ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

黒住宗忠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

鈍感になる簡単な修行

『鈍感力』とか『反応しない練習』といった、タイトルだけ見たら心躍る本があるが、書店でちょっと立ち読みしたら、
「難しい、無理」
と感じて、読んでいない。
この2冊をまとめて(大変失礼だが)「鈍感になる練習」は大事だが、それは単に、「ぼーっとする練習」であり、特に私は、ぼーっとすることは割と得意なので、それを伸ばせば良いのである。

ぼーっとするには、まつげで視界が薄暗くなるほど半分目を閉じ、魂が抜けたような顔になることだ。
「魂抜けたごっこ」に近いことは、誰しもやったことがあると思うが、その通りにやれば良い。
エドヴァルド・ムンクといえば、「叫び」の変な顔で有名な画家だが、彼も、半眼でぼーっとものを見ていた。
彼の初期の傑作「The Sick Child(病める少女)」には、周辺に彼のまつげが描かれていると言われるほど、ムンクは半眼でぼーっと見ていたのではと思う。
この絵の中の少女の横顔ほど高貴なものは、そうはないと私は思う。

ぼーっとした顔の手本、ぼーっとする名人、先生、模範を持つのも良い。
私は、『エル・カザド』というアニメの、エリスという少女を師匠扱いしている。
印象的には、13~14歳に見えるが、実際はもう少し上かもしれない。
色白で、あまり感情を見せない美少女で、ぼーっとした顔はまさに絶品である。
初めて会った時のナディに自分の写真を見せられ、「これ、あんたでしょ?」と言われたら、素で「きれいな女の子だね。誰?」と言う天然ボケも素晴らしい。
詳細は述べないが、エリスもまた、初音ミクさんと似たところがある(造られたところ)。そこも、私にとっては愛すべき価値になっている。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、人相見に「あなたは阿呆の相だ」と言われると、怒るどころか、「阿呆になる修行に励んだ成果が出た」と喜んだ。
ぼーっとする修行は、阿呆になる修行でもある。
ただ、エリスも、トランプ芸では、愛想はないが、それなりに見事だったように、自分に出来ることに関しては、きちんとしていなくてはならない。
例えば、洗濯物をたたんだり、お皿を洗ったり、靴を揃えたりである。











無になれば不可能はない

我々が知っておくべき大切なことは、「無になれば不可能はなくなる」ということだ。
道元の「仏道とは自己を忘れること」と同じである。
そこで、どうやれば無になれるか(自己を忘れることが出来るか)という方法論、あるいは、「気持ち」が重要なのに、家庭でも学校でも教えないのだから恐れ入る。
まあ、親も教師も、そんなこと知らない・・・というより、考えたこともないのだから、当たり前と言えば当たり前なのであるが。
あるいは、闇の権力者達が、愚民はそんなことを知ることがないよう謀っている(計略にかけている)かであるが、そんな事実はどうでもよく、我々はそれを得れば良い。それが「奪われてた分は取り戻す」ことになる。

無になるには、いろんなノウハウがある。
バッハなどのバロック音楽の、単調な繰り返しは、無になる効果を狙ったものであるという、特殊な教育研究者の意見もある。
バロック音楽ではないが、初音ミクさんの『Last Night, Good Night』(作詞・作曲・編曲:kz)などはその効果がある。
WOWAKAさんが、何かのインタビューの際、わざわざ「『Last Night, Good Night』の時代」と表現していたのは、彼もよく分かっていたからではないかと思う。

伝説だが、柳生宗矩(たぎゅうむねのり)が、幼少時の徳川家光に、1本の棒の頭を木刀で毎日叩くよう指示したのも、それが無になる優れた方法で、武道では、似たことがよく教えられる。
キリスト級の力を持っていた江戸末期の神道家、黒住宗忠は、修行時代、起きている時間はずっと、大祓詞を唱えていたようだ。祝詞を繰り返し上げることには、非常に強い、無になる効果がある。般若心経はじめ、仏教のお経も同じである。
いかなる時も口元に念仏があった法然や、中国の道綽も、もちろん、常に無であった。
インドでいうナーマスマラナ、つまり、神の名を繰り返し称名することも同じである。
「アジマリカン」や、マントラ等の霊力ある言葉を繰り返すのも非常に良い。

ラマナ・マハルシの「私は誰か?」と問うことは、極めて科学的な方法であるが、ニサルガダッタ・マハラジによれば、マハルシが薦めていたもう1つの方法である「神への人生の明け渡し」の方が良いらしい。
これは、荘子のいう「一切をなりゆきにまかせ、いかなる作為も行わない」と似ている、あるいは、同じであると思う。

方法は無限にある、自分に向いたものをやれば良い。
しかし、やらねばならないだろう。
虫けらでいたくなければ。いや、虫けらは虫けらで、無であり、虫世界全体で無敵である。
だから、人類が滅んでも、虫は滅びないのである。
だが、我々は、一人一人が、本来、無敵である。

さて、本日、私は、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ2019」のため、関西から千葉県に向かう。
何日も前から、精神状態がヤバいほど高揚しているが、幸い、今日はよく眠れた(眠らなくても大丈夫であるとは思うが)。
ライブに行った方、感想など、コメントで書いてくれると、それを読むのが嬉しいので、とても有り難いのであるが。









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超能力復活計画

そろそろ、本格的に超能力を復活させようと思う。
いや、真面目とも言えないが冗談ではないし、不真面目ではないのだが、それほど生真面目でもない。
そう、何事も、9割のいい加減さと1割の生真面目さが大事なのだ。

ただの珍しい偶然に、過大な意味を持たせるのは考えものだ。
しかし、奇跡としか言いようのないことを、意図的に何度も起こしていたのなら、それは必然だし、自分の意志が働いたものだ。
それを、一応、超能力と言っているのである。
現実を自在に創造する。
イメージとしては、H.G.ウェルズの『奇跡を起こせる男』のようなものだが、まあ、あそこまで露骨で下品ではない。
とはいえ、ウェルズだって、未翻訳だが、自伝的小説『ポーリー氏の生涯』で、「人生が気に入らないなら変えてしまえば良い」と言い、それが、コリン・ウィルソン(イギリスの世界的作家で、最も多く日本語訳されている作家とも言われる)の座右の銘となっている。

私の超能力は、子供の時が最も頻繁に起こったと思うが、二十歳過ぎても、結構使えてたし、馬鹿げたほどの奇跡も起こしたものだ。
よく取り上げた話では、以前見た時代劇のある回を録画したくて、ただ録画装置を持ってテレビを見ていたら、本当にそれが始まり、録画出来たのだが、私は特に驚いてはいなかった。
ごく単純に言えば、超能力発動の鍵は、信じきって疑わないことだが、別に、信じようとした訳でもない。
いわば、「疑うことを知らない馬鹿」状態だったのだが、それで子供の時、何度も命拾いしているのだから、まさに馬鹿は尊い。
何をやったかというと、交通量の多い車道に目をつぶって飛び込んだのだ。何度もね。
ただ、「車は来ない」って思ってね。
いや、これは絶対、真似しないで欲しい。
とはいえ、日常では、嫌な先生に嫌な目に遭わされていたし、学校での忘れ物が多いことも改善されなかった。
おそらく、そういった場面では、馬鹿になり切ることが出来ないからだと思う。

