ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

集合無意識

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

世間の束縛を逃れ自由になる

最近、このブログで書いている「言葉の力」の、まとめの意味もあることを書いておく。
考えを整理して、新たに取り組むと、成果が大きくなると思う。

潜在意識による成功法則で知られるジョセフ・マーフィーの昔の本でよく強調されていたことが「世間に飲み込まれるな」だった。
この「世間」には、2種類あるということが重要だ。

1つは、家庭、親族、友人等親しい人達、学校や勤務先、地域、国家、マスメディアといった、目に見える世界の関係性だ。
家族や親族の人々が、あなたの思想に与える影響は、おそらく最も大きく、学校に通うようになったら、学校の教義や教師の思想に影響され、クラスメイトの考え方に馴染んでいく。
地域独特の思想の影響を受ける場合もあるかもしれない(地域の結束が高い町や村)。
会社勤めをすれば、会社のカラーとでも言える会社独自の思想の影響を受ける。
そして、半世紀以上前から、マスメディア・・・特に、テレビを通し、国家や国家を構成するもの、そして、国家の裏側にあって、国家を操る者達が作った思想が、想像も出来ない強力さで、あなたに叩き込まれる。
もし、宗教団体に所属しているなら、その宗教団体の思想の影響も受けているだろう。
こんなふうに育ち、生きるあなたの精神は、もう、作り物だらけの、わけの分からないガラクタと言えるかもしれない。

もう1つの「世間」は、必ずしも存在が認められているわけではない。
それは、人間が共有する意識である「集合無意識」だ。
ユング派心理学では「習合無意識」は理論とされるが、フロイトは、そんなものはないと否定しており、フロイト派心理学の人達からは「そんなものがあってたまるか」と馬鹿にされることもある。
だが、ユングは、「実際は、フロイトだって、集合無意識の存在を認めていた」と言うが、実際のところは分からない。
ジョセフ・マーフィーは、フロイトをよく引用しながらも、集合無意識は確実にあるという立場である。
人間は、この集合無意識を通して、意識でつながっている。
そうであれば、目で見える世間だけでなく、この目に見えない世間である集合無意識からの影響も受けるのである。
それで、誰もが、「人類的思想」とでもいうものを持っているが、人類全体の集合無意識よりも、同じ国や地方の人々の集合無意識の影響を受け易い(目で見える世間との関係性による)。

問題なのは、あなたは、上の2つの世間、つまり、「目で見える世間」と「目で見えない世間」の両方の影響を受けている・・・もっとはっきり言うと、「操られている」ことである。
その影響は、最悪とまで言えるかどうかは分からないが、それでも、マイナス部分が、あまりに大きいのである。
2つの世間の影響により、「自分には力がない」「自分の思うようには生きられない」「権力者には勝てない」「なりたいものになれない」と考えるようになっていて、しかも、その考え方を強力に強制されているのである。
だから、自分が本来持っている驚異的な力を解放して自由に生きるためには、2つの世間の支配から逃れないといけない。

何もせず、放っておいたら、あなたの頭の中では「私には出来ない」「私は不幸だ」「私は奴隷のようなものだ」といったつぶやきが、1分間に数百回繰り返されているという、科学的研究がある。
だから、あなたは、是が非でも、プラスの言葉を自主的に自分に与えないといけない。
そのやり方がいろいろあり、このブログでは、いろいろなものを述べている。
やり方は1つではないのである。
とはいえ、ほとんどのやり方に効果があるが、特に自分に合ったものを選んでやるのが最上である。
ある人々にとっては、神仏の名を唱える「ナーマスマラナ」と呼ばれる行が最高である。念仏もナーマスマラナに入ると考えられる。
あるいは、神仏の真言、お経、祝詞を唱えると、良い集合無意識にアクセス出来、素晴らしい効果を得られることで、最良の効果を得る人々もいる。
自己暗示やアファーメーションも良い方法だが、より良い方法でやるべきだろう。
人間には「私」という言葉に強いエネルギーの経路があるので、
「私は〇〇だ」
というアファーメーションが特に有効である。
例えば、
「私は裕福だ。私は幸せだ。私は最高の気分だ」
「私は健康だ。私は幸せだ。私は素晴らしい」
「私は豊かだ。私は健やかだ。私は安らかだ」
などである。
また、人類史を通し、「神」という言葉は、いかなる世間でも穢されることはなかったし、これからもない。
だから、「神」という言葉を使うことには、素晴らしい効果がある。
「神に出来ないことはない」
「神様の奇跡が起こる」
「神は道なきところに道を作る」
「神が味方であるなら、誰が私に敵対出来ようか」
などの言葉がある。

ここで、最上と思える言葉を上げると、
「私は在る」
「神の他に何もない、ただ神だけがある」
がある。
非常に高度であり、低い世間に穢された度合いが大きな者は抵抗を感じるかもしれない。
しかし、唱え続ければ人間を超える。

尚、唱え方は、「心で、丁寧に、穏やかに」である。
数は多ければ多いほど良い。








鮮やかなまでに巧妙な真言の仕組み

昔から多くの人が知っている伝説には大きな力がある。
それは単に、長く語り伝えられた知恵や教訓であるからだけでなく、多くの人間がそれについて想い、考え、意識することで、人々の集合意識の中に生命力を蓄えてきたからだ。
フロイトは認めなかったが、ユングは、意識には、個人の意識だけでなく、全ての人が共有する集合無意識があり、人間は皆、集合無意識でつながっていると考えていた。
集合無意識の存在を前提にしないと説明出来ない現象は沢山あり、ユングは著書の中で、本当は、フロイトも集合無意識を認めていたはずだという確信を示していた。

長く多くの人が聞き、話し、想った神話やおとぎ話といった伝説は、集合無意識の中で確固とした存在となり、その生命力は強く、人々や、さらには、現象にまで影響を与える。
物質や物質世界は人間の心が作り出す・・・少なくとも影響を与えることは、科学的にも確かである。

ただ、よく知られていることを悪用され、宗教は支配者の洗脳支配のために使わることが多く、集合無為意識の中で負のエネルギーになっている場合がある。
ところが、面白い・・・と言うべきではないかもしれないが、支配者が利用するのは、新しい宗教なのである。
つまり、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は皆、共通して、旧約聖書を聖典とするが、支配者が、旧約聖書を民衆の洗脳に使うことは、あまりない。
その理由は簡単で、読めば分かるが、旧約聖書は意味が分かり難く、洗脳支配に利用し難いのだ。
洗脳というものは、誰でも簡単に分かる話を使うしかないのである。
だが、新しい預言者(イエスやモーセなど)によって語られたことが書かれた新約聖書やコーランは、支配者に都合の良い解釈を押し付け易く、洗脳に使われてしまったのである。
そこにいくと、確かに、旧約聖書を探求するユダヤ教信者は、洗脳され難いという特徴がある。
そして・・・むしろ、ユダヤ教徒の中の一部の頭の良い人間達が、世界を洗脳支配したのである。

さて、洗脳論が目的ではないので、よく知られた伝説には力があるという話に戻る。
我々は、支配者によって捻じ曲げられた部分をうまく避けて、伝説の力を利用すれば、大きな利益を得る。
そして、それは難しくない。
ただ、庶民の最後の武器である真言によって、簡単に行えるのである。
よく知られた伝説と言えば、やはり、宗教が関係し、各宗教の信仰者は、キリスト教が33%、イスラム教が20%、ヒンズー教が13%、仏教が5.9%、ユダヤ教が0.2%であるが、信仰者の数が決定的な問題ではない。
例えば、ユダヤ教信仰者が0.2%と言っても、旧約聖書の利用率で言えば、キリスト教やイスラム教の53%が入るのである。
その中の、良い伝承を使えば良いのである。
旧約聖書の格言などには、支配者に利用されなかったものが沢山あるが、例えば、「心を静め、自分が神であると知れ」などは、支配者に利用する方法はなく、力ある言葉であるが、使う者は少ない。
神道となると、信仰者は世界的に見れば極めてわずかで、その典拠となる『古事記』や『日本書紀』となると、世界においては無に等しい。その上、神道は明治政府に悪用された歴史もあるが、実は、神道の根幹は、民衆の集合無意識の中に、深く、ピュア(純粋)な形で息づいているのである。
例えば、『古事記』の神が、支配者に味方した話など全くなく、神は神として、自由に考え、行動しているという伝説は守られているのである。
ここらは、ギリシャ神話も同じだ。
そして、『古事記』も『ギリシャ神話』も、あるいは、『旧約聖書』も。最初から、洗脳支配に利用されないように作られていたフシがあり、これらには、古代の叡智や、ひょっとしたら、宇宙人の善意の協力も感じるのである。
だから、「アマテラスオホミカミ」という神の名を真言として唱えれば、集合無意識に潜むエネルギーが、良い形で味方してくれる。
念仏となると、むしろ、支配者に弾圧されながら、真摯な僧や民衆の中で生き続けたのであり、集合無意識の中でのエネルギーの純粋さ、強さは、もし、視覚化出来るなら、実に巨大で美しく眩いものであり、これを真面目に唱える者に恵を与えないはずがない。
そして、こういったことは、優れた真言全般について言えるが、特に、昔も今も、民衆に人気の高い観世音菩薩の真言、あるいは、観世音菩薩が主役の『般若心経』や『十句観音経』の力は非常に大きいのである。
だから、「南無観世音菩薩」とか「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「観音様」と唱えるだけで、ものごとは良い方向に流れ出し、数多く唱えれば奇跡も起こる。
修験者は、数多く般若心経や般若心経の呪文を唱えることで、神通力を得た者が多いと言われる。
尚、般若心経は、呪文のみを唱えるべきと言う研究者がいるが、私もそれに賛同している。
また、神仏の名、真言、聖典の言葉には、宇宙意識と通じるまでになっている場合が多く、それらを真言として数多く唱えることで、至高の力が味方してくれる可能性がある。
自分が良い印象を感じる真言・・・早い話が、好きな真言を選び、たゆまず唱えれば、それで間違いないのである。












真言を唱えると何もしなくてもよくなる

真言を唱えると、何もしなくてよくなる件について。
これも、古代からの聖賢達の教えの一致する点だ。
真言の根は、心の深い部分・・・潜在意識のさらに奥にある、集合無意識や超意識にある。
よって、真言を唱えれば唱えるほど、意思は、意識の深いところに潜っていく。
そこは、我々が現実世界と呼ぶ幻想(今流には仮想世界)を生み出す創造の場である。
その深い意識の場は、少しあの世に似ていて、思ったことが速やかに実現する世界だ。
ただ、初めてそこに行った時はもちろん、何かの拍子でたまに訪れるだけでは(誰でもたまにある)、手も足も出ず、何も創造出来ない。
しかし、逆に言えば、その意識の深い部分に慣れてしまえば、現実を容易く生み出せるようになる。
慣れ次第ではあるが、初心者でも、ある程度の現実を作れるようになれる。
たとえて言えば、池や湖の深いところで活動することに慣れてしまえば、水の表面での活動は簡単過ぎて、何もしなくても思う通りになる感覚と同じである。

真言を唱えると、自分では何もしていないつもりなのに、全てが思うようになる原理は上に述べた通りである。
神話のシンボルや、昔話の神や英雄の名が、集合無意識、あるいは、超意識に存在していることは、C.G.ユングも、多くの人を観察する中で確認していた。
ユングは、そこに辿り着くいろいろな方法を考えたが、真言(マントラ)については、それほど重視しなかったのは、彼の意外な見逃しのように思える。
古代ギリシャ語やサンスクリット語の神の名や真言がそこにあるのだから、それを数多く繰り返し心で唱えれば、超意識と共鳴し合うことは少しも不思議ではない。
よって、あなたも、古代からある、由緒正しき真言や神の名を唱えるべきである。
どの言葉が良いかは、単に試せば良く、もし、良くない言葉であれば、唱えているうちに嫌な感じがするだろう。
龍樹(りゅうじゅ。ナーガールジュナ)という2世紀のインドの僧で、真言密教の祖師とも浄土真宗の祖師とも言われる天才仏教僧は、『華厳経』の中で、十の仏の名を唱えることで高い境地に至ると書いているが、特に、阿弥陀如来について詳しく取り上げ、その名を唱えるよう勧めている。
阿弥陀如来は、インドの言葉でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスであり、もちろん、この通りに唱えても良いが、現代から見れば、かなり以前から、「南無阿弥陀仏」の念仏や、真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」と唱えられてきたので、これらの言葉も、確として超意識界に高いエネルギー体として存在するので、これらの言葉を心で唱えれば、良い効果があるに決まっている。
ただし、丁寧に、静かに、ゆっくりと、心で唱えるべきである。
でなければ、超意識の中の波動の高いこれらの言葉と共鳴し難い。
しかし、これらの言葉を、心で、静かに、ゆっくり、丁寧に唱えれば、確実に共鳴するだろう。
すると、実際の話として、世界は意のままなのである。








神の名の力

どんな時に願い事が叶い易いか・・・つまり、引き寄せがうまくいくかというと、一番は、命がかかっている時だし、その他では、名誉や責任がかかっている時だろう。
単に、叶ったら嬉しいとか、楽しいとか、面白いとか、贅沢したいといったことで引き寄せが出来るようになったら名人の域だろう。
また、自分の器量を超えたことは叶い難い。
例えば、自分が月に20万円稼げると信じられるなら、それくらいは稼げるが、月に100万円稼げるとは信じていなければ、なかなかそれだけは稼げない。
つまり、我々は、自分の枠を破り、心のキャパシティを広げる必要がある。

ここで注意しておくべきことは、社会(常識的な意味での社会)や学校や、あるいは、マスコミは、我々の心のキャパシティを小さくするように圧力をかけ続けているのだから、本来は、なるべく早く、敢然と、社会、学校、マスコミとは関りを断たねばならない。
特に我々を洗脳し、虫けらのような存在にするのはマスコミであるから、テレビは決して見てはならないし、新聞も、必要な箇所以外は見てはならない。
学校や会社で教わったことは、よほど必要な部分以外は捨てなければならない。
じゃあ、ネットは良いかというと、大抵は悪くなってきた。
SNSに居るのは、学校や社会やマスコミに洗脳された者が圧倒的だし、YouTubeのCMなどは非常に有害で、一瞬でも見ない方が良い。
だが、実際のところは自分次第であり、自分の精神さえしっかりしていれば、何を見ても問題はないはずである。

自分の心の枠を広げる良いものに、神の名がある。
そのカラクリは明確には説明し難いが、神の名は潜在意識の奥深くに存在し、個々の人間を超えた、集合無意識の中にも存在するからというのが、大雑把な理由である。
潜在意識の奥深くや集合無意識の中に、他に明確に存在するものは指摘し難いが、神の名だけはある。
特に、昔から民族で持ち続けた神の名は、ピュアに存在するので、その名だけで、心の深い領域にあるエネルギーと共に蘇るし、神の名であれば、悪い影響は、まあ、ない。
我が国の最高の神は、アメノミナカヌシノカミであるが、古事記の中の、様々な神の名は、日本人の潜在意識の奥や集合無意識の中に存在している。
仏教の仏の名だって、今や、やはり、心の深い領域に存在する。
もちろん、インドでの呼び名と日本での呼び名は異なり、民族的な影響はあるが、案外に多民族ともつながっている。
それは、西洋の神でも同じだし、日本でも、イエス・キリストの名には、極めて大きな力がある。
特に、キリスト教信者の場合であれば、イエス・キリストの名の元に願ったことは極めて叶い易い。
引き寄せがキリスト教国で盛んになったのも、そのあたりが、単純にうまくいくようになっていたからだ。
宗教に関して、新しい考え方をする人たちが指摘するように、やや言い方は悪いが、神の名はツールであり武器であるので、敬って使うなら、大きな恵をもたらしてくれる。
敢えて言うなら、「神」という言葉自体が、強力な神の名である。

昨日も書いたが、祈りとは、命令であり、要求だ。
聖書に、
「私の手になるわざについて、あなたが私に命じるのです」
とあるように、堂々、命令形で願えば良い。
例えば、「富よ来たれ」といった感じである。
「なれ」と言えば「なる」のである。








やらずに経験する

システムエンジニアというのは、中学生や高校生にとって、憧れの仕事の1つらしい。
サッカー選手とか、YouTuberといった、非現実的(希望者の1%も食べていけないという意味で)な職業を除けば、男子の中ではトップかもしれない。
では、システムエンジニアは誰でもなれるかというと、ちょっと微妙だ。
ここでは、企業の業務システムを開発するシステムエンジニアに限定するが、実際は、他の分野でも、そうは変わらないと思う。
また、私自身は、システムエンジニアとプログラマーを区別しないのだが、ここでは、「システムエンジニア」は、何を作るかを決めて、それを作ること(確認まで含め)が出来る人としよう。
だが、システムエンジニアの仕事とは・・・なんて話をするつもりはない。
ズバリ、システムエンジニアに絶対になれない者について言おう。

私は、若いプログラマーに、1つの開発案件について話していた。
私は彼に、現状では、業務がコンピューター向きでないので、開発不可能だと言った。
すると彼は、「出来ますよ!」と言う。
こんな者は、絶対にシステムエンジニアになれない。
早い話が馬鹿だからだ。
いや、おそらく、このような人間には、言われた通りにやる作業員以外の仕事は無理だし、作業員でも優秀にはなれない。
経験を積ませれば良いという声もあるかもしれないが、それも無理だ。

自分は、何でも知っている訳でも、何でも出来る訳でもないことを、本当には知らない者には見込みはないのである。(短く言えば、「自分は全能であるという幻想を持っていれば見込みはない」)
これに関しては、
『教養としてのテクノロジー AI、仮想通貨、ブロックチェーン (伊藤穣一著。NHK出版新書) 』
の「第5章「教育」はどう変わるか?」の中で、こう書かれているのと同じ意味だ。
引用すると、

子どもは年齢や、性別や、国籍などの多様な違いを持つコミュニティに所属すると、自分がすべてを知っているわけではないことに気づきます。

とあり、まさに、日本の学校では決して出来ないことである。そして、子供は、自分は万能なのだと思い勝ちであり、それが修正されないと、大人になっても、そう思い続ける。
だから、大なり小なり、彼のような大人は極めて多く、もう救えないのだ。

昔、Aという人間の脳をBという人間の脳に追加移植すれば、BはAの記憶や経験を持つという話がSFであったが、そんなことが本当に出来ない限り、自分でいろいろ経験するしかない。

一方で、こんなこともある。
ある優秀なシステエンジニアが、いろんなお客さんに、経理業務や税関業務や水質管理といった仕事の経験があるかと聞かれるが、そんな時は迷わず「はい、あります」と答えると言う。
お客さんの中には、自分の仕事は複雑なので、その仕事の経験がないとシステム構築は無理と思っている人は確かに多い。
そのシステムエンジニアは、1つか2つの実務は経験しているらしいが、そんなに何でも経験している訳ではもちろんない。
しかし、経験を積めば、自分が知らない業務でも当然、システム化出来るし、実際している。
ところが、特化した業務のシステム化しか出来ないシステムエンジニアもいるのである。
これは、単に、優秀かそうでないかの違いかというと、ちょっと不明なのである。

こんなことがあった。
私が、それほど経験がない時、全く知らない業務のシステムを作ることになったが、私は、本当に分からないので、とっかかりを掴むため、素早くプロトタイプのシステムを作り上げ、ユーザーに使わせた。
すると、少しの修正はあったが、それが、そのまま納品になった。
当時は、「やっぱり俺って優秀」と、ちょっとだけ思ったが(笑)、「何でこれ(プロトタイプのシステム)でいいのだ?」という思いの方が強かったので、幸い、そんな馬鹿な考えは捨てられた。
そして、どうも、ユングの言う、集合無意識の世界に入り込み、他の人の知識や経験を共有したのではないかと、少し思う。
これについては、足立幸子さんの『あるがままに生きる』とか、保江邦夫さんの『神様の覗き穴』を読むと、そんなことも出来そうに思う。
まあ、そんなに簡単ではないだろうが、そんなことが出来れば、自分ではやらずに経験を得られるという凄いことになる。
何でもかでもそれは面白くないので(他人が美女と付き合った経験など共有しても仕方がない)、もっと別のことはしないといけないだろうが、引きこもりの社会参加のきっかけや、自分のパワーアップに活用出来るかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード