本日は、一昨日に亡くなった叔父さんの葬儀に行った。
そして、自分が世間の外の人間であることを、改めて思い知った。
叔父さんは、私が小さい時から可愛がってくれたし、私は、彼のことが多分、好きだった。
しかし、彼が死んだことを悲しいとは全く思っていないし、葬式で、遺体に献花する場面で参列者が泣いたり、喪主が本当に辛そうに挨拶をし、またそれを見て涙する人達に私が感情移入したり同調することは全くなく、ただ、強烈な疎外感を感じていた。私とて、親戚の人達に親しみは感じており、気持ちが離れていることは嬉しいことではない。しかし、彼らのようになろうとも思わない。
私が、葬式に参列して感じることは、カミュの短編小説『異邦人』で、主人公の青年ムルソーが、母親の葬儀で感じたことと、ほぼ同じと思う。彼は、葬儀のために、母のいた養老院に行くのも煩わしかったし、周囲の人達の、母親が死んだ人に対する世間的な接し方にうんざりした。
だが、彼は「ママのことは、多分、好きだった」と言う。
ムルソーは、葬儀の翌日に、以前の職場の同僚だった若く美しい女の子と偶然出会って、その日のうちにホテルに行く。
しかし、彼は、単に同じアパートの住人という以外に何の義理もない老人が、「犬がいなくなった」と騒いでいるのを、その老人を自分の部屋に入れて、辛抱強く相談に乗ってやったりすることを、ごく普通にする男だった。
私にとって、ムルソーは、稀に見る、まともな人間なのだ。
『異邦人』により、カミュは若くしてノーベル文学賞を受賞したが、私は、『異邦人』は大好きな小説で、本当に傑作だと思う。

一昨年、私の中学時代のクラスメイトが病気で亡くなった。私は、彼と特に親しく付き合ってた訳ではなかったが、どこか彼を敬愛しているようなところが確かにあった。
しかし、私には、何ら悲しいという想いは起こらず、葬式でも、彼のまだ若く綺麗な奥さんや親族の方々と、明るく接していた。
彼が死んだことは残念だとは思うが、全く悲しいとは感じないのだ。
人が、いつ、どのように死ぬかは、全て運命によって決められている。
それは、誰にも、どうやっても変えられない。
ならば、いったい何を悲しむ必要があるだろう。
そもそも、人は死ぬことはない。

私も、かつて、飼っていたインコや犬が死んだ時は、とても悲しく、そして、淋しく感じた。
インコが死んだのは、私のミスということもあり、今でも後悔は感じる。
だが、それも避けられぬ運命だったはずだ。それがもっと分かるようになれば、全く苦しむことはなくなるだろう。

私の知り合いに、とても神秘的な瞳をした、美しい女性がいた。
彼女は、彼女の祖母の葬儀の時、亡くなった祖母が、参列者一人一人に挨拶をする姿が見えたという。
彼女がそう言うと、普通の人でも信じることが出来るのではないかと思うが、実際、人は、死んだ直後に生命力が非常に高くなり、そのようなことは不思議なことでもない。

ところで、本日の葬儀で、とても素晴らしいことがあった。
記帳場には、「香典をお断りしています」と書かれてあった。
これは、亡くなった叔父さんの生前からの意志だった。
参列者には、どうしても受け取って欲しいという人もいたが、喪主は、これだけは本人の意志だからとして、受け取らなかった。
私は、全ての葬式が、絶対にそうであるべきと思う。
葬式には金もかかるだろう。
今日の葬式も、立派な料理が沢山でたし、行き届いたサービスの会場で行われた。
私は、私の父親の葬式の際、葬儀会社の担当者に、「金は香典で回収できます」と言われて、あまりに妙な感覚を持ったことを覚えているが、やはりそれはおかしいのだ。
多くの人は、立派な葬儀をするくらいの金はあるだろう。
しかし、そんなことをする必要は全くない。
亡くなった叔父さんは、妻や子供達の世間体を考え、金は自分が用意していたが、本来は、葬儀は質素にやるべきものだ。
豪華な葬儀が、故人への敬いを示すことには全くならないし、質素な葬儀が、故人を軽んじていることにもならない。
早い話が、葬儀をやる必要なんて全くない。
今は、金持ちや著名人でも、「葬式不要、墓不要」の遺言を残す人も増えている。
私も、早速、「葬式無用」の遺言を作ろうと思う。









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