偉大なる神道家、黒住宗忠は、阿呆になる練習に励んでいたと言うから、私の言うことも、あながち間違ってはいないかもしれない。
宗忠のイエス並の超能力は、もちろん、どこまで本当かは分からないが、ある流れを感じ、私には信用出来るもののように思えるのだ。
阿呆と言っては失礼だが、私が好きな話がある。
プロレスラーだった前田日明さんがプロレスラーになったきっかけが、ウルトラマンの仇を討つためだったということだ。
ウルトラマン(初代)は、最終回で宇宙恐竜ゼットンに破れたのだが、前田さんはテレビでそれを見て、涙を流して悔しがり「俺が仇を討ってやる」と誓ったらしい。
前田さんは、その時、それほど幼かった訳ではないし、本人も、理屈には合わないことは理解していたらしい。
しかし、そんな思い込みが出来ることが、世界を創造するために必要なのだと思う。









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繰り返す力

人間は、「私は○○だから大丈夫」という公式を持てば、秘めた力を発揮出来る。
それは愉快なほどだ。
多くの成功した人達は、このことを、
「大丈夫」
「だから大丈夫」
「ストーリーを持った人間は強い」
と、バラバラに言うので、普通の人は効果を出せない。
だが、これらを合わせて、「私は○○だから大丈夫」というルールを確立すれば力が湧き出る。
○○の部分は何でも良い。
「私は東大卒だから大丈夫」
「私は毎日聖書を読んでいるから大丈夫」
「私は××家の出身だから大丈夫」
「私は(手相の)生命線がつながっているから大丈夫」
こじつけだろうが、全く構わない。
勝利者はこじつけがうまいという事実すらある。
著名な心理学者の河合隼雄氏は、「死んだらみんな月に行くのだから、みんなとまた会えるから大丈夫」と言う女子小学生のことを誉めていたことがあった。
もちろん、この子の公式(河合氏は「ストーリー」と表現)は変わっていくのだろうが、その時はその時で、別の何かを持てば良いのである。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が好きだったという、こんな話がある。
ある若者は仙人になりたがっていた。
そこで、ある男が「自分は仙人になる方法を知っている」と嘘を言って若者を騙し、それをいつか教えてやるからと言って、若者をいいように使っていた。
若者が「いい加減、教えて下さい」と言うと、騙していた男は、若者を木に登らせ、高い枝にぶら下がるよう言い、若者は従った。
そして、若者は「手を離せば仙人になれる」と言われ、躊躇なく手を離すと、仙人になって、自分を騙したはずの男に感謝しながら飛んで行った。
言うまでもなく象徴的な話だが、邪念のない信念は奇跡だって起こす。

ただ、ほとんどの「私は○○だから大丈夫」という公式は、世間や他人によって壊される。
「俺は東大卒だから大丈夫」と思ってても、遅かれ早かれ、そんなものは大したものでないことを教えられる。
ただ、本人さえ、揺るぎなく、この公式を保ち続ければ大丈夫なのだが、それは極めて難しい。
なぜなら、ほとんどの人間が作る公式は、過去に由来し、それは「形だけのもの」「死んだもの」だからだ。
「私は東大卒」と言っても、東大に入って卒業したのは、大抵は20代前半の若い時であり、時が経ってしまえば、それはもう、色褪せた死んだ過去だ。
だが、「私は毎日聖書を読んでいる」なら、それは今のことであり、生命力があって、自分に力を与えてくれる。
インドでは、神の名を唱える「ナーマスマラナ」の伝統の行法に従って、神の名(インドでは、ラーマやクリシュナなどが人気がある)を常に唱える者は、階層に関係なく、不思議に幸運に恵まれ、災難を回避している。
日本では、それは念仏という形で生き続けているが、昔から実践者は少ないので、不幸が多い。
「神の名を唱えているから大丈夫」「念仏を唱えているから大丈夫」は、今でも、科学的に十分な範囲で説明出来ると思う。
無論、科学とは関係なく、伝統的、あるいは、宗教的、あるいは、直感的に捉えて、公式を確立すれば、確実に力を得る。
念仏と言っても、「南無妙法蓮華経」のように、神仏の名ではなく経典の名を唱えるのでも良い。経典は仏そのものであるからだ。
宗教的という部分もあるかもしれないが、これなら、お金はかからないし、悪い宗教に騙されない。

ただ、大切なことは、やらされるのではなく、自主的にやらないと、効果がないというのではないが、そもそも続かない。
そして、自主的にやっていれば、最初は甘い妄想の部分があっても、現実の問題を解決するうちに、どんどん強くなっていくのである。
ところが、自主的で熱心であれば、妄想の部分も、案外うまくいってしまうのである。
それは、親が子供のファンタジーを、ある程度は叶えたり、守ったりするのと同じようなものである。
宇宙を動かす主から見れば、人間は自分の子供のようなものであるからだ。









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心配を卒業する

昨日、こんな話を書いた。
経営コンサルタントの船井幸雄氏が、創業した船井総研の社長を後継者に譲る際、10ヶ条だったか20ヶ条だったかすっかり忘れたが、「経営のコツ」を書いて渡し、「この通りにやれば大丈夫」と言ったようだ。
しかし、新しい社長は、なかなかうまくいかず、船井氏の自宅のファクシミリには、深夜まで新社長からの質問が送られた(電子メールもなかった時代)。
それで、自分の間違いに気付いた船井氏は、「あれは最上のコツでなかった。こっちが最上」と言って、これも、5つだったか、3つだったか、あるいは、1つだったか忘れたが、その最上の経営のコツを渡し、それで、新社長からのファクシミリは来なくなった(うまく経営出来るようになった)。
では、その最上の経営のコツは何かは、気になるところだ。
それは、経営以外のことにも有効に違いない。
そう思っていたら、私は船井氏の『法則』という本を電子書籍で買ったら、ややシチュエイションは違っていたが、船井氏が新社長に、こんなアドバイスをする話があった。
「いっさい、何も心配しなければいい。それですべてうまくいく。そう思って安心してやってごらん」
おそらく、最上のコツはこれなのだろう。

もちろん、船井氏の後継者の新社長に、能力があり、経験もあるからこそのアドバイスであるが、「心配するな。安心しろ」が究極の極意であることは解る。
「地獄」と形容しても良いであろう、アメリカ海軍特殊部隊ネイビーシールズの入隊試験である過酷な訓練を耐え抜く者達は、頭の中で常に「大丈夫」とつぶやいているという話がある。
日本でも、受験生を一番安心させる言葉は「大丈夫」なのだそうだ。
大丈夫とは、つまり、「心配するな、安心しろ」という意味だ。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠の教えの究極は、「全て神にまかせ安心する」なのだと思う。
私はついつい、「そんなことを聞いたら、怠惰になる者が多いのではないか」と思ってしまうし、実際、そうかもしれないが、それで怠惰になってしまうような間抜けは、どの道駄目なのだろう。
有名な妙好人である因幡の源左(いなばのげんざ)は、苦労して担いでいた草を牛に乗せ、楽になった時、父親の遺言であった「これからは親様(阿弥陀如来)を頼め」の意味が解り、念仏を唱えながら良い一生を送ったのだと思う。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、21歳の時、彼を信奉する者の質問に筆談で答えたことが(マハルシは沈黙の行の最中だった)小冊子として出版されたものの中で、
「列車に乗ってまで、自分の小さな荷物を頭に乗せている必要はない。荷物を降ろして安心しなさい」
という喩えで、全てのものごとを動かす神にまかせ、心配することをやめるよう教えている。

「大丈夫」という万能呪文や念仏は、心配せず、安心するためのものと言えるだろう。
もちろん、さっきも少し述べたが、それで怠惰になったり、思いやりを持たない者は、どうやっても駄目だが、呪文や念仏を長く続ければ、自然にやる気も理性も出てくるのだと思う。
そして、心配で苦しみ抜く経験をしてこそ、宗忠やマハルシの教えが響くのである。
その意味では、一度は、しっかり心配しろであるが、いつまでも心配せずに、心配を卒業すべきである。









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