ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

阿弥陀如来

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[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

逃げ道を行く

自分の部下や子供や後輩といった、自分より立場が低く弱い者が、悪いこと、間違い、失敗をした時、愚かな人間は、初めから終わりまで、怒り続け、責め続ける。
だが、賢い人は、逃げ道を作ってやることを忘れない。
「そりゃ、お前だけが悪い訳ではないけどな」
「これはひどい失敗だが、あの件ではよくやったのにね」
「運も悪かったのは確かだが」
ただし、逃げ道は1つ、多くても2つにしておくことだ。
でないと、相手は甘えてしまう。

そもそも、怒る・・・相手を非難するようなことは、あまり言わない方が良い。
相手の方が優れていたら、相手は、あなたの言うことなど、端から聞かない。
相手の方が劣っていたら、相手は、あなたの言うことが理解出来ない。
相手とあなたが同等であるなら、相手はあなたに反発するだけだ。
よって、怒らず、非難せず、相手が間違っていることだけをはっきりさせれば良い。
もし、それが出来ないなら、実は、相手は間違っていなかったのだ。

『観無量寿経』という、浄土仏教の経典を見れば、人間には9種類あるらしい。
並べて書くと、

上品上生、上品中生、上品下生
中品上生、中品中生、中品下生
下品上生、下品中生、下品下生

であり、(言うまでもないだろうが)上ほど上位グループであり、グループ内では左ほど優れている。
私は、迷うことなく、一番下で一番右の「下品下生」である。
なぜなら、その条件は以下の十個だからだ。
(1)殺し
(2)盗み
(3)邪淫
(4)嘘つき
(5)二枚舌
(6)悪口
(7)きれい言
(8)貪欲
(9)怒り
(10)愚痴
まさに全て私の代名詞である。
吾こそは「ミスター邪淫」「ミスター二枚舌」である。なんたってサイコパスだ。
殺しはどうかって?
人間はまだだが、その他のものは数限りなく。人間も、心の中ではいっぱい殺したし、そのうち・・・いや、何でもない。

初音ミクさんの『ゴーストルール』では、そんな人が自分のことを歌っている。見事なまでにね。是非、聴くように。
DECO*27 - Ghost Rule feat. Hatsune Miku / ゴーストルール feat. 初音ミク ~YouTube 公式~

で、この経典によれば、下品下生でも、「心を込めて十回念仏すれば救われる」とある。
しかし、それは無理だ。
「心を込めて」なんてのは、私には出来ない。
邪淫な心、貪欲な心しかないのだから。
しかし、最後の最後で、釈迦は言うのだ。
「無量寿仏の名を覚えていなさい」
それでオールオーケーなのである。
無量寿仏とは阿弥陀仏のことであり、「南無阿弥陀仏」と称えていれば、いつも忘れない訳である。
法然も、大体そう言ったと思う。

ところで、この経典では、観世音菩薩から恵みを得る方法も書かれている。
しかし、どう見ても、それは私には(いや、誰にも)絶対に出来ない。
ところが、こう書いてある。
「観世音菩薩の名を聞くだけで、計り知れない功徳(恵み)がある」
それなら、自分で言えば聞けるのであり、思うだけで心で聞けるのだから、私は、その「聞くだけで」の功徳で十分である。
それでも「計り知れない」のだ。
だから、「南無観世音菩薩」と称えれば良い。
それできっと、裕福になり、きれいな女の子もいっぱい来て身を任せるはずだ・・・すでにそうだと思うが。
仏典は、逃げ道だらけで慈悲深いものである。

覚えていてね わたしの声を
あなたがくれた この身すべてを
言の葉と初の音が交わる
この息と音とヒビカセ
~『ヒビカセ』(作詞:れをる、作曲・編曲:ギガP。歌:初音ミク)より~
【初音ミク】 ヒビカセ 【オリジナル】 ~YouTube 公式~

ミクさんの歌は現代の至高の経典、聖典である。
上記2曲は、『マジカルミライ2016』の、2曲目、3曲目で歌われている。ミクさんの歌、ダンスは絶品であったと思う。









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「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」の違い

朝、起きたらすぐ(仕事の都合で夜起きる人もいるだろうが)、遅くとも30分以内に一度はガッツポーズをすることだ。
両手を高く上げ、胸を張り、顔を上げて微笑み、拳を握りしめて、心の中で、「やった!」とか「いいぞ!」とか「イエイ!」と叫ぶのである。
ガッツポーズで、下を向いたり、身体を縮こまらせる人がいるが、それは良くない。
サッカー選手やサッカーの監督でも、超一流を続ける人は、両手を高く上げ胸を張ってガッツポーズをするのである。
それで1日、ずっとうまくいく。
そして、なるべく多く真言を称えれば、存在感は増し、良いものを引き寄せる強力な磁石になり、宇宙が味方する。
真言は何でも良いが、「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」の2つについてお話する。

称名念仏と言えば、浄土仏教のもののように思うかもしれないが、法華経だって、それを重要視している。
そもそも、我々に出来るのは、それ(念仏)くらいなのだし、それが出来れば十分である。
仏教そのものが科学であるが、念仏も十分な科学的裏づけがある。

ところで、「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」はどう違うのだろうか?
前者は、阿弥陀如来に呼びかけ、後者は観世音菩薩に呼びかける。
阿弥陀如来は、宇宙そのもの、大自然そのもの、生命そのものである。
一方、観世音菩薩は、物質と心における、「力」を司る。
それは、簡単に言えば、こうである。
「南無観世音菩薩」と称えれば、宇宙の魂が自分の魂の中に流れ込んでくる。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、自分の魂が宇宙の魂の中に流れ込んで広がる。
つまりこうだ。
「南無観世音菩薩」と称えれば、心と身体が宇宙の力に満ち、力が(自律的に)働いてくれるので無敵である。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、自分が宇宙になる。

だが、同じと言っても良く、好きな方を称えれば良い。
あえて言えばだが、「南無阿弥陀仏」は時間をかけて大きな願いを叶えるが、「南無観世音菩薩」は目の前の問題を即座に解決する。
とはいえ、馴染んでくれば、そのどちらも、同じくらい出来るようになる。
いずれかを称えても良いし、両方称えたって構わない。

一応、私は、研究、実験、体験の結果、このように考えている。









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素直に簡単に現世利益を得る

阿弥陀如来と観世音菩薩の関係は、キリスト教の父なる神とイエス・キリストの関係かなあと思った。
イエスは、「父なる神に願い事があれば、それは既に叶ったと思え。そうすれば叶えられる」と言った。
しかし、イエスだって神の力を持ち、病気を治したり、仕事を成功させたり(さっぱりの漁を大漁にした)、モノを与えたり(数個のパンと数匹の魚を数千人分に増やした)し、悪魔を追い払ったり、天気を良くしたり、他にも何でも出来るのだから、イエスに頼んだ方が、手っ取り早く確実である。

親鸞は、阿弥陀如来は無限の現世利益をくれると言っているが、親鸞や、その師の法然、あるいは、経典を見ると、阿弥陀如来自身がやって来て何かしてくれるというよりは、阿弥陀如来は、他の如来(仏)、あるいは、菩薩を派遣したり、あるいは、阿弥陀如来の威光により、神々が代わって面倒を見てくれるようである。
一方、観世音菩薩(観音様)は、本当は偉い如来なのだが、人々を救うために現世に下りてきて菩薩をやっているのであり、全く、イエスのようである。

復活後のイエスはいまもこの世にあるのかもしれないが、観世音菩薩も、変わらず、現世におられるのだろう。
イエスも慈悲深いが、観世音菩薩の慈悲深さは桁外れである。
そもそも、観世音菩薩と関係が深い阿弥陀如来が、いかなる悪人も差別せずに助けるのだから、そのポリシーは観音様も同じであり、「俺なんか助けてくれないのじゃないかな」なんて心配することはない。

『観無量寿経』を見ると、観世音菩薩や勢至菩薩は、阿弥陀如来とほとんど変わらないくらい立派であり、パワーも凄まじいが、阿弥陀如来の名を呼ぶ者の所に自ら出かけて行って世話を焼いてくれるらしい。
それで、我々は、根本的には阿弥陀如来を拝み、個々の願い事については、観世音菩薩に頼むのが確実である。
観世音菩薩の面倒見の良さについては、『法華経』の25章である『観音経』に詳しいが、とにかく大変なものである。

もちろん、阿弥陀如来や観世音菩薩というのは、高次の世界のことを人間に分かり易いように象徴的に表したものであろうが、せっかく解り易くしてくれているのだから、そのまま素直に受け取れば良いのである。
そこで、普段、たゆみなく「南無阿弥陀仏」と称え、現世的な願い事については、観音様に頼めば良い。
その方法は、やはり、「南無観世音菩薩」と称えたり、単に、「観音様」と言ったり、あるいは、観音様の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」を称えれば良い。
こう言うと宗教的で抵抗を感じる人もいるだろうが、要は、人間より高い存在に意識を向け、余計なことを考えずに安心すれば良いのである。
また、「欲深であってはならん。清らかな心でないと救われん」なんて言う人は多いだろうが、少なくとも私は欲深で清らかでないことは仕方がなく、一生治るとは思えないし、そんな者を救ってくれるのが阿弥陀如来や観世音菩薩なのであるから、むしろ、聖人ぶらない方が良いと思う。

尚、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」で良いのであるが、実際の経典には、ただ、名を呼べと書いているのであるから、「阿弥陀如来」「阿弥陀様」とか、そのインドの原語である「アミターバ」と呼んでも良いだろうし、観世音菩薩も、「観世音菩薩」「観音様」「アヴァローキテーシュヴァラー」と呼ぶのも良いだろう。
また、『観音経』では、「観世音菩薩の力を想えば良い」ともあるので、その方が好みであれば、そうすると良いだろう。

宗教は権威的でややこしいが、上のように単純にやれば全てうまくいくだろう。
尚、仏様も菩薩様も、ポーズを決めておられるが、我々も、パワーポーズ(ガッツポーズ)を忘れてはならない。









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現代の念仏

インドの聖典である『バガヴァッド・ギーター』や、ゲーテの『ファウスト』を読むと、つくづく、人間は、怠ることなく励まなければならないのだなと思う。
何に励むかというと、『バガヴァッド・ギーター』では、行うべき義務であり、その中には世俗の仕事も含まれている。
神クリシュナは、「義務を果たせ」、「怠惰になるな」と言う。
また、『ファウスト』では、神は、怠ける人間には悪魔をつけて、酷い目に遭わせて目を覚まさせるのだということを述べている。

一方、法然や親鸞は、念仏以外、何もしなくて良いと教える。
彼らの教えに対しては、明恵や日蓮といった優れた僧達や、あるいは、宮沢賢治らは大いに反発した。
ただ、一休、良寛らは、法然や親鸞の教えを大絶賛した。

さて、どちらが・・・つまり、ギーター&ファウストチームと、法然&親鸞の師弟コンビのどちらが正しいのだろう。
怠け者の私としては、念仏の教えが好きであるが・・・

しかし、どちらも同じなのである。
念仏だけしていればよろしい。
だけどね、何もしないつもりでも、絶対に何かしてしまうものなのだ。
『バガヴァッド・ギーター』をよく読むと、そんなことがよく分かるのである。
そして、何をするかは、その人間の精神性次第だ。
それ(精神性)を良くするためには、ただ念仏をすれば良いのだが、法然、親鸞の時代と今は違う。
この情報社会で、阿弥陀如来世という固有の仏様や、あるいは、クリシュナという名がついた神様を無条件に信じられるかというと、現実的にそれは不可能だ。
しかし、いかに現代人とて、幼い頃に刷り込まれた宗教の教えは手強く、阿弥陀様は阿弥陀様、イエス様はイエス様と分けて考えずにはいられない。
阿弥陀如来とクリシュナは同じものだと言ったら、それぞれの信仰者に怒られるのは間違いないが、絶対に同じなのである。
阿弥陀如来は、インドのアミターバとかアミターユスという仏様の名前を音写したものだが、それぞれの意味は、無限の光、無限の生命だ。
クリシュナは自分のことを、「根本の根本」、「一切」と言うが、それはつまり、本質的に、アミターバやアミターユスと同じである。

『ファウスト』でも、悪魔メフィストにすら小馬鹿にされるファウストを、神がなぜ買っているかというと、ファウストは何だかんだ言っても、常に神に目を向けているからだ。
ファウストは迷ってばかりであるが、やがてはいつも神に向かって顔を上げるのだ。
神がファウストを可愛がる理由はそれなのだし、他には特にない。
そして、クリシュナも、「私だけを常に愛せ」と言い、法然や親鸞も、「ただ阿弥陀如来を誉め称え、阿弥陀如来にすがれ」と言ったのだが、全く同じことなのだ。
他に何もする必要はない。
ただ、それでも、人間は何かしてしまうし、善か悪かは分からないが、大それたことすらやってしまうのだ。
それは仕方がない。
だが、それでいいじゃないか。

いかに現代人とて、賢い人であれば、神がいないと考えることはおかしなことである。
そして、神の方を見て、神を目指すという考え方がおかしいはずがない。
それが難しいなら、それはむしろ、世俗の偏見があるからだと思える。
人間も自然も宇宙も、ちゃんと見れば、神秘以外のなにものでもなく、全てが奇跡なのだ。
科学的に考えようが、宗教的に考えようが、神はあからさまに「いる」ではないか?
本当かどうか知らないが、スティーヴン・ホーキングが、「神はいない。全てはいずれ科学で説明がつく」と言ったらしいが、もし、本当にそう言ったのなら、彼は単に勉強不足だ。
しかし、そうではなく、彼の神や科学の観念が、我々凡人とかけ離れているだけで、彼だって、『バガヴァッド・ギーター』のクリシュナや、『ファウスト』の神と、そう違うことを言っている訳ではない。ただ、少し硬いとかいびつとかは言えるかもしれない。

何もせずとも、念仏さえしておれば良い。
そして、現代人にとっての念仏とは、ただ、顔を上げて微笑むことである。
うつむいていることに気が付けば、顔を上げることだ。
神様は上にも下にもおられるが、人間は天の方向に神様を見るように出来ているのだから。









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自分を見限れば人生は夢になる

人生に失望したとか、絶望したと言う人、あるいは、思っている人がいると思う。
だが、その認識は的外れだ。
外面は全て内面の現れだ。
つまり、それは、失望すべき自分、絶望すべき自分がいるだけなのだ。

古い映画の喩えで言えば、人生や世界はスクリーンに映った映画で、映画のフィルムが自分なのである。
自分であるフィルムが絶望すべき内容であれば、映画は確実に絶望的なものになる。
だが、人生を見限る人は多くても、自分を見限る人はいないのだ。
ところが、どういうわけか、私は自分を見限ることが出来た。
謙遜でもなければ、誇張でもなく、自分が救いようのない人間であることが分かったのだ。

親鸞が、我々はどうしようもない浅ましい身であるから、阿弥陀如来に全てまかせてしまうしかないと言った話を時々したが、それでも、「でも、私はまかせ切れない」とか、「阿弥陀如来が私の前に現れてくれさえしたら」と言いたい人がいるだろう。
そんな人は、まだまだ、自分を見限っていないのだ。
自分は、わりと高貴だとか、あるいは、「あいつ」よりマシと思っているのだろう。
そんな人は、修行しなければならない。
そして、やっぱり自分が、修行なんか出来ない駄目な人間であることを思い知れば良いのだが、それならそれで、出来ない言い訳をいろいろするのだ。

完全に自分を見捨てた時、阿弥陀如来は、信じさせてくれるのである。
全て阿弥陀如来にまかせれば救ってもらえるということを。
そうなれば、人生は夢に過ぎないし、スクリーンの映像は、いかに恐ろしくても何の力もないことが分かる。
そこまでいけば、フィルムが変わらないとも限らない。
ただ、フィルムを変えることに、それほどの興味はなくなっているかもしれないがね。









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