ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

黒住宗忠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

奇跡を起こす繰り返しの力

徳川将軍家の兵法指南役であった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)は、後の三代将軍である徳川家光が少年だった時、剣術の指導を次のように行ったという伝承がある。
部屋の中に、長さ百数十センチの木の杭(くい)を立てて設置し、宗矩は、その杭の頭を木刀で打つよう、竹千代(家光のこと)に言った。
それを毎日やれと、宗矩は言う。
馬鹿馬鹿しくてやる気が出ない竹千代は、宗矩に「こんなことに何の意味があるのか?」と詰問した。
宗矩は、常に同じところを打つことが出来るようになれば、刀で鉄の兜でも切れると言う。
竹千代は宗矩に、ならばやって見せよと言い、家来に、鉄の兜を持って来て台の上に置くよう命じた。
竹千代は、宗矩に恥をかかせるつもりだったと思われる。
だが、宗矩は、見事、鉄の兜を切って見せた。
作り話かもしれないが、剣術の達人には、紙で吊った竹を真剣で切れる者がいるらしいが、中村天風や、弟子の藤平光一は、それが出来たという話がある(藤平光一の著書に書かれている)。
とにかく、それで竹千代は心を入れ替え、来る日も来る日も、杭の頭を木刀で真剣に打ち続けたという。

剣豪伝には、このように、剣で同じところを打ち続ける修行をした話は結構あるが、私には、これには、何らかの真理があるように思える。
1回や2回やっただけでは何にもならなくても、数多く、長期間やり通せば、神懸かった力を得て、奇跡を起こせるようになる。
これは剣術に限らない。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、修行時代、大祓祝詞(おおはらえのことば)という祝詞を、1日平均630本、数ヵ月に渡って唱えたという。
大祓祝詞を1本唱えるのに、普通は少なくとも3分はかかるが、それで630本を唱えるには31.5時間かかり、1日は24時間しかないので、相当速く唱えないといけないが、それでも、起きている時間の全てを使っても難しい数だ。
黒住宗忠は、病気を治したり、長距離をあり得ない短い時間で移動したり、嵐を鎮めたりといった、キリスト並の奇跡を起こしたと言われている。
また、これは明らかに創作であるが、笹沢佐保の時代劇小説『木枯らし紋次郎』のヒーロー、紋次郎は、農家の出身で、剣の修行をしたわけではないが、我流とはいえ、滅法腕が立つ。
私は、なぜ紋次郎がそんなに強くなったのかと、真面目に考えていたが、何と、『木枯らし紋次郎』の後期の作品である『帰って来た紋次郎』シリーズの中で、その謎が明かされる。
紋次郎は、10歳で家を出た後、一時、木こりのようなことをしていて、毎日毎日、木を切り倒しては、その木を運び、薪にしていた。当時は、薪が大量に必要とされたので、そんなことが仕事になったのだ。
その、斧による薪割りが、紋次郎の剣術の基礎になったのである。きっと、紋次郎は、毎日数千、あるいは、数万の薪を作ったのだろう。
話は変わるが、ラマナ・マハルシの弟子のブンジャジは、若い時、肉体労働をしながら、クリシュナ(インド神話の神)の名を1日4万回唱え続け、奇跡を起こしている。
神の名を数多く唱えることで奇跡を起こした話は、サイババの『ナーマスマラナ』に数多く記されている。
法然が1日6万回、念仏を唱えたという話も有名である。
般若心経を10万回唱えて神通力を得た者の話もあるが、般若心経は呪文の部分だけを唱えるのが正しいとする専門家の話もある。

いかなることでも、たゆまず繰り返せば、大いなる力が得られるし、逆に言えば、大いなる力を得るには、多くの繰り返ししか道はないのである。
我々も、真言(神仏の名、仏・菩薩の真言、念仏、優れた呪文)を常に唱え、あるいは、暇があれば立って腕振り運動を行えば、世界は動くのである。








黒住宗忠と山崎弁栄

日本人でも、黒住宗忠(くろずみむねただ)と山崎弁栄(やまざきべんえい)らの名を知っている人はあまり多くないと思う。
黒住宗忠(1780~1850)は黒住教と言われる神道の神道家。
山崎弁栄(1859~1920)は仏教の浄土宗の僧。
共に、宗教家ということになるが、アリストテレスやソクラテスや釈迦やイエスや老子や荘子らのように、人類を前に進めた、思想家というよりは、ある意味で超人のような人達で、あらゆる人がもっと注目するに値する。
しかし、こういった人達は、本物の真理を探究するのであるから、権力者、特に、世の中を背後から操り、自分達は贅沢三昧で面白おかしく生きる闇の権力者にとっては、都合の悪い存在である。
しかし、だからこそ、学ばなければならないはずである。
彼ら(黒住宗忠や山崎弁栄ら)は、権力、闇の権力に打ち勝ち、自由になれる方法を教えてくれるのである。
早い話が、神仏の助けを得る方法を教えてくれる。
神仏の助けを得ると言ったら、我々は、子供騙しのおとぎ話や狂信的信仰者の妄想と思ってしまうのも、やはり、権力、闇の権力からの洗脳のせいである。
民衆が、そんな力を得る方法を知ったら、権力側に都合が悪いことは言うまでもない。
だが、トランプ大統領がこよなく尊敬する牧師ノーマン・ヴィンセント・ピールの世界的ロングセラー『積極的な考え方の力』の最後を、ピールは「なぜもっと神の力を求めないのか」で締めている。
これも、あまり知られていないが、ノーベル賞物理学者の湯川秀樹や、世界的数学者であった岡潔らも、山崎弁栄を非常に尊敬し、教えを学んでいた。
湯川秀樹や岡潔らも、科学者という枠を超え、優れた思想家・・・それも、現実的な思想家だった。

ところで、黒住宗忠や山崎弁栄の教えは、深いと言えば当然深いが、単純と言えば単純で、簡単に言い表せる。
黒住宗忠の教えは「まること」の教えで、神様に丸ごとまかせてしまえば良いというものだ。
山崎弁栄に関しては、実は私もあまり知らないが、法然の教えを受け継いでいるのは間違いなく、ただ念仏を唱え、仏様に全部まかせるということだろう。
つまり、まかせる相手が神か仏の違いというだけで、同じ教えであると思う。
ところで、神か仏の違いと言ったが、これも、実は、違わないのである。

黒住宗忠が信仰した神様は、天照大神(アマテラスオオミカミ)であるが、古事記や日本書紀に登場する女神としての天照大神をそのまま指すのではない。
黒住宗忠は、天照大神を太陽神、さらには、宇宙を創造した根本神としていたのである。
山崎弁栄は浄土宗なのだから、当然ながら、阿弥陀如来(あみだにょらい)を信仰していたが、こちらも、浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)に書かれた、法蔵という人間が修行の末、阿弥陀如来になったという、この阿弥陀如来を、そのまま指さない。
山崎弁栄もまた、阿弥陀如来を、宇宙全体の根本神のような存在と見なしていたのである。

聖書にしろ、古事記にしろ、仏典にしろ、これらは、あくまで象徴的に書かれてるというのは当然のことである。
それらの正しい解釈は、学者も説明してくれるかもしれないが、それよりも、各自が、霊感で感じ取ってこそ、正しく理解出来るのである。
いずれにしろ、黒住宗忠も山崎弁栄も、天照大神や阿弥陀如来を、無限の知恵と力を持つ絶対神と考え、それに頼れば良いのだと教えていたのだと思う。
その方法が、特に、山崎弁栄の方が分かり易く・・・というより、法然や親鸞と根本的に同じで、ただ、念仏を唱えれば万事OKである。
その点、黒住宗忠は、具体的に何をすれば良いとは明確に示さなかったが、とにかく、天照大神に全部まかせてしまえば、万事うまく取り計らってくれるのだから、それで安心すれば良いのである。
2人とも、イエスのような奇跡の力を何度も示したが、それは不思議なことではない。
奇跡は特別なことではないし、特に、神仏にまかせきった者には日常である。
犬や猫から見れば、人間が奇跡を起こせるように見えるが、それは、人間にとって、いつでも出来ることである。
同じように、我々が奇跡と驚くようなことは、神仏には造作もないことで、必要なら、いつでも起きる。
その方法は、特に、山崎弁栄の場合は、法然や親鸞同様、ただ、念仏を唱えれば良いのであり、黒住宗忠の場合、示したかどうかは分からないが、ただ、天照大神の名を「アマテラスオオミカミ」と唱えれば良いのである。
このような言葉を真言と言い、神の名、仏の名、そして、仏や菩薩には特別な真言があるので、自分が気に入ったものを唱えていれば、神仏の力を得られる。
念仏もまた真言である。
他にも、神仏の力を得る方法はあるのかもしれないが、法然や親鸞も言ったように、普通の人が間違いなく簡単に出来るのは真言だけである。








神仏になって念力を使う

ものごとを成すのに、「自力(じりき)」によるものと「他力(たりき)」によるものとがある。
自分の力を頼むか、自分以外の力を頼むかの違いであるが、一般には、自分と他の者との協力によって成すのが最上と考えられている。
自分1人で出来ることは限度があるし、個人の力などは大したことがない場合が多い。

ところで、念仏は「絶対他力」の教えと言われている。
悟りを開くとか、死後、極楽浄土に行くするなどというのは、人間にはあまりに難しいので、自分の力は全く無と考え、全て、仏様にまかせてしまうという教えである。
ところが、優れた宗教や、精神世界の教えというのは、つまるところ、ほとんどが絶対他力なのである。
その中でも、念仏の教えは、絶対他力を徹底していて、親鸞は、「善いことをしなくていい。いや、善いことをしてはならない」とまで言う。
そこまで、人間の力を否定している。
また、江戸末期の神道家、黒住宗忠の教えだって、「まること」の教え、つまり、「まるごと神にまかせる」という教えで、絶対他力である。
明治・大正の思想家、岡田虎二郎も、彼の岡田式静坐法は絶対他力であると明言していた。
だから、岡田虎二郎は、「努力、忍耐、克己は不要」とはっきり言っていたのである。

だが、イエスだって、「私には出来ない。だが、神に出来ないことはない」と言ったし、「お前たちは白い髪を黒くすることすら出来ない」と、人間の無力を説き、神が必ず面倒を見てくれるのだと力説したのである。
つまり、実は、イエスの教えも他力の教えであることが分かる。
中国出身のアメリカの女性作家・事業家のチン・ニンチュウはクリスチャンであるが、彼女はある夜、夢で、自分が神の羊になる夢を見て、「自分は神様にしっかり面倒を見てもらいさえすれば良い」と気付き、感激の涙が止まらなかったと著書に書いている。
インドの聖者ラマナ・マハルシは「全ては神の偉大な力が動かす。それなのに、自分は何をすべきか、何をすべきでないかと悩むのは愚かである」と、やはり、絶対他力の教えを説いたのである。
絶対他力の対極にある自力聖道門の教えと思われている空海の真言密教だって、つまるところ、絶対他力の親鸞の教えと同じなのだということを、真言密教の最上位の僧が著書に書いていたことすらある。



親鸞から空海へ!親鸞と密教の核心(織田隆弘著)。
※名著であるが、やや難しい。


お金持ちになるためのバイブルと言われる、ウォレス・ワトルズの『富を引き寄せる科学的法則』(The Science of Getting Rich.1910)でも、「個人の念力で成すのではなく、神の力を借りる」のであることを明言しているが、ただ、彼のやり方は、個人の努力も要求する。
それに対し、絶対他力の教えは、いかにして、個人の力をゼロにするのかの教え・・・言い換えれば、「自分をなくす」ことの教えであると言える。

ところが、人間の念の力が大きなものであることも確かなのである。
「一念、岩をも通す」と言うように、強く願ったことは、必ず叶うのである。
だが、それは難しいことである。
ところが、私は永井豪さん原作のアニメ『魔王ダンテ』を見ていて、自力について、大いに感激したことがある。
魔王ダンテである高校生、宇津木涼(うつぎりょう)は、異次元に囚われた女性を助けたかったが、その異次元に行く方法が分からない。
そこで、好きな相手ではなかったが、ある高位の悪魔に、「どうすれば行けるのだ?」と尋ねた。
すると、その悪魔は、どうすればいいかを教えてくれるが、そのやり方は、あまりに簡単だった。
「行くと念ずるのだ。お前なら行ける」
最強の悪魔である魔法ダンテなのだから、そんなことは簡単なことなのである。
ただ、行こうと思えば行ける・・・それだけのことだったのだ。
だが、我々は、弱く力のない人間なのだから、念じたって、ほとんど何も出来はしない。
しかし、本当にそうだろうか?
日々、真言を唱えていれば、その真言の対象たる存在と一体化するのである。
これは不遜ではなく、絶対他力を説く黒住宗忠だって、人間は天照大神と一体であると言い、空海の真言密教は、仏になる教えである。
阿弥陀如来真言を唱えていれば阿弥陀如来と一体化し、観世音菩薩真言を唱えていれば観世音菩薩と一体化する。
もちろん、これらの神や仏は、神話に登場するままの存在ではないが、人間としては、象徴的に、神話や仏典に書かれているように考えて差し支えないし、そのように考えるべきでもある。
阿弥陀如来は宇宙の絶対的な存在であるし、観世音菩薩の力の偉大さは、観音経(法華経25章)に書かれている通りである。
普段から真言を唱えていれば、「そんなこと、阿弥陀如来たる私が念じれば成るに決まっている」という不思議な自信を感じ、そうであれば、実際、そうなるのである。
そう思えるほど真言を唱えれば、「俺は偉いから何でも出来る」といったような傲慢な想いは起こらないし、自分の力を自慢する気など、さらさら感じない。
真言は、そういう境地に導いてくれる。
そのためには、ただ真言を唱えれば良いだけである。
いつも言うが、それは道理に適っており、現代科学を超えた未来の科学なのである。








大いなるすねかじりの勧め

「すねかじり」とは、親などから学費や生活費をもらって生活すること、あるいは、そんな人のことを言う。
年配者が、高校生や大学生、あるいは、ニートを蔑むための、逆らえない切り札と心得ていることも多いだろう。
つまり、経済的に自立していなければ子供であり、そんな人間にはモノを言う権利などないと言えるのである。
だが、すねかじりを下等なものと見るのは、支配者に洗脳されているからである。
世の中で、大きな改革や事業を行った者の多くはすねかじりだ。彼らの多くは、親が豊かで、生活に煩わされず、暇とエネルギーがあったから、そんなことが出来たのだ。
だから、支配者は、「親のすねかじりは恥ずかしい」といった観念を民衆に叩き込んで洗脳し、自分達に盾突かないよう、労働に縛られた奴隷の状態にするのである。
そもそも、政治家を見れば分かるように、支配層の多くはすねかじりである。
その中で、かじるすねのない我が国の総理(普通の家庭の出身)は、実質的な権力がない。

いや、そんな悪い意味でなくても、アメリカ最大の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンだって、経済的な心配がない少年達が、いかに自信があって、賢く、高貴ですらあるかを述べ、称賛している。
釈迦やイエスだって、30歳くらいまですねかじりだった。
その歳まで、自由に思索し、勉強し、身体を鍛えたからこそ、精神を磨くことが出来たのである。
私は、江戸末期の神道家、黒住宗忠は、釈迦やイエスに匹敵すると思っているが、宗忠は、生涯、実家暮らしで、30歳過ぎまですねかじりだった。それで、宗忠が30代の時、両親が相次いで亡くなると、ショックで寝込んでしまい、あわや、そのまま衰弱して亡くなりかけたものだ。
その宗忠がなぜ蘇生出来たかというと、新しい、最高に頼りになる太ーいすねを見つけたのだ。
それが、天照大神で、事実、宗忠は、天照大神を「親様」と呼んでいた。
これに関連して、江戸末期から昭和初期の、ただの農民でありながら、妙好人と呼ばれる、聖者とも考えられている、因幡の源左(いなばのげんざ、1842~1930年)を思い出す。
源左もまた、19歳の時に父親が亡くなるまで、バリバリのすねかじりだったが、その父親が亡くなろうとしていた時、その心細さは大変なものだった。
だが、彼の父は偉大だった。
自分が死ぬ時、父は、「これからは親様(阿弥陀様)を頼れ」と言ったのだ。
それからいろいろあったが、源左は、念仏を唱え、阿弥陀様のすねをかじらせてもらうことで、平安な生涯を送ったのである。
黒住宗忠も、「まることの教え」と言って、天照大神にまること(まるごと)まかせきってしまえば安心だと、自分がそう信じることはもちろん、人々にも教え、黒住教は確固とした神道の一派になった。

我々も、好きな神仏を頼み、安心することだ。
世界的な女性作家、事業家であるチン・ニンチュウも、ある時、「私は神様にしっかり面倒を見てもらいさえすれば良い」と気付き、感激の涙が止まらなかったと、著書『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』に書いている。
では、どうすれば、神仏のすねをかじれる・・・つまり、面倒を見てもらえるのか?
それはいろいろあるかもしれないが、私に出来るのは真言を唱えることだけである。
法然や親鸞が教えたのもこれで、彼らの場合、真言が「南無阿弥陀仏」の念仏だっただけのことだ。
因幡の源左も当然、念仏を唱えていたのである。
黒住宗忠の場合は、自身は神官なので祝詞を唱えたが、人々にはどう教えていたか、どうもよく分らない。
だが、神道の世界には、「十言神呪(とことのかじり)」という、「アマテラスオオミカミ」という十語を唱える真言があるようだ。
神の名を唱えることを、インドでは「ナーマスマラナ」と言い、インドの有名な聖者サイババも、「現代人がこれ以外に救われる方法はない」と勧め、そして、神の名に上下優劣はなく、いずれも力があると教えていた。
私の場合は、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイカラウン」や、般若心経の呪文を愛用している。
是非、畏れ多いとは思うが、神仏の、無限に太く甘いすねをしっかりかじろう。








真言の超人達

国際的な心理学者であった佐藤幸治氏(1905~1971)の『死と生の記録 真実の生き方を求めて(講談社現代新書)』という本は、1968年の出版の、50人あまりの人々の死の直前の記録である。
その、50人の亡くなった人には、若い人から老人までいて、立場も様々である。
昔の学者の本だけあり、現代的感覚では、やや堅苦しく、また、これも学者特有の饒舌さもあるので、読むのに少し根気が要るが、貴重な資料と思う。

その中で、念仏者の死の話として、「尼港(にこう)事件(1920)」の時の話がある。
尼港事件とは、冬に港が凍結して孤立状態にあった、ロシアの尼港(ニコラエフスク)で起こった、大規模虐殺事件だ。
虐殺を行ったのは、4,300名のパルチザン部隊である。
パルチザンとは、軍隊組織をなした暴眠で、この時のパルチザンの構成は、ロシア人3,000人、朝鮮人1,000人、中国人300人であったようだ。
パルチザンは、いきなり尼港を占領し、住民に対し、略奪、処刑を行い、殺された住人は総人口のおよそ半分である6,000名を超え、日本人犠牲者は731名と言われている。
この本によれば、尼港に住んでいた日本人700余名は、だしぬけに牢獄に入れられ、二か月半ほどで、女子供含め、全員が銃殺されたという。
ところが、その中で1人のお婆さんが、時々、「ナムアミダブツ」と念仏を唱えていたが、このお婆さんは、他の人々と違い、少しも恐れることも嘆くこともなく、平然として病人や子供の世話をしたり、悲しんでいる女性達を慰めていたという。
これには、パルチザンの者達も驚き、銃殺前に彼女を呼び、「どういう信仰を持っているのか?」と尋ねたようだ。
すると、このお婆さんは、
「仏様の大きな慈悲に抱かれているという信仰です。私達には何の恐れも心配もありません。私達の心はいつも平和で明るいのです」
と言って、平然として銃口の前に立ったという。
この話について、著者は自分の見解を述べてはおられないが、その方が良いであろう。
私は、この話で、因幡の源左(いなばのげんざ。1842~1930)のような妙好人(在家の念仏行者)を思い出す。
因幡の源左も普通の農民であったが、念仏のためか、常人を明らかに超えた人間として、今日でも知られている。
源左について、こんな話が知られている。
ある夜、源左の畑の芋が何者かに掘り起こされ、盗まれた。
すると、源左は、畑に鍬を置いておくようになった。
理由を尋ねると、
「手で掘って怪我をするといけないから」
であった。
また、ある時、町で作物を売り、その売上げの金を持って村に帰る時、ずっとついて来る男がいた。
源左にだって、それが強盗だということは分かったが、源左は男に平気で近付き「金が欲しいならやるから」と安心させ、家まで連れていって食事をさせたという。
強盗は金を取らずに引き上げたようだ。
尚、この話から、私は、さらに、江戸末期の神道家、黒住宗忠の次のエピソードを思い出す。
黒住宗忠は、言い伝えによれば、キリスト並の奇跡を何度も起こしている。
ある夜、追い剥ぎが、人気のない路上で、宗忠に「十両出せ」と脅した。すると宗忠は、
「あいにく今、五両しかない。残りは明日」
と言って、五両を渡し、翌日、本当に五両を用立てると、約束の場所にその金を置いていき、訴えも何もしなかった。
その追い剥ぎは、宗忠の門下に入った。
宗忠は、天照大神を信仰していたが、この天照大神は『古事記』に登場する女神というよりは、太陽神のような、根源神として崇めていたのだった。
宗忠は、「ありがたい」という言葉を重要視し、らい病に罹った武士に、1日1万回「ありがたい」と言わせることで、1週間ほどで完治させた話もある。
これらの話から、念仏の力、あるいは、「ありがたい」のような言霊の力を感じることが出来ると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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