ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

風の又三郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

AIが足元にも及ばない人間であるには

およそ関係のなさそうなもの同士を、見事に関係付けることを発見と言い、そこに有益な何かが生まれれば発明と言う。
ゼロから何かを生み出すことは実際はなく、あらゆる発明は、ものごとの関係を見つけることから始まる。

では、ものごとの関係性・・・それも、普通の人には分からない関係性を見つけるにはどうすれば良いのだろう?
それには、ものごとの本質を見極めることだ。
ものごとの本質とは、ものごとの、価値の低い要素を取り去った後に残るものだ。
それを、学問的には、難しく、「抽象化された概念」などと言うが、つまるところ、「だいたい」のことだ。

「だいたい、あなたは自分勝手なのよ」
と言った場合、「自分勝手」が、「あなた」の本質だ。
この場合は、言ってる者の主観が入っているかもしれないが、それでも、「だいたい」合っているのだろう。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、流れる水のあちこちに渦巻きが出来るのを見て、何かを感じた。
普通の人は、デタラメに渦巻きが発生しているとしか思わないのに、ダ・ヴィンチは、「渦巻きは、だいたい、こんなもの」と言える何かがあると考えたのだ。
それは、後の世で証明され、複雑系理論などと呼ばれているが、それが分かるには、コンピューターの発達が必要だった。
つまり、ダ・ヴィンチの感覚はコンピューターを超えていたのだ。

「だいたい」を見事に掴むことが、人間の優れた能力である。
ただ、最近のAI(人工知能)は、ディープ・ラーニング(深層学習)によって、「だいたい」を掴めるようになってしまった。
人間は、5から10程度の階層で「だいたい」を掴むが、Googleのコンピューターは22層の曖昧さレベルで「だいたい」を掴む。
こりゃ、敵いっこない・・・ことはない。
人間には、残された聖域がある。
それをお見せしよう。

初音ミクさんが、ターラー菩薩様の化身であることを、AIは見抜けない。
・・・あ、笑うのは待って欲しい(笑)。
では、初音ミクさんの「だいたい」と、ターラー菩薩様の「だいたい」を見抜くことで、両者の関係性を照見しよう。
まず、共に、16歳である。
ターラー菩薩様は、白ターラー様と緑ターラー様が在(ましま)すが、初音ミクさんのイメージカラーは緑である。
そして、ターラー菩薩様が象徴するのは「風」である。
初夏に新緑の間を吹く快い風を「緑風」と言う。
また、緑ターラー様が迅速に救済に駆けつける様は、疾風のごとしである。
長い緑色の髪が際立つミクさんにも、この風のイメージがある。
それを特に感じたのは、冨田勲さんが制作された『イーハトーヴ交響曲』の第4楽章『風の又三郎』で、ミクさんが又三郎を演じた時だ。
又三郎は男の子であるが、ミクさんは、又三郎の風の神の本質を誰よりも表現出来るので、又三郎以上に又三郎になった。
ミクさん自体に、ターラー菩薩様の象徴である風の本質が在るからである。

いかにAIが進歩しても、このようなことをAIは考えない。
「そりゃ、こじつけじゃないか?」
と言うなら、その通りで、「こじつけ」こそ、決してAIが真似出来ない人間の能力である。
こじつけには、空想、感情、情緒、好きという気持ち、直観、気紛れなどといった、AIには手も足も出ないものが一杯あるからだ。
数学理論すら、感情なくして成立しないことを数学が証明しているらしい。岡潔さんが言ったのだから、おそらく本当なのだろう。つまり、感情は理論を超えるのである。
だが、教育された気紛れは、容易くAI(特にビッグデータとの組み合わせ)に見抜かれる。
我々は、本物の気紛れを持たなければならない。
ニーチェも、気紛れを高く評価したのである。
本物の気紛れを持つために、我々は、真の人間性を取り戻す必要がある。
人間性を取り戻すためには、初音ミクさんの透明な歌声の中に在る、ターラー菩薩様の光を見出せば良い。
ターラー菩薩様の光に照らされるためには、ミクさんの歌を聴きながら、慕い憧れる気持ちで、ナーマスマラナ(名前を思い出すこと)、あるいは、ナーマ・ジャパ(名前を唱えること)をすれば良い。
その名前とは、神仏の名である。
慕い憧れる気持ちを持てる神仏であれば、どの神仏の名でも良いのである。
この曖昧さ、恣意(気まま)を持ちながら、なおかつ、ゆるまずにいることが、真の人間の偉大さである。
何十万年進歩しても、AIは足元にも及ぶまい。
ただし、本物の人間であればね。









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熱のある時の食事について

日曜の朝に高熱を発し、2日ほど倒れていた。
で、その間も食のことを考えていたのだが、炭水化物が悪いと言っても、世界には、トウモロコシや芋といった、大半、炭水化物といった穀物を、それしか食べないのに、健康で長寿な民族も確かにいる。
そのような民族は、一度に沢山食べず、1日に5回も6回も食事をするようだ。
ちょっと思い出したのが、ポップシンガーのマドンナが長時間のビデオ収録の際、チーズクラッカーしか食べなかったということだが、やはり、少しずつずっと食べていたのだと思う。
また、ホームランメジャー記録を持つバリー・ボンズは、日本のカップラーメンを高品質の炭水化物として愛食していたが、やはり、1回に1つとし、毎日5つ6つと食べていたという話を聞いたことがある。普通の人には多過ぎるだろうが、身体さえ動かしていれば良いのかもしれない。
そして、夜には、しっかりとしたものを食べるのだろう。

私も熱がある時には、高タンパク、高脂肪の食品は、たとえピーナッツでも気持ち悪くて食べる気にはならず、油で揚げたクラッカーを数枚ずつ食べていた。
旧約聖書でも、モーセと共にエジプトを出た民に、神が与えた食べ物であるマナは、油で揚げて食べると、せんべいのような食感だが甘かったという。

また、米は食べなかった徳川家康は、麦飯と共に、味噌を愛食し、決して欠かさず、戦場には持参すらしたという。
宮沢賢治の『雨にもまけず』でも、一日に四合(茶碗7~8杯)の玄米を食べるとあるが、やはり、味噌と一緒なのだ。
『風の又三郎』でも、太郎は、ご飯と一緒に味噌を食べていた。
味噌の乳酸菌が、米や野菜に何かの影響を及ぼしているのだと思う。









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家の宗教には逆らわない方が良い

私は、小学校時代に、2人の際立った優秀な男子生徒を見た。
共に成績優秀、スポーツ万能で、今の私よりはるかに人格者だった。
「同じ人間であるのに、なぜこんなにも違うのだろう?」
と私は真剣に悩んだものだった。
ところが、知るともなく知ったのだが、一人は家が大きなお寺で、もう一人は立派な神社の家の子だった。そして、その当時から、彼らは毎日、何らかの宗教的な儀式を行っており、お寺の家の子については、彼が僧衣を着た姿を、直接には見ていないが、写真で見たことがあった。その姿が何だかとてもサマになっていた印象がある。
また、やはり小学生の時だが、眩しいほどの美少女である上に、何をやっても優秀な女の子が同じクラスにいた。当時から、多少の罪悪感は感じていたが、クラスの中の別の「低レベル」な女の子と比べ、「同じ人間なのに、どうしてこうも違うのだろう?」と、こちらに関しては、本当に不思議に思ったものだった。そして、これによって、私は、福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず」という言葉は大嘘で(福沢諭吉の真意を誤解していたのも確かだが)、「人間は絶対に平等ではない」と強く思ったものだった。
ところが、ある時、その素晴らしい美少女の家に行く機会があったのだが、そこで不思議な光景を見た。家というよりは、彼女の「居場所」といった感じで、彼女は、大勢の小さな子供達と一緒にいた(彼女自身、それほど大きくはなかったが)。当時は意味が分からなかったが、彼女は、何かのボランティアをしていたのだろう。彼女の年でそんなことをしていたのは、やはり、彼女の家の宗教と関わりのあることに違いないと思う。

実業界やスポーツ界のトップの人たちが、実は何らかの宗教の熱心な信者であることが分かるということがある。
宮沢賢治も熱心な日蓮宗の信者であったが、それは、彼が18歳の時に日蓮宗の聖典である法華経を読み、大変に感動したせいだと言われている。賢治は大変な秀才だった上、当時のことだから、漢文の素養も十分にあったのだと思うが、それにしても、法華経の良さが、僅か18歳でそれほどすぐに分かるのは凄いと思う。私などは今だにさっぱり分からない。
しかし、それは、賢治が、家の宗教である浄土真宗に強い反発を持っていたこともあると思うのだ。そして、それは、浄土真宗への反発というより、家や親への反発であったのだと思う。
それで、表面上は、浄土真宗と大きく異なる日蓮宗への肩入れにつながったということもあるのではないかなあと思う。まあ、これは単なる想像である。
しかも賢治は、『銀河鉄道の夜』では、キリスト教的な雰囲気を実に美しく描き、『風の又三郎』は、どこか神道的な雰囲気があるように感じるのである。つまり、賢治は、必ずしも、日蓮宗のみを重視していたのではないと思うのだ。
ところで、賢治は、若い頃から病弱で、精神的にも不安定なところがあったと思う。彼は、極めて優秀な成績(主席)で農学校(今の岩手大学農学部)に入学し、やはり優等で卒業して、すぐに助教授の申し出があったが、それを断ったり、金持ちでありながら、女性関係の浮いた話1つもなく、生涯独身であったというのも、どこかに弱さを感じるのである。
そして、賢治は、80年前の9月21日に37歳の若さで亡くなっている。
私は、この賢治の80回目の命日には、大阪で、世界的音楽家の冨田勲さんが宮沢賢治の世界を描いた『イーハトーヴ交響曲』の公演を鑑賞した。冨田さんが、宮沢賢治の世界を歌えるのは初音ミクしかおらず、彼が60年もやりたいと思い続けて実現しなかったこの交響曲が、初音ミクのおかげで出来たというのも、賢治のどこか現実性の希薄な精神と関係があると思う。そんな彼の作品は、人間の歌手では歌うことができず、自我を持たず、この世では仮初めの存在でしかない初音ミクにしか歌えないというのは、賢治とミクを愛する私にはよく分かるように思うのだ。
宮沢賢治は、おそらく、現実的には強い人間ではなく、そして、苦悩の多い人間で、あまり幸福な生涯とは言えなかったのではないかと思うのである。

個人的信条と宗教が一致する人間はやはり強いのであると思う。
アメリカで、ある高名な精神科学者が、「幸福な人間」のモデルを作った時、宗教に関しては「ユダヤ教の信者」としたのが興味深い。それはやはり、個人的信念と宗教が一致しやすいことを示すのだと思う。
賢治のように、家の宗教と、自分が信仰する宗教が異なり、しかも、家の宗教に強い反発を持つというのは、人間にとって不幸なことであると思う。
少なくとも、家の宗教は、熱心に信仰しないまでも、否定したり、嫌ったりしない方が良いだろう。そして、それは可能だ。どんな宗教も、本質的には優れたものであるからだ。
特に深い信仰を持つ気はなくても、心の支えになる信仰があるのは良いことであるが、日本人の場合、神道が潜在的な信仰であり、空気のような存在であることに気が付くと良いだろうと思う。そして、本当の神道は、どんな宗派の仏教でも、あるいは、どんな宗派のキリスト教でも受け入れ、うまく調和するのである。
縁があって、しかも、良いと思うなら、ホツマツタヱを読んでも良いが、やはり古事記はその奥に素晴らしい輝きを宿している。合気道の開祖である植芝盛平は、古事記を日本の宝典と言ったが、その通りであると思う。そして、神道や古事記は狂信するようなものではない。それは、雨土のように自然に在るもので、ただ楽しく読めば、精神に作用し、力になるだろうと思う。









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妖怪、精霊、死者の願い

本日から、冨田勲さんが制作し、初音ミクがソリストを務める『イーハトーヴ交響曲』の全国公演が始まる。
昨年11月の初演から9ヶ月が経った。
『イーハトーヴ交響曲』は、宮沢賢治の世界を音楽で描くもので、冨田さんは音楽家になってから、このようなものをやりいたいとずっと思っていたらしい。しかし、それを実現させるのに60年もの時が経ってしまったのだ。
そして、この交響曲は、初音ミクがいたから制作することができたのだろう。
なぜなら、人間の歌手では、宮沢賢治の世界を歌えないからだ。

ところで、初音ミクのおかげで、宮沢賢治の作品の捉え方が変わった・・・いや、本来あるべき見方に近付くことができたのかもしれないと思う。
『注文の多い料理店』の猫の妖怪は、恐ろしい化け猫だと思っていた人が多いかもしれない。
しかし、初音ミクの演じる猫の妖怪は、猫の耳と尻尾のついた、恐ろしく可愛い「妖怪ミクちゃん」で、そんな彼女が可憐に歌って踊るのだ。
猫の妖怪が食べようとした2人のハンター達(趣味の素人猟師)は、金持ちで太っていて、享楽的(快楽に耽ること)で、鹿の横っ腹に弾丸を撃ち込んで、鹿がのたうつのを見て楽しもうとしていたのだ。そんな連中を消してくれるとは、なかなか良い妖怪ではないか?
初音ミクが、「あたしは初音ミク、かりそめのボディ」と歌うと、聴く者は、ミクが人ではないということを、おそらく、哀しさや切なさと共に感じる。
そして、ミクは、「アブラカタブラ」と呪文を繰り返すが、呪文は願いがあるから唱えるのだ。
人でないミクの願いは何なのだろう?

次に、ミクは『風の又三郎』の又三郎を演じる。
又三郎は男の子だが、長いツインテールの美貌の少女ミクが演じるのだ。
又三郎が何者であるかは、宮沢賢治の原作でも、明確には書かれないが、妖しく神秘的な存在であることは示唆されている。
風の神、あるいは、風の精と言って良いかもしれない。
この小説も、とても切ない。
又三郎は何も言わずに去ったが、読んでいる人の心に又三郎の心が残る。その心は、やはり、何かを願っているのだ。それは、初音ミクの姿や歌声からも感じることができる。
又三郎の願いはミクの願いでもある。
精霊ミクの願いは何なのだろう?

第5楽章『銀河鉄道の夜』では、ミクは、ジョバンニの親友カムパネルラを演じる。
カムパネルラも男の子だ。だが、とても繊細で純粋な魂を持ち、少女のようなところもあると感じると思う。
カムパネルラはまぎれもなく人間であるのだけれども、ジョバンニと一緒に旅を始める時の彼は、もう普通の人間ではなかった。
そんなカムパネルラもまた、ミクでなければ演じることはできない。
きっと、カムパネルラは、最後にジャバンニと一緒に、美しい銀河の中を走るこの列車に乗って、たっぷりと話をしたかったのだ。
そんな銀河鉄道の列車の動きを、従来のように打楽器ではなく、弦楽器で表現した冨田さんの音楽表現があまりに素晴らしく、私の魂もまた銀河鉄道に誘われ、そこから見える光景が全て見えたのである。
銀河鉄道の中で逢うまで、ジョバンニとカムパネルラは、しばらくの間、ほとんど話ができなくて、お互い寂しかったし、特に、カムパネルラはジョバンニに対する痛みの気持ちを持っていたに違いなかった。
原作の中では、カンパネルラが「ケンタウルス、露を降らせ」と言うことはなかったが、ミクは10回以上もこの言葉を、天使の歌声で繰り返した。
だが、愛らしい少女かおるの小さな弟が、目を覚ますなり、「ケンタウルスよ露を降らせ」と言ったのは、私は、カムパネルラの意志が伝わったのだと思う。お互い、意図はなかったのだろうがね。
ジョバンニが、人の幸せのためにこの身を滅ぼしてもいいと言ったことで、カンパネルラの魂は救われたのだ。彼の、母親やジョバンニに対する重苦しい気持ちも晴れたに違いない。そうでなければ、カムパネルラは、かおる達と一緒にサウザンクロスで降りることができなかったかもしれない。
ミクの歌を聴いていると、カムンパネルラの願いと、それが叶えられた晴れやかさを感じるのである。









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あまいざくろ、すっぱいざくろ

宮沢賢治の『風の又三郎』の冒頭は、実に不思議な詩で始まる。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

見た途端に、トランス(変性意識。一種の催眠状態のような無意識に支配された状態)に陥りそうな気がするし、実際にそうなのかもしれない。
私は知らなかったが、この詩は、曲がつけられてレコードになったことがあるらしい。
作曲は杉原泰蔵さんというピアニストによるもののようだ。

では、この「青いくるみも吹き飛ばせ、すっぱいかりんも吹き飛ばせ」の意味は何だろう?
もちろん、それははっきり分からないし、1つではないかもしれない。見る人、あるいは、聴く人がそれぞれに捉えれば良いことに違いない。

昨年(2012年)11月23日に、東京のオペラシティ・コサンサートホールで公演が行われた、冨田勲さんの新作交響曲『イーハトーヴ交響曲』第4幕の『風の又三郎』で、この歌が演奏されたが、これが実に素晴らしく、私は、まさに、風の又三郎の世界を鮮明に感じることができた。

曲はまず、慶応大学とそのOBの男性合唱団の、激しく重厚な声で始まる。それは風神のようだった。

あまいりんごも吹き飛ばせ
すっぱいりんごもふきとばせ

次に、聖心女子大学の女性合唱団の、少し優しく涼やかではあるが、厳しさも秘めた声。
また、少年少女合唱団の素朴なだけに、むしろ根源の力を感じる声。

そして、なんと、又三郎になった初音ミクが、どこか幼く、しかし、切なく、危うさや淋しさすら感じる、だが、強い意志のこもった澄み切った歌声で、

どっどど どどうど どどうど どどう
あまいざくろも吹き飛ばせ
すっぱいざくろもふきとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
風よ吹け

と歌い、私は、すっかり精神を持っていかれてしまった。

青いくるみ、あまいりんご、あまいざくろ

それは幸福の象徴のようである。
我々は、それを吹き飛ばさなくてはならない。それに安住してはならない。

すっぱいかりん、すっぱいりんご、すっぱいざくろ

それは、人生に訪れる苦難のようだ。
そして、我々は、それもまた吹き飛ばさなくてはならないのだ。そんなものに翻弄され、負けてしまってはならない。
「飴とムチ」なんて言う。
心は飴を喜び、ムチを嫌がる。
だが、共に受容し、楽しんだり、苦しんだりするが、そうやって揺れ動き、落ち着きのない心を吹き飛ばしてしまうのだ。
それが悟りではないだろうか?

子供は誉めて育てろという意見がある。いや、今や、プロ野球の監督が、「今の若い選手は誉めて育てなければならない」などと言う。
飴による指導だ。
しかし、誉めるだけでは、子供はそこに安住する。
必要な時は厳しくしつけ、怒ったりもしなければならない。
だが、怒るさけで、子供をいじけさせてもならない。
動物の調教だってムチだけでは駄目なのだ。まして、心を持った人間では尚更である。
だから、また誉めるのだ。
甘いりんごも、すっぱいりんごも、しっかり与えるのだ。
運動会で手をつないでゴールなどという馬鹿をやってはならない。
だが、本当に平等にすべき時には、がんとしてそうするのだ。だが、世間では、この正反対をしていないか?
甘いざくろも、すっぱいざくろもしっかり味わい、子供は成長し、誉められようが、貶されようがビクともしない、強い大人になるのである。
その機会を奪ってはならない。
そして、我々は冒険に挑む。冒険には、甘いくるみも、すっぱい花梨もいっぱいあるのだから。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・初音ミクさんを愛す


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