ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
ソフトウェア開発技術者、Hikikomori、スーパーダイエッター、神秘思想家Kayのブログ
決して、一般受けするブログではありません。誠実に人生を遊びつつ、誠実に世間の幻想を叩き壊すことを目的とします。

黒住宗忠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
Twitterは、ちゃんとプロフィールが書かれ、1週間以内に1回でもツイートされている人なら、フォローしていただければ、大抵フォロー返します。

[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

運命が決まっていることは実際にあらゆる聖典に述べられている

人の一生に起こる出来事や、人が何を考え、何を言い、何をするかは、運命として、生まれる前から完全に決まっていて、決して変えられることはないということは、本物の賢者達は全てそう言ってっきたし、賢者達によって書かれた聖典にも常に書かれているのである。
だが、それを読み取れない者が多いのであるが、それは読む方の問題である。
『スーパーマン』シリーズの映画の中で、スーパーマンと同じ能力を持つ3人の悪党が登場したことがあるが、スーパーマンが人間を保護していることに対し、その3悪党は、スーパーマンは人間をペットにしているからだと思うのだが、その3悪党には、そのようにしか理解できないのだ。我々が真理を理解できないのも、同じようなものである。
イエスは、使徒と名付けた12人の高弟達に、「お前達でさえ、それほど鈍いのか」と嘆きを表していた。
そして、彼らの無明さは、福音書の中で、彼らの眠りで表されている。イエスは「私が戻るまで起きていなさい」と言って、山に入って祈ったが、戻ってみると、彼らは眠っていたのだった。

運命が完全に決定されていることを、最もはっきり述べている聖典は、『新約聖書』と『荘子』だと思う。
イエスの行動も全て、旧約聖書の中に述べられた預言者達の言葉から、全く外れることはなかった。
『荘子』も、少し注意深く読めば、かなりはっきりと述べているのだが、多少曖昧に感じるのは、後の人が手を加えたところがあるのかもしれないと思う。
だが、荘子は一貫して、この世は真宰とでもいう存在によって完全に支配されていて、人もそれに完全に従うより無いと述べている。ただし、それを受け入れ、人が浅はかな知で価値判断をすることがなくなれば、永遠の道(タオ)と一体となることができることもまた、はっきり述べているのである。

釈迦の教えとなると、元々が、釈迦自身は何も書き残しておらず、その教えは言葉で伝えられたので、当然、歪められる恐れはあった。しかし、その真意を理解できた者のみが正しい教えを書き残したのだ。
しかし、ほとんどの釈迦の教えは、学者的な僧達によって、複雑で実のないものになってしまったようでもある。
とはいえ、真の賢者達は、釈迦の教えの正しい部分を見つけることが出来るである。そして、釈迦もまた運命の絶対性は完全に認めているのである。ただ、釈迦の場合は、自由意志を持ってる自分は本当は存在しないといった言い方をしているのである。

面白いのは『バガヴァッド・ギーター』で、本当にこれを書いたのは神ではないかと思えてしまうのだ。
至高神クリシュナは全ての真理を知っているが、この書の中で教えを説く相手はアルジュナ王子で、アルジュナには聖者になる素質はないのだ。だが、だからこそ、アルジュナ同様、凡人である我々は、かたじけなくも、高い位置から降りてきてくれたクリシュナの易しい教えを聞くことが出来るのである。
クリシュナは、運命が確定されていることを、やや婉曲に(露骨でなく遠まわしに)説きはしているが、よく読めば、かなりはっきり述べているのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、民衆を哀れみ、ほとんど直接には真理を語っていないが、結局は、天照大神に全て任せよと言い、人間の無力さをさりげなく教えていたのである。
ラマナ・マハルシは、ほとんど沈黙でもって教えたが、やはり、無知な凡人のために言葉で説く時は婉曲に説いたのであると思う。

運命がどうとかいった、些細な問題を初めから超えて、もっと根源的な真理を解いたのが『老子』や『エメラルド・タブレット』だ。これらの書は、頭で解釈しようとしても、全く意味はないものだ。
だが、読むことが無駄な訳ではない。我々の内には、我々の運命を創った至高の存在がいて、これらの書の教えはそこと同調し、いわば、我々を挟み込むのである。
それはなんとも素晴らしいことだ。













