。しかし、パーティーが始まっても、誰も来ない。ハワードさんは知らなかったのだ。ただの子供は、新聞なんて読まないことを。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

弱者とは、自分は弱いと思っている者のこと

アニメ『僕は友達が少ない』で、主人公の小鷹が小学1年生の時だと思うが、5人の同い年くらいの少年達と喧嘩をした思い出の場面がある。喧嘩といっても、1対5で、これはもう、いじめとか集団暴行の範疇だろう。当然、小鷹は一方的にやられている。原作小説では、小鷹は死を覚悟したと書かれていた。
そこに、1人の少年が割って入り、いじめていた5人の少年に向かって言う。
「弱い者いじめはやめろ」
ところが、小鷹は、そう言った少年を殴る。
「なんだよ、助けてやろうとしたのに・・・」
呆気にとられる少年に小鷹が言う。
「俺は弱い者じゃない!」

「弱い者」といったら、私は思い出すことがある。
ご存知と思うが、乙武洋匡さんという、生まれつき両腕両脚が無いという障害を持った人がいるが、彼は、自分が弱者だと思ったことはないと言う。
ただ、彼は、温かく、経済的にも恵まれた家庭に育ったということもあった。子供の時、「手足なし」と言われて、「手足あり」と言い返す気の強さも凄いが、そこらは、両親の愛情に支えられてのことだろう。
ちなみに、上記の小鷹は、母親は幼い頃に亡くなっているが、良い育ち方をしたようである。
ところで、森山風歩さんという女性をご存知だろうか?
彼女の自伝『風歩』の書き出しが凄い。「1人殺してよければ母親を。もう1人よければ父親を」とある。
小学生の時に、進行性筋ジストロフィーという、筋肉がなくなっていく病気にかかり、自分の身体の異常に怯え、母親に訴えるが、母親は、怠けているだけだと言って取り合わない。教師に言っても、教師は「あなたのお母さんが、あなたが怠けているだけだと言っている」と、彼女の話を聞こうとしない。
そして、脚にも力がなくなって、おかしな歩き方をする彼女はいじめの標的となり、中学の頃は、ふらふらと歩く彼女の足元にほうきを突き出して転がすということが流行るようになる。いじめはエスカレートし、今日はどうやって彼女をいじめるかを決めるルーレットが作られるという驚くべきことも起こる。教師の信任厚い優等生も、教師がいなくなればいじめに参加する。
突き飛ばされて大怪我をした時に病院で検査がされ、ようやく病気が明らかになるが、状況は変わらなかった。徒歩の通学は大変な苦難であったが、車椅子が与えられることはなかった。
彼女の家も、裕福で、周囲からは素晴らしい家庭に見えた。父親は名士で、母親は、町を歩けば、その姿を見た画家が必ずモデルの依頼をするフランス人美女。しかし、家の中では、母親は、動けない小さな風歩さんの髪を掴んで顔を床に叩きつけ、風歩さんは、舌を噛まないよう、必死で歯を食いしばる。すぐそばで、父親が無表情にそれを眺めている。

風歩さんがどう思っていたかは分からないが、子供の頃、自分が弱者でないと思ってはいなかっただろう。
だが、今は、経済的に苦しい中でも、東日本大震災の被災者の支援を行い、著作をはじめ、様々な仕事に取り組んでおられるようである。しかし、体調が思わしくなく、活動休止を余儀なくされることも多いようだ。だが、それでも、彼女は前向きである。今は、自分を弱者だとは思っていないのではないかと感じる。

コリン・ウィルソンの『超越意識の探求』のあとがきの中に、こんな話がある。
引っ込み思案の青年が、「僕は何て駄目なやつなんだ」と呟いた時、友人が言う。
「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思い込んでいるだけだ」
青年は、この友人の言葉を何日も考え続けた。そして、ついに彼は啓示を得て、偉大な賢者に生まれ変わる。

ジョセフ・マーフィーは、著書の中で度々、「あなたは、あなたの世界で、唯一の考える主体である」と書いているが、それは、自分の世界を創るのは自分の心であるということだ。
決して、自分を弱者だと思ってはならないし、そう思っているなら、なんとしてもそれを変えなければならない。何かを学ぶとしたら、それを最優先で学ばないといけないが、学校やマスコミ、そして、その影響を強く受けた家庭により、我々は、自分が弱者であると教育されているのである。
我々もまた、上にあげた引っ込み思案の青年のように、「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思い込んでいるだけだ」という意味をよく考えてみるべきであろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

無敵の力はどこから来るのか

あなたが男性なら、子供と相撲を取ったり、プロレスごっこをしたことがあると思う。あるいは、あなたも子供だったが、ずっと小さい子供を相手にそんなことをしたかもしれない。
そんな時、あなたは、自分が勝つにしろ、相手に怪我をさせないよう手加減をしたはずだ。力の差があり過ぎる場合は、馬鹿でない限りそうするだろう。

もう亡くなったが、アンドレ・ザ・ジャイアントというプロレスラーがいた。彼にとっては、他のプロレスラーとの対戦が、子供を相手にする大人のような感覚だったのだろう。身長が230センチで体重も200キロをはるかに超えていて、大男揃いのプロレスラーも、彼の前では子供のようなものだった。
彼も、時には、エキサイトして見せたり、苦しい顔もするのだが、それは、ファンサービスというか、自分がプロレスラーを続けるための業務上の義務のようなものだろう。
大人が子供相手のプロレスごっこで本気にならないのと同様、アンドレも決して本気で戦ったりなどしなかった。彼は、実はとても繊細で優しい男で、相手に怪我をさせることをひどく恐れていたのだ。
彼と同時代の世界チャンピオンですら、「あいつと俺達人間を、同じに考えないでくれ」と言って、力そのものでは、自分でも全く歯が立たないことを隠しもしなかった。

あなたも、世間の中にあっては、アンドレのようでなくてはならない。
子供を相手にするプロレスラーのように、全てのことを、子供の遊びにしてしまうのだ。そうすれば、どんなことも、あまりに簡単なので、全て自動的に進んでしまうのである。
しかし、そうなっても、あまり欲をかかず、手加減や引き時を心得ていなければならない。
ただの遊びとして、優雅に、できれば気品を持って人生を楽しむべきなのだ。

そして、その力が自分のものではないことを知り、謙虚でなければならない。
その気になれば、いくらでも得られが、快楽に溺れてはならない。
アンドレは、いくらでも金が入ってくるので、贅沢三昧になり、ビールを毎日1ダース飲み、自分で歩くこともしなくなった。それで、40歳を過ぎると、実力的にも、無敵とはいえなくなったし、身体のあちこちに障害が起こり、46歳の若さで亡くなってしまった。
プロレス史上最強と言われたルー・テーズが、素質的には恵まれていなかったと言いながら、46歳の時には、まだ誰にも負けないと思っていたことを自伝の中で明かしていたのとは大変な違いだ。

この世を動かすのは、量子を活動させる力、生物を生かし、進化させる力、星々を動かす力などがあり、それは、なんらかの知性が司っているに違いない。
その至高の力の所有者を神と呼ぶなら、神に全てを委ね、完全とは言えないまでも無に近付けば、世間であなたに逆らうような力はない。

そうなる方法は、傲慢な自我を支配し、全てを神に明け渡す道を見つけることだ。
自我が邪魔をしない限り、無限の力はあなたと一体である。
聖書の詩篇91篇は、そのための心構えを説くものだ。実際、これにより、第1次世界大戦中、5年も戦いながら、1人の死者も出さなかった英国の一連隊があった。率いたのは、ウィットルゼイ大佐と言われる。大佐の指示で、この部隊の全員が、詩篇91篇を暗記し、定期的に唱えたのだ。
これが、至高の力を味方に付ける最も簡単な方法の1つなのだろうと思う。
誰でも奇跡を起こせる2つの言葉(全文掲載)









