ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

黒住宗忠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「神様の奇跡が起こる」と同じだがシンプルな言葉

人間は、苦労しないと分からないこと、辛い目に遭わないと分からないことが沢山ある。
そして、どんな辛い経験も、過ぎてしまえば良い思い出である場合が多い。
もし、昔の出来事の記憶が今も自分を苦しめるなら、それはかなり、業の深い原因から来ており、その問題にはまだ決着がついていないと見るべきかもしれない。

今、とても苦しい状況にあっても、神仏に救いを求めれば必ず救われるが、1時間で救われるとか、一晩で救われるとは限らない。
普段、何らかの行をしている者は、簡単に問題が消えてしまうことが多いが、行を怠り勝ちだったりすると、結構、長く苦しむことがある。
不治の病など、生涯続く苦しみを持つというのは宿命であるが、それによって鍛えられた精神の力は、他の誰にもない貴重な宝である。

江戸時代、ある武士がハンセン病(以前は、らい病と呼ばれた感染症。皮膚に症状が現れる。昔は難病だったが現在は治り易い)にかかった。
当時は、ほとんど良い治療法がなかったが、高名な神道家の黒住宗忠は、その武士に、1日百回「ありがたい」と言うよう指示した。
それをやってみたが、武士に回復の兆しはない。
そこで、宗忠は、「では、千回唱えなさい」と言い、武士は従ったが、それでも良くならない。
すると、宗忠は、「では、一万回」と言う。
普通なら、怒り出すかもしれないが、武士も必死であるし、修行の出来ていた武士だったのかもしれない。宗忠の指示に従った。
すると、一週間後、武士は激しく吐血し、意識を失ったが、目が覚めた時には治っていたという。

現在でも「ありがとう」と言えば奇跡が起こると言う人は少なくないが、それなら、余計な講釈を聞かず、ただ、「ありがとう」と言えば良い。
と言っておいて、少し講釈する。いや、ほんの少しだ(笑)。
「ありがとう」というのは、誰かに対する感謝だ。
一方、「ありがたい」は「有り難い」で、非常に珍しいこと、つまり、奇跡を示す。もちろん、感謝の意味もあるので、「ありがたい」は本来、感謝すべき、ありがたい奇跡なのである。
「神様の奇跡が起こる」と言うのと、「ありがたい」は同じである。
このブログの定番のエピソードであるが、あるホームレスの男が、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱えたていたら、2週間ほどで、宝くじで一億円が当たり、次に、ローマ法王と謁見し、さらに、唱えることを続けていたら、また一億円当たった。これは、著名な教育学者、七田眞氏が保証する事実である。
だから、あなたも、本当に困っていたり、厳しい状況にある時、あるいは、一見、平安だが、不安を抱えているような時は、「ありがたい」か「神様の奇跡が起こる」と、なるべく多く唱えると良い。
これは、非常に、日本人向きだと思う。








甘やかされた引きこもりの自己中でも問題ない

高次の力を使って世界を動かすにしても、人間というものは、物質次元に制約されている状態を経験するように出来ている。
早い話が、健康で見た目が良く、何らかの現実的能力があってこそ、楽しく生きられる。
ただ、健康に難があったり、見た目がひどく悪くても、能力でカバー出来る場合はある。
逆に、若い間だけなら、健康で見た目が良ければ、大した能力がなくても、うまくいくことがあるが、あくまで若い間だけである。
つまり、何だかんだ言って、現実的能力を身に付けなければならないが、そんな能力は、若い間の方が圧倒的に得易い。
高学歴であれば、そこそこの人間性があれば、大企業に就職したり、公務員になれば、大した能力がなくてもうまくやっていけたが、時代として、そうではなくなってきているし、それでうまくいくとしても、あまり楽しくはないものである。
そこで、やはり、何らかの特別な能力は身に付けておきたいものである。

私は、コンピュータープログラミングしか分からないが、何でも同じだと思う。
プログラミングを、学校の勉強の感覚で「よく勉強した」と思うレベルでやっても、全く通用しない。
一方で、「勉強した」とは全く思っていなくても、興味を持って、長年、熱心にプログラミングに取り組んできた者が、ほとんど即座に実戦で通用することがある。
どんな仕事も、勉強して出来るようになるわけではなく、ここらは、どんな仕事でも同じであると思う。
学校や塾の教師ですら、自分が勉強が出来たというだけでは、良い教師になれない。
確かに、自分が大学生の間なら、生徒と仲良くなって友達感覚で教えれば、むしろ、下手な教師よりうまくいく場合もあるが、教えられることに限界があるし、歳を取って生徒と感覚が違ってくれば、もううまくいかない。

仕事のカラクリや本質は、本当は学校の教師だって分かるはずなのだが、現実には、ほとんどの教師が分かっていない。
ほとんどの教師が、教師としてもプロではないからだ。
そりゃ、学校では、教え方がうまい教師が評判になるくらいだが、本来、教師というのは、教え方がべらぼうにうまく、どんな生徒だって勉強が分かるのが普通である。一般社会では、それが当たり前の仕事なのである。
ところが、教師は、生徒が勉強が出来ないことを、自分のせいではないことにしようとして言い訳をする。
それは、例えば、プログラマーの世界で、まともなプログラムが作れない理由を正当化させるようなもので、本来、馬鹿げた話である。
だから、学校の教師が、勉強の教え方を塾の先生に指導されるという、屈辱的なことが現実に行われているし、かといって、それをしないなら、下手な教師のままであることが多い。

学校の勉強をしっかりやる目的を、「人間として辛い目に遭わずに済むため」だと思っている人が、親も子供も学生も、あるいは、教師にも多い。
学歴さえあれば、苦しい目、辛い目に遭わず、悠々と生きられるという、馬鹿な勘違いをしているのである。
だが、現実は、たとえどんなに勉強して学歴を得ても、理不尽な目に遭わないと仕事が出来るようにはならない。
だから、子供は、理不尽な辛さに耐えられるよう鍛えてやらないといけない。
しかし、その全く逆に、子供が徹底的に甘やかされ、絶対に世の中で通用しないようになり、引きこもってニートになる者も多いように思う。
早い話が、子供に大切なことは、逞しくなることだ。心身共にね。
まず、親は、なるべく子供から離れないといけない。
息子が中学生や高校生になって、母親がくっつきたがるようなら、その息子は一生駄目と言って間違いない。
必要なことはちゃんと教えないといけないが、その他では、子供は放置すればするほど良い。
会社で仕事が出来ないとか、引きこもってニートになる者は、親がくっついていた者に決まっている。

だが、今がどうでも心配はいらない。
江戸末期から昭和初期の農民に、因幡の源左(いなばのげんざ)という農民がいた。
彼の父親は、源左が19歳の時に亡くなったが、自分が死ぬ前に源左の父親は「これからは親様に頼れ」と源左に言ったらしい。
この親様とは、神様とか仏様という意味であったと思われる。
当時なら、19歳にもなって父親を頼っていたというのも問題だが、それでも、以降は神様に頼れば良いのである。
もっと凄いのが、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠だ。
宗忠は、30も過ぎていたのに、両親が相次いで亡くなったショックで、病気になり寝込んでしまい、本当に死にそうになった。
だが、ある時、ちょっとした偶然と思うが、宗忠は、今後は、神様を頼れば良いのだと気付き、見る見る健康を回復し、短期間で超一流の神道家になった。
私も、ベタベタに甘やかされ、19歳で既に詰んでいたが、ジョセフ・マーフィーの本を読んで、神様にまかせれば良いのだと分かった。
ただ、私は、宗教がかったことは全く駄目だったが、私が読んだマーフィーの本では、マーフィーも、そんな人のために、神のことを「宇宙の活力」と書いてくれていた。
この「宇宙の活力」は、原書では、「コズミック・エナージャイザー」という、ちょっと訳し難い言葉であったが、翻訳された桑名一央氏が、うまく訳してくれたのである。
以降、苦労しなかったわけではないとは思うが、それほどではなかったし、何でもうまくいき、楽々、プログラマーやシステムエンジニアになれた。
あなたも、神様(あるいは仏様)に頼るべきである。
ただし、くれぐれも宗教団体に入ってはならない。
ジョセフ・マーフィーだって、キリスト教の牧師ではあるが、既存の教会が嫌で、そんなものと縁を切ったのである。
早い話が、まずは、ジョセフ・マーフィーを読むと良いと思う。
無論、ちゃんと鍛えられた立派な人には必要ないかもしれないが、私のような、甘やかされた自己中で、世間で通用しない欠陥人間の場合は、そうした方が良いだろう。
ちなみに、私が最初に読んだのは、『あなたも幸せになれる』(文庫版では『努力嫌いの成功法』)である。








単純に考える

江戸末期の神道家、黒住宗忠が、ある時、ある武士に、
「人と神とは一体ですぞ」
と言った。
それからしばらくして、また、宗忠は、その武士に、
「人と神とは一体ですぞ」
と言った。
そして、また、しばらくして、宗忠が、その武士に、
「人と神とは一体ですぞ」
と言った時、その武士は天啓を得たという。
この話を見聞きし、何かを感じた人は、
「人と神とは一体とはどいういうことだろうか?」
と考える。
しかし、この武士は、そんなことを考えたわけではない。
単に、宗忠に、そう言われただけなのだ。
だから、この武士が分かったことを自分も分かりたければ、
「私は神と一体である」
と自分で唱えれば良い。
最も効果的な唱え方は、心の中で、丁寧に、おだやかに「私は神と一体だ」と、出来るだけ多く唱えることだ。

1967年のイギリス映画『火星人地球大襲撃』は、イギリス的な味があり、しかも、とても深い作品と思う。
太古の昔、地球に来た火星人が現代に復活し、地球をあっという間に侵略しようとする中、生物化学者のロニーとロケット科学者のクォーターマスの2人だけが状況を理解し、火星人に立ち向かおうとしていた。
ロニーは、ある作戦を思いつくが、クォーターマスは、その作戦について「あまりに単純過ぎる」と批判する。
だが、ロニーは、「火星人には、単純過ぎて分からないんだ」と言う。
上の「私は神と一体だ」と唱えれば良いというのも、単純過ぎて、今の、何でも理屈で複雑に考える人間には分からないのである。

もう1つ、黒住宗忠の話を取り上げる。
宗忠の弟子が、
「全て神にまかせれば、年の暮も安らかだ」
といった意味の歌を詠んだ。
すると、宗忠は、その歌を褒めながらも、
「全て神にまかせれば、いつも安らかだ」
といったように修正した。
この話でも、難しく考える人は、
「神にまかせるとはどういうことだろう?」
「どうすれば、神にまかせることが出来るのだろう?」
と考えてしまう。
これもまた、
「私は全て神にまかせているので、いつも安らかだ」
と唱えれば良いだけである。
それだけで、いつも安らかでいられる状況になる。

今回の言葉は、
「私は神と一体だ」
「私は全て神にまかせているので、いつも安らかだ」
であるが、もし、気に入ったら使うと良いと思う。
いつも述べるように、心の中で、丁寧におだやかに、なるべく多く唱えれば素晴らしい恵があるだろう。








神仏の呼び方に関する疑問

今回は、皆様が、ひょっとしたら疑問に思っているかもしれないことについて述べる。

神仏の名を心で唱えるナーマスマラナが、神仏に守られ恵みを得る最高の方法である。
これは、釈迦の念仏の教えであり、釈迦の後継者とも言われた天才、龍樹も認めていたことであり、近年ではインドの有名な聖者サイ・ババが述べていたことであるが、確かに間違いのないことであると思う。
一方で、最近は、このブログでは、「神」という言葉が、最高の力を持ち、これを唱えることを勧めている。
「神」という語を唱えるためには、普通に、心で「神」と唱えるのが基本だが、「神」という語を含む言葉、例えば、「神に出来ないことはない」と唱えたり、あるいは、「神」という語を多く含む本(例えば『聖書』)を読むことも勧めた。
この両者(個々の神仏の名を唱えるナーマスマラナと、「神」という語を唱えること)は、実は同じである。
その理由を以下に簡単に述べる。

インドの聖典(ゲーテ、ガンジー、アインシュタインらも愛読したと言われる)『バガヴァッド・ギーター』で、最高神クリシュナは、「各自、自分が信仰する神に祈るが良い。そうすれば、願いは叶えられるだろう。だが、それは結局は、私に祈っているのであり、私が願いを叶えているのである」と述べている。
「クリシュナ」は1つの神の名であると同時に、宇宙全体である絶対神でもあるのである。
クリシュナの教えは、個々の神に祈れば、それらの神を通して、クリシュナに祈っていることになるという意味である。

江戸末期の偉大な神道家であった黒住宗忠は、天照大神(アマテラスオホミカミ)を信仰していたが、この天照大神は『古事記』や『日本書紀』に登場する女神でもあるのだが、黒住宗忠がこの名で信仰していたのは、唯一絶対神のことであったことは明白である。
黒住宗忠は、日本人に最も親しみのある天照大神を通し、クリシュナの場合と同じく、宇宙全体である絶対神に祈っていたのである。

また、敬愛の意味で、神を「父」とか「親様」と呼ぶことも、よく行われている。
江戸末期から昭和初期の農民で妙好人(庶民だが高度な悟りに達していた念仏者のこと)であった因幡の源左(いなばのげんざ)は、阿弥陀仏を信仰していたが、阿弥陀仏を「親様」を読んでいた。
そして、実は、黒住宗忠も、天照大神を、しばしば「親様」と呼んでいたのである。
イエス・キリストだって、神を正式な名であるヤハウェと呼ばず、もっぱら「父」と呼んでいた(ただ、一般に、ヤハウェと口に出して呼ぶことは禁じられている)。

このように、その時々の風習や習慣、あるいは、個人的な好みなどにより、神仏を、個々の名で読んだり、「神(神様)」「仏(仏様)」と呼んだり、「親様」「父」と呼んだりするが、これらは、同じなのである。
聖母マリアに祈る場合も、「マリア様」と言ったり、「祝福された乙女」「無原罪の宿り」「平和の女王」など、いろいろに呼ぶが、各自、自分に合った名で呼べば良いのである。
日本人の場合、天照大神、阿弥陀仏、観世音菩薩、大黒天や弁財天などの七福神を祈る場合が多いが、それらの神仏に親しみがあれば、その名を唱えれば良いのである。
ただ、現代においては、それぞれの神仏の名を知らないわけではないが、特に何かの神仏に親しみがあるわけではない場合、「神」と唱えるのが、一番良いと思う。
また、「神」という言葉自体にも違和感があったり、無神論者と自覚する場合もあるかもしれないが、そんな者でも、自分を超えた叡智と力があることは認めていると思う。そうとは自覚出来なくても、そうであるはずだし、そうでないというなら、それは問題である。
「神」という言葉を使いたがらない人のために、ジョセフ・マーフィーは「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」という言葉を使ったことがある。「コズミック・エナージャイザー」を「宇宙の活力」と訳したのは、優れた翻訳家の桑名一央氏であるが、「エナージャイザー」は、特に日本人には馴染みのない概念かもしれない。
エナージャイザー(Energizer)は、今日では、有名な電池メーカーとして知られる会社の名前である。
Energizerの辞書的な意味は、1つは「電気エネルギーを供給する装置」であり、根本的な意味は「エネルギーと活力と勇気を他の人に与える誰か」であり、ジョセフ・マーフィーは、この2つ目の意味により、神に該当する存在を「コズミック・エナージャイザー」と呼んだのだ。それを、桑名一央氏は、かなり考えて「宇宙の活力」と訳したのだと思う。
だから、意味を知った上で、「神」の代わりに「コズミック・エナージャイザー」、あるいは、「宇宙の活力」と呼ぶのもありであり、実は、私も「宇宙の活力」という言葉を使うことがある。

以上のようなわけである。
よって、「神」、「父」、個々の神仏の名、「宇宙の活力」・・・何と呼ぼうが構わないが、その名を、心の中で唱えれば、一切の問題は解決し救われる。
あらゆる恵みが与えられ、願いは全て叶う。
このことは、偉大な啓蒙家や事業家らが言明していることもあるが、敢えて言わなくても、そう考えている者は多いと思う。
そして、そもそも、イエス・キリストが言っていたことである(特に「マタイ福音書」)。

最初に書いたが、今回は、皆様が、疑問に思っているかもしれないことについて述べた。








奇跡を起こす繰り返しの力

徳川将軍家の兵法指南役であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、後の三代将軍である徳川家光が少年だった時、剣術の指導を次のように行ったという伝承がある。
部屋の中に、長さ百数十センチの木の杭(くい)を立てて設置し、宗矩は、その杭の頭を木刀で打つよう、竹千代(家光のこと)に言った。
それを毎日やれと、宗矩は言う。
馬鹿馬鹿しくてやる気が出ない竹千代は、宗矩に「こんなことに何の意味があるのか?」と詰問した。
宗矩は、常に同じところを打つことが出来るようになれば、刀で鉄の兜でも切れると言う。
竹千代は宗矩に、ならばやって見せよと言い、家来に、鉄の兜を持って来て台の上に置くよう命じた。
竹千代は、宗矩に恥をかかせるつもりだったと思われる。
だが、宗矩は、見事、鉄の兜を切って見せた。
作り話かもしれないが、剣術の達人には、紙で吊った竹を真剣で切れる者がいるらしいが、中村天風や、弟子の藤平光一は、それが出来たという話がある(藤平光一の著書に書かれている)。
とにかく、それで竹千代は心を入れ替え、来る日も来る日も、杭の頭を木刀で真剣に打ち続けたという。

剣豪伝には、このように、剣で同じところを打ち続ける修行をした話は結構あるが、私には、これには、何らかの真理があるように思える。
1回や2回やっただけでは何にもならなくても、数多く、長期間やり通せば、神懸かった力を得て、奇跡を起こせるようになる。
これは剣術に限らない。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、修行時代、大祓祝詞(おおはらえのことば)という祝詞を、1日平均630本、数ヵ月に渡って唱えたという。
大祓祝詞を1本唱えるのに、普通は少なくとも3分はかかるが、それで630本を唱えるには31.5時間かかり、1日は24時間しかないので、相当速く唱えないといけないが、それでも、起きている時間の全てを使っても難しい数だ。
黒住宗忠は、病気を治したり、長距離をあり得ない短い時間で移動したり、嵐を鎮めたりといった、キリスト並の奇跡を起こしたと言われている。
また、これは明らかに創作であるが、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー、紋次郎は、農家の出身で、剣の修行をしたわけではないが、我流とはいえ、滅法腕が立つ。
私は、なぜ紋次郎がそんなに強くなったのかと、真面目に考えていたが、何と、『木枯らし紋次郎』の後期の作品である『帰って来た紋次郎』シリーズの中で、その謎が明かされる。
紋次郎は、10歳で家を出た後、一時、木こりのようなことをしていて、毎日毎日、木を切り倒しては、その木を運び、薪にしていた。当時は、薪が大量に必要とされたので、そんなことが仕事になったのだ。
その、斧による薪割りが、紋次郎の剣術の基礎になったのである。きっと、紋次郎は、毎日数千、あるいは、数万の薪を作ったのだろう。
話は変わるが、ラマナ・マハルシの弟子のブンジャジは、若い時、肉体労働をしながら、クリシュナ(インド神話の神)の名を1日4万回唱え続け、奇跡を起こしている。
神の名を数多く唱えることで奇跡を起こした話は、サイババの『ナーマスマラナ』に数多く記されている。
法然が1日6万回、念仏を唱えたという話も有名である。
般若心経を10万回唱えて神通力を得た者の話もあるが、般若心経は呪文の部分だけを唱えるのが正しいとする専門家の話もある。

いかなることでも、たゆまず繰り返せば、大いなる力が得られるし、逆に言えば、大いなる力を得るには、多くの繰り返ししか道はないのである。
我々も、真言(神仏の名、仏・菩薩の真言、念仏、優れた呪文)を常に唱え、あるいは、暇があれば立って腕振り運動を行えば、世界は動くのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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