私が、少しも可愛くないと思う子供は、子供を満足させ喜ばせる商品のテレビCMに出ている子供達だ。
具体的には、ランドセル、アニメのヒーロー・ヒロインのなりきりセットのCMに出てくるような子供達である。
もちろん、世間では逆にああいった感じの子供を可愛いと言うのだろう。
子供向け商品のテレビCMに出る子供は、どんな子供が選ばれているのだろうか?
まず、外見的にきれいな子であることは間違いない。
そして、次に、落ち着いた感じの子供だろう。これは、精神的な安定感のある子だ。うつろな表情の、寂しそうな、悲しそうな子供は、どんなに美しくても選ばれない(よほど演技でカバーできる場合は分からないが)。
子供に限らず、心の安定はどうやれば得られるのだろう?
心は、何かとの関係性を確立することで安定する。その関係性が強ければ強いほど安定する。
最も土台となる関係は、母親との関係で、そして次に、家族との関係だ。
学校に行くようになると、学校、友達のグループ、所属するクラブ活動の中でしっかりとした居場所を得れば、その子の心は安定する。
大人になれば、家族などの基本的なものに加え、社会の中での自分の居場所を得ることで、心は安定する。そのために、会社等の職場で必要欠くべからざる人材と言われると安心するのだ。
しかし、これらのことに成功した者は、子供であろうが大人であろうが、全く魅力はない。なぜなら、真に生きていない。
引きこもりというのは、本来、こういったものを得るのに失敗した者だ。しかし、彼が、家族の中のわずかな居場所にしがみついているなら、さらに魅力がない。
魅力的な人間というのは、どこか安定感を欠いているように見える。
それは、心の土台の土台である母親との関係が希薄であったり、何らかの事情で母親との関係性に歪みがあるからだ。
その影響で、家族や社会とも強い関係性を持っていないので、アウトサイダーである。
そして、それらを埋め合わせ、心を安定させるための何かを求め、普通の人とは全く異なる何かに心を結び合わせた者だ。それはリスクも大きい。邪悪なものを心の拠り所とすれば、強力な悪となる。ヒットラーは、間違いなくその類だ。彼は、聖人にだってなれたかもしれないのだ。
日本の文豪達の多くは若くして自殺している。西洋でも、ある時期の芸術家達の多くが自殺している(ロマン派の画家などがそうであるようだ)。
例えば、三島由紀夫は、幼い時に母親との関係性を確立できず、ほとんど心の土台がなかったが、それを自分で構築した。それが、彼の天才と結びつき、作品には、どこか作りものめいた世界観が、不思議な叙情性を与えた。彼は芸術を心を鼓舞してくれるものと考えた。彼の心の安定には多くのエネルギーを必要とした。激しいものを心の土台にしていたのだ。しかし、その土台は相当にいびつだった。あまりに人工的で、不自然なものだったのだ。彼の自殺は必然だった。
石ノ森章太郎の描く漫画のヒーローは、優しいが、どこか心に空白を感じさせる、ある意味、頼りない少年が多い。しかし、そこが魅力でもある。「サイボーグ009」のジョーがその典型だ。ジョーは孤児だ。そして彼は常に心のどこかで母親を求めてはいる。しかし、強い理想で心を支えてもいる。それが彼を素晴らしいヒーローにしている。ジョーは女性にも優しいが、どこか無神経なところもあり、時々フランソワを怒らせ、トラブルにさえなる。しかし、逆にそれがフランソワや、ひいては読者の女性の母性本能をくすぐるのだ。
石ノ森さんの自伝「石ノ森章太郎の青春」を読むと、面白いことが分かる。自分が生まれた時から始まるこの自伝に母親がほとんど登場しない。たった一言、「小さい人だった」と書かれている。彼もまた、自分で選んだ何かで心を支えたのだろう。
では、可愛い子供とは、どんなものだろう。
アニメ「魔法少女リリカルなのは」で、金髪の少女フェイトは、母親の命令に従い、傷だらけになりながらも命懸けで役目を果たし、立派な成果を上げて母親のところに帰る。甘いお菓子のお土産まで用意して。本当なら、まだ母親に甘えたい9歳の美しい少女だった。しかし、戻ったフェイトを、母親は成果が少ないと激怒し、彼女を縛って、ムチで長時間打つ。ようやく解放されたフェイトのもうろうとした瞳には、見向きもされなかったお土産のお菓子が映る。
だが、それでも、フェイトの母親を慕う気持ちは消えなかった。フェイトは「母さんは不器用なだけ」「私のためを思って言ってるんだ」と言い、次こそは母親を喜ばせようと思う。
母親に全く顧みられずに育ち、女性との関係をうまく持てないまま、著名な産科医になった男性に、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは言った。
「あなたは母親を愛しているのだ」
「しかし、母は私に愛情を与えなかった」
「それでも、母親への愛を止めることができなかったのだ」
フェイトやジョーは、個人としての母親の先にあるものを少し垣間見ていた。ニサルガダッタ・マハラジの言う母親は、肉体としての母親の意味だけではない。
我々は、肉体としての母親ではなく、万物の母であるガイア(ギリシャ神話の大地の女神)のような、老子に書かれた母性原理のような母に目覚めないといけない。
人間としては、個人としての母親との折り合いを付けるのは難しい。しかし、それをしないと、本当の安らぎ、大いなるものとの一体感は得られない。
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具体的には、ランドセル、アニメのヒーロー・ヒロインのなりきりセットのCMに出てくるような子供達である。
もちろん、世間では逆にああいった感じの子供を可愛いと言うのだろう。
子供向け商品のテレビCMに出る子供は、どんな子供が選ばれているのだろうか?
まず、外見的にきれいな子であることは間違いない。
そして、次に、落ち着いた感じの子供だろう。これは、精神的な安定感のある子だ。うつろな表情の、寂しそうな、悲しそうな子供は、どんなに美しくても選ばれない(よほど演技でカバーできる場合は分からないが)。
子供に限らず、心の安定はどうやれば得られるのだろう?
心は、何かとの関係性を確立することで安定する。その関係性が強ければ強いほど安定する。
最も土台となる関係は、母親との関係で、そして次に、家族との関係だ。
学校に行くようになると、学校、友達のグループ、所属するクラブ活動の中でしっかりとした居場所を得れば、その子の心は安定する。
大人になれば、家族などの基本的なものに加え、社会の中での自分の居場所を得ることで、心は安定する。そのために、会社等の職場で必要欠くべからざる人材と言われると安心するのだ。
しかし、これらのことに成功した者は、子供であろうが大人であろうが、全く魅力はない。なぜなら、真に生きていない。
引きこもりというのは、本来、こういったものを得るのに失敗した者だ。しかし、彼が、家族の中のわずかな居場所にしがみついているなら、さらに魅力がない。
魅力的な人間というのは、どこか安定感を欠いているように見える。
それは、心の土台の土台である母親との関係が希薄であったり、何らかの事情で母親との関係性に歪みがあるからだ。
その影響で、家族や社会とも強い関係性を持っていないので、アウトサイダーである。
そして、それらを埋め合わせ、心を安定させるための何かを求め、普通の人とは全く異なる何かに心を結び合わせた者だ。それはリスクも大きい。邪悪なものを心の拠り所とすれば、強力な悪となる。ヒットラーは、間違いなくその類だ。彼は、聖人にだってなれたかもしれないのだ。
日本の文豪達の多くは若くして自殺している。西洋でも、ある時期の芸術家達の多くが自殺している(ロマン派の画家などがそうであるようだ)。
例えば、三島由紀夫は、幼い時に母親との関係性を確立できず、ほとんど心の土台がなかったが、それを自分で構築した。それが、彼の天才と結びつき、作品には、どこか作りものめいた世界観が、不思議な叙情性を与えた。彼は芸術を心を鼓舞してくれるものと考えた。彼の心の安定には多くのエネルギーを必要とした。激しいものを心の土台にしていたのだ。しかし、その土台は相当にいびつだった。あまりに人工的で、不自然なものだったのだ。彼の自殺は必然だった。
石ノ森章太郎の描く漫画のヒーローは、優しいが、どこか心に空白を感じさせる、ある意味、頼りない少年が多い。しかし、そこが魅力でもある。「サイボーグ009」のジョーがその典型だ。ジョーは孤児だ。そして彼は常に心のどこかで母親を求めてはいる。しかし、強い理想で心を支えてもいる。それが彼を素晴らしいヒーローにしている。ジョーは女性にも優しいが、どこか無神経なところもあり、時々フランソワを怒らせ、トラブルにさえなる。しかし、逆にそれがフランソワや、ひいては読者の女性の母性本能をくすぐるのだ。
石ノ森さんの自伝「石ノ森章太郎の青春」を読むと、面白いことが分かる。自分が生まれた時から始まるこの自伝に母親がほとんど登場しない。たった一言、「小さい人だった」と書かれている。彼もまた、自分で選んだ何かで心を支えたのだろう。
では、可愛い子供とは、どんなものだろう。
アニメ「魔法少女リリカルなのは」で、金髪の少女フェイトは、母親の命令に従い、傷だらけになりながらも命懸けで役目を果たし、立派な成果を上げて母親のところに帰る。甘いお菓子のお土産まで用意して。本当なら、まだ母親に甘えたい9歳の美しい少女だった。しかし、戻ったフェイトを、母親は成果が少ないと激怒し、彼女を縛って、ムチで長時間打つ。ようやく解放されたフェイトのもうろうとした瞳には、見向きもされなかったお土産のお菓子が映る。
だが、それでも、フェイトの母親を慕う気持ちは消えなかった。フェイトは「母さんは不器用なだけ」「私のためを思って言ってるんだ」と言い、次こそは母親を喜ばせようと思う。
母親に全く顧みられずに育ち、女性との関係をうまく持てないまま、著名な産科医になった男性に、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは言った。
「あなたは母親を愛しているのだ」
「しかし、母は私に愛情を与えなかった」
「それでも、母親への愛を止めることができなかったのだ」
フェイトやジョーは、個人としての母親の先にあるものを少し垣間見ていた。ニサルガダッタ・マハラジの言う母親は、肉体としての母親の意味だけではない。
我々は、肉体としての母親ではなく、万物の母であるガイア(ギリシャ神話の大地の女神)のような、老子に書かれた母性原理のような母に目覚めないといけない。
人間としては、個人としての母親との折り合いを付けるのは難しい。しかし、それをしないと、本当の安らぎ、大いなるものとの一体感は得られない。
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