ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

K-POPスターとタイガーマスク

テレビ番組やマスコミからの情報であるから、あまり信じてもいけないかもしれないが、K-POPと呼ばれる日本でも大変に人気のある韓国のアイドル音楽グループは、韓国の音楽産業のビジネスモデルから生まれたものであるらしい。
簡単に言えば、大規模なオーディションにより、才能ある子供達を見つけ、大金を投入して磨き上げ、鍛え上げる。更に、これらアイドル候補生達をふるいにかけていき、生き残った者達をいよいよデビューさせ、プロダクションは投資を取り戻し、そして、莫大な収益を得る。ただ、アイドル達には給料を支払うだけで、その額は決して多くはないが、それが最初からの契約になっているようだ。

こんな話を聞いて思い出すのが、近年、「タイガーマスク現象」として有名なタイガーマスクだ。
漫画作品の『タイガーマスク』では、タイガーマスクは、虎の穴と呼ばれる、プロレス・プロダクションで養成されたプロレスラーだ。虎の穴では、才能があって家が貧しいという子供達を見つけ、親に金を払って、合意の上で引き取り、猛特訓を課して一流のプロレスラーに育てる。子供達は逃げ場はなく、脱落すれば死あるのみで必死になるが、それでも、大半はデビューに至らず、闇に消える。伊達直人は、孤児で、自分を虐げた世間と戦うため、強い存在になることを誓い、自ら望んで虎の穴に入り、他の練習生以上の厳しい訓練に耐え抜いて、誰よりも強いプロレスラーになる。
虎の穴出身のレスラーは、ファイトマネーの半分を虎の穴に上納しなければならない。それを破ると、虎の穴に確実に殺される。だが、タイガーマスクこと、伊達直人は、入金を怠っていた。やがてやって来た、虎の穴の警告に震え上がった伊達直人は、今後はきちんと入金するので、少し待ってくれるよう懇願する。虎の穴としても、タイガーマスクの能力を失うのは惜しく、特別の恩赦を与え、伊達直人は安堵する。
しかし、伊達直人が日本に帰ると、幼い頃を過ごした孤児院が経営不振で、暴力団に乗っ取られる寸前だった。孤児院は、ひねくれていた自分に愛情を注いでくれた人達ががんばっていたが、金がなければどうにもならない。直人は、虎の穴に納めるはずの金を、孤児院救済のために使ってしまい、完全に虎の穴に命を狙われることとなったのだった。

『タイガーマスク』の原作者の梶原一騎は、子供を大人の思惑で鍛え上げて利用するというテーマをよく使っていた。『あしたのジョー』のような、一見、そうは見えないものでも、矢吹丈はいつか、自分がボクシングをやる人形に過ぎなかったことを悟る。だが、他に道はないので、燃え尽きるまで戦うことを覚悟したのだ。
『巨人の星』では、飛雄馬(ひゅうま)は、幼い頃からプロ野球選手になるよう父親に鍛えられるが、日米交流戦で、オズマという名の、黒人の貧困家庭に生まれて、幼い頃に買われて野球ロボットとして育てられた恐るべき実力者と出会い、自分を顧みて、初めて、自分もロボットに過ぎなかったことを悟り、葛藤する。
梶原一騎は、決して人格者ではなかったが、自身、苦しい少年時代を過ごす中で、社会の不条理を味わい尽くしていたことが作品に深みを持たせていたのだと思う。

K-POPスターは、グループであることが特徴で、個人の個性は決して発揮されないが、これがプロダクションによる支配のために有効であることは確かと思う。おそらく、年をとれば捨てられる使い捨てでしかないのだろう。実力の高さは分かるが、ロボットのようで、本来は、現在の実力を基礎として、自分らしさを発揮しなければならないのだとは思う。

欲望が原動力となっているものに構わないことだ。
日本でも、「歌手になりたい」「浅田真央のようなスケート選手になりたい」「サッカー選手」になりたいという子供はいるが、純粋な動機というよりは、マスコミで騒がれているのを見て、自分もちやほやされたい、あるいは、お金持ちになりたいという欲望で言っているのを感じるのである。
神様に、「拍手喝采や金はやらないが、望みを叶えてやろうか?」と言われたら、それでも応じるだろうか?
そして、金や名誉のためにやったことが、どんな結末に至るかは隠されているのである。万に1つの例外なく、悲惨と惨めさに終るしかないのである。
だが、本物の幸福というものは、世間では決して話されない、思いもよらなかった形かもしれないが、誰にでも得られるものとして確実に存在するのである。しかし、それを得る者は極めて少ない。そもそも、それに気付き、それに目を向けることが、現代では稀なことなのである。









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こうすれば知能指数はいくらでも向上する

どんな職業であっても、経験を積んでそれなりの立場になると、自分の仕事について、「この仕事をする者はかくあるべし」などということを主張するようになる者がよくいる。
しかし、その大半は、自分を過大評価する馬鹿のたわ言であるに違いない。そんなものを聞かされる部下や後輩、それに、新人は気の毒なものかもしれない。
しかし、多少の独断があっても、経験の長い年長者の言うことには一理あるという謙虚な姿勢があれば、何か得るところはあるかもしれない。ただ、実際は、害の方がずっと大きいかもしれない。
私の場合、セールス(営業)とコンピュータソフト開発の仕事をやる中で、そんな先輩を数多く見てきたが、彼らが言ったことで覚えていることは、まあ、1つもない。

昔、テレビ番組で、ジャイアント馬場さんに、番組司会者が、「力道山から教えられたことで、心に残っていることがありますか?」と尋ねた。力道山は、馬場さんの偉大な師匠と言ってもよいはずだ。だが、馬場さんの答は「何もありませんね」だった。
力道山ですら、そうであるなら、凡人たる我々の自論など、「黙っていれば馬鹿だと思われずに済むだろうに…」と言う程度のものに違いない。

ところで、私がやっているコンピュータソフト開発の仕事で重要な能力について、国際的なITコンサルタントの方に、印象的なことを聞いたことがある。
結局のところ、一番肝心なものは、ある1つのものだと言われたが、ビル・ゲイツも同じことを言っていたのである。
それは、知能指数だ。
その国際コンサルタントは、「所詮、知能指数なんですよ」と言い、ゲイツも、「プログラマの能力は、純粋な知能指数だ」と言った。

ただ、なぜか、知能指数は生まれつきのもので、特に大人になってからは変化しないと考えられているように思われる。
一部では評判は悪いが、トム・クルーズやジョン・トラボルタらが熱心な信者であることで知られる新興宗教サイエントロジーを創ったとされる、米国の天才作家L.ロン.ハバートの、世界で約2000万部が出版されていると言われる能力開発書『ダイアネティックス』には、人の能力の発揮を妨げるもの(ダイアネティックスではエングラムと呼ぶ)を消し去れば、知能指数は、打ち上げ花火のごとく向上するとある。ハバートは、作家であるが、それは、ダイアネティックスの研究の資金を得るためでもあったと言う。実際、彼の本は1億冊以上が出版され、アイザック・アシモフやレイ・ブラッドベリなども絶賛する大作家でもあるのだ。
教育家としても著名で、我が国でも、彼の教育書の翻訳書には、稲盛和夫さんが推薦の言葉を載せている。
このように、ハバート自身が大天才であるが、人間の本来の能力は、誰でも極めて高く、正しく自己を開発すれば、知能指数も必ず向上すると言う。

アイザック・ニュートンは、少年時代の学校の成績や言動などから、知能指数は125程度と考えられている。これは、標準よりはかなり優秀であるが、天才というには程遠い。
だが、後のニュートンの知能指数は200を上回っていたに違いないと言われる。
ニュートンは、超古代の秘法の書『エメラルド・タブレット』を読み、能力を数倍化したのだという説があるが、私もそう思っている。彼は、数学や物理学は、ついでにやっていたに過ぎなかったが、それでも、その分野で、人類の歴史上、最も高い位置にいる。

知能指数が全てではないとは、よく言われる。
だが、それは、正しい測り方をするかどうかの問題であり、やはり、高い能力は高い知能指数に比例する。
著名な心理学者アブラハム・マズローは、大学院時代、知能テストを受けたところ、197という結果が出て、「なるほど」と納得したらしい。彼は謙虚ではあったが、なんとなく、他人よりも自分の方が頭が良いのではないかと感じていたらしいのだ。

では、知能指数よりも重要な能力はあるだろうか?
それはあるし、それを手に入れれば、望むなら高い知能指数も得られるだろう。
ニュートンが『エメラルド・タブレット』から得た力もそれと大いに関係があるか、あるいは、同じものだろう。
それは、ソクラテスがダイモーンと呼んだもので、彼は、哲学者、政治家、作家、あるいは、技術者など、職業に関わらず、それこそが、至高の能力をもたらすものであると言った。ソクラテスは、自分には知恵が無いが、ダイモーンに従うことで知恵を得ていると言っていたのだ。
では、ソクラテスは、それをどうやって得たのだろう。
時代と地域から言えば、ソクラテスはギリシャ神話に詳しかったし、話の中でよく引用もした。そして、彼のことだから、単に当時の慣習に倣って神々を崇拝したのではなく、どのような形であったかはともかく、神々を信じていた。ギリシャ神話に、深い大きな意味があることは、カール・グスタフ・ユングやカール・ケレーニィによるギリシャ神話の研究を見ても分かるが、ギリシャ神話を深く読めば、直接的に分かることである。
ギリシャ神話は、神話として、旧約聖書に比べ、やや地域による多様性はあるが、その価値は(旧約聖書と比べても)決して低くはなく、極めて高い。ヘシオドス、ホメーロス、あるいは、ウェルギリオースらの詩聖達による叙事詩で綴られた神話は、想像ではあっても、決して空想ではない。それこそ、ダイモーンがもたらしたものと言えるだろう。ヘシオドスは、彼に詩と神話を教えたのは、女神達(モーライ)であると述べているが、それが彼にとってのダイモーンであろう。

そして、最も純粋な形で至高の教えを伝えているのは、『バガヴァッド・ギーター』である。よって、これを深く熱心に読めば、ソクラテスに匹敵する、あるいは、それを上回る英知を得られるに違いない。
アメリカの科学技術者で探検家、講演家であったベアード.T.スポールディングは、自身、英知の力を得て14才で名門大学を卒業したが、彼が著した『ヒマラヤ聖者の生活探求』に登場する、超人的な大師達は、バガヴァッド・ギーターを読む時には、一度に一節のみを読み、1日に一章しか進まないといった読み方をするという。大師と称される解脱者ですらそうなのであるから、その価値は計り知れないものであると思う。









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愛する人を失うと、なぜ世界は色褪せるのか?

昔、親友の事故死を知った日の夜は、悲しいというのではなく、世界を非現実に感じた。
会社からの帰りが遅くなってしまったが、なんとか帰りの電車に乗った。ところが、どんな事情だったか憶えていないのだが、電車が動かなくなってしまった。
運転中止というアナウンスはなかったが、私は早々に諦め、ホテルに泊まることにした。まだ食事の出来る店は開いていたかもしれないが、コンビニでおにぎりを買って、駅の近くのビジネスホテルにチェックインした。
私が知る限り、国内のホテルには、聖書と仏典が備えられている。聖書は世界共通の内容だが、仏典は宗派にとらわれず、様々な仏典から選び出したお話を載せている。
私は仏典の方を読み始めた。すると、印象的なお話があった。
ある男が、2匹の鬼に捕まる。ところが、これらの鬼は張り合ってでもいたのか、片方が男の腕をもぎ取ると、もう片方の鬼が違う人間の腕を付ける。脚をもぎ取ると、やはり、別の人間の脚を、さらに、頭も。
すっかり違う人間の身体になってしまった男は、「自分は一体誰なのだろう?」と思う。

その時、私がカバンの中に入れていた本が『ラマナ・マハリシの教え』(めるくまーる社)だった。
その中で、マハリシが話した伝承に、首を切られて死んだ少年が、彼が信仰する神の名を唱和する者達が近付いてきた時に、両手を打ち始めたというものがあった。
もちろん、実話ではないだろうが、マハリシは、これは象徴的な伝承であると言う。
人の実体は身体ではないが、身体に関して言えば、人は頭にではなく、ハートにある。このハートは、肉体の心臓ではなく、位置としては、胸の中央から指2本分、右にあると言う。
人は、自分を指差す時にも、ごく自然に胸の右側を指す。
「僕は計算問題を解いた」という子供も、計算をした頭を指さずに胸を指差し、「ひとっ走り行って来る」と言った者が、走る脚を指差したりせず、やはり胸を指す。

あの仏典の鬼も、胸までは取り替えなかったのだろう。
手塚治虫さんの漫画作品『どろろ』で、百鬼丸は、生まれる前に、48の鬼に身体の48の部分を奪われ、それを取り戻していく。さすがに、頭を取られては漫画としては描き難いだろうが、いずれにしろ、どれだけの身体のパーツを取られても、「自分自身」までは取られることは無い。

