悪い事をした者が、「魔が差した」などと言うことがある。
つまり、「普段はこんなことはしないが、たまたま1回だけやった」と言いたいのである。
そんなこと、信じる訳にはいかない。
痴漢をした者が「いつもは絶対にしない。今度のは魔が差したんだ」と言おうが、彼は痴漢である。

ある平凡な男が、「私は人生で大したことは何も出来なかった。だけど、閻魔様の前に行ったら、トイレの下駄だけはいつも揃えて出たと言うつもりだ」と言った。
だが、たった一度、下駄を揃えずにトイレを出ても、「たまたま」「魔が差した」は通用しない。
閻魔様は、「嘘を言うな。お前は地獄行きだ」と言うであろう。

子供が万引きをした時、「この子は、こんなことするような子じゃないんです」と、親とか、教師が言っても、それで許される訳ではない。
もちろん、子供の場合は、暴力的な子に強制されたとか、そそのかされたという可能性を疑うべきであるが、そうでないなら、やはり、「たまたま」「魔が差した」はないのである。
一度万引きをしたなら、その子は「万引きをする性質の子」である。ただし、再度言うが、あくまで、無理強いも、そそのかしもなかった場合である。
それでも、子供の場合は、更生の猶予は与えられる。子供だからといって、決して、楽観視は出来ないがね。
だが、大人であれば、そんな甘い話には決してならない。
まして、地位が高かったり、社会的な力が大きければ尚更だ。
大相撲の横綱が暴力を振るえば、よほどの大儀(誰かを他の者の暴力から守るため等)がなければ、いかなる理由があれ、角界追放は当然である。
そして、我々は、立派になりたければ、あるいは、自分が成功するに値すると思うなら、横綱のように、王者の掟を自分に課さなければならない。

まるで駄目男と言うしかない男が、だらしないことをしていた時、私が彼を厳しく叱責したら、彼はニヤニヤ笑いながら「たまたまですよ」と言った。
こんな下らない最低の人間になってはいけないし、こんな人間には、いかなる見込みもない。

何か願いがある時、自分がそれを得るに相応しい人間であれば、その実現を信じることが出来る。
我々の潜在意識は、いかなる願いも叶える。
だから、せめて、その願いに相応しい人間であることだ。
遠い、大きな願いであれば、それに相応しい人間になろうと努力することだ。その努力が十分であれば、願いは自ずと叶うだろう。









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