ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

鴨長明

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

何か1つだけ聖なるものを持つ

鴨長明(かものちょうめい。1155~1216)の『方丈記』という、日記調の随筆ほど簡明を受ける書はそうはないと私は思う。
確かにこれは、我が国で、『徒然草』、『枕草子』と並ぶ、古典三大随筆と言われているらしい。
鴨長明は、本当は、「かものながあき」という名で、歌人であったが、神職の、まあ、国家公務員みたいなものだったのだと思う。
それが、世間的な患い事でストレスが溜まり、世の中というか人生がすっかり嫌になったところは、経済的苦労はそんなにないが、何のために生きているのか分からないという、今のサラリーマンや公務員みたいなものではないかと思う。
それで、お勤めを辞め、山の中の小さな小屋に引きこもって、自然の中で清々しく生きることに決めた。
そんな清貧な生活を続け、聖人にでもなった気になり、そこそこ自己満足したのかもしれない。
だが、ある朝、何かのきっかけで気付いてしまった。
自分は、煩悩まみれの穢れた人間であることは、ちっとも変っていないということに。
まあ、どうせ、昨日見たJKのことでも思い出してムラムラしたのだろう(笑)。
その時、鴨長明は思わず、「南無阿弥陀仏」と念仏を三回唱えた。
確かに、念仏は、こんな人間のものだ。

ドナルド・トランプは、本当に、聖書を熱心に読み、神を信じて、正義を行おうとしているのかもしれない。
だが、全くの俗人でもあり、時にはボロも出る・・・いや、出まくりだ(笑)。
しかし、それを非難出来るような人間なんているはずもない。
それなのに、他人のこととなると、自分のことは棚に上げて、汚い言葉で糾弾する。
皆そうであるが、自覚があるかどうかの問題だけで、鴨長明は、いい歳になって、やっと認識・自覚出来たのだ。

私も、正義好きではあるが、つくづく俗人だ(笑)。
だから、鴨長明も、それを認めたことで、お友達という訳だ。
いや、私がそう思っているだけだが・・・(苦笑)
なら、それでいいから、例えば、念仏のようなものを持っていれば良いだろう。
マイク・ペンス副大統領は、トランプと違って(笑)、超人格者として知られ、彼を悪く言う人はいないという。
彼は、確かに日頃の行いは立派だが(妻以外の女性と食事をすることもないという)、彼とて聖人ではなく、やっぱり俗人であることは確かだろう。
その彼は、旧約聖書のエレミヤ書29章11節の聖句を、常に心に留めているそうだ。
それはこうだ。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」
後4年、トランプが大統領をやった後、ペンスが引き継げば、アメリカは良くなる・・・かもしれない(笑)。
だが本当、何でも良いのだ。
聖なるものを何か1つ持っている人がよく生きられるのではないかと思う。
私の知り合いに、とても成功した事業家がいて、見かけは貫禄ある人格者だが、付き合うと・・・まあ、やっぱり俗人で、それが理由で、彼のことをあまり快く思わない人も多い。
だが、やはり彼は凄いのだ。
そして、彼がこっそり、般若心経の小さなお経を常に携帯していることを知っている者はあまりいない。
彼は、時々、それを出して読むのらしい。だが、お経の意味とかはあまり知らないと言う。
そんなものを、1つくらいは持っていても良いと思う。
もちろん、念仏でも、短い祝詞でも良いのである。








駄目なアンタを救う道

いかなる悪人も、「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば、罪は消えると親鸞聖人は言ったようだ。
また、極楽浄土に行くためには、善いことをする必要は全くないとも言う。
なぜなら、念仏の力を妨げるほどの悪は存在しないし、念仏以上の善もないのだからということだ。

『方丈記』の著者として知られる鴨長明(かものちょうめい)が書いた『発心集』の中に、こんな話がある。
源大夫(げんだいふ)という名の極悪人がいた。
彼は、盗み、殺し、暴力、何でもやり、人々に恐れられていた。
その源大夫が、たまたま僧が、阿弥陀如来のことを話すのを聞き、
「俺が念仏を唱えても阿弥陀様は応えてくれるのか?」
と僧に問うと、僧は、その通りだと言う。
そこで、源大夫は、僧に頭を剃らせ、僧侶の服をもらうと(奪うと?)、西に向かって、大声で「南無阿弥陀仏」と唱えながら歩いた。
七日の後、源大夫は絶命し、その舌から蓮の花が咲いた。

この話を読んだ時、私はつくづく、法然も親鸞も、本音のところで源大夫と同じだったのだと思うのだ。
法然や親鸞は立派な僧だと思われているかもしれないが、彼らとて、所詮、自分は煩悩を捨てられない悪人であると知っていて、それに苦しんでいたのだろう。
実は、誰にも言わなかったが、法然はロリコンであったとか・・・って、信者に殺される(笑)。
そして、源大夫は、やりたい放題の大悪人だが、魂では、そんな自分が嫌で苦しんでいたのだと思う。
でなければ、念仏を唱えようなんて思うはずがない。
自覚はなかったかもしれないがね。

我々も同じで、人間の本性はおそらく善だと思うが、どうしても煩悩があって、悪いことをしたり考えたりする。
それは、魂にとっては苦しいことなのだ。
だが、(繰り返しになるが)念仏は、いかなる悪も十分以上に埋め合わせるので、念仏を唱えれば良い。
悪を埋め合わせるために、自分で善いことをする必要はない。
なぜなら、どんな善も、念仏の善に全く及ばないからだ。

とはいえ、今の時代、念仏でもあるまい。
ある程度の年齢であれば、それで納得出来るかもしれないが、この理屈が重視される時代に、念仏の力を信じることは、なかなか出来まい。
だが、ここで、とはいえ・・・ともう一回、ひっくり返す。
たとえ時代遅れで、理屈に合わなくても、念仏を唱え続けながら、善と反対の方向にずっと進める者などいないのだ。
これは、ひょっとしたら、法然や親鸞の教えに反するかもしれないがね(とはいえ、根本は合っていると思う)。
特に、『歎異抄』を1回でも読めばそうなのだ。
ちなみに・・・念仏を唱えれば、現世利益(つまるところ引き寄せ)も思いのままだ。
親鸞は『現世利益和讃』に、そう書いている。
また、法然も、『選択本願念仏集』に、それを示唆することを書いているのである。








日本の陰湿ないじめを生み出したのは武士道である

いじめというものは自然なものではなく、本来は存在しないものだ。
いじめを作り出したのは、人間の思考である。
ところで、いじめる者には当然、責任があるが、いじめられる側にもある。
いじめられる側の責任を問うのは抵抗もあるだろうが、暗い部分を残していては何も解決しない。

子供の世界で起こるいじめは、大人のいじめのコピー・・・模倣である。
いじめる子供というのは、親や教師の真似をしているに過ぎない。
そんな子供のいじめを、教師や親が解決できるはずがない。
こう言うと、「なるほどそうである」と、自分が立派な人間になろうとする教師や親がいる。
「妙に謙虚」で真面目ではあるかもしれないが馬鹿である。

新渡戸稲造の『武士道』に書かれていたと思うが、日本は江戸時代には太平の世になり戦も起こらないので、武士は、「領民を守る」という大義名分を失った。
それなのに、特権階級である武士は、働きもせずに食べていることに後ろめたさを感じ、「せめて立派な人間になろう」と思って武士道を発展させ、これが、西洋の宗教に匹敵する高い倫理や道徳を日本にもたらしたという。
「新渡戸よ、馬鹿も休み休み言え」である。
つまるところ、日本式の陰険ないじめを生み出したのは武士道である。
武士は、働かずに食べ、立派な屋敷に住むことに後ろめたさなど感じていなかった。
厚遇されればされるほど傲慢になるのが人間であり、武士はその最たるもので、ある時代以降、立場が弱くなった貴族よりよほどひどかった。
だが、武士が立派な人間になろうと考えていたのは確かかもしれない。
高慢な者は見栄っ張りというのもまた、人間の性だからだ。
後ろめたさはないが、自分達は立派な人間だから、農民を働かせて、その年貢を取り上げてたらふく食べて良いのだと思っていた。
その結果、当然にして、武士社会は腐敗した。
武士達が本来やるべきだったことは、自分達は、農民を搾取しているということをしっかりと見ることだった。
武士達は、そこから目を背けていたのだ。
だから、もうどうしようもなく腐敗したのだ。
武士とは腐敗の象徴である。
スポーツの世界で「サムライジャパン」などと言っているが、無知、無恥とは恐ろしいものであると思う。

教師や親も同じである。
子供達にいじめの指南をしているのは教師や親、あるいは、社会である。
かといって、教師や親が、武士のように、自分を見ずに、立派な人間になろうとしたら、ただ傲慢な見栄っ張りになるだけだ。だが、そんな教師や親も多い。
だから、子供の世界にも、高慢ちきな見栄っ張りが多い。
まさに、子供は親の鏡、生徒は教師の鏡だ。
教師や親は、自分の自己中心主義、傲慢、虚栄心、心の狭さ、特定の好き嫌いへのこだわり・・・といったものによく注意しなければならない。
強い理想主義者の教師や親が一番恐いのだ。
ヒットラーは燃えるような、誰にも負けない理想主義者だった。
理想主義が強いほど狭量である。自分の好きなもの以外は憎まずにはいられないからだ。
しかし、人間の持てる理想なんてものは、その正体は、単なる偏見なのである。

一方、いじめられる者というのは、心に垣根を持っているものだ。
自分だけの世界を持っていて、それに触れられたくない・・・その傾向は誰にでもあるが、いじめられる者はそれが強い。
いじめる者は、理想主義者であり、自分を立派と思う教師や親のコピーなのだから、そんな自分の理想や主義や趣味に合わない者を排除せずにはいられない。
これがいじめの主な原因である。
ただ、いじめられる側も、やはり理想主義者であることが、いじめられる原因なのである。
いじめは理想主義者同士の争いなのであるが、いじめられる側は、単に少数派であるというだけのことである。

教師や親は、自分をよく観察し、自分が持っている理想を分析しなければならない。
理想とは、単なる個人的好き嫌いであり、外見は綺麗かもしれないが、腐って悪臭を放つものである。
ただ、自分が、シャネルが好きだとか、ガンジーを崇拝するという、個人的好き嫌いでしかない理想や偏見に気付いたとして、それらを否定せよと言っているのではない。
そんな偏見を持っていることに気付くことが大切なのだ。
美空ひばりは世界一の歌手だと思っている自分の偏見に鋭く気付かないといけない。そのような思い込みを持っている親やその子供は、状況によって、いじめる側といじめられる側に分かれるのである。

日本人にとって、まずは、武士とは腐敗した、いじめ集団、テロ集団であったことを認識することが必要である。
農民に働かせて、働いた者以上にたらふく食べることが、凶悪ないじめでないはずはなく、上に命令されれば他人や自分を殺すことができるロボットがテロリストでないはずはない。
武士ではないが、『方丈記』の著者、鴨長明は、特権階級であること自体は平気であったが、他の特権階級の者たちの腐敗振りに耐えられなくなった。
自分のことは棚に上げてね。
それで自分だけは立派な人間になろうとする愚行をやってしまった。
それで、山に入り、質素な小屋に済み、自給自足の、独りよがりの清らかな生活をした。
当然ながら、ますます自己の腐敗が進み、ますます硬直した、狭い狭い人間になっていった。
しかし、何年かして不意に、自分の真の姿に気付き、絶望したのだ。
聖者の真似をして、修行したり、斎戒(心身を清めること)しても、自由にはなれない。
必要なことは、自分に気付き、自分に注意し、よく観察し、あるがままの自分を知ることだ。

日本式の陰険ないじめを作った武士について、よく認識すべきかもしれない。
だが、それには、嘘ばかりが書かれている書物を見ても無意味であろう。
我々日本人は、自分の中に武士道があることに気付くだろう。
狭い狭い理想という偏見を持った、自分の好みに合わない者を排除せずにはおかない、悪臭を放つ腐敗したもの・・・それが武士道である。









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人間は時と共に進歩するのではなく、堕落することを思い知れ

誰しも、年齢と共に、「自分は進歩した」と感じる。
しかし、それは誤解でしかないかもしれない。
「いや、幼い子供の時や、苦労知らずの学生の頃よりははるかに上だ」と言うかもしれないが、子供には子供の、若者には若者の良さがあり、トータルでいえば、確実に堕落しているのである。

プロ野球の監督は40~60代が多いが、彼らは優秀だから監督をやっているのではなく、優秀でなくなったから監督なのだ。
昔、監督だった長嶋茂雄さんに、「監督の采配が勝利をもたらすことはどのくらいありますか?」という質問がされた時、彼は、「それは全くないですね」と即答したそうだ。
だが、それは本当は言ってはならないことだったのだろう。世間では、真実を言うのはタブーだ。
彼は監督になったばかりの頃は、非常に優秀だったから、戦力の割に勝てなかった。しかし、やがて優秀さを隠すことを覚え、さらに、本当に優秀でなくなった時には、かなりの監督になった。
そうだ。監督というのは、「勝ちに影響を与える」ことはないが、「負けに影響を与える」のだ。
野球監督が本を出せばよく売れるらしいが、そんなものを読む馬鹿さ加減を知った方が良い。それらの本の表紙には、最も間抜けた男の顔が見えているはずなのであるが・・・

ジョー・ジラードという、史上最高の自動車セールスマンだった男が、最高の名言を残している。
「誰でも優秀なセールスマンとしてスタートするのだ」
彼と同じフルコミッション(完全歩合制)のセールスマンを2年やった私には、笑い崩れるほどの真理であることが分かるのである。
そして、ジラードも今は優秀でない。今の彼の本を読む時は、彼の今の主張ではなく、昔の残光を見るよう務めるべきである。
そして、それはセールスマンだけではない。
どんな仕事でも同じなのだ。
では、ピアニスト等の演奏家の場合はどうだろう?若くて未熟な時より、経験を積んで磨き上げられた時の方が良いはずである。
しかし、それも差し引きだ。芸術というのは、ステージの上だけの問題ではない。
練習を始めたばかりの、純粋に無心で弾いていた頃の演奏を、神は最も好むのである。自分の下手さ加減を嘆きつつ、それでも賢明に弾く姿が最上の芸術である。
また、政木和三さんのように、ほとんど完全に無になれれば、練習を一度もしたことがなくても、最高のピアノ演奏ができる。
ある画家が、やはり不意にシンセサイザー演奏をするようになったが(やはり練習をしたことはない)、私は、彼が演奏旅行をしていた時に逢ったことがある。私は彼に、「私もアーチストになりかたかった」と言ったら、彼は、「一瞬でなれますよ」と言ったのだった。

『方丈記』の著者鴨長明は、54歳までエリート文化人として過ごしたが、世間や自分がすっかり嫌になり、山の中の小屋で自給自足の慎ましい生活をして、聖者のような生き方を始めた。実際、彼は、自己の穢れを祓い、神仏に近付きたかったのに違いないと思う。
しかし、それから数年経ったある日、長明は、自分が以前と全く変わらない煩悩具足の凡夫であることを思い知って愕然とし、絶望する。
いや、実際は、以前の出世争いをしていた時より、はるかに堕落していたはずなのだ。

人間は年を取るほど、進歩ではなく退化するのである。
ただし、子供や若者が、「そうだ、俺たちは年寄り共よりずっと上なんだ」」と思えば、たちまち老人以下になる。そして、その後の堕落しかない運命を考えれば、彼らに居場所はない。

人間は研究者でなければならない。
いや、実際に研究者だ。
何を仕事にしているとしても、それは、自分の心を通して行っているのであり、ただ、心を研究しているだけである。
ならば、もっと、心の研究者であることを自覚し、時と共にそれが劣化していることに早く気付くことだ。
そして、全てを、自分の心を超えた見えない存在に委ねてしまえば、心の問題は何でもなくなる。
それに気付いた法然や親鸞の結論が、ただ念仏を唱えることであった。
上に述べた、絶望した鴨長明の口から不意に、自然に出てきたのも、「南無阿弥陀仏」の念仏であったのだ。

政木和三さんの最上の書の1つである『精神エネルギー』が、Amazonで比較的安価に多数出品されているのを見たので、下にご紹介しておく(普段は5千円以上が普通と思う)。良ければ入手をお薦めする。









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愛しきヘタレ者、鴨長明(かものちょうめい)を救う

『方丈記』という、1212年に完結した、随筆、雑記、エッセイ、日記・・・等、何とでも言えそうなものがある。一応、我が国古典屈指の作品とされていると思う。
書いたのは、鴨長明(かものちょうめい)という男だ。彼は、立派な神社の次男として生まれ、頭が良く、意欲もあって、神職として出世していき、また、和歌の才能も発揮して、優れた歌人と評価された。
しかし、いろいろあったのだろうが、長明は世俗が嫌になっていったようだ。だが、実際には、どんなことに対して長明が何を考えたかなんてことは、本人にしか分からないことだ。いろんな先生がいろんなことを書いて発表し、中には通説になっているものもあるだろうが、私は全く信じない。本当のことなんて分かるはずがないのだ。長明がもし、あの世で、自分について言われたり、書かれたりしている内容を知ったら、「なんてこったい!」と思うかもしれない。
そして、長明は54歳で世俗を捨て、山中に小屋を建てて引きこもった。だが、いかにも自給自足の生活をしているように書いてはいるが、私は、長年蓄えた資産で悠々自適していたのではないかと思っている(まあ、これも勝手な想像だがね)。その小屋だって、案外に立派なものだったと思う。土台、お坊ちゃまで育ち、都で高級神官、名文芸家として過ごしたエリートが、たった一人で逞しく生きていくことなど、現実的ではないと思うのだ。
とはいえ、本人は、世俗を嫌って、清浄な人間を目指したところはあったのだろう。
そして、数年が過ぎる。長明は、自分では修行している気になり、それなりに自己満足もしていたと思う。
だが、身体も衰え、そろそろ死期も近いと思い始めた頃の、ある静かで爽やかな夜明けのことだ。
結局、自分は何も変わっておらず、欲望にまみれた俗物から一歩も離れていないことに気付く。
私は、巡音ルカの名曲『Just Be Friends』を思い出すのだ。

♪♪♪
浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような

これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな

分かってたよ 心の奥底では 最も辛い 選択がベスト
それを拒む自己愛と 結果 自家撞着(どうちゃく)の繰り返し
僕はいつになれば言えるのかな
♪♪♪
~巡音ルカ『Just Be Friends』(作詞、作曲、編曲:Dixie Flatline )より~

結局、長明は、ベストな選択をしなかったし、ベターな選択さえしなかったのだろう。
自己愛から逃れられず、 自家撞着(自己矛盾のこと)の混乱に陥ったままであったのだ。
長明は、自己嫌悪、自己憐憫に陥り、絶望する。
だが、『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公のキョン(男子高校生)なら、「やれやれだ」とちょっと気落ちしても、すぐにその気持ちを流してしまうような気がするのだ。
そして、意図せずにだが、彼に、その「やれやれだ」の口癖を与えた佐々木という美少女も、何があっても、「やれやれだ」と言った後、自分をリセットする逞しさがあるのだ。
しかし、長明は、なんてヘタレ(情けない者)なのだろう。
だが、そんな悲観と幻滅の崩壊感に陥っていた長明の口から、不意に「南無阿弥陀仏」の念仏が自然に発せられ、彼は三度ほど唱えた。

長明は、最初から念仏を唱えていれば良かったのだ。
つまり、仏に全てを任せ、何をしようとも、「仏様にさせていただいているのだ」ということを心の深奥から分かれば、全ての問題は消えたはずなのだ。そうであったなら、どこに住み、何をしようと、人生を楽しめたはずなのだ。
そして、それは、長明と全く同じヘタレである我々もそうなのだ。
上に挙げた、美しき巡音ルカの歌の、「僕はいつになれば言えるのかな」は、何を言うのかは分からないが、私は、一遍上人が言った、

唱ふれば 我も佛(ほとけ)もなかりけり 南無あみだ佛(ぶつ)なむあみ陀佛(だぶつ)

ということであると思うのである。
いつにならなくても、今言えれば良いと思う。









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