『赤穂浪士』という小説のために、「赤穂浪士」という言い方が一般的になった赤穂事件について、史実ではないのかもしれないが、お話の概要は多くの人が一通り知っていると思う。
ところが、このお話について、やれ「主君への忠義あふれる武士の心意気」だの、吉良上野介(きらこうずけのすけ)が強欲で高慢な人間であったから悪いだのといった、どうでも良いことばかりが注目され、問題の本質が分からない者がほとんどだ。
これは、特に戦後の思想統制のために、日本人のIQが引き下げられてしまっているからである。
日本人は世界的に言ってIQが高いなどと言われているが、外国との比較の実際は不明ながら、こんな日本人のIQが高いはずがない。
(ただ、明治以前は高かった可能性がある)
ここでは慣例に倣い「赤穂浪士」と言うが、「赤穂浪士」のお話は、何が問題なのだろう?
とりあえず、「赤穂浪士」のお話を簡単に述べる。
赤穂領主である大名、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、江戸城で朝廷の勅使(使者)を接待する役目だった。この接待役は、大名が順番で行うことになっており、この時は浅野内匠頭の順番だったわけだ。
ところが、この接待の典礼(儀式の手順やしきたり)は極めて複雑でありながら、書にまとまったものがなく、浅野内匠頭は吉良上野介(きらこうずけのすけ)という者に教えてもらう必要があった。
吉良上野介は、こういった典礼を専門とする格の高い家柄の旗本である。
つまり、吉良上野介は、武士としてはそれほどの身分ではないが、典礼のことを知っていて、大名は儀式の際にそれを教えてもらう必要があるので、吉良上野介にペコペコするのであった。
そこで、儀式のことを教えてもらう際、大名は吉良上野介に高額の謝礼をする慣例が定着してしまっていた。
浅野内匠頭も、それなりの謝礼は用意したが、田舎者のためか、他の大名に比べ、それが著しく少なく、そのために吉良上野介を激怒させ、吉良上野介は浅野内匠頭に散々いやがらせをしていじめるが、それでも浅野内匠頭は莫大な謝礼を出さなかったので、吉良上野介は「それなら儀式のやり方は教えてやらん」という態度になる。これには、さすがに浅野内匠頭は困る。儀式に失敗すれば大変なことになるからだ。
私は、その後の経緯はあまり知らないが、堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭は江戸城内で吉良上野介を切りつける事件を起こし、結果、浅野内匠頭のみが切腹となり赤穂藩は解体(取り潰して他の者達に譲り渡す)となったが、吉良上野介は何のお咎めもなかった。
そしてその後、浪人となった赤穂藩士47名が、吉良邸に押し入って吉良上野介を討ち取り、赤穂藩士達は全員、切腹となる。
さて、このお話の何が問題かというと、ややこしい典礼(儀式の手順やしきたり)を崇める愚かしさだ。
こんな全く不要なものを価値ありとし、それを成立させる機構を作ってしまう者達のIQが低さが諸悪の根源である。
似たお話に、近松門左衛門の浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』がある。
似ているとは、下らない儀式を崇める愚かしさの部分だ。
こちらのお話の儀式は、茶の湯の儀式である。
AIアート214
「風と舞う」
Kay
本当に大切なことは、単に「敬う」ことであるのに、そのための儀式の方を優先・・・いや、優先どころか、それのみを重んじるのだから、あまりに愚かである。
もう長い間、こんな簡単なことが分からないくらい、日本人のIQは低下してしまっているのである。
(このブログでずっと説明してきたように)我々は、思考を消し、真の叡智を蘇らせる必要がある。
つまるところ、老子や荘子は、そんなことを言っているのであるから、コリン・ウィルソンが言う通り、人類は数千年も騙され続けているのである。
しかし、思考を消すことで、ついに新しい「まともな」人類になれるのである。
ところが、このお話について、やれ「主君への忠義あふれる武士の心意気」だの、吉良上野介(きらこうずけのすけ)が強欲で高慢な人間であったから悪いだのといった、どうでも良いことばかりが注目され、問題の本質が分からない者がほとんどだ。
これは、特に戦後の思想統制のために、日本人のIQが引き下げられてしまっているからである。
日本人は世界的に言ってIQが高いなどと言われているが、外国との比較の実際は不明ながら、こんな日本人のIQが高いはずがない。
(ただ、明治以前は高かった可能性がある)
ここでは慣例に倣い「赤穂浪士」と言うが、「赤穂浪士」のお話は、何が問題なのだろう?
とりあえず、「赤穂浪士」のお話を簡単に述べる。
赤穂領主である大名、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、江戸城で朝廷の勅使(使者)を接待する役目だった。この接待役は、大名が順番で行うことになっており、この時は浅野内匠頭の順番だったわけだ。
ところが、この接待の典礼(儀式の手順やしきたり)は極めて複雑でありながら、書にまとまったものがなく、浅野内匠頭は吉良上野介(きらこうずけのすけ)という者に教えてもらう必要があった。
吉良上野介は、こういった典礼を専門とする格の高い家柄の旗本である。
つまり、吉良上野介は、武士としてはそれほどの身分ではないが、典礼のことを知っていて、大名は儀式の際にそれを教えてもらう必要があるので、吉良上野介にペコペコするのであった。
そこで、儀式のことを教えてもらう際、大名は吉良上野介に高額の謝礼をする慣例が定着してしまっていた。
浅野内匠頭も、それなりの謝礼は用意したが、田舎者のためか、他の大名に比べ、それが著しく少なく、そのために吉良上野介を激怒させ、吉良上野介は浅野内匠頭に散々いやがらせをしていじめるが、それでも浅野内匠頭は莫大な謝礼を出さなかったので、吉良上野介は「それなら儀式のやり方は教えてやらん」という態度になる。これには、さすがに浅野内匠頭は困る。儀式に失敗すれば大変なことになるからだ。
私は、その後の経緯はあまり知らないが、堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭は江戸城内で吉良上野介を切りつける事件を起こし、結果、浅野内匠頭のみが切腹となり赤穂藩は解体(取り潰して他の者達に譲り渡す)となったが、吉良上野介は何のお咎めもなかった。
そしてその後、浪人となった赤穂藩士47名が、吉良邸に押し入って吉良上野介を討ち取り、赤穂藩士達は全員、切腹となる。
さて、このお話の何が問題かというと、ややこしい典礼(儀式の手順やしきたり)を崇める愚かしさだ。
こんな全く不要なものを価値ありとし、それを成立させる機構を作ってしまう者達のIQが低さが諸悪の根源である。
似たお話に、近松門左衛門の浄瑠璃『鑓の権三重帷子(やりのごんざかさねかたびら)』がある。
似ているとは、下らない儀式を崇める愚かしさの部分だ。
こちらのお話の儀式は、茶の湯の儀式である。
AIアート214
「風と舞う」
Kay
本当に大切なことは、単に「敬う」ことであるのに、そのための儀式の方を優先・・・いや、優先どころか、それのみを重んじるのだから、あまりに愚かである。
もう長い間、こんな簡単なことが分からないくらい、日本人のIQは低下してしまっているのである。
(このブログでずっと説明してきたように)我々は、思考を消し、真の叡智を蘇らせる必要がある。
つまるところ、老子や荘子は、そんなことを言っているのであるから、コリン・ウィルソンが言う通り、人類は数千年も騙され続けているのである。
しかし、思考を消すことで、ついに新しい「まともな」人類になれるのである。