ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

龍樹

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

念仏の知られざる真実

念仏というものは、実は、大変に力がある魔法の言葉であるということを、ほとんどの人が知らない。
ぽろっと1回唱えただけで、小さな病気なら治ってしまうし、事故を免れたり、好きな人がいれば、その人となんとなくうまくいってしまうこともある。
しかし、そんなことを信じている人はいないだろう。
だが、それもやむを得ない面がある。
現代人がものごとを信じるパターンというのは3つである。
1つは、教科書に書いていること。
1つは、製品になって流通していること。
1つは、原理が理解出来ること。
例えば、現代人は風邪薬が効くことを信じているが、薬品が良いことは教科書に書かれているし、薬品はCMで放映されている(流通している)。薬品が効く原理の方は、はっきりとは分からないとしても、ぼんやりと分かるような気がするし、また、勉強しさえすれば分かるのではないかと予想される。
一般の人が、なんだかんだ言いながら、風邪薬を信用している理由がこれで分かるのである。
では、念仏はどうかというと、念仏が効くということは、経典やその解説書には書かれているが、教科書のような権威は全くない。
念仏は製品になって流通していない。
念仏が効く原理などは全く分からない。
よって、誰も信じていないのである。

しかし、本当は、念仏には大変な力があり、正しく唱えれば、一切の問題が解決し救われるのである。
ただ、宗教界の念仏が偽物と言うつもりは全くないが、あれは、ここで言う、力のある念仏とは全く別物と考えた方が良いかもしれない。
宗教界の念仏は、お葬式などの儀式のためのもので、あれはあれで、もちろん必要であるが、やはり、力の念仏とは別のものなのである。

力の念仏の教科書は、龍樹(りゅうじゅ)という、釈迦に近いと言われた天才宗教家が書いた『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の中の「易行品」である。
もちろん、政府や教育委員会の権威は与えられていないが、それをはるかに超えるものだ。
言ってみれば、宇宙的な権威は認められていると思う。それほどのものだ。
ただ、難しいと言えば難しい。学校的な意味の難しさとは異なるが、難しいことは確かである。しかし、学校的な難しさとは違い、大学者には難しくても、子供が簡単に理解することはある。
参考書的には、親鸞の『教行信証』や法然の『選択本願念仏集』がある。
特に、『教行信証』はやや難しいし、いずれも、やや特定の思想が含まれるので、優れた参考書ではあっても、教科書にはなり難い。
そして、力の念仏も、製品にはなっていないが、そもそも無料なので、製品にはならない。
しかし、原理に関しては、龍樹の『十住毘婆沙論』や、その元となる経典で分かっているのである。
けれども、力があり過ぎるので、あまり簡単な教科書には、なかなかならないと思う。

ただ、力の念仏というのは、阿弥陀如来の名なのである。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、おそらく、中国で発明されたものだ。
だから、「南無阿弥陀仏はインドではどう発音するのですか?」と聞かれても、答えられる人はいないと思う。
本来なら、「ナーマス・アミターバ」になるのではと思うが、そんな言葉はないと思う。類した言い方はあるかもしれないし、それが中国の念仏に影響を与えた可能性もあるが、やはり、あったとしても、後世の発明であろう。
力の念仏とは、インドで言えば、「アミターバ」と言う、阿弥陀如来の本来の名である。
アミターバという仏には、アミタ―ユスという名もあると言われるが、アミタ―ユスは別の仏の名なのではないかと思うし、実際、アミタ―ユスという名の仏はいるようである。
日本では、アミターバは「阿弥陀」で定着しているので、これが、力の念仏である。
また、「阿弥陀仏」で仏の名と認識されている場合が多いと思うので、「阿弥陀仏」もまた、力の念仏の言葉である。
ただ、様々な事情を知った上で、中国の高僧や、法然、親鸞は、「南無阿弥陀仏」という言葉の利点を認めたわけで、「南無阿弥陀仏」もやはり力の念仏として良いのである。
よって、念仏を唱える時、「南無阿弥陀仏」「阿弥陀」「阿弥陀仏」のどれを唱えても構わない。

そして、お坊様の「なーんまいだー」という唱え方に馴染みがあり、しかも、好感を持っているなら、それを唱えても良い。
ただ、本来は、節や曲はない。
静かに、丁寧に心で唱える念仏に最大の力がある。
その意味では、やはり、力の念仏と儀式用の念仏は全く別物である。

ここでは、区別のため、「力の念仏」と書いたが、もちろん、ただの「念仏」である。
しかし、本来は、「称名」と呼ぶべきなのである。
そして、現代人はほとんど知らないが、念仏は驚くべき力がある真言で、その意味では呪文とも言える。
もちろん、力あるものは、悪い使い方をすれば、悪い作用が自分に帰って来る。
だが、使い方は自由である。
具体的に細かな願いを立てず、ただ念仏して、後は強大な力にまかせておけば悪いようにはならない。








真言を唱えると何もしなくてもよくなる

真言を唱えると、何もしなくてよくなる件について。
これも、古代からの聖賢達の教えの一致する点だ。
真言の根は、心の深い部分・・・潜在意識のさらに奥にある、集合無意識や超意識にある。
よって、真言を唱えれば唱えるほど、意思は、意識の深いところに潜っていく。
そこは、我々が現実世界と呼ぶ幻想(今流には仮想世界)を生み出す創造の場である。
その深い意識の場は、少しあの世に似ていて、思ったことが速やかに実現する世界だ。
ただ、初めてそこに行った時はもちろん、何かの拍子でたまに訪れるだけでは(誰でもたまにある)、手も足も出ず、何も創造出来ない。
しかし、逆に言えば、その意識の深い部分に慣れてしまえば、現実を容易く生み出せるようになる。
慣れ次第ではあるが、初心者でも、ある程度の現実を作れるようになれる。
たとえて言えば、池や湖の深いところで活動することに慣れてしまえば、水の表面での活動は簡単過ぎて、何もしなくても思う通りになる感覚と同じである。

真言を唱えると、自分では何もしていないつもりなのに、全てが思うようになる原理は上に述べた通りである。
神話のシンボルや、昔話の神や英雄の名が、集合無意識、あるいは、超意識に存在していることは、C.G.ユングも、多くの人を観察する中で確認していた。
ユングは、そこに辿り着くいろいろな方法を考えたが、真言(マントラ)については、それほど重視しなかったのは、彼の意外な見逃しのように思える。
古代ギリシャ語やサンスクリット語の神の名や真言がそこにあるのだから、それを数多く繰り返し心で唱えれば、超意識と共鳴し合うことは少しも不思議ではない。
よって、あなたも、古代からある、由緒正しき真言や神の名を唱えるべきである。
どの言葉が良いかは、単に試せば良く、もし、良くない言葉であれば、唱えているうちに嫌な感じがするだろう。
龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)という2世紀のインドの僧で、真言密教の祖師とも浄土真宗の祖師とも言われる天才仏教僧は、『華厳経』の中で、十の仏の名を唱えることで高い境地に至ると書いているが、特に、阿弥陀如来について詳しく取り上げ、その名を唱えるよう勧めている。
阿弥陀如来は、インドの言葉でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスであり、もちろん、この通りに唱えても良いが、現代から見れば、かなり以前から、「南無阿弥陀仏」の念仏や、真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」と唱えられてきたので、これらの言葉も、確として超意識界に高いエネルギー体として存在するので、これらの言葉を心で唱えれば、良い効果があるに決まっている。
ただし、丁寧に、静かに、ゆっくりと、心で唱えるべきである。
でなければ、超意識の中の波動の高いこれらの言葉と共鳴し難い。
しかし、これらの言葉を、心で、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えれば、確実に共鳴するだろう。
すると、実際の話として、世界は意のままなのである。








奇跡のコマンド“AM”

無限の力につながる言葉は「AM(アム)」だろう。
それを示す証拠が多過ぎる。
日本では、まさに、「神(KAMI)」がそれになるし、日本の貴い神の名前がそうだ。
造化三神の「アメノミナカヌシ」「タカミムスヒ」「カミムスヒ」と、太陽神とされる「アマテラス」がそうである。

では、英語のGod(神)は違うのではないかというと、実は、英語で神を示すのは、AM Iであるという話がある。
この AM Iは、GOD AM Iなのであるが、GODは略すものらしい。
「私」が神であり、言葉としては、AM Iと唱えることが、秘密裏に伝えられている。
ジョン・マクドナルドの『マスターの教え』に、少しであるが、これに関すると思われる興味深い記述がある。

同じように、インドでも、「私」が神で、古代の言葉であるサンスクリット語では、私は「ハム(Ham)」で、やはり、AMを含む。
ラマナ・マハルシは、最も神聖なマントラ(真言)であるオームすら2番で、1番のマントラは「私」であると言った。
マハルシが使ったタミル語では「私」は「ナン」であるが、もしかしたら、「ナン」は「ナム」に近いのではないかと思う。