そして、胸の右側に自己の中心があるといっても、それも、肉体と自己の結び目という程度の意味である。私は身体ではない。また、私は心でもない。心は、おそらく、頭が作るものだ。
ラマナ・マハリシは、世界は実在ではなく、心が創り出した幻影であるという。
まさに、親友が死んだ時に感じた世界の非現実性が、それを示唆していたように思う。
心が消滅し、非実在である世界が消えた時、我々は身体や心を超える。それを解脱と言い、その時、我々は自由になる。それは、真の自己である神と一体化したということだからだ。
そのために、マハリシは、「私は誰か?」と問い続けろと言う。
あの身体をすっかりすげ替えられた男のように。
最近も書いたが、スコットランドの神学者・哲学者であり、ヒーラーでもあるマード・マクドナルド・ベインの身体を借り、イエス・キリストは、次のように言ったという。

『自分は一体何なのか?』
この質問を十分に納得がいくまで自分自身に課するがよい。
※『心身の神癒-主、再び語り給う-』(霞ヶ関書房)より

愛する人を失うと、世界は色褪せる。世界は現実性を失うのだ。その理由は、自己が心を内側に引き戻し、心が世界を創り出す力が弱くなるからだ。

何か勘違いしてない?はるかがいない世界なんて、守っても仕方ないじゃない。
~『美少女戦士セーラームーンSuperSスペシャル』より セーラーネプチューンこと海王みちるのセリフ~

私の親友の死は、避けえぬ宿命であったかもしれないが、このような共時性を引き起こした。彼は私だったし、世界は私のものだ。
私がそうしようとしているように、我々は身体や心、世界を超えていかなくてはならない。あらゆる問題は、身体や心、そして世界に起因するが、それらはまやかしである。
雲を超えて高く飛べば、嵐の影響を受けないように、我々は地上の喧騒を尻目に、高く飛ぶべきである。









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あの愛すべき10人の男達をなぜ笑うのか?

川を渡った10人の男達が、全員無事であるかを確認しようと、仲間の数を数えるが、何度数えても9人しかいなかったというお話をご存知と思う。
言うまでもなく、彼らは、自分を数えることを忘れているので、当然ながら1人足りないのである。
「あいつが流されたんだ」と誰かが言うと、10人の男達が、それが誰だか分からないのに、悲しくて泣き出してしまう。

小学校などでは、この10人の男達が馬鹿だと子供達に言わせて、皆で笑ったりするのだろう。
しかし、本当にそれで良いのだろうか?

こんな男達というのは、決して、仲間を失わないのだ。

学校の遠足などで、迷子になる子がよくいる。
家族で遊園地に行っても、子供が迷子になることはよくあることだろう。
どんな場合にそれが起こるかというと、迷子になる子にも落ち度はあるのだが、他の子供達が、その子のことをどうでもいいと思っていたり、親が、自分が楽しむことに夢中で子供のことを忘れてしまっているのだ。
つまり、自分のことはしっかり忘れないが、他の者のことを忘れた時や、注意を払わない時に、誰かが孤独になったり、遭難したりするのだ。

宮沢賢治の『雨ニモマケズ』には、「あらゆることを、自分を勘定に入れずに」とある。
自分を勘定に入れない者は、他の者を見失わないのである。
なぜなら、自分を勘定に入れないとは、無私であることであり、自分を捨てていることであり、それは、他人を優先し、他人を気遣うことなのだからだ。
他の者のことをどうでもいいと思う者と、自分のことをどうでもいいと思う者。その気高さの違いが分かるだろうか?

私が大好きな、平坂読さんの小説『僕は友達が少ない』の中で、三日月夜空(高2女子)は、中学2年生の時に校外活動で遊園地に行った時に、1人で1日中レストランで本を読んで過ごした思い出を話す。友達がいない者には、遠足や修学旅行などは、れっきとした拷問である。
高校2年生になった夜空は、致命的に仲の悪い、同じ学年の女子、柏崎星奈と張り合って、2人で、最大クラスのジェットコースターに8回乗り、2人とも吐いてしまって遊園地の従業員に苦言を呈される。だが、2人とも、身体は辛くても、本当は、気分は楽しかったことだろう。
昔は、誰にも数に入れてもらえなかった自分に、本気で向き合ってくれる人がいるのだから。実際、私には、この2人はどう見ても、ただの仲良しさんにしか見えないのだ。