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

ギリシャ神話、古事記を教養として読むは愚かなり

西洋人の著作の中には、さりげなくギリシャ神話のお話が引用されていることがよくある。
こういったことをもって、「西洋では、ギリシャ神話の知識は常識的な教養だ。これについて知らないと、知的な人間と認められない」というのを見たことがあるが、そんなことを主張したがる人は多いような気がする。
そういった部分もあるのかもしれないが、ギリシャ神話とは、常識でもなければ、教養でもない。ましてや、知的人間であることを宣伝するためのものでもない。
もし、ギリシャ神話が尊ばれるとしたら、その中に真理が隠されているからである。だが、真理が明かされるかどうかは、読者によるのである。教養だの見栄のためにそれを読む者は、真に重要なものを得ることはない。彼らはただ、表面的な奇妙なおとぎ話を知るだけなのだ。

それは日本の古事記も同じである。
古事記は、歴史でも文学でもおとぎ話でもない。あれが文学として優れているなんて言う偉い人がいたが、そんなことを本当に信じているのだろうか?
子供に、ギリシャ神話や古事記の読書感想文なんてものを書かせてはいけない。それは、旧約聖書の読書感想文を書くのも同じだ。大人に分かるような感想文を書くことで、それを読んだ意味を失ってしまうのである。
逆に言えば、子供は、ギリシャ神話や古事記、旧約聖書を読めば、本当の意味が分かってしまうのだ。しかし、それは決して大人に説明できるようなものではない。

キリスト教国でも、大人は旧約聖書を理解できず、権威的だが馬鹿げた解釈を受け入れてきた。それは子供を戸惑わせる。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンは子供の時、教会の牧師に、教会の教えが納得できないことを訴えたが、牧師に、「君の考えは悪魔から来ている」と言われた。すると、エマーソンは「それなら僕は悪魔になり切る」と言った。そして、エマーソンはアメリカ最高の賢者になったのだ。

タルムードは旧約聖書の解説書で、それはユダヤ人に大いなる知恵を与えたが、もっと深い旧約聖書の解釈はカバラーである。だが、言葉にできるはずのないことを言葉にしようとしたカバラーは、あまりに抽象的で複雑だ。それは歴史の裏側に隠され、もし正しく用いることができる者がいるとすれば、霊的な魔法使いだけだった。実際、カバラーは魔法の技法である。
しかし、子供の時に、旧約聖書やギリシャ神話、あるいは、古事記に親しめば、楽々と魔法の力を得るのである。ただし、長じてから、教養としてそれらを上書きすることで、魔法の力は失われる。そして、ガラクタに過ぎない教養が残るだけだ。

人が持つべき魔法の力を得るには、7歳の子供になって、それらを読むことだ。
7歳の子供は、高級車や高価な服や宝石を求めたりしない。それらに興味を持つとしたら、単に楽しいからだ。
友達を紹介する時、彼の父親の職業を言ったりしない。彼の好きな遊びを言うものだ。
見た家がどんな家か言うのに、「10万ドルの家」なんて言ったりしない。壁の色や庭の花のことを言うものだ。
7つの子供のようにギリシャ神話や古事記を読めば、世間からすれば不思議な力を得る。
私が昨日以前に書いた私が使ったような力も、ごく普通のことになる。
私も、子供の時にギリシャ神話を読み、とても面白かったことは憶えているが、内容は全く憶えていないのだ。それで良いのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

それがどうした!

私にとって、岡本太郎の言葉の中で、最も重要なのは、「爆発だ」よりも、「いいじゃないか」である。

「嫌われたっていいじゃないか」
「誤解されたっていいじゃないか」
「グラスの底に顔があっても、いいじゃないか」

そう言う気持ちは、本当はもっと強い言葉が似合うものである。

「嫌われなければならない」
「誤解されなければならない」
「グラスの底に顔がなければならない」

「嫌われる」「 好かれる」
「誤解される」「 分かってもらえる」
「世間の常識の観念に従っている」「世間の常識からはみ出している」

それがどうした!
そんなことはどうでも良いのである。
もっと大切なことがあるのである。

アニメ『魔法少女リリカルなのは』で、金髪の少女フェイトが、幼い時の母親とのことを思い出すシーンがある。
思い出の中で、母親は、小さなフェイトに優しく微笑みかけるが、なぜか、フェイトに「アリシア」と呼びかける。
「違うよ、母さん。あたしはフェイトだよ」
しかし、母親は何度も、彼女をアリシア呼ぶ。
戸惑うフェイトだが、優しい母親に笑顔を返す。
「まあ・・・いいのかな」
なぜ母親が、自分をアリシアと呼んだのか、フェイトには分からなかった。しかし、フェイトにとって大切なことは、母親が笑顔になることだった。それに比べれば、名前なんかどうでも良かった。
だが、5年後に制作された、ほぼ同じストーリーの劇場版では、そこでフェイトは葛藤するように変えられた。それでも、フェイトは「そんなことはどうでもいい!」と迷いを振り切り、やはり、大切なことは母の願いを叶えることで、そのために全霊を尽くして戦うことを決意した。
その戦いが、正しいことなのかどうかは関係ない。フェイトの心は「それがどうした!」と叫んでいたのだ。フェイトにとって大切なことは、母への愛だけだった。

本当に大切なこと、本当に守りたいものの前では、世間ではどんなに後生大事にしたがるものでも、どうでも良いのである。

マード・マクドナルド・ベインは、初めて、偉大な聖者である師に逢った時、自分がこれまで、どれだけのことを学んできたかを一生懸命に話した。巨大な師には及ばぬまでも、自分も相当なレベルに達していることを分かって欲しかったのだろう。
それを師は、穏やかに聞いていたが、最後に言う。
「それが本当かどうかは、どうでもいいことなのだよ」
その瞬間、ベインは悟る。これまで学んできたことは全て捨て、彼は偉大な神人に生まれ変わったのだ。
ベインの心には「それがどうした!」という思いが広がっていたのだと思う。

「それがどうした」
英語で、“What then?” だ。
アイルランドの詩聖 W.B.イェイツの詩に、まさに、“What then?” というのがある。
ある優等生の少年がいた。
良い学校に入り、立派な仕事を成し遂げ、高い地位を得、素晴らしい友人に恵まれた。世間は彼を賞賛する。まさに成功者の一生である。
彼は誇らしげに言う。
「愚か者よ、騒げ。私は何一つ間違いを犯さなかった。私は勝った」
その時、プラトーンの幽霊が叫んだのだ。

それがどうした!
What then?

人間にとって、本当に大切なことのためには、そんなことは、本当にどうでもいい、下らないことなのだ!
そして、それは、嫌でも思い知る。
この優等生も、遠くなく、破滅の淵で絶望する。いや、気付かないフリをしても、すでにそうなのだ。
だから、ことさらに勝ち誇ってみせるのだ。
真の勝利者は静かなものである。
本当は惨めな敗北者である世間の成功者をよく見よ。外面に惑わされず、その正体を見抜け!
そして、愚かなことに、そんなものを目指す者がいかに多いか。
世間の権威にひれ伏し、塾や予備校に通い、良い大学を目指し、良い会社や機関に就職し、徒党を組んでどこまでも争う。
行き着く先が地獄であるのは明らかであるのに、欲望にとりつかれた浅ましく卑しい心には何も分からない。
そして、惨めな地獄の牢獄で、やっとプラトーンの声を聞くのである。
だったら、今すぐ言おうではないか?
「世界中に誤解された?」「いいじゃないか」「誤解されなければならない」
「皆に嫌われた?」「いいじゃないか」「嫌われないといけない」
「損をした?」「それがどうした」「損しなければならない」
「失敗した?」「それがどうした」「失敗しなければならない」
真に価値あるものを失わないためには。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
  
このエントリーをはてなブックマークに追加   
人気ランキング参加中です 人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード