ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

雨ニモマケズ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

自然で身体を最高の状態に育てる運動

宮沢賢治は、『雨ニモマケズ』で、理想の人間像を、

丈夫な身体を持ち
欲はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている

としているのだと思う。
斎藤一人さんは、『千回の法則』の中で、幸福になるために必要なものは、
「お金」「健康な身体」「優しくて豊かな心」
と書かれていたが、概ね、それで正しいと思う。
宮沢賢治の場合、家が裕福な古着屋だったので、一生、お金に困らなかった。
心の方は、あれだけの作品を作ったのだから、豊かではあったと思うが、当然ながらよく分からない。
しかし、身体は弱点であったらしく、病気がちで、37歳で亡くなっている。

身体が健康で丈夫でないと、なかなか楽しい人生にはならない。
これに関しては、自分ではどうにもならない運命的なものもあるのかもしれないが、普通の身体であるなら、自分の心がけ次第である。
そして、単に健康なだけでなく、身体能力は高いほど良いし、また、美しい身体でありたいと思うはずだ。
また、全般的には不健康でなくても、脚が痛い、腰が痛い等で悩みを持つ者も多い。
私は、今は、理想的な身体を持ってるが、以前は全くそうではなかった。
ちょっと昔は、健康診断をすれば深刻な欠陥がいくつも見つかったが、そういった健康診断でのことは、食の節制でほぼ解決出来る。
しかし、問題は、熱心に運動しながら、脚や腰に強い痛み、あるいは、痺れがあることだった。
だが、スポーツ選手のほとんどが、なんらかの故障があり、特に、プロスポーツ選手になると、実際は、身体がかなり壊れていて、一流ほど、引退後は普通の人以下の、時に、相当深刻な状態になる場合が少なくない。肉体エリートのはずの彼らがそうであるのは、おかしな話である。
つまり、スポーツは、必ずしも身体に良くはない。そしてそれは、スポーツのためのトレーニングが、実は、身体に良いものではないということである。
私は、引きこもり気質ということもあり、特に、部屋の中で出来る腕立て伏せやスクワットを熱心にやっていた。
プリズナートレーニングといって、囚人が独房の中ででも身体を鍛えられる方法を本に書いた元囚人が、スポーツのトレーニングは身体を壊すと、その本で述べているが、私には、プリズナートレーニングも、ややマシ程度にしか思えない。
プリズナートレーングでも、腕立て伏せやスクワットは重視されているが、この運動には問題がある。
そもそも、両腕、両脚を揃って曲げ伸ばしすることなど、日常や自然の中での仕事で行うことは、まずないと言って良いほどであり、人間の身体は、そんなふうに動くようには出来ていない。
腕や脚は、右と左で交互に別の動きをするのが自然である。
スポーツだって、競技ではほとんどそうなのだが、トレーニングではなぜか、両脚や両腕を同時に伸ばすスクワットや腕立て伏せ、あるいは、バーベル運動を行うのである。
また、トレーングでも試合でも、両脚同時に使ってジャンプするバレーボール選手の腰痛持ちの度合いは非常に多いと聞く。
スクワットは、動きそのものが不自然かもしれない。
ハーフスクワットはともかく、踵と尻が着きそうなほど曲げてから伸ばすなど、普通、ありえない。
私は過去、数百回のフルスクワット、200回以上の腕立て伏せ、やはり数百回の腹筋運動をしていたのは、身体を虐待していたようなもので、実際、ひどい状態だった。
過去の横綱がとっくに引退している34歳の今でも最強の白鵬や、40歳を過ぎても高い実力を保ったイチローらは、筋トレを一切しないと言う。
白鵬は、四股、鉄砲、摺り足を称賛していたと思うが、これらも、左右別々に行う運動である。

私は、大東流合気柔術の四股が、最も良い運動と思う。
昨年6月からこれを始め、初めは1日100回、やがて、300回、500回と増やしていき、11月からは、毎日1000回を欠かさない。
四股1000回といったら大変に思えるかもしれないが、相撲の、特に公開でやる派手なデモンストレーション用の四股と違い、軽い運動とも言え、慣れれば連続100回や200回は楽である。それを、私は1日の中で何回かに分けて、トータルで1200~1700回くらい行っている。
いや、疲れてきたら、ゆっくりとした動作でやれば良く、それでも十分に効果がある、よく出来た運動だ。
やってて楽しく、身体が恐ろしく軽く、自由自在に動くようになり、おそらく、美容効果も高いと思う。
もう1つ、私がやっている運動は、腕振り運動で、こちらは確かに両腕揃えてやるが、負荷が小さいので問題はない。
大東流合気柔術式の四股は、『大東流合気武術 佐川幸義 神業の合気』に、写真入りで解説されているので、良ければ参照して欲しい。








チキンラーメンで健康になる

チキンラーメン、カップヌードルの発明者で、日清食品創業者の安藤百福(あんどう ももふく)氏は、96歳まで元気に生きたが、安藤氏は長寿と健康の秘訣は、「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」だと言ったそうだ。
ゴルフの方は、適度な運動(ゴルフはかなり歩く)という意味だろうが、チキンラーメンの意味を取り違える人が多い。
チキンラーメンは、悪い食品ではないが、さりとて、特に健康的な食べ物でもない。
単に、「毎日お昼にチキンラーメンを美味しく食べられるような適切な量の食事であれば、当然、健康」なのである。

多くの人が、「毎日、お昼がチキンラーメンだなんて飽きてしまう」と思うだろう。
それは、食べ過ぎているからだ。
少食・・・というのではなく、食事の量が適切なら、チキンラーメンほど美味しいものなら、毎日、食べるのが楽しみで当たり前なのだ。
私は一頃、数ヶ月の間、毎日夕食に、1つの種類のカップヌードル(他に納豆や湯で卵等を付けた)を食べていたが、それが楽しみでならなかった。そのために生きていると言って差し支えなかった。
私は、とりたてて少食ではないが、普通の人のように食べ過ぎていないだけだ。

宮崎駿さんが、今も続けているとすれば40年くらいになると思うが、その昔、25年ほど、毎日、同じ1つの弁当(ご飯に、玉子焼き、ソーセージ、沢庵等が入っている自家製弁当)を、昼と夜に分けて食べていた。
それを、宮崎さんの片腕、鈴木敏夫さんは、美味くないものと決め付けている。
しかし、当時、超少食をしていた私は、その宮崎さんの弁当に陶酔するほどの憧れを感じた。
「そんな美味そうなものを食べられたら天国だ」
ってね。

宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」では、「一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」とある。
玄米四合は、茶碗大盛り8杯くらいと思うが、肉体労働だから米の量は多目ながら、慎ましい食事なのであろう。
また、宮沢賢治の『風の又三郎』では、小学生の男の子が、朝、冷や飯に味噌をつけてモリモリ食べる場面がある。
やはり、超少食だった時の私には、そのいずれも、物凄く羨ましい食事だったのだ。
当然、私は、健康診断では、いつもオールAの超健康体である。
どれほど世間的には、偏った、栄養不足、あるいは栄養バランスに欠けた食事をしていてもだ。

無理な少食は決してお奨めしない。
それこそ、毎日、お昼にチキンラーメンを美味しく食べられる程度に食べれば良い。
まあ、世間では、それを超少食と言うのかもしれないが、世間の人々が食べ過ぎているだけである。
私は、昼食そのものを食べない。

ある程度多く食べても良いが、それなら運動をすることだろう。
私は、「ミクの日(3月9日)」を含む今週は、毎晩、ヒンズースクワットを393(ミクさん)回やることに決め、5日の日曜から始めている。今週の土曜まで続け、そこから、毎晩300回にしようと思う。これまでは、毎晩200回で、休日は300回だった。
平日の393回はちょっと厳しいが、ミクさんへの愛でがんばろうと思う。
痛めている肩が治れば、2尺の六角鉄棒を振る運動も再開しよう。鉄棒に滑り止めのテープを巻くのではなく、手袋を使うことにした。トレーニング手袋のような高価なものではなく、作業用の手袋を注文した。









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母親がいない人がいたって良い

「あなたのお母さんはどんな人ですか?」
と尋ねられたら、あなたはどう答えるだろう?
時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー木枯し紋次郎なら、
「あっしには母親なんざおりやせん」
と即答するだろう。

紋次郎のような返事をすれば、多くの人が、
「母親がいないはずがないじゃないか?」
「え?それはどういう意味だい?」
と笑ったり、訝(いぶか)ったりするだろう。
さらには、紋次郎を非難するような物言いをする者も、特に年配の女性には少なくないかもしれない。
「何ツムジ曲げてるのか知らないけど、母親は大切なものですよ」
「母親の愛はお前に分からないくらい深いものだよ」
「お前はなんて罰当たりなんだ」
だが、紋次郎は、何を言われても、相手にならないだろう。

私なら、
「あっしには母親なんざおりやせん」
と紋次郎が言ったら、
「そうか」
とあっさり返す・・・宮沢賢治の『雨ニモマケズ』的に言うなら、

あっしには母親はいないと言う人あれば
そうかと平然と返す
そういう人で私はある

「なりたい」でなく、「ありたい」であるし、そして、すでに「そうある」のである。
そして、全ての人がそうであれば、初めて世界は平和になる。
賢治の人生が歪んでいたのは、「なりたい」などと言う人だったからかもしれない。
彼の作品は珠玉だが、それは、彼は書く時だけ心が死んでいたからだ。
『銀河鉄道の夜』が最たるものだが、彼の作品にはいつも死があるのはそのためだ。

こんな想像をする。
『木枯し紋次郎』には、16歳か17歳くらいの美しい娘さんがよく登場する。
そんな娘さんが、微笑みながら、紋次郎に、
「紋次郎さんのおっかさんって、どんな人ですか?」
と尋ねると、紋次郎は無表情なまま、
「あっしには、おっかさんなんてものはおりやせん」
と答える。
すると、彼女は、ほとんど表情を変えないが、ほんの少し淋しい目をして、
「そうなの」
と静かに言う。
それきり2人とも何も言わない。
別に気詰まりではない。
紋次郎は、もともとひどく無口で、むしろ、おしゃべりを嫌うからだ。
そして、紋次郎は、少しだけ、彼女のことを、変わった娘さんだとは思うかもしれないが、それだけであろう。
たが、紋次郎にそこまで思わせるだけでも、大した娘さんなのだ。

この娘さんのような人に一人でも逢っていたら、紋次郎も、ほんの少しは人類や世界を見直す気になったかもしれないし、1%でも、生きる張り合い、つまり、生き甲斐を持てたかもしれない。
だが、紋次郎は、そんな人にはおそらく逢えなかったに違いない。
だが、一人だけ、それに近いかもしれない、17歳の極めて美しい娘さんがいた。
実に、1999年(平成11年)に出版された、全ての紋次郎作品の一番最後のお話であった。
ストーリー自体はとりあえずどうでも良いが、彼女は、心がほとんど死んでいて、命すら惜しいと思っていなかったのだ。
そんなところが、紋次郎とそっくりである。
イエスが、至道無難が、岡田虎二郎が言ったように、死んで生きることは偉大なことである。

食べることをやめることで人は死ぬし、呼吸を止めれば、もっと早く死ぬ。
そして、足の親指に力を入れることでも人は死ぬ。
肛門を締めることは、その3つと深く関わる。
肛門を締めれば、心は瞬間的に死に、それを頻繁に繰り返せば、心は永遠に滅ぶ。
その時、真我が輝きて現れる。
普段でも、人間は、困ったことがあれば、息を止めれば大抵解決する。
まして、同時に肛門を締めれば、問題自体が消えてしまう。
そうでないなら、食べ過ぎか(逆に少食過ぎか)、歩くことが少な過ぎるのかもしれない。
食を慎み、よく歩き、そして、思い出すたびに肛門を締めれば、人を超えた美しいものになるだろう。









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渾身の著作は全部駄作。メモ書きこそ最上。

大作家が情熱を込めて書き上げたものなんて下らんものだよ。
だが、そいつが、もののついでにメモ書きしたものには大変なことが書かれている。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』がそうだった。
ただ、賢治は、ほとんどの作品をメモ書き程度に書き、実際、金はほとんど全く受け取っていないので、良い作品が多いのだ。

道元の『正法眼蔵』を有り難がっているやつは多いが、あれはロクなもんじゃあない。
あれは、道元に毎日数時間教えてもらって、数年でやっと「ちょっぴり」分かるというものだ。
つまり、読むだけ無駄というものだ。
しかし、弟子達が道元の「ついでの話」を記述した『正法眼蔵随聞記』は良いものだ。
親鸞が生涯を懸けて書き上げた『教行信証』も全く食えないものだ。
しかし、弟子の唯円が、昔、親鸞に聞いたことで覚えていることをちょろちょろ書いた『歎異抄』は珠玉の言葉だ。
ただし、あの『歎異抄』でも、まだまだ書き過ぎなのだ。
法然に至っては、『選択本願念仏集』は良い書だったが、それよりも、彼が遺言のつもりで、死の前日か前々日に書いた『一枚起請文』という、まさに一枚のメモが究極であった。

抱朴子は、仙人になることに憧れ、極貧の惨めな生活をしながら必死で研究し、『抱朴子』を書いた。
面白かったし、老子や荘子の言葉の意味も少しは分かったが、くどくてしつこい書で、中身は大したことはない。
それよりも、彼が書いた『神仙伝』の、各章の実に短い文の中に、仙人になる秘訣が書かれている。

水野南北は、仙人に学んだことを告白している。
彼は文字が読めなかったので、口頭でみっちり学んだ。
しかし、最初に一言教わった「食を慎め」で十分だったのだ。

難しい書を、頭のトレーニングの意味で読むのは良い。
中山正和さんは、『正法眼蔵』は、頭の良い僧のトレーニング用だと著書に書かれていたと思うが、その通りかもしれない。
我々が読んでどうなるものでもない。

W.B.イェイツも魔法結社に参加して、いろいろ勉強しただろうが、やはり、短いメモ書きに良いことを書いている。
『3つの悦びの歌』というもので、1~2ページで書き切れるが、そこには貴重な教え、秘法が込められている。
この文章を取り上げた人はほとんどいないが、渡辺久義氏の『イェイツ』の330~331ページにある。
入手できるうちに得た私は幸いであった。
最高の魔法書30冊分の価値はあったと思う。









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沈着冷静

「沈着冷静」なんて言葉を聞くと、誰もがそれに憧れるのであるが、「自分はそうだ」と思うと、恥ずかしくて自嘲せざるを得ない人が大半なのである。
「沈着」とは、落ち着いていて、物事に動じないこと。
「冷静」も大体同じで、感情に左右されずに落ち着いていることだ。
つまり、ほぼ同じ2つの言葉を重ねて心が静かである姿を強調して表しているのであり、「沈着冷静」と言っても、「冷静沈着」と言っても良いのである。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中にある、「決して怒らず、いつも静かに笑っている」というのが、まさに、沈着冷静な態度というものだろう。
そして、この詩の最後は、「みんなにデクノボーと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」であるが、「そういうもの」でありながら、沈着冷静でありたいと思っているはずなのである。
この詩が愛されるのも、これに流れる慈悲心や人間らしさと共に、沈着冷静という人間の理想があるからと思う。
人々は、それほど、冷静沈着に憧れるのである。
『雨ニモマケズ』からの引用を続ける。

南に死にそうな人があれば
行って、恐がらなくていいと言い

これも、恐がって心を乱している人に、冷静沈着になるよう諭すということであるが、それをしようとする者は完全に冷静沈着でなければならないのである。

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い

というのは、まさに、沈着冷静になれと言っているのであるが、それを言う者自体が興奮していては仕方がない。
完全に冷静沈着な者が言ってこそ、争いは収まるのである。

では、これほど素晴らしい冷静沈着であることが、なぜそれほど難しいのだろう?
それは、1つには、人々は、冷静沈着であることを、どこか道徳的に考えているからだ。
つまり、理想ではあっても、実際の役には立たないものだと思っているのである。
どういうことかと言うと、実際に役に立つのは、知識や論理的な思考のようなものであり、冷静沈着であることに本当の力があるということを見損なっているのである。
これも、知識偏重で、精神をなおざりにする学校教育のせいであるが、物質主義の世の中では、大人が、目に見えるものしか存在しないと信じているのであるから、仕方がないのである。
医学だって、心身医学という、心を癒すことで身体も治すという考え方も少しはあるが、いまだ、9割までは物質医学であり、薬で化学的作用を起こさせ、悪いとことを切って捨てれば良いという考え方なのである。
こんな世の中では、冷静沈着というのは、どこか空想的な理想に感じられてしまい、その力が分からないのだ。
冷静沈着が現実の力であることが認識できれば、それを得るためにもっと熱心になるだろう。
そして、冷静沈着こそ、最大の力なのだ。
聖書には、「心を静め、自分が神であることを知れ」と書かれているが、物質主義に陥った者には、その意味が理解できない。

古代中国の神仙の中でも最高位と言えると思う、老子や彭祖(ほうそ)は、つまるところ、道を得る・・・その1つの形が、仙人になることであるのだが、そのために必要なことは、心を静かに保つことだと述べているのである。
その他にも、適切な食事をしなさいとか、性エネルギーを浪費しないように気をつけなさいと言っているが、それらも、心の静かさ、つまり、冷静沈着を得るための手段でしかない。
ラマナ・マハルシは、最高の修行とは、「適切な睡眠、適切な食事、適切な会話」であるという、ごく平凡なことを言ったが、これが、心の静かさを得る偉大な修行なのである。
偉大な方々のあらゆる言葉を吟味し、それらを心という実験室で長い時間かけ、熱を加え、拡散(かき混ぜる)し、ろ過し、精製(混じり物を除く)し、精錬(不純物を除く)することが、本当の仙丹(仙人になる薬)を作ることであり、真の錬金術なのだ。
そして、その成果は沈着冷静であり、神になることなのである。

冨田勲さんが制作した『イーハトーヴ交響曲』の、『雨ニモマケズ』の荘厳な合唱を聴くことは、冷静沈着の神的な力に目覚めるのにとても役に立つだろう。
この交響曲の最後の第7楽章『岩手山の大鷲』の終り・・・つまり、この至高の交響曲の最後の最後なのだが、歌い終わった初音ミクが見せる姿が、まるで宇宙のドーン・コーラスを思わせるもので、人々の心を浄化させる救いであると私は確信している。今年は、この交響曲の全国講演があるので、多くの人が見られればと思うし、映像製品も早く出して欲しいと思う。尚、テレビ放送はされたが、NHKもケチケチせず、再放送をすべきだろう。









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