念仏は「ナムアミダブツ」であり、やはり、「ナム(NAM)」で始まるが、浄土三部経の原典には、「ナムアミダブツ」と唱えよとは書かれておらず、阿弥陀如来の名であるアミターバの名を唱えよと書かれている。
そして、アミターバはまさにAMで始まる。
実際は、アミターバではなく、アミタと唱えよと記述されているという話もあるが、いずれにしろ、AMの音からなる名である。
ところで、念仏の教えの起源は、天才宗教家と言われた龍樹にあるとされるが、その龍樹が、古い経典(華厳経)の重要箇所に注釈をつけた『十住婆沙論』の中に、仏の名を唱えることを薦める部分がある。
多くの仏の名が挙げられているが、その中でも、阿弥陀如来を特別視し、阿弥陀如来の名を唱えるよう書かれている。
勝手な想像だが、念仏の起源は、浄土三部経ではなく、華厳経であるのではないかと思う。全く専門的ではないが。
他にも、少しであるが、法華経の中にも、阿弥陀仏の名を唱えることの強い効果を記した部分もある。
やはり、アミタ、阿弥陀、アミターバ・・・と、純粋にAMで構成される名に特別な力があるのだと思う。

キリスト教では、イエス自身が「アーメン」という、やはり、AMで構成される言葉を使っていたことを考えると、いよいよ、AMという言葉、あるいは、音には、何かとてつもない秘密があるのだと思われるのである。

古代から使えられる呪文や真言ではないが、科学的に最も心身に良い影響を及ぼす言葉を作ったら、それは「ナ・ダーム」であったという話があるが、これは、最後がAMで終わる。
この言葉を唱えることで、末期の癌が治ってしまったという話もある。

世界的教育学者であった七田眞氏の著書に、ホームレスの男性が「神様の奇跡が起こる」という言葉を1日中唱えていたら、2週間ほどでだろうか、不意にその男性が宝くじを買いたくなり、実際に買ったら1憶円が当たったという話がある。
そして何と、その後も唱えていたら、また1憶円が当たったと書かれているが(七田氏は誓って事実と言う)、ひょっとしたら、「神様の奇跡が起こる」の「神」の部分の力が作用したのかもしれない。
念仏では、明治から昭和初期にかけ、ごく普通の庶民が念仏を唱えることで、不思議な存在となったことが数多く伝えられ、彼らは妙好人と称されている。
こんな話は、念仏以外の信仰では、そうはないと思う。
やはり、AMには、何かあるのだと思う。
さあ、念仏、あるいは、古事記の神の名、あるいは、神と唱えよう。








念仏を唱えるようになれば人生勝ったも同じである

念仏を自発的に唱えるようになれば、もう大丈夫であると思う。
それは、喜んで唱えるというものでなくても良い。たとえ嫌々でも、毎日続くようなら、現世も来世も保障されたようなものだと思うのだ。
ただ、人に強制されて唱えるのでは駄目だ。あなたも、他人に薦めるのは良いが、押し付けてはならない。
どうしても、念仏を唱えることができない人はいるが、それはそれで仕方がない。
そんな人は、今生では、念仏を唱える縁がないのかもしれない。

では、どんな人が念仏を唱えるようになるのだろう?
アメリカの光明思想家ヴァーノン・ハワードは、「人生にうんざりした時がチャンスなのだ」と著書に書いていたが、確かにそうだ。
しかし、ではその時、具体的に何をすれば良いのかを、ハワードは明確に述べていない。
ハワードは、自己観察をせよとはよく書いているが、我々凡人に、そんなことが続けられるだろうか?
私にはできなかった。

人生にうんざりする・・・とは、人生は全く思い通りにならず、自分には何の力もないと悟ることである。
また、自分にもうんざりするなら、それも本当は喜ばしいことだ。
自分とは、実際には、うんざりするしかないシロモノだからだ。
欲望、虚栄心、傲慢、自己中心的な考え方・・・我々の心には、そんなものが溢れかえっているが、それを自分の力で消すことは決してできない。
それに気付き、受け入れることができるかどうかが、運命を決めるのだ。

自分の無力と、どうしようもない汚れを本当に悟れば、もう神仏に頼るしかなくなる。
そんな時、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、それが、阿弥陀如来に全て任せますという意思表示になる。
すると、阿弥陀如来はその声や思念を必ずキャッチし、決してその者を見捨てることはない。それは、過去の偉大な聖者達が、経典を徹底的に研究した上で、絶対に間違いないことだと保障しているのだから、安心して良いと思う。
その聖者達とは、インドの龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)や、中国の善導といった、人間を超えた驚異的な天才達である。
彼らは、頭脳も恐ろしいほどに優れていたが、それよりも、今日の人間には無い霊覚とも言える大変な直感力があった。真の直感は膨大な理論にはるかに勝るのである。
そして、我が国の法然や親鸞といった、やはり、大変な秀才である上に、長く厳しい修行をした聖賢達も、善導らの経典の解釈書を深く研究し、その通りであることを確信した上で、自信を持って人々に教えを説いたのだ。
法然や親鸞の書いたもの、あるいは、彼らについて正しく書かれたものを見れば、彼らが本当に信頼できる、稀に見る真に徳の高い人物であることが分かるはずだ。
それが分かれば、疑うことは何もないと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード