ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

007

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

悪の陰謀によって作られた映画

とりあえず、3つの作品について言うが、
『007(ダブルオーセブン)』シリーズ
『ターミネーター』シリーズ
『スターウォーズ』シリーズ
らは、見ていて心が疲れるので、私は見ない。
もちろん、SFXやVFXは素晴らしいし、表面的には面白い箇所だってあるが、ストーリーが駄目だ。
どう駄目かと言うと、「あるはずのない話」だからだ。
それは、科学的、政治的、あるいは、経済的にあり得ないからという意味ではない(もちろん、それらの意味でもあり得ない部分が多いが)。
「引き寄せの法則的に」あり得ないのである。

つまり、こういうことだ。
『007』は、ジェームズ・ボンドが引き寄せた幻想だ。
同じく、『ターミネーター』は、サラ・コナーの。
『スターウォーズ』は、ルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーら、それぞれのシリーズのヒーロー達が見た夢である。
そりゃ、人間は、無自覚に、望まない状況を引き寄せることも多い。
しかし、どんな馬鹿でも、あそこまで、自分にとって楽しくない、マゾヒズム的に苦しむ状況を作る必要はない。
最後に大逆転して最大の喜びを得るという見方をしようとしても、あそこまで捻じ曲がった状況を作り出す頭の持ち主には、本来、勝利はない。特に『007』がそうだ。
『007』シリーズには、必ず、異様な性格を持つ敵が登場するが、私には、いかに敵にしろ、あそこまで気持ち悪く歪んだ人間のことを考える者が作った作品に意識を向けたくない。
昔の『007』シリーズはまだ、逸脱(道徳的な意味合いを含め、ルールから大きく外れること)と言うほどの異常なものは登場しなかったし、ジェームズ・ボンドが意思の力で、望ましい状況を引き寄せることで勝つのであえることを感じられたので、見た後で爽やかな気分があった。
しかし、ある時期からの『007』シリーズでは、ボンド自体が逸脱者である。そうでなければ、あのような状況を引き寄せない。

『スターウォーズ』シリーズには、ヨーダや、彼に準じる賢者が登場するのに、それらのマスター達は、全く宇宙の法則を理解していない。
それは、釈迦やイエスが、幼稚で利己的な馬鹿として描かれているようなものである。
『ターミネーター』も、なんであそこまでねじ曲がった異様な世界を考えなければならなかったのだろうという感想しかない。
これらの映画の製作者達は、金にまみれながらも、悲惨な状況にあるのではないかと心配になってくるほどである。

もし、あなたが、引き寄せの法則をちゃんと使い、楽しい状況を作り出したいなら、これらの映画(他にも同種のものは多い)を見る際には、気を付けた方が良い。
最初に述べたが、科学的、経済的、政治的という意味ではなく、人間の心として、あり得ないにもほどがある話なのである。
『ターミネーター』のように、AIが自意識を持って人類を支配したりすることはない。
AIが脅威なのは、あくまで、愚かな権力者が高度なAIを利己的に使った結果、多くの人々を不幸にすることなのであり、それも、引き寄せを使える者であれば、楽々、不幸を避けられる。

ひょっとして、上に挙げた作品(やそれらと同種の作品)は、一般人類の力を削いで奴隷状態に留めるという目的の悪の陰謀ではないかと疑ってしまうのである(笑)。

日本の作品でも、『エヴァンゲリオン』シリーズは、あくまで、レイやアスカらに萌えるためのものとして見れば良いのだが、本当は、最初のところから、想像力とか科学という意味ではなく、情緒として不自然で疲れるので、私はあまりまともに見ていない。

映画は、たとえ壮大なものであっても、どこか製作者に恥じらいがある、遊び心を忘れていないものを見た方が良い。
例えば、『セーラームーン』シリーズは、セーラー服を着た可愛い女の子の戦士という最初のところから、遊び心と冗談でいっぱいである。だから、どれほど深刻な状況でも、お伽噺のようなものとして見ることが出来る。
西尾維新さんの『物語シリーズ』で感心するのは、伝説の吸血鬼の美少女の名前がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードという、もはや、冗談でしかない名前にし、最初から、「これは与太話です」と宣言しているところで、実際、あくまで冗談を楽しむお話になっている。
そして、これらの作品は、案外に、引き寄せ的にまっとうなところに、作者の頭の良さを感じるのである。








極悪人は芝居をしている

私は、特にダニエル・グレイブがボンドを演じる007映画や、『スーパーマン』の映画は、見ると、本当に疲れる。
これらの映画では、必ず、優秀な一人の悪役が登場する。
『スーパーマン』では「大天才」レックス・ルーサーだし、007では、毎回違っているが、やはり天才的な敵が登場する。
しかし、その敵達が、「あまりに真面目な悪人」でいけない。
「あまりに真面目な悪人」とは、「心に一点の曇りもない悪人」である。
まあ、悪の権化ってやつだ。
しかし、そんなものは世の中に存在出来ないはずなのだ。
だから、悪人ってのは、本当は、どこか芝居がかったところがあり、「作り物感」がもっとあるはずなのだ。

宇宙には、「与えたものが与えられる」という、絶対的な法則があることは、宗教や科学で教わらなくても、あまりに自然なこととして、誰だって感知しているはずだ。
だから、レックス・ルーサーのような超頭の良い人が、そんなことを、はっきりと知っていないはずがない。
もし、ルーサーがいたとしたら、彼は、自分がいつか、自分が他の人達にやったくらいの酷い目に遭うことくらい、完璧に理解しているはずなのである。

人類最悪の人間が誰かを決めることは出来ないだろうが、アドルフ・ヒトラーがその1人であるということに、あまり異論がある人はいないだろう。
しかし、ほとんどの人が、ヒトラーの悪事を、自分で確認した訳ではない。
こう言うと、現実に被害に遭った人達やその関係者の反発は大きいかもしれないが、それでも、私にとっては、ヒトラーのことは、ただの情報であることも確かなのだ。
もし、ヒトラーが本当に、情報の通りか、それに近い存在であるなら、彼に共感する部分があるはずで、彼について知れば知るほど、「彼は私だ」と思うはずなのである。
そうであってこそ、私はヒトラーにならないし、次のヒトラーは生まれないのだ。
そして、ヒトラーもやはり、作り物で、偽物で、芝居がかっており、まるで戯曲や映画の登場人物なのである。
それも、とびきり下手なキャラクターだ。
つまり、007やスーパーマンに出てくる悪人達のキャラクター設定は、情報としてのヒトラー並に、絶望的なまでに下手で馬鹿げているのである。

1967年に放送された『剣』という時代劇の第1話『天下一の剣豪』で、丹波哲郎演じる戸沢一刀斉は、天下にその名が鳴り響く日本一の剣豪だった。
ところが、戸沢一刀斉を名乗る偽物が現れ、そのネームバリューで若い娘を誘惑し、面談料やサインで儲けると、やりたい放題だった。
ある時、なんと、一刀斉本人が宿泊した宿に、その偽物がいて、そこでも、姫様を弄び、サイン入りグッズを販売していた。
ところが、一刀斉の門下の剣士達が、「懲らしめてやりましょうか?」と言うと、なぜか、一刀斉は、「捨ておけ」と言う。
一刀斉は心で想う。
「あれは俺だ。俺も、本当は、あんなことをしたいのだ。あいつは、俺の代わりに、それをやってくれているのだ」
さすが天下一の剣豪である。

与えるものが与えられる。
イエスの教えの最重要事項であるが、これさえ知っておけば、他はいらないほどである。









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姦淫する愚か者と姦淫しない愚か者

私は、昔から、『婆子焼庵(ばすしょうあん)』という禅の公案(禅の修行者のための課題)について考えている。
簡単に言うと、こんなお話だ・・・いや、簡単なお話だ。

ある年配の女性が、長い間、1人の修行僧の面倒を見ていた。彼専用の庵(小屋)も作ってやり、修行に没頭させてあげていた。
ところがある日、女性は、自分の美しい娘に僧を誘惑させる。
すると僧は、「私は冬の冷たい岩にくっついた枯れ木のようなもの」と言って動じなかった。
それを聞いた女性は、僧を見放し、彼を追い出すと、彼のために作った庵を焼き捨てた。

このお話の意味することは何だろう?
私も、その都度の答を出してきたが、こんな簡単な問題に迷っていたことに自分で呆れる。
また、偉い先生方が、なんと下らない解説をしてきたことか!

ルドルフ・シュタイナーは、こんな不思議な像を造ったらしい。
それは、上にルシファー(悪魔)、下にアーリマン(魔神)、そして、中央にイエス・キリストというものである。
ルシファーは熱狂と生命力を、アーリマンは冷淡と死を表す。そして、そのバランスを取るのがイエスである。
これを、上の公案に当てはめれば良いのだ。

僧は、大いに誘惑されるべきだった。
しかし、同時に、修行により、自己支配も難しくはないはずなのだ。
私ですら、性的なことに関しては、自身の制御は可能である。
よって、私はルシファーに操られない。
しかし、私は、この僧のように、アーリマンに仕えている訳でもないのだ。

ところで、現代では、若くて美しい女性をいつでも性的対象として見るのが当たり前であるといった風潮(ありさま)が残念ながらある。
いまや、その愚かさを疑うことすら出来ない者が多いのである。
男や女に限らず、若者には無限の可能性があるのに、ただ女であり若く美しいというだけで、性的魅力しか見ようとしないのである。
これは、人類が2000年も前に克服すべき暗愚であったはずなのだ。

では、あの僧は、どうすれが良かったのだろうか?
無論、一通りではないが、私は、あることを思い出す。
『007 カジノ・ロワイヤル』は、イアン・フレミングの007シリーズ小説の第1作であり、また、現在の007俳優の座を確定した感のあるダニエル・クレイグが初めて007を演じた、2006年の映画作品でもある。
ところが、1967年に、やはり、『カジノロワイヤル』という映画が制作されているが、これはなんとコメディー(喜劇)であり、正式な007映画とはされないが、実に壮大豪華な冗談映画だった。
ヴェスパー役は『ドクター・ノオ』の初代ボンド・ガールであったウルスラ・アンドレス。そして、ルシッフル役はなんとオーソン・ウェルズであり、その他も、超有名俳優達を配した豪華絢爛な007番外編であった。
私も昔、この映画をビデオか何かでちょっと見ただけで、当時は『カジノ・ロワイヤル』のお話自体知らなかったので、いい加減な記憶であることをお断りしておく。
この映画では、既に年を取って引退したジェームズ・ボンドが現役復帰して活躍する。
その中で、ボンド陥落の使命を受けた美女達がボンドを誘惑する。その1人であったのかもしれないが、女子中学生のようだったと記憶しているが、1人の少女がボンドと一緒に入浴する(ボンドがバスルームに入った時、先に入っていたような気もする)。
ボンドも一応はあせるが、彼女に、「何が得意?」と聞く。これは、学校の学科とか、スポーツといった意味だ。
私は小学生だったが、それを見て、はっと悟ったことがあった。
男も女も、異性にとって魅力的であるというのも、もちろん大切なことであろうが、それはほんの一部に過ぎないはずなのに、世間はそこばかり拡大する傾向がある。男でも、女でも、世界や人々のために何かをすべきであり、また、特に若い間は、そのための無限の可能性を秘めているのだ。
だから、ボンドが少女に「何が得意?」と聞いたのは、良識ある正しいことであったと思えたのだ。
そういった見方で女性を見れば、ルシファー的な熱狂に囚われることなど無い。
イエスは、「女を淫らな目で見れば姦淫したるも同じ」と言ったが、これは、ルシファーに操られるままにせず、アーリマンの力も借りよということと考えることも出来る。ルシファーやアーリマンは、悪魔、魔神ではあるが、本当は天使であり神であるのだ。
ルシファーやアーリマンを悪魔、魔神とするか、天使、神とするかは、実に、人間次第なのである。

ところで、今、Amazonで見たら、1967年の『カジノロワイヤル』と、ショーン・コネリー主演の最後の007映画『ネバーセイ・ネバーアゲイン』がセットで991円というDVDを見て仰天した。何とも言いようがない。お勧めしておく。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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