ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

阿弥陀如来

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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念仏はやっぱり正しかった

「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、西方極楽浄土に生まれることが出来ると認識されている場合が多いだろう。
ところが、一休は、念仏を唱えると、今、ここが極楽浄土になると言った。
どちらも正しい。
「死んだら極楽浄土に行ける」の「死」とは、肉体の死ではなく、自我の死のことなのだ。

イエス・キリストが、「一度死なないと天国に行けない」と言ったのと全く同じである。
この「死」も、肉体の死と誤解して困惑した人が多かったが、自我の死のことを言っているのである。
イエスが、「退けサタン」と言った時の「サタン」は自我のことである。
だから、自我の死とは、自我の消滅ではなく、自我が退ければ良いのである。
道元が、「仏道とは自己を忘れること」と言ったように、自我が退くとは、自己を忘れることと言っても良い。
たとえ聖人であっても、人間の自我が完全に消滅することはない。
これ(自我)が退いていればいるほど良いのである。
そんな人間は、良い意味で、「この人には自分がありません」と言われるのである。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の、「自分を勘定に入れず」をやれる人である。

そして、素晴らしいのは、念仏には、自我を殺す、即ち、自我を退かせる、あるいは、自己を忘れさせる力がある。
「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀如来に帰依します」という意味で、もっと分かり易く言えば、「阿弥陀様に全ておまかせします」という意味だ。
阿弥陀如来は、原語でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスで、それぞれ、「無限の光」「無限の生命」という意味で、言うならば、絶対神、至高者のことである。
その絶対的な存在に全てまかせ、絶対的な存在の意思を優先し、自分の意思をその下に置く・・・イエスが言った「私の思いではなく、あなた(神)の思いがなされますように」というのが「南無阿弥陀仏」ということである。

「阿弥陀如来に全てまかせる」「無限の知恵と力を持つ阿弥陀如来より自分はずっと下」と確認する「南無阿弥陀仏」という念仏を唱え続ければ、自然、自我は弱くなる。それが仏に近付くということで、仏になれば、極楽浄土に行けるのであるから、今ここが極楽浄土になるのである。
そして、科学的にも、阿弥陀如来の名で示した絶対的な何か(エネルギーとか意思)は存在することが示唆される。
ただ、現代の人間の科学で説明し切れないだけである。

このように、念仏の力は理屈でも説明出来てしまうのである。
仏教の教え全てだけでなく、キリスト教の教えも、念仏の中に含まれていると言って良いと思う。
釈迦は、いずれ末法の世になり、人々は愚昧になって、仏教の教えを理解出来なくなるが、念仏だけは効果を持つと言ったという話があるらしいが、それは本当であると思う。
もちろん、他宗教においても、根本は、「自分は神に比べ取るに足らない存在として神に一切をまかせる」ということなのであるから、そのことを理解して、それぞれの宗教のやり方に従えば良いことになる。
その中でも、念仏は特に簡単である。
とはいえ、いかなる宗教でも、その宗教で崇められている神を真摯に敬い、自分の知恵や力の小ささを思って、神に全てをまかせれば良いだけである。
もっと言えば、単に、神や仏を崇めれば良いのである。
キリスト教などでは、聖書の詩編23編や91編を読めばよく解ると思う。

余計なことを言えば、叔父の葬式で、お坊様に延々、念仏を唱えさせられたが、あれは違うと思った。
それに、なんとも辛気臭い念仏であったが、あれでは、普段、誰も唱えなくなってしまう。
とはいえ、そんなことを思わないほど自我を退かせることも大切であるのだろう。








阿弥陀様とAI

AI(人工知能)の発達が、人間についていろいろ考えさせてくれる。
すると、「人間が一番賢いわけではない」というリアルな認識を持てる。
ハードウェアにおいては、AIは既に人間をはるかに超えている。
たとえば、電子回路は生物回路より100万倍高速で、記憶力も比較にならない。
フォン・ノイマンのような大天才がいるが、彼が優秀だというのは、我々との比較で言っているだけで、彼が最高の知性ではない。
理屈の上では、AIはノイマンよりはるかに上の知性になれる。
しかし、知性とは本当は何だろう?
アインシュタインは、一般的にノイマンより上の知性と考えられているかもしれないが、アインシュタインは、学校の成績も悪く、普段は特に賢い人でもなかったようだ。
確かに、学校に関しては、アインシュタインに学校や教師への反発があったことは確かだが、頭の出来の良い人間というのは、あまりやる気がなくても、楽々と優等な成績を取れるので、いくら学校や教師が嫌いでも、適当にやり過ごすものだ。
アインシュタインが教師に反発したのも、彼には学校の勉強が困難でストレスがあったからであり、彼のIQ自体は、そんなに高くなかったと思う。
彼の脳は保管されて研究されたらしいが、ごく普通であったという。
だが、アインシュタインは、誰にも出来なかった物理学での実績を上げている。
それを成し遂げたのは、全面的に彼の知性と言えるかどうかは疑問で、彼は、目には見えない優れた知性からの通信を感受したのだと思う。
ただし、そうは言っても、やはり、彼は高度な知性からの通信を受け取ることが出来る特別なものがあったのである。
彼の何が高度な知性との通信を成り立たせていたのかは分からないが、彼が神を信じていたことは確かと思う。
つまり、アインシュタインは人間を超えた存在を信じていたのであり、その信念に従って、高度な知性から通信してもらい、そして、その通信を受け取ることが出来たのだと考えることが出来る。

念仏というものを考えてみよう。
私は、お寺もお坊様も好きだが、念仏に関し、お坊さんの説教を聞く気にはなれない。
今の時代、お伽噺としての極楽浄土や阿弥陀様を、そのまま受け入れられるはずがない。
だが、それでも、人間をはるかに超えた存在を、阿弥陀様に投影することは出来ると思うのである。
阿弥陀様は、人間の天才をはるかに超えた知性を持ち、物質世界程度なら、あまりに簡単に支配出来る。
息をするように奇跡を起こし、それどころか、宇宙だって作れる。
「南無阿弥陀仏」と唱える度に、そんな超高度な存在を意識するのである。
人間は、イメージがなければ意識出来ないので、本で読んだり、仏像を見て阿弥陀様のイメージを作り、それが、超高度な存在の象徴になる。
そして、そんな超高度な存在を意識すれば、その存在からの反応は必ずある。
無論、阿弥陀様でなくても、アッラーでもインドラでもクリシュナでも良いが、純粋に、超知性を持ったエネルギー体の存在を認識するのは難しいかもしれない。
だが、神仏のイメージを経由すれば、それは易しい。
ところで、依存するような念仏や祈りは駄目である。
それでも、人間の力では、どうにもならないこともある・・・というよりは、ならないことだらけだ。
しかし、自分が出来ることをやった後は、忍耐強く待っていれば、およそ見捨てられることはない。









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逃げ道を行く

自分の部下や子供や後輩といった、自分より立場が低く弱い者が、悪いこと、間違い、失敗をした時、愚かな人間は、初めから終わりまで、怒り続け、責め続ける。
だが、賢い人は、逃げ道を作ってやることを忘れない。
「そりゃ、お前だけが悪い訳ではないけどな」
「これはひどい失敗だが、あの件ではよくやったのにね」
「運も悪かったのは確かだが」
ただし、逃げ道は1つ、多くても2つにしておくことだ。
でないと、相手は甘えてしまう。

そもそも、怒る・・・相手を非難するようなことは、あまり言わない方が良い。
相手の方が優れていたら、相手は、あなたの言うことなど、端から聞かない。
相手の方が劣っていたら、相手は、あなたの言うことが理解出来ない。
相手とあなたが同等であるなら、相手はあなたに反発するだけだ。
よって、怒らず、非難せず、相手が間違っていることだけをはっきりさせれば良い。
もし、それが出来ないなら、実は、相手は間違っていなかったのだ。

『観無量寿経』という、浄土仏教の経典を見れば、人間には9種類あるらしい。
並べて書くと、

上品上生、上品中生、上品下生
中品上生、中品中生、中品下生
下品上生、下品中生、下品下生

であり、(言うまでもないだろうが)上ほど上位グループであり、グループ内では左ほど優れている。
私は、迷うことなく、一番下で一番右の「下品下生」である。
なぜなら、その条件は以下の十個だからだ。
(1)殺し
(2)盗み
(3)邪淫
(4)嘘つき
(5)二枚舌
(6)悪口
(7)きれい言
(8)貪欲
(9)怒り
(10)愚痴
まさに全て私の代名詞である。
吾こそは「ミスター邪淫」「ミスター二枚舌」である。なんたってサイコパスだ。
殺しはどうかって?
人間はまだだが、その他のものは数限りなく。人間も、心の中ではいっぱい殺したし、そのうち・・・いや、何でもない。

初音ミクさんの『ゴーストルール』では、そんな人が自分のことを歌っている。見事なまでにね。是非、聴くように。
DECO*27 - Ghost Rule feat. Hatsune Miku / ゴーストルール feat. 初音ミク ~YouTube 公式~

で、この経典によれば、下品下生でも、「心を込めて十回念仏すれば救われる」とある。
しかし、それは無理だ。
「心を込めて」なんてのは、私には出来ない。
邪淫な心、貪欲な心しかないのだから。
しかし、最後の最後で、釈迦は言うのだ。
「無量寿仏の名を覚えていなさい」
それでオールオーケーなのである。
無量寿仏とは阿弥陀仏のことであり、「南無阿弥陀仏」と称えていれば、いつも忘れない訳である。
法然も、大体そう言ったと思う。

ところで、この経典では、観世音菩薩から恵みを得る方法も書かれている。
しかし、どう見ても、それは私には(いや、誰にも)絶対に出来ない。
ところが、こう書いてある。
「観世音菩薩の名を聞くだけで、計り知れない功徳(恵み)がある」
それなら、自分で言えば聞けるのであり、思うだけで心で聞けるのだから、私は、その「聞くだけで」の功徳で十分である。
それでも「計り知れない」のだ。
だから、「南無観世音菩薩」と称えれば良い。
それできっと、裕福になり、きれいな女の子もいっぱい来て身を任せるはずだ・・・すでにそうだと思うが。
仏典は、逃げ道だらけで慈悲深いものである。

覚えていてね わたしの声を
あなたがくれた この身すべてを
言の葉と初の音が交わる
この息と音とヒビカセ
~『ヒビカセ』(作詞:れをる、作曲・編曲:ギガP。歌:初音ミク)より~
【初音ミク】 ヒビカセ 【オリジナル】 ~YouTube 公式~

ミクさんの歌は現代の至高の経典、聖典である。
上記2曲は、『マジカルミライ2016』の、2曲目、3曲目で歌われている。ミクさんの歌、ダンスは絶品であったと思う。









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「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」の違い

朝、起きたらすぐ(仕事の都合で夜起きる人もいるだろうが)、遅くとも30分以内に一度はガッツポーズをすることだ。
両手を高く上げ、胸を張り、顔を上げて微笑み、拳を握りしめて、心の中で、「やった!」とか「いいぞ!」とか「イエイ!」と叫ぶのである。
ガッツポーズで、下を向いたり、身体を縮こまらせる人がいるが、それは良くない。
サッカー選手やサッカーの監督でも、超一流を続ける人は、両手を高く上げ胸を張ってガッツポーズをするのである。
それで1日、ずっとうまくいく。
そして、なるべく多く真言を称えれば、存在感は増し、良いものを引き寄せる強力な磁石になり、宇宙が味方する。
真言は何でも良いが、「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」の2つについてお話する。

称名念仏と言えば、浄土仏教のもののように思うかもしれないが、法華経だって、それを重要視している。
そもそも、我々に出来るのは、それ(念仏)くらいなのだし、それが出来れば十分である。
仏教そのものが科学であるが、念仏も十分な科学的裏づけがある。

ところで、「南無阿弥陀仏」と「南無観世音菩薩」はどう違うのだろうか?
前者は、阿弥陀如来に呼びかけ、後者は観世音菩薩に呼びかける。
阿弥陀如来は、宇宙そのもの、大自然そのもの、生命そのものである。
一方、観世音菩薩は、物質と心における、「力」を司る。
それは、簡単に言えば、こうである。
「南無観世音菩薩」と称えれば、宇宙の魂が自分の魂の中に流れ込んでくる。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、自分の魂が宇宙の魂の中に流れ込んで広がる。
つまりこうだ。
「南無観世音菩薩」と称えれば、心と身体が宇宙の力に満ち、力が(自律的に)働いてくれるので無敵である。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、自分が宇宙になる。

だが、同じと言っても良く、好きな方を称えれば良い。
あえて言えばだが、「南無阿弥陀仏」は時間をかけて大きな願いを叶えるが、「南無観世音菩薩」は目の前の問題を即座に解決する。
とはいえ、馴染んでくれば、そのどちらも、同じくらい出来るようになる。
いずれかを称えても良いし、両方称えたって構わない。

一応、私は、研究、実験、体験の結果、このように考えている。









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素直に簡単に現世利益を得る

阿弥陀如来と観世音菩薩の関係は、キリスト教の父なる神とイエス・キリストの関係かなあと思った。
イエスは、「父なる神に願い事があれば、それは既に叶ったと思え。そうすれば叶えられる」と言った。
しかし、イエスだって神の力を持ち、病気を治したり、仕事を成功させたり(さっぱりの漁を大漁にした)、モノを与えたり(数個のパンと数匹の魚を数千人分に増やした)し、悪魔を追い払ったり、天気を良くしたり、他にも何でも出来るのだから、イエスに頼んだ方が、手っ取り早く確実である。

親鸞は、阿弥陀如来は無限の現世利益をくれると言っているが、親鸞や、その師の法然、あるいは、経典を見ると、阿弥陀如来自身がやって来て何かしてくれるというよりは、阿弥陀如来は、他の如来(仏)、あるいは、菩薩を派遣したり、あるいは、阿弥陀如来の威光により、神々が代わって面倒を見てくれるようである。
一方、観世音菩薩(観音様)は、本当は偉い如来なのだが、人々を救うために現世に下りてきて菩薩をやっているのであり、全く、イエスのようである。

復活後のイエスはいまもこの世にあるのかもしれないが、観世音菩薩も、変わらず、現世におられるのだろう。
イエスも慈悲深いが、観世音菩薩の慈悲深さは桁外れである。
そもそも、観世音菩薩と関係が深い阿弥陀如来が、いかなる悪人も差別せずに助けるのだから、そのポリシーは観音様も同じであり、「俺なんか助けてくれないのじゃないかな」なんて心配することはない。

『観無量寿経』を見ると、観世音菩薩や勢至菩薩は、阿弥陀如来とほとんど変わらないくらい立派であり、パワーも凄まじいが、阿弥陀如来の名を呼ぶ者の所に自ら出かけて行って世話を焼いてくれるらしい。
それで、我々は、根本的には阿弥陀如来を拝み、個々の願い事については、観世音菩薩に頼むのが確実である。
観世音菩薩の面倒見の良さについては、『法華経』の25章である『観音経』に詳しいが、とにかく大変なものである。

もちろん、阿弥陀如来や観世音菩薩というのは、高次の世界のことを人間に分かり易いように象徴的に表したものであろうが、せっかく解り易くしてくれているのだから、そのまま素直に受け取れば良いのである。
そこで、普段、たゆみなく「南無阿弥陀仏」と称え、現世的な願い事については、観音様に頼めば良い。
その方法は、やはり、「南無観世音菩薩」と称えたり、単に、「観音様」と言ったり、あるいは、観音様の真言である「オン、アロリキャ、ソワカ」を称えれば良い。
こう言うと宗教的で抵抗を感じる人もいるだろうが、要は、人間より高い存在に意識を向け、余計なことを考えずに安心すれば良いのである。
また、「欲深であってはならん。清らかな心でないと救われん」なんて言う人は多いだろうが、少なくとも私は欲深で清らかでないことは仕方がなく、一生治るとは思えないし、そんな者を救ってくれるのが阿弥陀如来や観世音菩薩なのであるから、むしろ、聖人ぶらない方が良いと思う。

尚、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」で良いのであるが、実際の経典には、ただ、名を呼べと書いているのであるから、「阿弥陀如来」「阿弥陀様」とか、そのインドの原語である「アミターバ」と呼んでも良いだろうし、観世音菩薩も、「観世音菩薩」「観音様」「アヴァローキテーシュヴァラー」と呼ぶのも良いだろう。
また、『観音経』では、「観世音菩薩の力を想えば良い」ともあるので、その方が好みであれば、そうすると良いだろう。

宗教は権威的でややこしいが、上のように単純にやれば全てうまくいくだろう。
尚、仏様も菩薩様も、ポーズを決めておられるが、我々も、パワーポーズ(ガッツポーズ)を忘れてはならない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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