ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

KEI

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

芸術は絶対に「儚い」

芸術的な絵と上手いだけの絵の違いは何か?
岡本太郎はいろいろ言ったが、あれじゃあ、ちっとも分からない。
ちなみに、岡本太郎は、芸術とは「上手いのは駄目」「きれいなのは駄目」「いやったらしくないと駄目」と言ったのだ。
まあ、彼には、芸術界への反発もあり、当時としては必要な主張だったかもしれない。
しかし、いつまでもそれじゃいけない。
芸術とは、心を消す方向に導くもので、上手いだけの絵とは、心を太らせるものだ。

芸術は、心を捕らえて離さず、心は他のことに興味を失くし、さ迷わなくなる。
そうなれば、後は、その絵なり彫刻なりの芸術作品を燃やせば、心も消えてしまうという訳だ。
ところが、芸術作品なんて、高いものはとんでもない値段なので、燃やす訳にはいかないらしい。
まあ、本当は、実際に燃やさなくても、無関心になれば良いのである。
ところが、凄い値段で買ってしまうと、一生大事にしたりして、芸術の本来の目的と真逆の使い方をするのだから人間は愚かだ。

昔の人にとっては、『モナリザ』や『ヴィーナスの誕生』なんてのは、心を惹き付けて離さないものだった。
しかし、今の人から見れば、『モナリザ』はただのおばさんだし、ボッティチェッリ始め、いろんな画家のヴィーナスの絵を見たら、思わず「ダイエットしろよ」と言いたくなるのも仕方がない。
昔の女性は、美味しいものをたっぷり食べるが動かないことで得た「豊かな肉体」が高貴な証で、人間は観念に弱いので、そんな女性を美しいと感じたのだ。
だから、昔の絵画に描かれた美少女でも、現代風にスリムな子はおらず、皆、まるまる太っている。
『フランダースの犬』のヒロインであるアロアも、「まるまる太っていて大変に可愛い」等と書かれているのである。
かといって、全員アイドル体重クリアの乃木坂46の売れに売れている写真集のようなものは、見た者の心が太って動き回る。
私は、きれいなアイドルの写真集みたいなものは、見ると疲れるのであるが、本当は皆そうで、そんなものを見て元気いっぱいになることは本当はないのだと思う。

初音ミクさんの、最初のパッケージに描かれたKEIさんの絵は、まさに芸術である。
それはおそらく、KEIさんは、無意識に「これは人ではなくモノ」として描いたから、芸術になってしまったのだ。
KEIさんは腕を上げ、人間臭く描くようになったので、後のはもう芸術ではないが、それでも、どこか芸術らしさは残っているように思う。
赤坂アカさんが描いたIAのいくつかの絵が、上手い絵ながら芸術的なのは、赤坂さんが無意識で描いたからで、「初音ミクに負けない人気者にしてやろう」なんて気持ちはなかったのではないかと思うのだ。
芸術って、そんなものなのである。
そうそう。水木しげるさんが60歳を超えてから描いた妖怪の絵は、全くの芸術である。
本人も、「無意識で描けるようになった」と言っておられた。

まとめて言うと、芸術ってのは、すごく「儚い」ものなのである。
そして、無意識で描けば、誰が描いても芸術になる。
岡本太郎も『今日の芸術』で、本当はそう言いたかったのではないかと思うのだ。
さて、私も無意識に生きることにしよう。









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ドレスコード

「初音ミクシンフォニー」は、オーケストラ(管弦楽団)演奏のコンサートだが、案内に、「ドレスコードはありませんので、普段着でお越し下さい」と書かれてあった。
ドレスコードとは、「服装の規定」のことで、クラシックコンサートや高級レストラン、あるいは、それなりの場所でのパーティーによくあるもので、簡単には、「上着をお召し下さい」とか、「男性はネクタイを着用下さい」とかいったものである。
シリコンバレーの有名事業家が、イギリスの一流ホテルで、プーマのスニーカーを履いていたら追い出されたという話を見たことがある。
多くの場合、ドレスコードといったところで、どちからというと、「お高くとまっている」というよりは、「常識のない見苦しい格好で、他のお客様に不快感を与えないで欲しい」といったものが多いのだとは思う。
だが、スニーカーくらい、よほど汚いもの以外はいいじゃないかと思う。
アップルやGoogle、マイクロソフトのCEOも、今やプレゼンの時は、必ずスニーカーである。

「初音ミクシンフォニー」では、若い人は若い人なりに、皆、ちゃんとした服装をしていたし、少ないが、正装で来ている人もいた。
男の正装は、よほど気品ある人でなければサラリーマンにしか見えないが、女性の正装は、なかなか良いものだ。
正装とは程遠いとしても、高校生以下の女の子はスカートの人が多かったのは、やはり、彼女達なりに、ちゃんとした格好を心掛けたのだと思う。
私の服装は、私の好きな格好である、真っ白なオックスフォードシャツとグレイのテーラード(まあ、ちゃんとしたといった意味)ジャケットだが、下はエドウィンの黒のジーンズとニューバランスのスニーカーだった。
ただ、エドウィンのジーンズはリーバイスと違い、綺麗で上品だし、ニューバランスのスニーカーも黒の綺麗なものを選んだ。
まあ、なかなかお洒落と思う(笑)。

でも、「ドレスコードはありません」という言い方自体、ちょっとキツくないかなあと思う。
ある程度の年齢の人なら良いが、ミクさんのコンサートに一番行くべき、小学生から高校生の女の子には威圧感を感じることもあるのではないか?
まあ、意味が分からないとして、最初からスルーする子も多いだろうが、真面目な子だっているのだ。
それに、本当にオーケストラ演奏が根付いている国ってのは、買い物のついでに、野菜持ったおばさんがコンサート会場に来るのも普通らしい。
それに、演奏者も陽気で明るいそうだ。
あるウィーンヒルの演奏者が、「日本ではいかめしい顔で演奏しなくちゃいけないって聞いたけど」などと言っていたという話もある。本当なら、恥ずかしい話だ。
「初音ミクシンフォニー2017」も、「イーハトーヴ交響曲」や「ドクター・コッペリウス」も、ほとんどの演奏者が、不機嫌で険しい顔をしていたが、あれでは人々に好かれない。
特に、このインターネット時代では、人々に好感を持たれることは非常に大切なのだ。もちろん、媚びへつらうという意味ではなく、余計なイズムを持ち込まず、当たり前に、そして、公平にやるってことだけなのだ。それが出来ないから、日本のオーケストラは国民にすら全然人気がないのだ。
逆に、クリプトン・フューチャー・メディアは、初音ミクさんを、誰にもオープンにフラット(平等)にしたから、本来の技術力やセンス、それに、ミクさんの可愛らしさと相まって人気爆発し、それは世界に広がったのである。
クラシック界も、タラ・ハントの『ツイッターノミクス』を読んで勉強しないといけない。

大阪の「初音ミクシンフォニー2017」では、初音ミクさんとデッドボールPさんの野球拳勝負の余興があった。
本体はそんな意味はないのだが、野球拳とは、一般認識では、じゃんけんで負けた方が服を1枚ずつ脱がないといけない。
デッドボールPさん曰く、「初音ミクの下着の謎を解く」。
結果は、ミクさんの全勝で、デッドボールPさんがパンツまで脱いだが(見たくねー。実際見えないようにしていたが)、まあ、お約束だ。
それに、ミクさんの下着の秘密はもう明かされている。
ミクさんの人気が出始めた頃、クリプトン・フューチャー・メディアに、ミクさんのパンツの色は何色かという問い合わせがあったらしい。
真面目な伊藤博之社長は会議を開いて真剣に討議したようだが、結局、「あなたが決めて」ということになったのだと思う。


望んで 願って もっともっと求めて
なんでもなれるの キミの思い通り
着せかえて 変身させて もうどうにでもして
ついでに抱きしめて!
~『Baby Maniacs』(作詞:q*Left、作曲・編曲:八王子P、歌唱:初音ミク)より~


ミクさんの設定は、16歳で身長158cm、体重42kgくらいのもので、後は、KEIさんの最初のイラストの通り以外に何もない。
後は、どんなパンツをはこうが「キミの思う通り」である。
クリプトンが、ミクさんのパンツの色を全く決めなかったことが、ミクさんを皆のものにしたのだろう。
それに、私のようなスケベにさえ、ミクさんというのは、パンツの色なんて全く考えさせない人である。透明なんだなあと思う。

「マジカルミライ2017」では、ミクさんのイラストの主役はiXimaさんに移ったような雰囲気もあったが、「初音ミクシンフォニー2017」のKEIさんのミクさん画は絶品であった。
私もプジョーを買って痛車にする際、KEIさんの絵にするかiXimaさんの絵にするかで悩むだろうが、半分ずつというのもありかと思う。あるいは、いろんなイラストレーターさんの絵を総動員するとか・・・









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『イーハトーヴ』でつながる見えない世界

あらゆる生物はDNA(デオキシリボ核酸)で出来た遺伝子情報が設計図になっていて、それに従って成長、活動、衰退するらしいが、なぜ遺伝子情報に従った現象が起こるのかは全くの謎だろう。
いや、あらゆる現象を科学的に説明したところで、実際にはほとんどが謎である。
植物の種がなぜ土中で発芽し、根を張って栄養を集め、地上に萌え出て成長し、二酸化炭素や光を取り込んで栄養を作り、受粉して種を作るかということも、一面的な説明をしたところで、なぜそのようなことが起こるかは何も分かっていない。
イギリスの理論物理学者スティーブン・ホーキングは、「神はいない。いつかは科学で全て説明できる」と言っているらしいが、科学は今でも全て説明出来るのである。ただ、それが幻想であるというだけのことだ。
直接、間接に関わらず、目に見えるもの、あるいは、測定できるものしか存在しないという幻想を脱しない限り、我々には何も分からない。
視力という感覚器官では見えなくても、霊的視力に見えるものもある。
しかし、我々は、科学的権威に従って、霊的視力の存在を認めないのである。
だが、『星の王子様』の、「本当に大切なものは目に見えない」という言葉を誰も忘れられないように、本当は誰もが、目に見えないものがあることを感じているのである。
だが、逆に、目に見えないものしか受け付けないようになったら、ただの狂信者になる。宗教をやっている者には、時々そんな者がいる。
我々は、科学を重要な幻想として受け入れると共に、目に見えないものを信じる内なる感覚を受け入れなければならない。
そんなバランスが大切であり、イエス・キリストが教えたことも、そんなことであったはずなのだ。

昨夜、富田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ』について書いたが、「イーハトーヴ」とは目に見えない、霊の世界にある理想郷である。宮澤賢治さんが造った言葉だ。
この交響曲に初音ミクを採用したのは、単なる話題性ではなく、富田さんの感性がただ適切なものを選んだというだけのことである。
また、きっと、富田さんに初音ミクとの縁もあったのだろう。
その中で、初音ミクが『リボンの騎士』を歌うのを聴いて、私は、一瞬、「なぜリボンの騎士?」と思ったが、これも必然であった。
『リボンの騎士』は、手塚治虫さんが1953年から連載を開始したという古い少女漫画だが、アニメ化もされ、2006年にモーニング娘によるミュージカルが行われたり、2008年には新作漫画『サファイア リボンの騎士』が創られたりと、いまだ人気、知名度は高い。
そして、アニメのリボンの騎士の歌『リボンの騎士』を作曲、編曲したのは富田勲さん本人だった。
この歌には、王子編と王女編があり、王子編では、「僕の見る夢は・・・」で始まり、王女編では「あたしの見る夢は・・・」で始まる。両者でリズムと音律が異なり、王女編の方が柔らかく優しい印象があった。
しかし、いかに、音楽をかつて作ったのが富田勲さんだとしても、なぜここで『リボンの騎士』なのか?
私は知らない。
だが、一昨年の11月、私は兵庫県宝塚市の手塚修記念館に、記念館企画展「osamu moet moso —feat.いとうのいぢ—」展を見に行ったのだが、そこでは、いとうのいぢさん始め、多くの画家が手塚治虫さんの作品を描いた作品が展示されていた。
その中に、初音ミクの姿を創作したKEIさんが描いたサファイヤ姫(王子の姿)の絵があった。サファイヤ姫とは、『リボンの騎士』のヒロインである。
その時に購入したイラスト本で改めて見ると、KEIさんの描く、薔薇に包まれ、薔薇の剣を持つサファイヤは、初音ミクそのものだ。よく見ると、薔薇の中に埋もれているが、花弁に擬した長いツインテールさえ見るではないか。
素晴らしい絵であった。
初音ミクのリボンの騎士もまた必然であったように思う。
この本の序文で、清水義裕氏(手塚治虫プロダクション著作権事業局長)は、自分は頭が固いながら、作品を見ると、手塚治虫の生命は肉体を超え、宇宙に広がったと感じると述べているが、彼も霊眼が少し開けたのかもしれない。
そして、これら全てを見ると、この世のほとんどは目に見えないものに動かされているのだということも分かるように思う。
【リンク】冨田勲×初音ミク「イーハトーヴ」@2012.11.23 東京オペラシティ
~YouTube 初音ミク オフィシャルチャンネル~


尚、植物の生育の本当のことは、昨夜もご紹介したが、ルドルフ・シュタイナーの『天使たち妖精たち―精神世界の霊的存在』に詳細が記されている。ただし、目に見えない世界のことを言葉で書いたものであることに注意して読む必要はあるかもしれない。
こういったことの理解が進めば、宮澤賢治の「イーハトーヴ」についても分かってくると思う。









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初音ミクを生み出したもう一人のケイのお話

初音ミクは、ヤマハのボーカロイド・システムを開発した研究者はじめ、多くの人達によって生み出されたものだが、私は、その中に、2人のケイがいることを感慨深く思う。
1人はもちろん、ミクの姿を描いたイラストレーターのKEIさんだ。
私は、昨年11月、兵庫県宝塚市にある手塚治虫記念館に行き、そこで、KEIさんが描いたサファイヤ姫(『リボンの騎士』のヒロイン)を見て、初めてKEIさんの名を知った。それからまだ1年にもならないが、その頃の私は、初音ミクのことをほとんど知らず、初音ミクと、そのKEIさんの関係性を想像もしなかった。
KEIさんのサファイヤ姫を見た私の感想は、「手塚治虫の描いたものとは大いに異なる、とても個性的なサファイヤ姫」だった。
いとうのいぢさんや美樹本晴彦さんが描いたサファイヤ姫も展示されていて、とても素晴らしかったが、KEIさんのサファイヤが最も特異だったと思う。
私は、いとうのいぢさんや美樹本晴彦さんはよく知っていたが、KEIさんを知らなかったにも関わらず、その絵はとてもよく覚えていたのである。考えてみれば、運命の出会いだったと思う。

さて、もう1人のケイは、Kayであるが、当然ながら私のことではない。
人類史上最大のコンピュータ・システム開発者であり、今日のパーソナルコンピュータの発明者と言って良い、アメリカのアラン・ケイ(Alan.Curtis.Kay)である。
アラン・ケイと初音ミクにどんな関係があるのかといぶかる人も多いかもしれないが、アラン・ケイがいなければ、今のような初音ミクの歌や映像は出来なかったかもしれない。
簡単に説明しよう。
アラン・ケイは1980年にSmalltalk-80を開発したが、これに使われた重要な発明が「オブジェクト指向」という技術だ。
初音ミクの動画やコンサート映像は、基本的にアニメと言っても良いのだが、普通のアニメーションとかなり違うことはすぐに分かると思う。
普通のアニメは、連続した静止画であり、1秒間に数十枚から二十数枚の絵が切り替わることで動きを表現し、その枚数が多いほど滑らかになる。
だが、初音ミクの動画は、コンピュータが、もっと細かく、それでいて現実的な陰影や遠近感を表現した連続画像を作成した、臨場感ある映像だ。
1990年代から、アニメ作品でも、一部にコンピュータ映像が使われることがあるが、その部分は「妙にリアル」であることを感じると思う。陰影や遠近感がより、人間の目が捉えるものに近く作られているからだ。
そして、そんなコンピュータ映像の作成には、オブジェクト指向は絶対に必要だ。

