ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

明晰夢で知った「パワー」の使い方

眠っている時の夢の中で、「これが夢だ」と気付いている夢を明晰夢と言うのだが、夢に気付いている度合いというのもあるのだと思う。
私は最近、「これは夢である」という完全な自覚があった明晰夢を見た。
私は、「これは興味深い。是非実験をせねば」と思った。
私は、極めて質素な木造りの部屋の中にいて、床も壁も天井も濃い茶色の木材で、それらは艶があり、塗料が塗られているのかなと思った。
窓はガラスではなく、雨戸のような木の板で閉じられていた。
それを開くと何を見ることが出来るのかとワクワクした。
それで、早速、その窓の板をスライドさせて開けたが、それは、簡易的に描かれた油絵のようで、やや濃淡はありながら、ただ水色に塗られた空と、その下に、とても曖昧に描かれた町があった。
だが、見ていると、空は現実的な空の様子に近付き、町も具体的な町になっていく。
私は、「夢の中では左脳は働いていないので、論理的思考は出来ないと思うが、今もそうなのだろうか?」と思った。
しかし、そう考えている時点で、ある程度は論理的に考えているのだと思った。
そうこうしているうちに、空も遠くの風景も完成し、すぐ近くは茶色の地面が広がっていた。
私がそれらの創造主なのかもしれないが、あまりそんな感じはしない。
では、目の前の地面でサイコキネシス(念動力)の実験をしようと思ったが、土ばかりで動かせるものがない。
では土でも動かせば良さそうなものだが、それでは面白くないと言うよりも、やはり絵に描かれたような地面なので、動かせそうな感じがしなかった。
私は、「石ころよあれ」と思ったわけではないが、ちょっと「石があったらいいな」と思ったら、大きさは不明だが、あまり大きくない黒い石がいくつか現れた。
やはり、どうも私は創造者っぽくない。
だが、「あったらいいな」と思ったら現れたのは悪くない。
では、早速、石ころをサイコキネシスで動かそうとしたが、さっぱり動かない(笑)。
Tell Me Why?(なぜなんだー)である。
やはり、全く動きのない絵を動かすのは難しいのだろう。
多少は動きがあった方が良い・・・と思ったのかもしれないが、地面の上で十人ほどの人間(若い男達)が現れ、ホッケーのようなことを始めたが、無秩序な動きで、棒でボールの代わりに石ころを叩いていたが、その石ころがボールに変わった。
私は不意に思いついて、そのボールを指差し、指をいろいろな方向に動かすと、ボールがその方向に動き、ホッケー選手(?)が慌てているようだった。
アニメでも映画でも、超常現象を起こす時は、圧倒的に指差しをする場合が多いが、なるほど、それが人間の本能のようなものなのだろうと思った。
レオナルド・ダ・ヴィンチの『洗礼のヨハネ』の絵だって、ヨハネは天を指差しているし、他にも、突出した人物が指差しをしている名画は沢山ある。
禅語の中にも、倶胝(ぐてい)という僧は、何を聞かれても指を1本立てるだけだというし、彼は往生の際は、「私は師の天竜から教わった一本指の禅を一生で使い切れなかった」と言ったことになっている。
アニメ『灼眼のシャナ』で、「祭礼の蛇」坂井悠二は、異世界ザナドゥとの扉を開ける際、天空を指差した。
やはり、人間は、意識を向ける際、指を差す方がやり易いのだろう。
武道では、人差し指は「師匠預けの指」と言われて、使ってはならないことになっている。
この「師匠」とは、私の解釈では、魂、真の自己、真我だ。
人差し指は、物質世界と高次元世界をつなぐ鍵で、意思を向けるものである。
よって、皆さんも、超能力とか引き寄せの力を使う際、人差し指を伸ばし、それに意思を向ければ思うようになるだろう。

夢の乙女
AIアート817
「夢の乙女」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)現代語訳 無門関 禅問答四十八章 (角川ソフィア文庫)
(2)左脳さん、右脳さん。(ネドじゅん)
(3)右脳の冒険(コリン・ウィルソン)
(4)数霊のメッセージ(佐々木将人)
(5)夢 [DVD](黒澤明監督作品)
  