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砂の城は作ったら壊すものだ

江戸時代の観想(顔や身体の相から運命を鑑定する占術)の大家、水野南北が、膨大な数の鑑定を行いながら人々と対話し観察した末、万に1つの外れもなしと断言したことは、「食が少なければ幸福、食が多ければ不幸」ということである。
彼の鑑定の信頼性は比類なく、全国から鑑定依頼者が押し寄せて、南北は7つの蔵を持つ長者となり、弟子は孫弟子等も含めると千人を超えた。また、牢屋敷(刑務所)に入れられた元チンピラヤクザであった彼が、天皇により貴族にまで序せられた。皇室からも鑑定の依頼があり、そして感服させたからだ。ついでに言っておくと、当時の牢屋敷は、生きて出られるかどうかなど全く分からないようなところで、それが、江戸の治安維持に役立っていた。そこに入れられるのは、余程のことであった。

少食・粗食なら健康で幸運、大食・美食であれば、不健康で衰運というのは確かと思う。
ただし、十分な食欲を持った上での食の慎みであることが大切だ。
病気や精神的な問題で、いわば強制的な少食、粗食を強いられている場合は、食を慎んでいることにはならないのだ。
ある国で、政府により、数年間の沈黙を強制された政治活動家が、「完全なマウナ(沈黙の行)を達成した」と宣言したことについて、ラマナ・マハルシは「強制された沈黙はマウナではない」と指摘したことがあったのと同様である。
マハルシ自身は、16歳で悟りを開いた後、3年以上のマウナを行った。実際は、マハルシは生涯に渡って、ほとんど会話をしなかったと言われる。彼は、最も重要なことは沈黙をもって教えたのである。だが、それでは伝わらない平凡な人間を哀れんで、会話でも教えたのだ。それが現在も書籍で伝わっている。

即ち、健康で幸運に恵まれたいなら、ただ食を慎めば良いということになる。
ただ、誰もが思うままに食を慎むことが出来るわけではないのだ。
これは、根性とか品性の問題ではなく、食を慎むよう運命付けられていなければ、決して食を慎むことは出来ないということなのだ。
美味しいものを沢山食べることが人生の目的と心得る者に、いくら食の慎みを説いても無駄である。
また、昨今は、テレビその他で、人々に飽食・美食の欲望を煽るものが非常に多いが、これもまた必然であり、それに乗せられている多数の人々は悲惨な状況に落ち込む運命を果たさなければならないのだ。
私は、2008年7月までは、大食、肉食で、しかも、甘いものに目がなく沢山食べていたが、ある日突然、1日1食の菜食主義者となり、間食の一切をしなくなった(現在は、朝に甘いものを少し摂る)。別に病気で食欲が無くなった訳ではない。ほとんど気紛れのようなものだった。それが4年近く、全く問題なく続いており、その間、健康度は飛躍的に上がり、エネルギーに溢れるようになって、毎日1日も欠かさず肉体トレーニングを行い、幸いにして、美的で強靭な肉体の持ち主になった。

少食と健康・幸運の秘密はこうである。
宇宙を動かす至高の英知を神と呼ぶなら、人の生涯の運命は、神によって、生まれる前に完全に決められている。それは、決して変更されることはなく、まして、人がそれに影響を与えることは絶対に出来ない。
そして、神によって、健康で恵まれた状況で過ごすよう運命付けられた人間というのは、同時に、神によって、食を慎む性質が与えられているのである。
水は高いところから低いところに流れるし、熱は熱いところから冷たいところに移動するが、それがこの世の法則である。それと全く同様に、食を慎めば肉体は活性化して完全になり、衣食住の獲得は簡単になり、社会生活も安楽になるのが、この世の法則なのである。
だから、健康で幸運になるよう定められているなら、食を慎むようになることが、神によって運命付けられているのである。

では、食を慎むよう運命付けられていない者はどうすれば良いのであろう。
若い間は、比較的、大食であっても健康や運勢に影響は無いのであるが、ある程度の年齢になれば、そんな食生活のままでは、肥満して醜くなり、健康は損なわれ、社会的な状況も厳しくなるのである。それは避けられない。
水が低いところから高いところに流れないように、大食、美食であって、健康で安楽であることはない。

だが、真の幸福である平安に関しては別なのだ。
食を慎み、健康で社会的にも恵まれていても、必ずしも幸福で平安だとは限らない。
一方、美食、大食で、健康状態が悪く、借金にまみれ、家族に見捨てられた状態であっても、平安を得て幸福であることも有り得る。
もっとはっきり言えば、健康や社会的経済的状況など、真の幸福とはあまり関係が無いのだ。
真の幸福とは、いかなる状況であろうが、それを自分でどう意味付けるかの問題なのだ。
人の思考や感情もまた、神によって全て決められているのである。つまり、何を考え、どう感じるかも、神の意思によるのであり、人間に自由意志というものはない。これは既に、科学的にも解明されていることと言って差し支えないと思う。
だが、自働的に浮かんだ思考や感情に執着するか、そうではなく解き放つかだけは自分で決められるのである。
そして、いかなる出来事や精神活動に対しても、執着せずにいれば、平安が得られるのである。そうあるためには、子供の姿が素晴らしい教材になる。
子供は、遊んでいる間は夢中になっているが、終わってしまえば忘れてしまう。ラマナ・マハルシが、賢者はある意味で子供に似ていると言ったのは、そのようなところである。
イエスが、「幼子のようでなければ天国に入れない」と言ったことは、よく知られていると思う。
子供は、浜辺で熱心に砂の城を作っても、帰る時間になれば、それをあっさり蹴飛ばして壊してしまう。まるで神様だ!
大人のように、それがいつまでも残ることを望んだりしない。
レイ・ブラッドベリの短編小説『みずうみ』で、死んだ12歳の美少女タリーは、浜辺にやってきて砂の城を作った。かつては、ハロルドと一緒に何度も作り、何度も壊したのだ。それを今は、彼女をさらった波が壊していく。私は、そこに何かを感じるのである(小説と、萩尾望都さんによる漫画を下にご紹介しておく)。

出来事や感情に執着しないためにはどうすれば良いかというと、自分が完全に無力であることを受け入れ、全てを神の意思に完全に、無条件に委ねるしかない。
同じことを荘子は、一切をあるがままに受け入れ、思慮分別を捨て、全てをなりゆきに任せれば、永遠の道(タオ)と一体となることができると述べたのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まること(まるごと一切を)神に任せてしまえば、嬉しいこと、面白いことばかりだ」と常に教えた。
ただ、この嬉しい、面白いというのは、自我にとってのことではない。自我から見れば、辛かったり、不満であるかもしれないが、その辛さを感じる自我が消えるのであり、そうなれば、嬉しいこと面白いことばかりなのである。なぜ、そう言えるかというと、真の自己とは、存在、意識、至福であることが、聖典によって保障されると共に、悟りを開いた聖者達によって体験されているからである。









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イエスも宗忠も、とんでもない秘法をさりげなく教えていた

賢者にとっては、人間がスーパーパワーを発揮する方法なんて極めて明らかだ。
ここでよく書くように、あらゆる出来事や、人の行動、考えることなどは全てあらかじめ決まっているのだが、それでもスーパーパワーが発揮できるのかというとそれは出来る。
それは、こういう風に言える。
石を上に、何万回放り上げても、必ず落ちてくる。
全ての出来事は既に決まっているとしても、神は自ら決めた基本的な法則を破ることはない。
基本的な法則が破られているように見えることもあるが、それは、我々が法則の理解を誤っているというに過ぎない。
法則通りにやれば、スーパーパワーも必ず発揮される。

スーパーパワーを発揮する方法は、そう難しいことではないが、それを実際にやるかどうかは、やはり宿命による。
何事であれ、それをする運命になければ決してやれないし、逆に、どれほどやりたくなくても、しなければならない運命であれば必ずやるのだ。
ラマナ・マハルシも言っていたが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからないし、逆に働く運命であれば、仕事は避けられない。

痩せてスリムな身体になりたければ、食事を節すれば良いし、それ以外の方法はない。
また、健康のためにも、食の慎み以外、実際には有効な方法はない。
しかし、食を慎むかどうかもまた、その人の運命だ。
食を慎む運命にあれば、私のように、大食で肉食だったのが、瞬間的に少食で菜食になり、すぐに痩せて、たちまち健康になる。
別に私に根性があったとかではなく、単に運命がそうなっていたというだけのことだ。
実際、私は、根性がある方ではない。

さて、スーパーパワーの方であるが、それを発揮したことで知られるのは、なんと言ってもイエス・キリストだ。水の上を歩き、嵐を静め、数個のパンを数千人に食べさせて満腹させ、見えない眼を見えるようにし、歩けない脚を歩けるようにした。
それで、福音書を調べてみたら、何のことない。彼は、やり方をちゃんと教えているのだ。
もし、それを見出せないとしたら、それは読む者の責任であって、イエスの責任ではない。
それは、フクロウが昼に目が見えないのは、太陽の責任でないようなものだ。
実は、私も以前は、福音書を読んでも、イエスのスーパーパワー発揮の方法が分からなかった。
これに関し、ラマナ・マハルシがヒントを言ってくれていても、それでも分からなかった。
マハルシはこう言った。
「イエスは自分の力に気付いていなかった」
以前は、なんとなく気になる言葉だとは思っていたが、今はようやく分かるようになった。

スーパーパワーを発揮したのは、イエスだけでなく、我が国にも、江戸末期の神道家、黒住宗忠という人がいて、イエス並の奇跡を数多く起こしている。
そこで、宗忠の場合について述べる。ごく近代の人であるので、イエスの場合より分かりやすいと思うからだ。
彼は、とても珍しい祈りの仕方をしていた。普通はちょっと思いつかない発想だ。
それで、伊勢神宮では、そこの神官を困惑させたようだ。
そこに秘密がある。
宗忠の場合は、1つの要因だけではないが、その1つが、彼の革命的な祈りの方法だ。
それは、彼は、神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の開運を祈ったということだ。
祈り方は、言葉としては特別なものではない。以下の通りだ。
「天照大神様のご開運をお祈りいたします」
である。
これは、私が知っているくらいだから、多くの人が知っていることだ。
ただ、宗忠は、「本当に」天照大神の開運を祈ったのだ。
時々、神の開運を祈れば運が良くなるだのと言う者がいるが、そんなことを言うのは、全く分かっていない者である。もっとも、そんなことを教えたからといって、その者に責任がある訳ではない。彼は、人々を混乱させるという運命に従っただけだ。

もし、宗忠のように、本当に、崇敬する神の開運を祈れば、誰でもスーパーパワーを発揮できる。
それには、ある原理があるのだ。
それは、解脱していない者には決して受け入れられない原理だ。
だが、原理を知らなくても、結果は出るが、本気で神の開運を祈るのは難しい。どうしても、自己の開運のための祈りになってしまうのだ。

ところで、イエスも、やり方を教えている。
それは、福音書に記されている、イエスが人々に教えた祈りであり、それは、「主の祈り」として、キリスト教で非常に重んじられているものだ。
「主の祈り」は、多くの人が知っているが、スーパーパワーを発揮する者がいないのは、やはり、祈り方に問題がある。
ラマナ・マハルシが言った、「イエスは気付いていなかった」を理解できなければ原理は分からないながら、本来、力は発揮できる。
ポイントは、「御国(みくに)が来ますように」だ。
実はこれが、宗忠の言う、「天照大神様がご開運しますように」と同じなのだ。

気が進まないが、明かしておこう。
それは、我々が、神の開運を祈ろうが、御国が来ることを祈ろうが、何の意味もないということだ。
呆気にとられてくれたら幸いだ。そんな人は見込みがある。

元プロレスラーの前田日明さんが格闘家を目指したきっかけは、初代ウルトラマンの最終回でウルトラマンを倒したゼットンという怪獣(宇宙恐竜と言うらしい)にいつか復讐し、ウルトラマンの仇を取るためだったらしい。
本人に自覚はないだろうが、マインドパワーの超人と言われる彼のスーパーパワーの秘密はこれかもしれない。
これも同じで、願っても仕方がないことを願ったのだ。

このブログでも何度か書いたが、私も、馬鹿馬鹿しいほどのスーパーパワーを何度も発揮したが、原理は同じだ。
これ以上の解説は、いろいろ面倒があるのでしないが、要は秘訣は、「願っても仕方がないことを願う」ことで、どうせなら、美しいことが良い。
あなたが、これをやる運命にあれば、あなたもスーパーパワーを発揮するだろう。









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受容という翼

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が好んだ、こんなお話がある。
ある若者が、仙人になることを熱望していた。彼は、純粋な男だった。
それで、腹黒い男が、頼みを聞いてくれたら、仙人になる方法を教えてやるというので、若者は大いに喜び、色々なただ働きをした。
「そろそろ教えて下さいよ」と言われ、腹黒い男は仕方なく、若者に「木に登れ」と言う。
若者が、屋根よりずっと高い木に登ったら、「枝にぶら下がれ」という。
若者がその通りにしたら、最後に、「手を離せ」と言う。
若者がその通りにしたら、彼は遂に仙人になり、空に飛んでいった。
言うまでも無く、腹黒い男が全く予想もしていなかった結果であった。

中国の『列子』にも、似た雰囲気のお話があり、こちらは、やはり純粋な男が、高い塔から飛び降りたり、燃え盛る炎の中に飛び込むが、全く平気だったというものだ。

これらのお話の趣旨は、たとえ妄信であっても、人間の信念の力とは大きなものであるというものだ。

だが、我々が、これらのお話の真似をし、高い木の枝にぶらさがって手を離したり、高い塔の上から飛び降りたら、たとえ死を免れても大怪我は避けられない。
もしかしたら、強い信念を持てれば、奇跡的に怪我もせずに済むかもしれないが、そう簡単に信念など持てるものではない。

『トーチェ氏の心の法則』という本にこんな話がある。2人の酔っ払いが、建物の出口でちょっとつまづいて転んだ後、陽気に歌を歌ながら去って行った。しかし、彼らは、相当に酔っていたので気付かなかったが、実は、4階の窓を乗り越えて落ちたのであり、実際、すごい音がしたらしい。しかし、出口で躓いたという彼らの信念にしたがって、彼らは平気だったのであると書かれていた。
だが、実際に、酔っ払いに、「ここは1階だよ」と言って4階から落としたら、あなたは殺人を犯すことになる。もっとも、トーチェの本では、周りの人達の信念の影響もあると言うことだが、酔っ払って高い所から一人で落ちて死んだ人なんて、人類の歴史上、いくらでもいるだろう。

別に、トーチェの本に書いてあることが嘘だと言っているのではない。
その本には、数多くの奇跡のようなことが、時と所と、場合によっては実名入りで述べられている。私に調べる術はないが、本当であっても良いと思う。

奇跡的な出来事は、実際に起きる。
私も数多く体験した。
世界的な量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフ博士が量子物理学の道に入ったのは、子供の時の奇跡体験のためだった。彼は、2階から1階に、階段を歩くことなく移動した経験があったのだ。
私も、3歳頃、2階の窓から地上に落ちたと、周囲の人たちには見えたことがあったが、私はけろっとしていたらしい。実際は、私は地上に瞬間移動したのだが、見ている人達には、落ちたように見えたのだろう。
あるいは、スコットランド出身の哲学者マード・マクドナルド・ベインが子供の頃、度々やっていたように、宙に浮いたのかもしれない。
政木和三さんも、屋根から落ちた時、宙に浮いて無事だったということがあったらしい。

奇跡が起こるのは、たまたまだというのではないが、やはり、起きるべくして起きたのだ。
適当な言い方がないのでこう言うが、それが神の意思であったのだ。
もし、強い信念があれば奇跡が起こるのだとしても、その強く揺ぎ無い信念は、神の意思によらず起こることは無い。
いや、実際は、奇跡に限らず、いかなる出来事も神の意思によらずに起こることはない。
それでイエスは、「雀1羽、神の意思によらずして落ちることはない」と言ったのだ。
量子力学の、「何を観測しようとするかによって、観測結果が異なる」という事実を拡大解釈して、「観測の仕方によって、望みの結果が得られる」といったことを言う者もいるが、そんな人は重要なことを見逃している。
観測の仕方すら、自分で考えている訳ではないのだ。考えさせられているのだ。
イエスの「神の意思によらずして何事も起こらない」は、物理現象だけではなく、思考についても当てはまるのだ。これは、既に科学的研究でも、ほぼ解明されていることである。

荘子は、「ただ、起こるままに起こさせろ」「どんなことが起こるのも赦せ」と言ったのだ。
実際は、我々が赦そうが赦すまいが、ものごとは起こる。
そうだ。「起こす」のではなく、全ては「起こる」のだ。
我々に出来ることは、起こることを「受け入れる(受容する)」かどうかだ。
それを、なりゆきにまかせると言うのだ。
そうすれば、荘子の言う、「道(タオ)と一体化する」ことだろう。ただし、それがいつ起こるかは分からないのだ。
しかし、気にすることはない。
あなたは、何も意のままに起こすことはできない代わりに、どんな出来事も、あなたには何の責任もない。それは、あなたと何の関係もなく、起こったのだからだ。
この事実ほど良いことがあろうか?
あなたは、大事業を成し遂げ、財を成し、多くの人も豊かにするかもしれない。しかし、あなたは何もしていないのだ。
逆に、大失敗して多くの人に多大な迷惑をかけたところで、あなたには何の責任もない。
ただし、あなたに責任が無いのと同様、誰にも責任がないのだ。
自分に責任がないことを受け入れる人はいるが、他人に関してはそうでないのだ。
それが、我々が「得体の知れない何か」から逃れられない理由である。
ぼーかりおどPさん作詞・作曲・編曲による初音ミクの『1/6』は、そんな得体の知れない何かから、誰かを救いたいという歌なのだそうだ。
ミクの、「今はそれ以上、君を救いたいエゴイズム」のエゴイズムの発音が可愛い。
この歌は、ショート・バージョンではあったが、東京とロサンゼルスのコンサートの両方でミクが歌った。ミクの姿や踊りも良かった。
私もまた、ミクに宇宙に連れて行ってもらって救われたのである。
ただし、いつ、連れて行ってもらえるかは分からないのだ。
だが、いつか、受容という翼で、ミクと共に宇宙に行くのである。









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苦悩する善人と、心晴れやかな悪人

キリスト教徒に限らず、新約聖書の福音書は面白いので、読んでおくことをお奨めする。
福音書というのは、イエスの行い、言葉、イエスの周囲で起こったことなどを、イエスと行動を共にしていた12人の高弟のうちの4人が書いたものだ。4人はそれぞれ単独で書き、しかも、書いた時期もかなり違うのだが、その内容は大筋で一致しているので、大体、イエスの忠実な記録と思って良い。
その中には、イエスが水の上を歩き、数個のパンを数千個に増やすといったことや、目の見えない人の目を治し、不治の病も言葉や手で触れることで一瞬で治し、死んだ人すら2人も生き返らせるという、大変な奇跡を起こしたという記述がある。
また、興味深いのが、全ての出来事は、過去に預言者によって予言されていた通りに起こったと書かれていることだ。
イエス自身、自分がこれからどうなるかをはっきり知っており、自分が十字架に磔にされて死ぬこと、ペテロが危難を免れるために自分を知らないと言うこと、そして、ユダが銀貨をもらってイエスを裏切り、それでイエスが捕らえられることも、全て知っていた。

ところで、1973年のノーマン・ジュイソン監督のミュージカル映画『ジーザス・クライスト・スパースター』は、福音書のお話をロック・ミュージカルにしたものだが、ユダの描き方が実に素晴らしい。
イエスを裏切ったユダが、あることに気付き、愕然とする。
ユダは、イエスを深く愛し、また、崇拝していたのだが、なぜか、イエスにいつも噛み付き、ついには、銀貨30枚で、イエスを司祭長達に売る。
最後にユダは、「俺は神様に利用されたんだ」と言って、首をつって自殺する。
ユダがこんなことを言うのは、福音書に書かれていないが、ユダが気付くかどうかに関わらず、ユダの言ったことは本当だ。
ユダがイエスを裏切ることは、神に決められた既定事項であり、絶対に変えられないことだった。
だから、ユダは死ぬことはなかった。
彼には、そうすることは避けられなかったのだ。
神が何の意図でそんなことをしたのかは、イエスはともかく、誰にも分からない。予想もできない。
しかし、断じて、ユダは気に病むべきでなかったのだ。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠は、30歳を過ぎた頃に重病になり、何年も寝込み、ついにもう終りであると悟る。つまり、死期が迫っていた。
宗忠は、子供の頃から素晴らしい性質の持ち主で、父母を敬って孝行し、間違ったことを何もしないような人間だった。
それで、両親が立て続けに亡くなったことで、悲観のあまり病気になったのだ。
ところが、世の中には、悪いことばかりしていながら、心晴れやかで幸福で健康な者がいるのである。
ユダの例に当てはめると、いくら悪事をしているといっても、それは天の決めたシナリオ通りに起こることであり、悪事をする者に責任は無い。
だが、宗忠は、何事も自分の責任だと思って背負い込む真面目人間だったのだろう。
宗忠が奇跡的に健康を回復したのも、神の決めたことだった。
以降、宗忠は、いかなる悪人も責めなかった。
追いはぎに「十両出せ」と脅されると、「今五両しかないので、残りは明日」と言って、翌日、五両を工面して、ちゃんと渡した。

悪事をする者に責任が無いなどと言ったら、悪人は自己の非を認めず、さらに極悪人になるだろうか?
そんなことは決してない。
『歎異抄』の中で、親鸞が弟子の唯円に、「私の言うことを何でもきくか」と言うと、唯円は、誓って、その通りすると答えた。
すると、親鸞は、では、人を百人殺せと命じた。
しかし、唯円は、自分には一人も殺せそうにないと言う。
そこで、親鸞は、「分かっただろう?人は自分の思うまま、良いことも悪いことも出来ないのだ。全ては因縁なのだ」と教えた。
ユダがイエスを裏切った神のシナリオも、ユダの因縁である。
ユダがいくらイエスを愛し、敬っていても、イエスを裏切ることは避けられなかったのだ。

我々も同じである。
だが、人のことは言わないでおこう。
私は、過去に行った、あるいは、これから行う、いかなる悪いことや、人様に迷惑をかける行為も、自分の責任とは思わない。
逆に、もしも、どんなに素晴らしい行いをしても、決して誇ることも、賞賛を受けようともしない。
また、他人のいかなる悪事についても、その者を責めないし、いかに優れた行いをした者を誉めようとも思わない。
そして、いかに成功し、富や名誉に恵まれた人を見ても、賞賛することも、羨むこともない。

誰しも、好きな人に、ついひどいことを言ったり、したりして傷つけてしまうことがある。
しかし、それは、避けられなかったことなのだ。
逆に、自分が理不尽な仕打ちを受けたとしても、それも必然であったと、決して、恨んだりしないことだ。実際、そうなのだから。
実を言うと、悟りを開くとは、そういうことなのである。

『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、アルジュナ王子に、戦争で、彼の親しい友、師、叔父等の親戚を相手に戦うことをためらってはならないと言う。彼らは既に、神に殺されているのだからと。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・MCSD、MCDBA資格者
・タオイスト、神秘思想家
・1日1食の完全菜食主義者
・幼児期からの引きこもり気質
・医療不要で難病を数々克服


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萩尾望都さんの漫画紹介


半神
小学館文庫

わずか15頁の至高の傑作「半神」を含む短編集。
数奇で残酷な運命を目撃した後、「愛とは?憎しみとは?それはどう異なるのか?異なるものではないのか?」あなたの心に荘厳な疑問が残るのではないだろうか?


ウは宇宙船のウ
小学館文庫

1920年生まれのアメリカを代表するSF作家レイ・ブラッドベリの珠玉の短編作品を萩尾望都が漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と感性が、ブラッドベリの作品に新しい生命を注いだ。
「みずうみ」では、12歳の少女タリーの可憐な姿と、彼女を愛するハロルドの少年の時と青年になって後の様々な表情がより深い感銘をもたらすと思う。
他の作品も素晴らしい出来であると思う。
CLAMP「CLOVER」のご紹介


CLOVER
わずか5分の劇場用アニメ作品。
CLAMPさんの名作漫画のイメージを美しい映像と音楽で描いた傑作。
主人公の12歳の神秘的な少女スゥの声は坂本真綾さん。


「CLOVER」の原作漫画を以下にご紹介します。
素晴らしい装丁、美しいカラーの扉絵。そして、神秘的な傑作と思います。
新装版も出ているようですが、私はこちらしか持っていません。しかし、こちらの本の装丁を大変に気に入っています。








私が愛する「魔法少女リリカルなのは」

ナンセンス文学(意味を持たない作品)として私が勝手に意味付けをしたのかもしれませんが、アメリカの百万円以上の自己開発プログラム以上に貴い気付きを私に与えてくれた全13話のアニメ作品。











5年の時を経て、2010年、映画化されました。
基本的には、テレビシリーズの全13話を1本の映画にしたものですが、本編では描かれなかったフェイトの生い立ちが見られます。そして、プレシアの謎の言葉も。映像はテレビシリーズよりさらにグレードアップしています。


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初音ミク、コンサート映像のご紹介
ミクの日感謝祭 39's Giving DayProject DIVA presents 初音ミク・ソロコンサート~こんばんは、初音ミクです。~
[2010/3/9]東京お台場~Zepp Tokyo~

映像の品質等は、下でもご紹介する、後で開かれた米国コンサートの方が高いのですが、私は、全体としては東京コンサートの方が好きです。米国コンサートの方は、映像の緻密さのために、かえってボーカロイド達がマネキンのように感じるかもしれません。これは、証明の影響もあると思います。緑色がかった証明の東京コンサートの方が、ミクが柔らかい感じで可愛いと感じました。
また、真っ白なお姫様のような衣装に赤い大きな腰のリボンが印象的な『Alice』、『あなたの歌姫』は、米国コンサートにはありませんでした。

【ブルーレイ】


【DVD】




MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES “はじめまして、初音ミクです”
[2011/7/2]米国ロサンゼルス~ノキアシアター~

日本のボーカロイドが、日本語の歌で、アメリカ、ロサンゼルスの大劇場ノキアシアターの満員の観客を熱狂させた歴史的コンサートだったと思います。
東京コンサートから1年4ヶ月経過しており、総合的には確実に進歩しています。
私が特に気に入ったのは、1つは、ミクとルカの素晴らしいコンビネーションのダンスパフォーマンスが楽しめる『ワールズエンド・ダンスホール』です。ルカが珍しくミニスカート姿で、ミクに勝る四肢の長さで、ピンクの髪を美しく揺らしてダイナミックに踊ります。 もう1つが、ミクが真っ白な天使の衣装で歌う『SPiCa』で、これが天使でなくてなんだろう、私はついに天使を見たのだと思いました。演奏も東京コンサートの時と変えていましたが、成功していたと思います。

【ブルーレイ】


【DVD】


尚、ブルーレイとDVDの差についてですが、私は実際、両方買い、見比べてみました。観客、演奏者、楽器などは、大画面TVで見ると、ブルーレイの方がきれいですが、肝心のミク達は、ホログラム映像そのものがそれほど細密でありませんので、別に違いはないと感じました。ブルーレイ、DVDいずれも、東京コンサートの方は上半身映像以上の場合、米国コンサートでも、顔のアップだと映像の粒子が目立ちます。 変な話ですが、iPhoneやiPod touch、あるいは、同等な画面品質を持つ小型情報端末で見た映像が最上かもしれません。ただ、これは反則行為ですので、実際にやったとは言いませんが。
本のご紹介


精神について(エマソン名著選)
ラルフ・ウォルドー・エマーソン著
日本教文社

アメリカ最高の思想家、哲学者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの珠玉のエッセイ集。 「歴史」「自己信頼」「償い」「精神の法則」「愛」「友情」「神」「円」「知性」が収められている。
我々自身が、歴史上の英雄、賢者、大芸術家に匹敵する偉大な人間であることを、驚くべき確信をもって語る唯一の人物であると思う。
世間の妄信を粉々に破壊し、プラトーンの頭脳、シーザーの手腕、イエスの愛の所有者である自分を見出して欲しい。
これ以上のエッセイは地上には存在しないと思う。


荘子
徳間文庫

約2400年前の中国の思想家で、老子と共に、老荘と称せられる道教(タオイズム)の始祖である荘周(荘子)の書。
世俗にあって世俗を超え、永遠の道(タオ)と一体化し、安らかで充実した人生を送る秘訣を、恐ろしく抽象的な老子と異なり、平易に説いている。
本書は、数多い荘子の現代語訳の中でも非常に読みやすく分かりやすいものであるが、中国古典の香りは損なわれていない。
本来、膨大な荘子の中心となる内編全てと、外編と雑編の内、荘子らしいものを選んで収録してある。


神統記
ヘシオドス著
岩波文庫

ホメーロスと並ぶ古代ギリシャ詩人ヘシオドスが、ムーサ(詩の女神)達より教えられたという神々の物語。
この世の始まりから、ゼウスの支配の確立、そして、主要な神々のことについて、美しい詩で語る。すぐに読める薄い本であるが、ギリシャ神話の根幹とも言える重要な書と思う。


四つのギリシャ神話(ホメーロス讃歌より)
岩波文庫

無名の詩人達が、ホメーロス風の詩で神々に捧げた賛歌の内、豊穣の女神デーメーテール、理性の神アポローン、智慧の神ヘルメース、美の女神アプロディーテーの4神へのものを収録してある。
著名な神話学者カール・ケレーニィも、ホメーロス賛歌を重視していると思えるが、名もない詩人達の作とはいえ、それぞれの神について、その特質が巧みに表現されており、実に興味深いものとなっている。
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