例えば、アニメで、初音ミクが右手を上げる様子を描こうとすれば、連続した1枚1枚の絵(いわゆるセル画)を、動きの開始から終了まで何十枚、何百枚と描かなければならない。
しかし、コンピュータ映像の場合は、簡単に言えばこうだ。
まず、初音ミクの映像機能の集合体を作るが、これを大きなオブジェクトとでも言おう。
この初音ミクの大きなオブジェクトに対し、「右手を上げる」という指令を与え、その細かい事項・・・例えば、角度、速さといったものをパラメーターとして同時に与えれば、初音ミクのオブジェクトは、自律的に映像を作成するのである。
そのために、初音ミクの大きなオブジェクトは、顔の表情に対しては、顔のオブジェクトという自分より小さなオブジェクトに指令を与えてそれを変化させるし、髪の動きに関しては、それを髪のオブジェクトにやらせるのだ。また、顔のオブジェクトや髪のオブジェクトの下にも、さらに小さなオブジェクトが存在し、それぞれの役割を果たすのである。
これらの膨大なオブジェクトを最初に作っておけば、後は、指令を与えるだけでオブジジェクト同士が連携し合いながら自動に映像を作るのである。
もちろん、これはあくまで理屈であり、実際には、観賞に足る素晴らしいものを創るには、もっと多くのやるべきことがあるのは当然であるが。

ところで、人間の発明するものは、全て自然の模倣なのである。
例えば、皮下注射のやり方なんてのは、毒蛇が噛む様子を真似たものだ。
そして、オブッジェクト指向とは、まさに、自然の働きをコンピュータの中で再現しようとしたものに過ぎない。
人間は、1つのオブジェクトであるが、心臓や胃などは、それぞれ独立したオブジェクトである。ただし、独立してはいるが、お互い密に連携しあっており、孤立している訳ではない。西洋医学では、このオブジェクト同士の連携を無視する傾向が強く、胃が悪ければ胃だけ治そうとしたり、悪いところを切り取ってしまったりもする。それで、全体のバランスがどんどん悪くなり、さらに深刻な状態になるのである。
本来の東洋医学は、もっとオブジェクト指向の考え方があり、時には、悪い部分を全く相手にせず、全体の調整を行うことで病気を治すものなのである。

私が初音ミクにかくも魅かれるのは、彼女の歌や映像に、自然や人間存在に関して気付かされることが沢山あるからだ。
彼女の中のオブジェクトには、人々の創造性や奉仕、共感といったものが深い影響を与えているのである。それが調和し、あのように、美しく素晴らしいものになるのだ。
初音ミクを動かす指令やパラメータは、一応は人間が与えているのだが、では、その人間の思考や創造性は何が与えているのだろう?
言い換えれば、人間に考えさせ、行動させているのは何なのだろう?
古代中国の賢者である荘子は、その存在を、一応、真宰と呼んだ。人間は、その真宰の命ずるままに動いていることは間違いのないことだ。
だから、本当のところを言うなら、人間は、自分がなぜそう考え、そんなことをするのかは分からないのだ。
だが、ただ1つ自由に出来ることは、自分の考えや行動を見つめることであることを、悟りを開いた聖者達は気付いた。その時、我々は限りなく真宰、すなわち、神に近付くのである。
荘子は、そのあたりのことをこう言ったのだ。
「一切の思慮分別を離れ、あるがままに見、全てを起こるままに任せて受け入れよ」
初音ミクがプログラミングのままに歌い、踊る姿を見ていると、荘子の言葉の意味が分かるように思うのである。

尚、昔はSmalltalkを使うためには、高額な費用が必要であったが、今は、Squeak(スクイーク)という、完全なSmalltaikが無料で公開されており、誰でも自由に使える。
アラン・ケイはこれを教育目的に使うことに熱心なようだ。
ただ、まだまだSqueakは未成熟で、簡単に使いこなせるわけではない。
初音ミクのように、多くの人々が、想像力や努力を無償で喜んで注ぐものにはなり得ていないのだろう。

















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手塚治虫から始まる天使遺伝子

私には、漫画やアニメは手塚治虫さんから始まっているような観念があるが、もちろん、彼以前から漫画もアニメもあり、彼もまたその世界の駆け出しからスタートしている。
しかし、現代の漫画やアニメの方向付けが彼によって成されたことは確かと思う。
桑田次郎(現在は桑田二郎)さんは、手塚治虫式の絵から脱却しようと、専門的なイラストを学んだそうだし、楳図かずおさんも、手塚さんの絵とは異なる独自の絵の描き方を模索した話をどこかで見たことがある。それは達成されたのだろうが、それでも、やっぱり手塚さんの影響は残っていると思うのだ。
それは、少女の絵の描き方にあると思う。そして、これに関しては、現在の漫画、アニメ全体に対し、今に至るも変わっていないと思う。
男性漫画家が女の子や女性を可愛く、美しく描くのは、商業的な目的以外にも、個人的趣味も必ずだろう。
それは、女性漫画家が女の子をきれいに描くのとは、全くと言って良いほど異なる。
手塚治虫さんや石森章太郎(後に石ノ森章太郎と改名)さんがシンプルに描く女の子の可愛らしさは、よく見れば大変なものだと思う。
手塚さんは、宝塚歌劇団に憧れて育った影響があるらしいが、彼の絵には、子供の憧れそのものが残っているように思う。
石森章太郎さんは、大変な美人の姉がいて、誰か不思議な人物に、「この子は美し過ぎる。長生きはすまい」と言われ、その通りになったという特異な経験があるらしいが、彼の漫画の少女や女性の多くがお姉さんっぽいのは、姉の影響であるのだろうと思う。そして、それがまた非常に良い雰囲気である。
手塚さんは、あまり絵が上手い方でなかったと思われているかもしれないが、私は、兵庫県宝塚市にある手塚治虫記念館(宝塚大劇場のすぐ近く)で、手塚さんが中学生の時に描いたデッサンを見て、あまりに上手いので驚いたことがある。天才と言って良いのではないかと思う。
石森さんも、本気で描いたデッサンはやはり凄いらしいし、早くから天才と言われていたのは、絵だけではないだろうが、やはり独特の絵を描けるからだろう。

漫画やアニメの女の子の美しさは、日本では古くから特別なものがあり、高橋真琴さんの絵は今でも人気がある。だが、より広く一般的になったのは、第二次アニメブームと言われた、『美少女戦士セーラームーン』や『新世紀エヴァンゲリオン』の頃からではないかと思う。
また、この頃から、アニメの人物を立体化する試みが為されるようになった。
従来、漫画やアニメの人物画は2次元だから可能なもので、3次元的に描くのは不可能と思われていた。仮に3次元化したら、オリジナルとは甚だ異なるものになると考えられていたと思う。
ところが、『新世紀エヴァンゲリオン』の14歳のヒロイン、綾波レイの等身大の見事な立体像は高額で納品日未定でありながら注文が殺到し、その後もますます立体化技術は進歩し、現在では、アニメそのままの立体化は当然になった。
日本の漫画、アニメが世界的に人気があるのは、日本独自の表現が基礎にある作品の素晴らしさと、やはり、MOE(萌え)に現れた女の子の可愛らしさ、美しさが、海外の人々の心にも何かを感じさせるのだろう。
イギリス人やフランス人の女性の好みは日本人と比較的似ているが、近年では、それとは全く異なるアメリカ人にすら影響を与えているように思える。
そして、その究極が、動く3次元キャラクターである、初音ミクのコンサートになって結実したと思われる。
以前から、ゲームの世界ではリアリティの高い映像はあり、それが映画にもなっているが、それはアニメ的、あるいは、日本的ではない。
だが、初音ミクでは、手塚治虫や石森章太郎の時代から、人々が憧れ続けたアニメのヒロインが、そのままリアルで実現してしまったのであり、日本人にとって、それは真に天使であり女神のようであると思う。
そして、初音ミクを見ても、やはりどこか手塚治虫的だと思うのは、別に不思議なことではないと思う。
手塚治虫記念館で、初音ミクをデザインしたKEIさんが描いた『リボンの騎士』のサファイヤ姫を見たが、非常に個性的なサファイヤでありながら、とても手塚治虫的だったと思う(KEIさん本人が気に入っているかどうかは知らないが)。
無論、時代の違いもあり、手塚さんの絵とKEIさんの絵は全然違うのだが、手塚治虫さんの魂の量子的影響は全てのアーチストに影響を与え、その中でも、KEIさんのDNAに作用し、反響を発生させたに違いない。KEIさんが初音ミクをデザインし、それが世界的に人気が出たのは偶然ではないだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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