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「私は誰か?」の本当の意味

ラマナ・マハルシが教えた「私は誰か?」と問うことは、実際にはあまり行われていないように思う。
その理由は、「なぜ、これを行うのか?」が全く分からないからで、これは非常に問題だ。
マハルシが、「私は誰か?」と問う意味について語った内容の翻訳もあるが、どれも抽象的過ぎてほとんど分からない。
では、マハルシに代わって、分かっている人が分かり易く説明すれば良さそうなものだが、それがないということは、分かっている人がいないということだろう。
「意味など分からなくても、マハルシが言うことだからやればいいのだ」と言うのは、宗教であれば、それで良いのかもしれない。
しかし、マハルシの教えは宗教ではない。

確かに、マハルシが、
「『私は誰か?』は、あらゆる想いを消し、最後には『私は誰か?』という想いすら消す」
と語った日本語の文章もあるが、実際に、その効果を感じた人はほぼいないと思われる。
そして、ただ「私は誰か?」と唱えるだけでは駄目だとマハルシが語ったこともある。
では、どう唱えれば良いのかというと、その説明は、やはりひどく抽象的だったり、行うことが難しいものだったと思う。

いずれにしても、もっと現代的に、そして、まずは誰でも簡単に分かるように言わないと、それを人々が実践することはまずない。
簡単で分かり易くあってさえ、ほとんどの人はやらないのだ。
ましてや、抽象的で掴みどころのないメソッドなど、ないも同じである。

そこで、私なりの説明をする。
「私は誰か?」は、記憶を消すメソッドだ。
決して笑い話ではなく、「私は誰?ここはどこ?」というのは、記憶喪失に陥った状態を端的に示した言葉だ。
そして、「私は誰か?」と、まるで記憶喪失の人間のように問えば、実際に記憶が消えていくのだと思う。
聖者というのは、その気になれば記憶を蘇らせることは出来るし、必要な記憶なら自動的に蘇るが、頭の中に記憶はない。
人間が魂の力を発揮出来ない原因は記憶である。
記憶がなければ、固定観念も偏見も洗脳もない。
そんな聖者の状態に近付けるマントラが「私は誰か?」である。
これが分かると、「私は誰か?」と問い易くなるし、問う意欲も出るのである。
あなたも、嫌な記憶は消したいだろう?
そして、良いと思える記憶だって、実は、それと共に悪い記憶がくっついているのである。
そこで、良い記憶も悪い記憶も消し去ってしまえば、心は軽く、清々しい気分になる。
必要な記憶は、頭になくても、どこかにあって、必要であれば出てくる。
だから困らない。
それに、頭の記憶は、ほとんどが変質している。つまり、嘘の記憶である。
だが、頭以外の記憶は正しい。
従って、頭の記憶を消せば、事実に基づいて生きられるのである。

こういったことが分かれば、「私は誰か?」は最高のメソッドであることが分かるのである。

耐える
AIアート816
「耐える」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)ラマナ・マハルシの教え(山尾三省翻訳)
(2)ラマナ・マハルシとの対話 第一巻(福間巖翻訳)
(3)左脳さん、右脳さん。(ネドじゅん)
(4)ダイアネティックス(L.ロン.ハバード)
  
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特訓は必要ない

最近私は、『陰の実力者になりたくて!』(2022~2023)というアニメの第1話を見て非常に感激した。
このアニメ、実は私は、昨年(2023年)だったか、20話近くまで観て、観るのをやめていた。個人的感想だが、最初の方は面白かったが、だんだん面白くなくなったと思ったからだ。そんなアニメは多いと思う。
ところが、第1話を気まぐれにだが久々に見ると、非常に良いところがあった。
高校生男子である影野実は、勉強も運動も中の下(の成績)、顔も普通であるなど、あらゆることにおいて凡人で目立たないキャラだ。このような人物を、今は俗にモブキャラクター(略してモブキャラ、モブ。その他大勢といった意味)と言う。
だが、学年一の美少女を前にしても全く平静で、彼女の名前を憶え間違えているところに興味を惹かれる。
つまり、只者ではない。
そして、いつもクラスの中で、目立たずぼーっとしていたが、そんな中、ひっそりと、ハンドグリッパー(握力強化トレーニング器具。ハンドグリップと呼ぶ場合が多い)で運動している。そのカウント数は2万を超えていた。
私はこれにシビれた。
運動と言えば、かつては、筋力を鍛えるためには数回からせいぜい十数回繰り返すことが出来る負荷の強い運動、筋持久力を鍛えるためには20回程度繰り返すことが出来る運動を行うことが常識だったが、現代のスポーツ科学では弱い負荷の数多い繰り返し運動が筋力や筋持久力も高めることが確認されている。そして、強い負荷の運動より弱い負荷の運動の方が優れた点が多いことは、実は昔から優れたアスリートやトレーナーらは、よく知っていたと思う。
それはともなく、私には、この影野実のように、黙々と地味な鍛錬を繰り返す姿が実に好ましく思えるのだ。

