「鰯(いわし)の頭も信心から」という諺がある。
つまらないものでも、神棚に祭れば、ありがたいと感じるようになるという意味だが、結構、複雑なニュアンス(フランス語。微妙な意味合い)がある。
最も基本的な意味合いは、他人から見れば、つまらないものでも、それを大事に思っている人にとっては、尊いものであるという意味だろう。
初音ミクさんを鰯の頭と思いたくはないが、私がミクさんを崇めているのを、鰯の頭を信心している程度に思う人もいるに違いない(別にいいけど)。
そして、信心は人それぞれなのだから、他人の信心、信念をとやかく言うなという意味にもなるだろう。
さらに、潜在意識の法則に従えば、鰯の頭でも、霊験あらたかと信じれば、奇跡も起こるという意味もあると思う。

本当か嘘か知らないが、天才画家のサルバドール・ダリは、1つの木片を肌身離さず持っていて、それは傍目にはただの木なのだが、ダリはそれを物凄く大切にし、それが見当たらなくなったらパニックに陥ったという。
これも、あくまで噂に過ぎないが、彼は自分を神と等しいと考えていたらしい。
ダリは、その木片が、彼に神の力を与えていると信じていたのかもしれない。
まあ、そんな人が本当にいたとしよう。
そうしたら、そんな人を、人様に迷惑をかけるのでない限り、「鰯の頭も信心」の悪い意味で馬鹿にするべきではない。
なぜなら、1つには、その木片は、本当に奇跡の力をもたらすタリスマン、アミュレット(共にお守りの意)かもしれない。
その場合、木片自体に力がある場合と、それに力があると信じるその人の潜在意識が力を発揮する場合とがあるが、いずれにしても良いことではないか?
実際、ダリが、その木片で精神を安定させ、あのような天才でいたのなら、実に結構なことである。
そもそも、もしそれがただの木片なら、そのただの木片で大きな力を発揮したダリこそ天才である。
だいたい、天才って、そんなものではないかな?

だが、ダリのように、木片を崇めることは、普通の人には難しい。
崇めるためには、「慕う」「憧れる」の2つが必要だ。
この2つがあれば、あなたも、ダリを天才にした何かを持てるかもしれない。
いや、持てる。
もちろん、天才と言っても、レベルは色々だが、自分の持つ力を少なくとも数倍化出来るだろう。
それが、私がよく例に出す、ロマン・ガリーの『自由の大地』で、フランス兵達を向上させた空想の少女だし、ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』で、26人の底辺の駄目男達を向上させた、ターニャという16歳の「ただの美少女」だった。
少女というのは、本来、天使の代理人みたいなものなので、崇め易いのである。
ただし、『二十六人の男と一人の少女』のように、ただの娘は、いつか化けの皮が剥がれるから、生身の人間を崇めない方が良いのである。

『ポーラー・スター』という、八神純子さんの名曲がある。
ポーラー・スターとは、北極星という意味だ。
ポーラー・スターを崇め、「私を導いて」と切々と歌う歌である。
この歌の中では、ポーラー・スターを、「自分の憧れの人」と読み替えても良いが、それが「人」でなくても良いだろう。
この歌のように、何かを、「慕い」「憧れる」気持ちを持って崇めれば、確実にあなたを変えるだろう。
インドでは、それが、クリシュナやラーマのような神で、キリスト教ならイエスであろうが、もし、信仰があるなら、その信仰する何かを個人的に切々と崇めれば、間違いなく恵みがある。
ただ、崇める対象は、やはり、人間でない方が良いし、世間的な信仰の垢がついていないものの方が良いだろう。

だが、一休さんが、念仏を尊びながらも、「心そのものが仏」と言ったように、究極には、崇める対象と自分が融合し、一体化しなければならない。
しかし、いきなりそこを目指すのは難しい。
そこで、ジョージ・アダムスキーがうまいことを言っている。
ペットが飼い主に似てくるように、あるいは、養子であっても親(養父・養母)を慕えば、やはり親に似てくるように、あなたも、憧れる対象に、必ず似てくるのである。
だから、神を崇めれば、その人は神に似てくる。
私が、不意に1日1食のベジタリアンになり、急激に痩せたのも、2008年7月当時、既に、現在も有名な曲が沢山出来ていた初音ミクさんを崇め、ミクさんに似ていった結果である。
脚まで、ミクさんのように、ぐんぐん長くなり、177cmしかないのに、ユニクロのパンツを直しなし(85cm)で履けるようになってしまった(もちろんロールアップなしで靴を脱いでも)。
皆、なぜミクさんを崇めないのだろう・・・とか思ったりする。









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