ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

阿弥陀如来

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

大きなものを想う

10年や20年は、瞬く間に過ぎる。
いや、釈迦の時代から2500年、イエスの時代から2000年ほどが、あっという間に過ぎてしまった。
地球が出来てから45億年と言われるが、それがどれほどのものだろう。
これから数千年、数万年、数億年も、明日が来るように過ぎ行く。

しかし、魂にとって時間や空間というものはない。
魂には、宇宙の始まりも、地球の誕生も、釈迦の悟りも、イエスの受難も、今、ここで起こっている。
レベルが違い過ぎて、心はそれを捉えることは出来ない。
心で魂を理解しようとするのは、小さじで大海の水を計ろうとするようなものだ。
ならば、心である我々は、魂に全てを委ねるより、どうしようもない。
その魂を、父なる神とか、道(タオ)とか、阿弥陀如来と言うのだろう。
そう思うと、小さな我が、大きなものに一切をまかせることが出来ると思う。

身体が弱くなると、こんなことが浮かぶものである。
まあ、これを書き終わったら、治ってしまったが。









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不良老人と不良星人

「20世紀最大の詩人」と言われた、アイルランドのW.B.イェイツは、晩年、自分のことを「不良老人」と呼んでいた。
こう言うと、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーでも思い出して、
「不良老人?カッコいいじゃん!一生、ロックしてる感じだねえ」
などと言う人がいるかもしれない。
しかし、そんなんじゃ全然ない。
イェイツは、自分が不良老人でしかないことを思い知っていたのだ。
自分は、遂に最後まで、狂人のままであったのだということを、腹の底から確信し、僅かも疑わなかった・・・いや、疑えなかったのだ。
それは、死の直前になっても、全く変わらなかった。

誰しも、若いうち・・・いや、子供の時から、自分の心は正しいと信じている。
大人になったら、自分にも多少の欠点があることは認めるとしても、「もう少し年を取れば、立派な、賢い人間になる」と思っている。
そんな者達は、口で、「私は浅はかな人間です」と言った直後、心では、「ああ、私はなんて謙虚で慎ましいのだ」と、自分に惚れ惚れしているのだ。
「自分にだって欠点はある」と言っても、「完全な人間はいない」と言い訳するなら、それは、自分の欠点は大したことないと思っているのだ。
イェイツのように、自分が悪魔そのものと変わらないと悟る人間は、極めて稀なのだろう。

ドワンゴの川上量生会長が、ブログで、
「人間には多少の知性があるので、いつか、自分が救いようのない馬鹿だと分かる時が来る。その時が、人生の賞味期限切れだ」
と書かれていたが、多少の知性を持つ人間なんて滅多にいない。
つまり、普通の人の人生は、死ぬまで、賞味期間であり、自分がどうしようもない馬鹿だと思ったりはしない。
つまり、「馬鹿は死ぬまで治らない」のである。
イェイツは、認識という点では馬鹿が治った、稀有な例なのだろう。

だが、政情不穏な場所では、自分の中の狂気を自覚する人が多いのだと思う。
他人を騙し、脅し、駄目なら叩きのめさないと生きていけない地域のことだ。
日本人旅行者がものを盗まれて警察に行っても、「盗まれる者が悪い」と相手にされない所なんて、いくらでもある。
現地の人は盗まないと生きて行けないのだ。誰にだって、生きる権利はあるのだから、泥棒なんか少しも悪くない・・・というのが常識で通るのである。
そんなことをする人達でも、ほとんどが宗教を持っているが、彼らは、自分は戒律をだいたい守っており、そして、陽気で愛情深いと思っているかもしれない。
危険を冒して盗み、愛する家族を養い、時には、フレンドも助けるのだからだ。
だが、一部の、ちょっと進歩した人は、「いかに生きるためとはいえ・・・」と、この世の不条理を嘆くだけでなく、自分の醜さを憎む。
そんな人が、日本の『歎異抄』(実際に外国語に翻訳されている)を読むと、とりつかれることがある。
もちろん、日本のような平和な国に住んでいても、自分を見限るほどの者なら、やはり同じと思う。

『歎異抄』は、親鸞が、阿弥陀如来の救いについて話したことを、弟子の唯円が思い出して書いたものだ。
現代人は、阿弥陀如来のような仏様というものに抵抗があるかもしれないが、それなら、万能の超システムだとでも思うと良い。その通りなのだから。
阿弥陀如来は、自分に運命を託した人は、死後は、自分が造った極楽浄土に迎え入れ、自分と同じ仏にするが、その人が生きている間だって、完全に守るのである。
阿弥陀如来に救われるための条件は、ただ1つ。阿弥陀如来に一切をまかせるだけだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、その合図のようなものと思えば良い。
阿弥陀如来は、その声、その思念を確実にキャッチし、ランプの魔物など比較にならない強力な仏達を、惜しみなく、大量に派遣するのだ。人材、いや、「仏材」は、ガンジス河の砂の数ほどいるのだから、常に不足はない。
阿弥陀如来は、いかなる悪人であろうと差別しない。
逆に、救われるために、いかなる善行を行う必要もない。
むしろ、善い行いをしようとする者は、阿弥陀如来に頼る気持ちが弱いので、問題があると親鸞は言ったようだ。
「では、悪いことをすれば良いのだな」と勘違いして、わざと悪いことをする阿呆もいたが、それな者に対しては親鸞は、「よく効く薬があるからといって、毒を好む必要はない」と言いはしたが、咎めることはしなかった。彼が、そんな思い違いで悪いことをしたとしても、それも、縁なのだからだ。

私は、やはり、何かの縁があったのか、昔から(高校生の時からと思う)、自分のことを「不良星人」と読んでいた。
それでも、かすかな希望を持ってはいたが、最近になって、完全に自分を見捨てた。
それでも生きていかねばならないなら、万能ミラクル・システムAMIDA(阿弥陀。アミターバ)に頼るより他、仕方がない。
更生の望みのない犯罪者のようなものだ。
実際、中身は、そんな犯罪者と同じなのであるが、たまたま縁がなかったので、それほど世間を騒がせていないだけだ。
言い換えると、世の中を震撼させ、10年腐らせた生ゴミのごとく忌み嫌われる犯罪者とは、そんな縁のあった私なのだ。
親鸞は、心が善いから悪いことをしないのではないし、悪いことをしないからといいって心が善いのでもないと言った。
全ては、ただ、縁(業、カルマ)なのである。









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なぜ観音様に頼むと良いのか?

神仏に願い事をする時、もし具体的に願う相手(神仏)を決めたいなら、阿弥陀如来か観世音菩薩が良い。
なぜなら、この2柱の仏は、極めて慈悲深いからだ。
古事記やギリシャ神話、北欧神話、ケルト神話、あるいは、インド神話の神々というのは、どこか、くせがあったり、恐ろしかったりして、どちらかというと、福をくれるからというよりは、機嫌を損ねて災いを受けないために祭ることの方が多いのだと思う。
仏教の仏様にしても、大日如来は密教の仏様で、どこかつかみどころが無いし、他の仏様、菩薩様も、個人的にものを頼める相手ではないように思う。
だが、阿弥陀如来や観世音菩薩は、一人一人に対応してくれることで知られている。
だから、願い事がある時は、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」と言っても良いし、普通に、「阿弥陀様」「観音様」と言っても良い。
ところで、観世音菩薩は、この世で人間を救うのだから、より頼み易いが、阿弥陀如来は、死後、極楽浄土に迎え入れて、そこで悟りを開かせてやる役目のように思われているかもしれない。
これに関しては、一休さんが、極楽浄土は遠いところにあるのではなく、今、この場にあるのだと言い、伝統的な考え方にこだわらないよう教えている。
ただ、阿弥陀如来に頼べば、観世音菩薩や勢至菩薩がこまごまと世話を焼いてくれるそうであるから、どちら(阿弥陀如来と観世音菩薩)に頼んでも同じことになる。
阿弥陀如来が仏様で、観世音菩薩は菩薩様なので、力に差があるのかというと、阿弥陀如来はもちろん、全知全能、宇宙最強なのであるが、観世音菩薩も本来は仏様なのである。ただ、観世音菩薩は、かたじけなくも、人々を救うために、自主的に菩薩の地位に下りてきてくれたのである。
また、『観無量寿経』に書かれてある通り、実を言うと、阿弥陀如来と、観世音菩薩、勢至菩薩は、ほとんど違いはない。
そして、観世音菩薩と勢至菩薩は全くと言って良いほど同じである。

神仏に願い事をする時、後ろめたさがあるなら、自分の中にやましさがあるのである。
そして、やましさがない人間はいない。
しかし、やましい・・・つまり、良心が咎めるというのは良い感覚で、それを感じるのは健全なことである。
やましさを感じなくするためには、無になる、つまり、忘我、没我、無我になれば良い。
そのためには、「文句を言わない」練習をし、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」練習をすれば良い。
後ろめたさがあっても、観世音菩薩は願いを聞いてくれるが、こちらの方で、「いや、あの・・・やっぱりいいです」と言ってしまうものである。
そんな時、観音様は、黙って待っていて下さるのである。
『観無量寿経』を読むと、心があっけらかんとしてきて、仏様に対して気楽になる。
つまり、心にかげりが無くなるのだ。
すると、願い事もしやすくなるだろう。

言うまでも無く、仏様や菩薩様というのは、レトリック・・・つまり、うまい喩えではあるのだが、心の深層のイメージを巧みに表したもので、そのまま素直に受け取って構わない。
人間は、具体的な形で表現しないと分からない。
宗教は、元々は簡単なものだったのに、権威を作るために複雑化し、そして、形骸化してしまった。
本当に偉い坊様ほど単純なことを教えるものである。









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神様の幸せな扶養家族になる方法

子供の時に見たきりなので詳細は覚えていないが、『スター・トレック』で、カーク船長達が、遠い宇宙で、ついに神様に逢うというものがあった。
その神様は、白い髪と白い髭で厳(いかめ)しい顔の、多くの人にとって、まさに神様のイメージに合う・・・顔だけの存在だった。
神話で言うなら、神々の王ゼウスの顔のイメージかもしれない。
その神は言う。
「わしはいよいよ、お前達が住む星々のあるところに行き、わしに逆らう愚か者を懲らしめ、わしを崇める者を救う。よって、お前達の宇宙船を差し出せ」
そして、強力な雷による破壊のパワーを見せる。
すると、やはりびびっていたカーク船長は、一応は恐縮し、へりくだりながら言う。
「あの・・・お言葉ですが神様。どうして神であるあなたが宇宙船など必要とされるのですか?」
すると神は、わしに意見するとはけしからんと激怒する。
もちろん、それは本物の神であるはずがなく、ただの化け物である。

ところが、多くの人達が、やはり、このような変な化け物みたいなのを神だと言って崇めている。
どの国の神話に出てくる神様も、こんな風に、プライドのかたまりで、ご機嫌をとるとニコニコしているが、少しでも逆らったり、疑う態度を見せるとゆでダコのように真っ赤になって怒り、荒れ狂う。
そんな、酔っ払いのオッサンのような、本当はスケベなだけの学校の校長先生のような、昔は立派だったが、すっかりもうろくした「偉いさん」みたいなのを崇めている人がいっぱいいるのだ。
そこにいくと、仏教の仏様は、本来の神様らしいところがあるのだと思う。
だが、仏典を見ると、仏様にも序列があって、一番偉い仏様というものがあり、人々はそれにこだわったりする。
あるいは、法然の『選択本願念仏集』には、阿弥陀如来だけを拝む者は救われるが、他の仏様に浮気する者は、阿弥陀様はかまってくれないとか書かれていて、人々はそんなことにもこだわってしまう。
まあ、『選択本願念仏集』のこのあたりのことは、当時の人の理解に合わせて書いたことなのかもしれないが、それでもやっぱりおかしなものだ。
そして、阿弥陀如来は、あくまで、死後、極楽浄土に連れて行ってくれるものであって、ちっとも高尚でない願いなんて聞かないのだと言われたりする。
そこで、親鸞が、せっかく、「いやいや、阿弥陀様は、現世利益だって無限に下さるぞ」と言ってくれたのに、偉いお坊さん達は、「そうではないぞよ。親鸞の言葉には深い意味があるのじゃよ」と、それを否定し、ややこしくしてしまう。
私なんて、今よりもっと人間性が低い、どうしようもない半端者だった頃にも、神様仏様にお願いして、セールスのオーダーを取って、結構良い思いをしていたものだった。
あるいは、サンスクリット語の、意味のさっぱり分からない呪文を唱えないといけないなどといった、変なことを言う変なお坊さんとか「指導者」とかも多い。
まあ、呪文も、なかなかムーディーで良いとは思うが、こだわることではない。
別に立派な心根の者でないと神様は願いを聞いてくれない訳ではないのだと思うが、心が歪んでいたり、自己中心主義だったり、邪まな願望が多かったりすると、いろいろ不都合なことも起こしてしまうのだろうとは思う。
そんなことは、親が何でも言うことを聞いてくれる、大金持ちの坊ちゃんや嬢ちゃん達が、ちっとも幸せそうでないところを見ても類推できるのではないかと思う。
それで、神様の平和な扶養家族になるためには、「文句を言わない」練習をしたり、「満腹するまで食べて自分を甘やかさない」練習をすのが一番簡単で楽な方法なのである。









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世界的名著が人々を不幸にする

ラルフ・ウォルドー・トラインの『In Tune with the Infinite』(無限者と調和して)は、1987年に出版され、世界的なベストセラーになり、現在も読み継がれている。
フォード自動車の創業者ヘンリー・フォードが、自分の成功はこの本のおかげと言い、この本をあらゆる人に薦めたという。
日本では、天才的な宗教家であった谷口雅春さんが荘厳な文語で翻訳し、2012年には口語訳の新訳も出ている。

確かに素晴らしい本であり、読むことは全面的にお薦めする。
ところで、この本の中で、著者トラインは、無限者、即ち、神と調和するためには、それに相応しい考え方が必要と主張している。
つまり、善意ある明るい考え方、楽天性、積極性、不屈の意思・・・といったもので、人間には、こういった思考を選ぶ力があるのだから、そうしなければならないということであり、そうであれば自分の世界を天国にするが、そうでなければ、地獄を創ってしまうと言うのである。
トラインの考え方とは、思考の性質が人生を決めるということだと言って良いだろう。
しかし、私は、そんな考え方は、かえって人々を不幸にしたと思う。

善意ある考え方ができるだずだと言われても、できない人がいる・・・いや、本当は誰にもできない。
私などは、年中悪いことや邪まなことばかり考えている。
善いことを考えるようになりたいと思わないでもないが、一生かかってもできそうもない。
そして、それで良いと言ったのが、法然や親鸞なのだ。
煩悩に満ちた我々凡夫は、善いことは何もできなし、善良な思考をすることも極めて難しく、常に、悪しき想いに囚われている。
だが、至高の仏である阿弥陀如来は、そのような凡夫を哀れに思い、そんな愚かな全ての人を救うために仏になったのだ。
大切なことはただ1つ。阿弥陀如来に全て任せ切ることだけだ。
その徴(しるし)が念仏なのであり、言い換えれば、念仏だけをすれば良いのである。
念仏以外の善を為そうなどと考えてはならない。念仏以上の善などないのだから。
ただし、念仏は自分で為す善ではないので、念仏を自力の修行だと思ってもならない。
念仏は、救っていただいた阿弥陀如来への感謝に過ぎないのである。

それを想えば、ジョセフ・マーフィーは、実に調和ある教えを説いていた。
まず、神は決して罰することはない。
そして、我々は、神が、我々を豊かにする方法、健康にする方法を知っているということが分かりさえすれば良いのだと。
後はただ、任せてしまうだけだ。
マーフィーは、決して伝統的なキリスト教の教義を説く牧師ではなかった。
非常に進歩的な宗教者であったが、それが親鸞的なのである。親鸞がいかにラジカル(急進的)で、当時の仏教界において過激に思われたかが分かろうというものと思う。









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