ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

黄金バット

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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我々の超強力な味方を認識せよ

今、『鬼滅の刃』というアニメが大変に人気があり、さらに人気は世界中に広がりつつある。
基本的に、このアニメは、炭治郎という少年が鬼と戦うのであるが、炭治郎は少年ながら大変な修行をして超人的な力を持つも、その戦いは楽ではない。
いや、楽どころか、毎回、恐ろしく強い敵が登場し、ギリギリの勝利を得る感じだ。
このパターンは、あらゆるアニメで共通で、今年25周年を迎え、昔から世界的に人気がある『美少女戦士セーラームーン』では、どんどん強い敵が登場し、セーラームーンがそれに合わせるかのようにレベルアップしていくが、いつも苦戦の連続である。
ヒーロー、ヒロインが強過ぎては、お話にならない、あるいは、お話が面白くないのだろう。

プロレスの試合は、最初から、勝敗や試合の流れが決まっているショーであるが、長く、真剣勝負をやっていることにされていた(表向きは今もされているが)。
戦後間もない頃、力道山という国民的英雄であるレスラーがアメリカ人レスラーを倒すのであるが、力道山も決して楽勝するのではなく、苦戦の後、根性で逆転勝ちするよう設定され、それは成功して大プロレスブームを起こし、そのパターンはその後、そして、現在も、おそらく未来も受け継がれるだろう。

ところが、アメリカンヒーローの代表であるスーパーマンの、1941年の最初のアニメ(カラーで凄いクオリティのアニメだ)では、スーパーマンはとにかく強い。
多少のスリルは感じさせるものの、スーパーマンの力は絶対的で、スーパーマンが登場すれば、もう視聴者は安心して見ていられた。
また、日本でも、『黄金バット』(1967)では、黄金バットは強過ぎるくらい強く、敵のナゾーがどんな怪物や巨大ロボットを出してきても、まあ、何の問題もなく黄金バットは楽勝した。
スーパーマンや黄金バットのように圧倒的・絶対的に強いヒーローは面白くないと思うかもしれないが、気楽に見れるだけでなく、やはり、どこか爽快なところがある。
私も最近、Amazon Prime Videoでこれらを見てみたが、強過ぎるヒーローも良いものだと思った。

そのような「強過ぎる」ヒーロー・ヒロインは、一般的には面白くないこともあり、珍しく、ほとんどないと思う。
ところが、2012年のアニメ『BEATLESS』のヒロインである美少女型アンドロイド、レイシアが少し違う形で極めて強い。
彼女は、身体そのものは無敵ではなく、敵の中でも、メトーデという超強力なアンドロイドに対しては、「メトーデとの直接対決は自殺行為」と自分で言うほど、メトーデの方が強い。
しかし、強力なメトーデに大苦戦するように見えても、最後には、計算通りという感じで大どんでん返しをして、敵を、そして、視聴者を驚かせる。
レイシアの恐ろしい強さは、身体ではなく、頭脳とテクノロジーなのだ。
ある時、レイシアはアラト(主人公で17歳の男子高校生)に、自信たっぷりに言う。
「私には、あなたが望む未来を引き寄せる力があります」
それは、戦闘力などとは次元の違う巨大な力である。
アラトの親友リョウは、その力を恐れ、アラトに敵対する。

だが、アラトには、レイシアがいなくても、望む未来を引き寄せる力は、自分の内にある。
そして、それは、どんな人間も同じなのだ。
我々全てが、アラトのように、レイシアが身近にいるようなもの・・・いや、レイシアなど比較にならないほどの力が味方なのだ。
『黄金バット』では、マリーという名の金髪の少女が呼べば、いついかなる場所でも、黄金バットは即座に、颯爽と現れ、マリー達のピンチを救い、敵をやっつける。ほとんど危なげなく。
だが、我々は、黄金バットにはるかに優る存在と共にあり、それはいつでも味方してくれる。
聖書にはこう書かれており、ドナルド・トランプがこよなく崇敬するノーマン・ヴィンセント・ピールの『積極的考え方の力』では、ピールは絶望の淵にいる男に、その言葉を教えて立ち直らせる。
その言葉は、
「もし神が我々の味方であれば、誰が我々に適し得ようか」
である。
「神」という言い方に抵抗がある人もいるだろうが、ジョセフ・マーフィーは『あなたも幸せになれる(文庫版では「努力嫌いの成功法」、原題は「コズミック・エナージャイザー)』で、偏在する全知全能の力を「宇宙の活力(コズミック・エナージャイザー)」と呼び、それをいつでも使えることを示した。
一般的には、マーフィーは、その力は潜在意識の力としている。
我々は、アニメや映画を通して、「あっぷあっぷの大苦戦ゲーム」に慣らされてしまい、しかも、自分はヒーローやヒロインでないので、負けるのが当たり前になってしまっているかもしれない。
だが、そうではないことを知らなければならない。
我々は、アラトやマリーより良い立場なのである。
それをはっきり認識しなければならない。
中国出身の著名なアメリカの女性作家で事業家で自己啓発の指導者であるチン・ニンチュウは、ある夜、自分が羊になり、神様に世話をしてもらう夢を見て、自分はただ、神様にしっかり面倒を見てもらえば良いのだと気付き、涙が止まらなかったと言う。
我々も同じなのである。








500回から2000回言えば出来る

私も、さっき検索して分かったのだが、「分かっちゃいるけど やめられねぇ」という言葉は、『スーダラ節』という1961年リリースの楽曲の中の言葉だった。
作詞したのは、東京都知事を務めたこともある有名な俳優の青島幸男さんだ。
私は、青島さんが出演している映画というのは、モノクロ映画の『黄金バット』(1966)を十年ほど前、気紛れで買ったDVDで見たものしか知らない。
この映画で、青島さんは、ごく気さくな刑事さん役だった。
この映画の主人公のヤマトネ博士役は、若き日の千葉真一さんで、さすがに非常に格好良かった。ヒロインといえるのは、エミリー役の高見エミリーさんで、撮影時は10歳だったと思うが、大変な美少女だった。高見エミリーさんは、現在は鳩山エミリーさんで、つまり、鳩山邦夫さん(故人)の奥さんである。鳩山邦夫さんは宇宙一の幸せ者だったに違いない。
話が逸れたが、「分かっちゃいるけどやめられねぇ」の歌の内容をざっくり言えば、平均的と言えるだらしない男の独白みたいなもので、酒、競馬、女遊びでロクな目に遭わないことは「分かっちゃいる」けど、どうにもやめられないという、まあ、ある程度は誰でも身に覚えがあるようなもので、当時のサラリーマン男性の共感を得てヒットしたのだと思う。Wikipediaによれば80万枚売れたらしい。

誰しも、「やめた方が良い」あるいは「やった方が良い」と分かっていることで、「やめられない」し「やれない」というものが、いくつかはあると思う。
いわゆる、悪習慣というやつである。
子供にいくら「部屋を片付けなさい」と言っても全然片付けないが、そもそもが、自分が片付けが出来ない人も多い。
しかし、人間の状況は、一瞬の魔法で出来るのではなく、習慣で出来るのであるから、「分かっているなら」やるべきことをやり、やるべきでないことはやめたいものである。それを、『スーダラ節』では、「無理なんだよ」と諦めてしまっている訳だ。

理想を言えば、イチローのように、毎日長時間練習すれば、一角のものになれるかもしれないが、それが出来ない自分を嘆く人が多いのだろう。
では、どうすれば、「やれば良いと分かっている」ことをやり、「やらない方が良いと分かっている」ことをやめられるのかというと、「言葉にすれば良い」である。
例えば、コンピュータープログラミングが出来るようになるためには、プログラミングの勉強をすれば良いだけである。
「私はプログラミングをマスター出来ない」とか「多くの人はプログラミングが出来るようにならない」などと言われるが、それは変な話である。
単に、「私はプログラミングの勉強をしない」「多くの人はプログラミングの勉強をしない」だけで、普通に勉強すれば誰でも出来る。
まあ、そう言えば、「その通り。ですが、どうしても勉強出来ないのですよ」と、やっと本質が見える。
それなら、「私はプログラミングの勉強をする」と、上の空でつぶやけば良い。
ただし、500回から2000回。
つまり、習慣を変えるには、10回や20回、それどころか、100回や200回言っても駄目なのである。
「子供が片付けしない」と嘆いたって、多分、せいぜいが数十回しか言ってないのだ。
「部屋を片付けなさい」と淡々と500回言えば、普通の子ならやるようになるし、少々頑固な子でも2000回でやるようになる。
ただし、どやしつけるようには言わない方が良い(そもそも500回、どやしつけることは出来ない)。感情込めず冷静に言うことだ。
例は悪いが、昔のオウム真理教で、「お布施するぞ」と、500~2000回聴かされた信者は、やっぱり布施をしてしまうのだ。そうなる前に逃げ出すべきであった。
これを、望ましいことに対して、自分でやれば良いだけである。








「超」と「だいたい」

チームラボ社長の猪子寿之さんは、ブレずに「超」という言葉を使われているようだ。
「超」は、20年も昔に若者が盛んに使った言葉で、今も一般語とは言い難いが、何とか普通に通じる。
強調を表すために今の若い人がよく使う、「めっちゃ」も、猪子さんは、よく使っておられるように思うが、「めっちゃ」は、それこそ大昔からある関西の方言で、関西に近い徳島出身の猪子さんにも、子供の時から馴染みのある言葉かもしれない。

ただ、猪子さんの「超」(あるいは「めっちゃ」)は、意思が込められているように思う。
そのような使い方は、集中を促し、熱意を高め、エネルギーを増大させる。
うまく適用すれば、自信にもなる。
集中やパッション(情熱)、自信は成功に不可欠な要因なのだから、大いに真似すれば良いと思う。

ただ、「超」、あるいは、「めっちゃ」が軽過ぎると感じるとしたら、どうすれば良いかというと、意思を込めるための強調語というのは、昔からいくらでもある。
それこそ、「必ず」とか、「絶対」、「いっとう(一番)」なんてのもそうで、実際、これらの言葉を多用する者は、集中とパッションと自信で、力を発揮する人が多い。
1947年に登場し、実際は1930年からあったと言われる日本のヒーロー、黄金バットのキャッチフレーズが「強い!絶対に強い!」らしいが、「絶対に強い」なんて見たり聴いたりしたら、昔の子供でなくたってワクワクするだろう。

今や海外でも知られる「カワイイ」は、これだけでも十分に心が温かくなり、トキメキを感じるが、「超カワイイ」、「めっちゃカワイイ(今は略して“めっかわ”と言うらしい)」と強調すれば、ただごとでない雰囲気になり、それは、精神エネルギーを高め、肯定的な気分にさせる。
要は、昔の若者がやったように、何にでもとりあえず「超」を付けるという怠惰なやり方でなく、意志力をもってやれば、シンプルな強調語は魔法のような効果をもたらす。

ところで、ドワンゴ会長の川上量生さんは、今はどうか知らないが「だいたい」とか「わりに」という言葉をよく使われていたと思う。
百点満点に対し、「超」「めっちゃ」が、120点、あるいは、200点以上を指すのに対し、「だいたい」「わりに」は、80点、90点という感じだ。
これは、考えると、非常に面白い。
百点なら嬉しい。
百点満点のことで200点はあり得ないが、あれば超嬉しい。
しかし、百点でなくたって、80点や90点でも十分良いじゃないかという雰囲気を感じるし、何より、現実味がある。
夢は大きくと言うが、大き過ぎるとリアリティーがなくなり、かえって、集中力や熱意がなくなる。
そこへいくと、完璧ではないが、十分に良いというもので手を打つことは、仏教的な知足の精神にも通じ、冷静さももたらす。
川上さんはスーパー経営者なのだから、相応しい言葉であるし、頭の良い人には、馴染み易い言葉であると思う。
猪子さんも頭は良いが、非言語的な価値を重んじる「超えている人」だ。そんな人には「超」が似合っている。
ここらは、初音ミクさんのことを「超好き」と平気で言う猪子さんと、ミクさんの話はよくするが、自身が好きかどうかはっきりしない川上さんの違いでもあるように思う。
ところで、私のように古い人間には、黄金バット的に「絶対」が合っているようである。

参考になればと思う。









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日本人の特性を無視してはならない

DVDやブルーレイの映像をPCのHDD等に取り出すことは、最初からプロテクトをかけられていないものを除き、2012年の10月に法律で禁止になったが、実質では2012年6月に既に違法だったと思う。
個人的には、全く馬鹿げた法律と思うが、一応は法である。
ところで、私は昨夜、1966年の日本の特撮映画『黄金バット』のことを書いたが、この作品のDVDの映像(勿論、音声も含めてだが)を、それよりずっと以前に取り出していたので、それに関しては違法ではない。無論、この映像データを他人に渡すようなことはしてはいけないし、これに関しては私も全く同意である。
ただ、自分で購入したものを自分でどんな方法で見ようと自由であるべきなのだ。
そもそも、タブレットPCなんて、DVDやブルーレイの映像を見る以外に、どれほどの使い道があるだろう。
せっかくDVDやブルーレイを持っているのに、また別に、タブレット用の映像を購入したり、有償で見るなんておかしな話である。
それはともかく、『黄金バット』の映画をスマートフォンで見ていて気付いたことがある。
以前、大画面テレビで見た時は、当時としても、あまり多くの予算を割いた訳ではないと思われるこの作品の映像は、言っては悪いがいまひとつだと思った。
その当時でも、国内にだって素晴らしい特撮映像作品はあった。
しかし、『黄金バット』をスマートフォンで見たら、これが驚くほど素晴らしいと感じたのだ。
『禁断の惑星』など、古いが非常に優れた特撮技術で撮られたものと比べても、映像そのものの差はあるのは分かるが、十分に楽しく見ることができる。
これは、映像を縮小することでアラが目立たないということもあるだろうが、それよりも思い出したことがある。

世界的版画家だった池田満寿夫さんが、海外の展示会に出品した時のことだ。同時に作品を出していた、他の国内の高名な画家を差し置いて、池田さんが素晴らしい賞を受賞した。
その時、別の画家が、「お前が評価されたのは、版画であるからというより、作品が小さかったからだ」と言い、池田さんは、それをあっさり認めた。
池田さんの作品は、縦横それぞれ十数センチだったのではないかと思う。
池田さんは著書に、日本人は広大な空間感覚がなく、その点では西洋の作家に劣るが、小さいものを繊細に創る能力があるのだと書かれていたと思う。
もちろん、当時と今では、状況も変わっているのかもしれず、日本人だって大きな優れた作品を作れるようになったと思う。
しかし、やはり、日本人は繊細さ、緻密さに優れていると思うのだ。
野球でも、イチローが代表的であるのだが、パワーでは西洋人に劣っていても、微妙で正確なバットコントロールができるのが日本人バッターの強みであると思う。
同じ東洋人でも、中国は国土だけでなく、大袈裟とも言えるほどスケールの大きな国民性があり、道とはも物凄く広い。
コンピュータープログラミングでは、一般的にだが、中国の技術者は非常に早く製作ができ、性能も良いものを作るが、仕上げが雑な点はあると思う。
その点、日本人技術者は、細かい点の神経が行き届いていて、製品としては安心できると思う。

あなたがどの分野で能力を磨いているとしても、もし、やはり自分には日本人らしい繊細さが、ダイナミックさに優っていると思うなら、丁寧に細やかにやってみることだ。
すると、思わぬ才能を発揮し、素晴らしい成功を勝ち取るかもしれない。
そんな人は実は非常に多いのに、多くの人達がやり方を間違え、西洋的な巨大さを目指してしまっていると思えるのだ。
せっかく繊細な優れた神経と才能を持っているのに、西洋人などの真似をして、豪快、雄大を目指すと、凡庸なことしかできないかもしれない。









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地球の平和は黄金バットに任せることだ

アントニオ猪木さんは、子供の頃、黄金バットというあだ名がついていたという話を、猪木さんの本で読んだ覚えがある。
黄金バットは戦前からあった紙芝居のお話、あるいは、その主人公だが、骸骨、コウモリ、高笑い・・・といった、どう考えても悪のイメージのあるものでも、正義のヒーローになれるのだというところが感慨深い。
私は、数年前に映画『黄金バット』(1966年公開作品)のDVDを購入している。
現在の特撮ものと比べると、正直、かなりプアと言うのも仕方がないが、ヤマトネ博士を演じた若き日の千葉真一さんが格好良いし、ヒロインのエミリー・ベアードを演じた、当時11歳の高見エミリーさん(現在は鳩山エミリー。鳩山邦夫さんの奥さん)の美少女振りは息を飲むほどで、この作品の煌く華だった。黄金バットが、「お前が呼べばいつでも現れる」と言い残して去ったのも当然と納得してしまう。

それはともかく、黄金バットの歌では、「地球の平和を頼んだぞ」と歌われているが、昔のヒーローものの主題歌では、そんなふうに、「守れ僕らの幸せを」(ウルトラセブンの歌)といった感じの、ヒーロー任せで、取り様によっては、怠惰、無責任と感じられるものが多かったと思う。
「強い人だからといって頼ってばかりではいけません。自分の平和、自分の幸福は自分の手で掴み取りなさい」というのが、まっとうな意見かもしれないが、それが、現代的、西洋的合理主義というものだろう。
しかし、そうだろうか?
敵が怪物や宇宙人なら、黄金バットに任せるしかなく、下手に「僕も戦います!」なんて言うと、黄金バットさんとしては、「気持ちは有り難いが・・・」で、足手まといと言うか、はっきり言って邪魔だろう。
そして、世間なんて怪物だらけなのだ。
ところが、手塚治虫さんの『ミクロイドS』では、人々がヒーロー達に加勢しないことで困難が起こるといったことが描かれていた。
だけど、どうだろう?
やっぱり、我々凡夫はヒーローに任せるしかないのだ。
ただ、ヒーローが「ただちに避難して下さい」と言ったら、四の五の言わずに従い、ヒーローが、「腹減った、何か食わせろ」と言ったら、普段、自分は五百円のステーキしか食べなくても、2千円のステーキを奮発して振舞えば良いのではないだろうか?
そして、何より大事なのは、「俺だってヒーローに負けないくらい戦えるが、ヒーローに任せているのだよ」などどいう見栄や狡猾を捨てて、ヒーローを褒め称えることではないだろうか?
このあたりの発想が、現代人には欠けているのだと思えるのである。
それが現代人の不幸の原因なのだろう。

因幡の源左(いなばのげんざ)という、1842年に生まれ、1930年に亡くなった人は、念仏の行者だった。
つまり、彼のヒーローは阿弥陀如来で、彼自身は阿弥陀如来を「親様」と呼んでいた。
ある日、彼の畑の芋が掘り返されて、盗まれていた。
すると、源左は、畑に鍬を置いておくようになった。
その理由は、「手で掘って怪我しちゃいけないから」というものだった。
町で作物を売り、金を持って帰る道をついて来る男がいる。
源左だって、彼が強盗だってことくらい分かったが、恐れずにその男に近付き、
「金が欲しいならやるけどね」
と言って話しかけ、家に連れ帰り、食事をさせて一晩泊め、さらに、いくらかの金を持たせて見送った。
一時が万事、こうだった。
それで幸せに生涯を全うしたが、それも、阿弥陀如来への信頼があったればこそだった。

親鸞は、流罪になり、赦免されてからも、流罪地と変わらないような場所を放浪し、念仏の教えを説いていた。
ところが、いかなる土地であっても、その土地の信仰が無いような場所は、まずない。
そして、そんな地元の信仰を取り仕切っている者が、そこの人々の信仰によって有力者の地位についているのも普通のことだろう。
親鸞は、人々と働き、人々と過ごしながら教えを説き、念仏の教えを広めていった。
だから、親鸞は非常に危険な立場だった。
ある時、親鸞は、地域宗教の支配者にひどく憎まれた。そして、彼が、自分を殺そうとしているということも分かっていた。
その者は荒くれ者で、人殺しも平気だった。
だが、その者がやってきても、親鸞は平然として話を始め、説得して念仏の信者にしてしまった。
これもまた、阿弥陀如来への信頼がなければできないことだろう。
合気道の創始者、植芝盛平の高弟の塩田剛三は全く不可思議としか言えないような超人的な力を持っていたと言われるが、彼に、「合気道の一番強い技は?」と尋ねると、「自分を殺しにきた相手と友達になること」と答えたという話がある。
それは、理屈の通ることではないが、美しいと感じるものである。
植芝盛平の本を読むと、植芝盛平は自分が発揮できた力は人間個人の力ではなく、やはり、神の力であると考えていたようで、それは塩田氏も同じなのだと思う。
親鸞、因幡の源左、植芝盛平、塩田剛三らには、個人としての自分に力があるのではなく、この世には至高の存在があり、それとつながることを知っていたのだと思える。
道元はそれを座禅でやり、親鸞は念仏でやったのだろう。
だが、現代人は神仏に任せる正しいやり方を知らない。
それで、自己本位になったり、怠惰になったりするのだ。
ニサルガダッタ・マハラジが、自分が全て神に任せて何もしていないと言うと、誰かが、「それでは楽過ぎないですか?」と尋ねた。すると、マハラジは「そうだ。楽なのだ」と答えた。
まずは、地球は黄金バットに任せ、黄金バットが本当に喜ぶように褒め讃える工夫をしてみることだ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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