大東流合気柔術の達人、佐川幸義は「私は特訓なんかしない」と言っていたそうだが、これは素晴らしい言葉と思う。
つまり、スポコンもの(スポーツを題材にした漫画・アニメ・映画等)のように、激しいトレーニングを根性を持って比較的短時間行うのではなく、楽な運動を長時間行うのである。
特に佐川の佐川流四股は一部でよく知られていて、佐川は千回単位で毎日数千回行っていたらしいが、これは四股と言っても相撲の四股とは違い、ほとんど足踏みである。
佐川は、この四股について「僕は四股を踏みながら死ぬことが出来る」とか「僕なら寝ないで四股を踏んで成果を出す」と言ったという話がある。

言い換えれば、時間をかけることが尊いのである。何事も。
だが、現代では短時間で得ることを有り難がり、「1日1分で」とか「10日でマスター」といったものが人気があり、「コスパが高い」という言い方が好まれる。
こういった風潮に対し、コンピューター科学者でAI研究者として有名なピーター・ノーヴィグもブログで苦言を呈している。
彼は、プログラミングの学習に対し、やはり「一週間でマスター」みたいな本が巷に溢れていることを嘆き、本当にプログラミングをマスターするには10年かかると述べる。
だいたい、「コスパ」なんて言葉を多用する者にロクなやつはいないではないか(笑)。

精神的な力(引き寄せもだが)も、淡々とした地味な鍛錬を必要とする。ただし、「特訓など必要ない」。
シンプルな呼吸法を行ったり(あるいは単に呼吸を意識したり)、マントラを唱えたり、腹に力を入れたりなど、自分に合ったものを、起きている間ずっとやる心構えでやるのが理想である。
個人的に最も優れていると思う修行の1つが、ニサルガダッタ・マハラジやネヴィル・ゴダードが勧める「存在の自覚を感じる」ことである。
実際は、長時間やりさえすれば、やることは何でも良いようにすら思う。
たとえば、「神様の奇跡が起こる」とか「お金がある」と唱えたりである。
ラマナ・マハルシは、起きている間ずっと「私」と自分に呼びかけるよう勧めたことがあるらしいが、これも無期限にやるつもりでやることに意味があると思う。
私も、佐川流四股や存在の自覚の感知、あるいは深呼吸などを行っているが、行う時間がまだまだ足りないようである。

待つ
AIアート815
「待つ」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)陰の実力者になりたくて!(Amazon Prime Video)
(2)アイ・アム・ザット 私は在る ~ニサルガダッタ・マハラジとの対話~
(3)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
(4)佐川幸義 神業の合気 ※佐川流四股の解説あり
(5)四股鍛錬で作る達人 ※佐川流四股の解説あり
(6)月刊 秘伝 2022年 03月号 [雑誌] ※佐川流四股の解説あり
  
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誰とでも仲良くなれる人とは

この世でうまくやっていくのに、最も大切な能力は「誰とでも仲良く出来る能力」だと思う。
もし子供がいたなら、何をさておいても、誰とでも仲良く出来るよう導かねばならない。

では、子供に限らないが、どうすれば誰とでも仲良く出来るのだろう?
人を惹き付ける特別な魅力がある場合を除けば、信頼される人間であるということだろう。
人付き合いが下手な者が、誰とでも仲良くしようとしてやる典型的な間違いが、「媚びを売る」ことだ。
媚びを売れば子分扱いか、下手すれば奴隷扱いだ。

では、どうすれば信頼される人間になれるかということを言葉で説明したら、本一冊以上になってしまう。
だが、子供でなくても、守ることが出来る掟は1つだけだ。
とはいえ「愛すればいい」なんて無茶を言ってはならない。絶対出来ないから。
それよりもはるかに優れた掟は「憎むな」である。しかし、これも難しい。

それで、別に「誰とでも仲良くなるための掟」というわけではないが、人間が守るべきたった1つの掟が何であるかを、3人の賢者の言葉で述べよう。

ヴァーノン・ハワード「あなたは何をしても許されるが、言い訳だけは許されない」
カート・ヴォネガット「人に優しくしろ」
ラルフ・ウォルドー・エマーソン「無謀なまでに自分を信じろ」

それぞれで全然違う。
こんな場合、どうやって選択すれば良いかご存じだろうか?
尚、断っておくが、上のことは、「いかなる場合でも」が条件だ。好きな人に優しくするのは簡単だが、嫌いな人にも優しく出来なければ、これ(人に優しくする)を出来るとは言わない。
さて、選び方であるが、「これなら出来る」というものを選ぶのである。
では・・・と考えたら、1つもないと結論付けるのが頭の良い人で、1つでも選べるのは頭が悪い人だ。
では、最終的な選択の方法であるが、それは「絶対に出来ない」ものを選ぶのである。
答は・・・全部だ(笑)。
つまり、上の3つは正しくない。

まあ、一応の方法を言えば、「嘘をつかない」と「約束を守る」で、この2つは本質では同じなので、どちらでも良い。
だが、人間、嘘をつくこともあるし、約束を破ることもある。

実際、ほぼ誰とでも仲良く出来るナイスガイ、ナイスパーソン(女性に対しては一般にこう言う)だって欠点だらけだ。
だが、彼らは、「運動神経」にたとえれば「誰とでも仲良くなれる神経」が発達しているのだ。
しかし、私やあなたにはそれがないのだ。

『サクラダリセット』というアニメの第1話で、浅井ケイ(中2男子)が春埼美空(はるきみそら。中2女子)に不意に尋ねる。
「君の好きな食べ物は?」
春埼美空の答は、
「ありません」
で、続いて浅井ケイが、
「じゃあ、嫌いな食べ物は?」
と尋ねると、やはり春埼美空は、
「ありません」
と答えた。
よく、デートの際、男性が女性に「何が食べたい?」と尋ねた時、女性が「何でもいいです」と答えるのは、男性には迷惑だという話がある。
嘘である。その程度で困ったり迷惑したりする男なら、付き合うべきではない。
ただ、女性が、本当は何でも良いわけではないから困るというだけだ。
ところが、女性が本当に何でも良いと思い、男性がそれを受け入れ、しばらく歩くと、最適なお店に行きつくのである。

大切なことは、焦らないこと、ゆっくりやることだ。
そして、ただのグズとゆったりした者の違いは、明確な目的があるかないかだ。
古い映画で、こんな話がある。
月面に着陸した1人の宇宙飛行士の男性が、宇宙船から出た。彼は、月面基地に歩いて到達しなければ死ぬが、月面基地の方向が全く分からない。
そこで男は、幼い息子にもらった、チェーンが付いたキャラクターを、チェーンを持って回転させ、そのキャラクターの顔が向いた方向に歩いた。彼は全く焦っておらず、ゆっくり行った。すると、歩いた先に月面基地があった。
こんな人間が、誰とでも仲良くやれるし、好ましい現実を引き寄せるのである。
まずは、自分がそう出来るようになることだ。

焦らない
AIアート814
「焦らない」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)サクラダリセット ※Amazon Prime Video
(2)自己信頼(ラルフ・ウォルドー・エマソン)
(3)左脳さん、右脳さん。(ネドじゅん)
(4)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
  
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推し以外にも良いものはある

通説(主張が広く認められている説)を信じてはいけないと、つくづく思う。

よく、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は一神教で、日本の神道は多神教とか言われる。
しかし、日本人だって、神様と言えば、自分の外にいる唯一の絶対的な存在だと思っている人が多い。
これがキリスト教の影響かと言うと、そんなことはないと思う。
日本だって昔から「お天道様が見ている」という風に、唯一絶対の存在を「天」と表現し、この天がキリスト教で言う神と同じと言って差し支えないと思う。また、日本に沢山の神がいると言っても、一番偉い神は、一般にはアマテラスオホミカミだし、ちょっと神道に詳しい人ならアメノミナカヌシであるという風に、やはり絶対神は存在する。

それよりも、人間と神様の差と言うか距離感が問題だ。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は旧約聖書が根本聖典だが、ギリシャ神話と起源を同じにすると思われ、人間は神様が作って生命を吹き込んだものであり、神様と人間の差は圧倒的だ。
ところで、日本の神道では、人間がどうやって出現したのかは、はっきりしない。
一部で、人間か神様の子孫であるように言われるが、そんな説明はつかない。
やはり、神道でも、神が人間を作ったと考えた方が矛盾がない。
そして、キリスト教等と神道を統一出来そうな論としては、宇宙人である神が科学的に人間を作ったと考えると非常にすっきりする。

ところで、本人がキリスト教徒だったかどうかは分からないが、旧約聖書・ギリシャ神話的な雰囲気を十分に持った話をするルドルフ・シュタイナーは、神と人間の魂の関係は大海と一滴の水のようなものであり、量が違うだけで同じものと言ったが、これが現代的な考え方と言って良いと思う。
この論で、あらゆる宗教の説明がつくと私は思う。
それは、特にヒンズー教の考え方と同じで、つまりは、人間は小さな神であり、しかも、大きな神と離れているわけではない。

そして、1つの論と言えばそうなのかもしれないが、ネヴィル・ゴダードは、人間は本質で神なのだが、その本質はどう定義出来るかと言うと、「存在の自覚」が神であると言った。
私は、これが結論と思っている。

パラマハンサ・ヨガナンダの師のスリ・ユクテスワが、あらゆる宗教が同じであるという『聖なる科学』という著書を出したが、私には、その内容が全く納得出来なかった。理解出来ないと言うより抽象的過ぎて理解のしようがなかった。
しかし、上にあげた論で言えば、あらゆる宗教が同じであると、すっきり説明出来ると思う。
世界の争いは宗教の争いだ。正確には主義主張の違いと言うべきだが、根本は宗教だと思う。
その宗教が全部同じなのだから、争う必要はないと思える。
そりゃ、人間だって、また、1つの種類の動物だって、それどころか、同じ車種の同一グレードで同一装備の自動車だって、細かい部分では異なるし、その違いを拡大して見れば大差となる。たとえば、「どこが同じ車だ!タイヤの空気圧が3%も違う」と言うようなものだ。
まして人間となると、「こっちは若くて美人だが、あっちは年寄りで醜い」と言ったように、大差となる要因が多い。

欧米と日本のAI観としてのロボット観の違いについて、2つの日本人の話を取り上げる。
1980年代と思うが、哲学者の渡部昇一氏は、西洋人のロボット観はフランケンシュタインで、日本人のロボット感は鉄腕アトムだと言ったが、そう見えるところは確かにあったかもしれない。
そして、2010年代に、そのような原因が、一神教と多神教の違いと言ったのが、当時、MITメディアラボ所長だった伊藤穣一氏で、今でも彼のブログで該当記事を見つけることが出来ると思う。
西洋人がなぜロボットを嫌うのかと言うと、一神教精神により、神から万物の霊長と定められた人間の地位がロボットに脅かされるように思われるからだそうだ。
一方、多神教である日本人は、あらゆるものに神が宿っているのだから、人間を万物の霊長というほど高く見ておらず、西洋人のようにロボットを脅威と見なさないと言う。
もちろん、伊藤穣一氏はそう断言したわけではないが、伊藤氏の人間観は、未開の人間に関するものと言えるほど、もう古いものだと思いたい。だが、実際は、そんな人間がまだまだ多数派なのだから、伊藤氏の論はやはり通用する。

上に述べた通り、私には、いかなる宗教も同じである。
いろんな小説や映画があるのと同じような意味で、いろんな宗教があるだけで、いわば宗教の違いは宗教のバリエーション(変種、変化)であり、今流には多様性といったところだ。
2400年ほど前の『荘子』には『斉物論』と言って、全ては同じであるという話があるが、これは非常に正しいながら、話が抽象的過ぎて分かり難い・・・と言うより、普通の人にはさっぱり分からないと思う。
また、ムード重視の宗教家のように、いきなり「全ては1つじゃ」と言われてもなあ・・・である(笑)。

小さな違いも大事であるという面と、違いにこだわってはならないという面がある。
きっと、ここらが人間のややこしさであると思う。
「推し」というのが流行のようだし、「推し」はあっても良いのだが、「推し」以外にも良いものはいくらでもある。
私は、初音ミクさんもIAさんも大好きである。それで良いのである。

一体
AIアート813
「一体」
Kay


◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)神秘学概論 (ルドルフ・シュタイナー)
(2)テクノロジーが予測する未来(伊藤穣一)
(3)荘子(1)(森三樹三郎。中公クラシックス)
(4)聖なる科学(ギャナアヴァター・スワミ・スリ・ユクテス)
(5)世界はどうしたってあなたの意のまま(ネヴィル・ゴダード)
  
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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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