イエス・キリストは、「百匹の羊は放っておいても、一匹の羊を探しに行く」と言った。
百匹の羊は安全だが、孤独な状況にある羊は危険だからだ。
夜空は一匹の羊だった。
学校は、イエスと違い、一匹の羊には構わないし、いなくなればいいと思っている。だから、いじめも黙認する。学校でも、その他の世間でも、異分子は邪魔者でしかないからだ。

10人が川を渡った。
1人が流されてしまい、岩にしがみついていた。だが、他の9人は気付かない。自分のことしか考えていないからだ。
岩にしがみついていた1人は、やがて力尽き、川に飲み込まれて沈んだ。
よくある話である。
私は、愛する夜空を溺れさせたくない。だから、一匹の羊のために百匹を失うことになってもいいと思う。









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カマキリが竜に勝つ方法

竜(龍)は神話上の生物であるが、実在する動物では強力な象やトラも、まるで歯が立たないほどのものだろう。
アニメ『デビルマン』で、デビルマンに破れた魔将軍ザンニンは、滅びの刹那にデビルマンに対し、「貴様ごときがゼノン様に歯向かったとて、所詮は竜と戦うカマキリのごとし」と吐き捨てる。なんとも凄い喩えである。だが、それでも、デビルマンは、「やってやろうじゃないか」と思ったのだろう。

力の差が有り過ぎる戦いには、ロマンというのはおかしいかもしれないが、神秘のようなものを感じさせるものだ。
トム・クルーズやジョン・トラボルタらが深く信仰する新興宗教サイエントロジーを創ったとされる、天才的SF作家のL.ロン.ハバートが書いた『バトル・フィールド・アース』というSF小説がある。それをジョン・トラボルタが制作して映画化している。
30世紀に、地球侵略に来た宇宙人サイクロ星人に対し、超高度に進歩したはずの地球の軍隊はわずか9分しかもたなかった。恐るべきはサイクロ星人のテクノロジといったところだ。生き残った地球人は、石器時代のレベルになってしまう。だが、その石器時代の人類が、サイクロ星人から地球を奪い返すべく、戦いを挑むという大ロマンである。
およそ勝ち目の無い戦いであるが、どんな結果になったのであろうか?

アニメ『灼眼のシャナ』の第2期シリーズの最初の敵が、シャナを戸惑わせる。あまりに弱いからだ。
姿を見せた、愛らしい少女の姿である、その敵メアに対し、
「その程度の力で、よく私の前に姿を現したわね」
と、シャナも少々呆れ気味だった。
メアは勝気な表情で微笑んでいたが、シャナに簡単に追い詰められた時、苦渋の表情を浮かべたのが印象的だった。自殺願望がある訳でもなさそうだ。しかし、シャナに赤子の手をひねるがごとくに切られ、滅んだ。
シャナは、メアがなぜ挑んできたか不思議に思った。「姿を見せなければ、倒されることはなかったのに」と。
その訳は、数年経って放送された、最近のお話で明かされる。
メアは、サブラクという、超強力な存在に愛されていた。サブラクは、シャナと同等クラスの者達が寄ってたかって挑んでもビクともしないほど強力だった。サブラクは、メアが自分の前から姿を消した訳が分からなかった。
しかし、サブラクは、自分など比較にならない力を持つ、祭礼の蛇という最強の存在を見た時、その理由が解る。サブラクは初めて恐怖というものを感じた。そして、メアも自分に対して、そんな気持ちを持っていたのだと理解したのだった。それで、自分の前から去るしかなかったのだ。
だが、それと共に、サブラクは悟る。この祭礼の蛇から見れば、自分もメアも大差ないと。

ステーブン・ホーキングの、おそらく、通俗書としては最初の本『ホーキング、宇宙を語る』で、英国の天才的論理学者、数学者、哲学者であるバートラント・ラッセルが、科学的教養のない老婆と論争する場面がある。地球は丸いと説明するラッセルに対し、老婆は、世界は亀の背中の上と主張する。
ラッセルが「では、亀の下には何があるのですか?」と尋ねると、老婆は平然と、「亀の下はずっと亀よ」と答える。
だが、ホーキングは、未来の人間から見れば、我々(ホーキングも含むであろう)と、この老婆も差は無いに違いないと述べる。

さて、旧石器時代に戻った人類は、サイクロ星人に勝てるのか?
当然、勝てる。
人間は、潜在的には、皆、イエス・キリストと同等なのだ。イエス自身が、「あなたがたは、私より大きな業を成す」と言っているのだ。
イエスから見れば、サイクロ星人も、旧石器時代の人類も大差ないに違いない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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