ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

錬金術

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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アルケミスト

錬金術というのは、鉄や鉛やアルミニウムといった普通の金属を金に変換するという魔法的化学のことで、古代から中世にかけて、そんなものがあると言われたが、自然科学の発達と共に否定されたと言われている。
錬金術師のことをアルケミストと言う。
(ちなみに、アルミニウムが1825年に発見され、1856年に工業精錬法が開発されるまでは、アルミニウムは金よりも高価だった)

ところが、錬金術は、物質的な金を作るのではなく、人間の自我を低俗なものから、神聖で高貴なものに変換する方法だという説があり、その意味の錬金術は現在も存在していると言われている。
変換された神聖な心が黄金に喩えられ、その変換手法を錬金術と呼ぶのである。
その黄金の心は、魔術的、あるいは、キリスト的な力を持つと言われる。

聖賢の教えによれば、人間は、自我を消し、無になれば・・・即ち、無我、忘我、没我になれば、不可能はなくなると言う。
また、自我が消えることが、解脱とか悟りだと考えられている。
しかし、実際には、悟りを開いた聖者であろうと、自我が無いようには見えない。
聖者も一般的な思考をするし、喜怒哀楽などの感情を示す。
怒りっぽい聖者すらいる。
つまり、悟りを開いても、自我が消滅するわけではない。
そうではなく、聖者の自我は、普通の人間のものとは違う、特別なものになっているのだ。
その特別な自我が持つ力によって、聖者は、その気になれば奇跡も起こせるのだが、そんな特別な自我を作る方法が正しい錬金術である。

『ヒマラヤ聖者の生活探求』にも、そのようなことが書かれているが、錬金術で自我を高貴なものに変換するためには、特に修行が必要なわけではない。
つまり、錬金術には、特別な道具や薬品や、あるいは、儀式が必要なわけでは全くないのだ。
では、どうすれば良いのかというと、単に「私は神である」と宣言すれば良い。
ただし、何度も呪文のように、「私は神である」と繰り返す必要はないし、むしろ、繰り返してはならない。
ただ、「私は神である」と感じれば良いのである。
だが、まずは頭の中で、静かに、ゆっくり、丁寧に「私は神である」と繰り返し唱え、神の感覚を掴めば良いと思う。
呼吸の助けを借りる方法も伝えられている。
やり方はこうで、呼吸に合わせて、心の中で次の言葉を唱える。

息を吐きながら、「私はこれではない」。
息を吸いながら、「私は誰か?」。
息を止め、「私は神である」(インドでは「私は彼である」と言うが、我々は「私は神である」で良いと思う)。

最終的には、神の感覚を自分で掴む必要があるが、ラマナ・マハルシも、この呼吸で超能力をもたらすと述べたようだ。








モスラに学ぶ神秘的変化

モスラという怪獣は、圧倒的人気というのではないが、この鮮やかな妖虫に深い情緒を感じるファンが少なくない。
コロネパン(主にチョココロネパン)を「モスラパン」と呼ぶのは日本文化と言うほど定着していて、確かに、モスラの幼虫はコロネパンみたいで可愛いが、そこに別の深い意味があるのだ。
モスラの魅力は、幼虫がサナギになって羽化し、成虫になって大空を羽ばたくという変身にあるのである。
モスラのサナギの羽化シーンは、常に、神秘的に美しく表現されてきたが、映画制作者には、モスラ変身の重要性がしっかり認識されていたのである。

そして、人間も、物質的にではないが、精神的に、サナギになり羽化するのである。
だが、現代人は、サナギの期間があまりに短く、ほとんど変化しないのである。
ところで、個人だけでなく、あらゆるレベルに羽化はある。
例えば、学校で、江戸時代の鎖国政策について、マイナス面ばかり教わったと思う。
鎖国のせいで、世界の進歩に取り残され、ペリー艦隊がやって来た時、物質文明の差を見せ付けられたことばかりが強調されたはずだ。
しかし、江戸時代、日本は鎖国によってサナギになり、長い時間をかけて、世界のどこにも見られない熟成と進化を遂げた存在に変身したのである。
だからこそ、西洋の物質文明を急速に吸収しただけでなく、独自のものに作りかえる知恵は素晴らしく、愚かな者達は「猿真似」と言って見下したが、それはどう見ても、ただの真似ではなく、西洋のものと、日本人が元々持っていたものとを融合させ、さらには、東洋の別のものをも取り入れ、比類なき創造性を発揮して新生の魔術を示したことは明らかなはずだ。
鎖国があったからこそ、日本の技術は世界No.1になったのだ。確かに、最近は、やや創造性が鈍ってきたが、日本人の独自性はまだ日本人の中に秘められている。

そして、我々一人一人が、サナギになって内面を発達させ、華やかに、あるいは、壮大に羽化しなければならない。
その中でも、ひきこもることによる、特別なサナギの錬金術的変化こそ、最大の神秘であることを知らねばならない。
ひきこもりを加速せよ。
そして、ひきこもったなら、ゴールドになれ。
まず本を読んで学ぶのも良いが、忘れてはならないことは、心のイメージは、高次元の世界では現実に存在するということだ。
だから、イメージを、精神を大切にしなければならない。
ひきこもり、世の中の汚れたメッセージを受け入れないようにするのである。
そして、内面を変化させ、眩しく輝かせるのである。
これが、真の錬金術である。








沈着冷静

「沈着冷静」なんて言葉を聞くと、誰もがそれに憧れるのであるが、「自分はそうだ」と思うと、恥ずかしくて自嘲せざるを得ない人が大半なのである。
「沈着」とは、落ち着いていて、物事に動じないこと。
「冷静」も大体同じで、感情に左右されずに落ち着いていることだ。
つまり、ほぼ同じ2つの言葉を重ねて心が静かである姿を強調して表しているのであり、「沈着冷静」と言っても、「冷静沈着」と言っても良いのである。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の中にある、「決して怒らず、いつも静かに笑っている」というのが、まさに、沈着冷静な態度というものだろう。
そして、この詩の最後は、「みんなにデクノボーと呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、そういうものに私はなりたい」であるが、「そういうもの」でありながら、沈着冷静でありたいと思っているはずなのである。
この詩が愛されるのも、これに流れる慈悲心や人間らしさと共に、沈着冷静という人間の理想があるからと思う。
人々は、それほど、冷静沈着に憧れるのである。
『雨ニモマケズ』からの引用を続ける。

南に死にそうな人があれば
行って、恐がらなくていいと言い

これも、恐がって心を乱している人に、冷静沈着になるよう諭すということであるが、それをしようとする者は完全に冷静沈着でなければならないのである。

北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろと言い

というのは、まさに、沈着冷静になれと言っているのであるが、それを言う者自体が興奮していては仕方がない。
完全に冷静沈着な者が言ってこそ、争いは収まるのである。

では、これほど素晴らしい冷静沈着であることが、なぜそれほど難しいのだろう?
それは、1つには、人々は、冷静沈着であることを、どこか道徳的に考えているからだ。
つまり、理想ではあっても、実際の役には立たないものだと思っているのである。
どういうことかと言うと、実際に役に立つのは、知識や論理的な思考のようなものであり、冷静沈着であることに本当の力があるということを見損なっているのである。
これも、知識偏重で、精神をなおざりにする学校教育のせいであるが、物質主義の世の中では、大人が、目に見えるものしか存在しないと信じているのであるから、仕方がないのである。
医学だって、心身医学という、心を癒すことで身体も治すという考え方も少しはあるが、いまだ、9割までは物質医学であり、薬で化学的作用を起こさせ、悪いとことを切って捨てれば良いという考え方なのである。
こんな世の中では、冷静沈着というのは、どこか空想的な理想に感じられてしまい、その力が分からないのだ。
冷静沈着が現実の力であることが認識できれば、それを得るためにもっと熱心になるだろう。
そして、冷静沈着こそ、最大の力なのだ。
聖書には、「心を静め、自分が神であることを知れ」と書かれているが、物質主義に陥った者には、その意味が理解できない。

古代中国の神仙の中でも最高位と言えると思う、老子や彭祖(ほうそ)は、つまるところ、道を得る・・・その1つの形が、仙人になることであるのだが、そのために必要なことは、心を静かに保つことだと述べているのである。
その他にも、適切な食事をしなさいとか、性エネルギーを浪費しないように気をつけなさいと言っているが、それらも、心の静かさ、つまり、冷静沈着を得るための手段でしかない。
ラマナ・マハルシは、最高の修行とは、「適切な睡眠、適切な食事、適切な会話」であるという、ごく平凡なことを言ったが、これが、心の静かさを得る偉大な修行なのである。
偉大な方々のあらゆる言葉を吟味し、それらを心という実験室で長い時間かけ、熱を加え、拡散(かき混ぜる)し、ろ過し、精製(混じり物を除く)し、精錬(不純物を除く)することが、本当の仙丹(仙人になる薬)を作ることであり、真の錬金術なのだ。
そして、その成果は沈着冷静であり、神になることなのである。

冨田勲さんが制作した『イーハトーヴ交響曲』の、『雨ニモマケズ』の荘厳な合唱を聴くことは、冷静沈着の神的な力に目覚めるのにとても役に立つだろう。
この交響曲の最後の第7楽章『岩手山の大鷲』の終り・・・つまり、この至高の交響曲の最後の最後なのだが、歌い終わった初音ミクが見せる姿が、まるで宇宙のドーン・コーラスを思わせるもので、人々の心を浄化させる救いであると私は確信している。今年は、この交響曲の全国講演があるので、多くの人が見られればと思うし、映像製品も早く出して欲しいと思う。尚、テレビ放送はされたが、NHKもケチケチせず、再放送をすべきだろう。









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十字架は人の身体の形

人が両腕を真横に広げた姿は十字架になる。
そして、縦と横が交差する部分が、人間では胸になる。
人が、自分の心の在り処を示す時、手で胸を押さえるが、それは、感情が高ぶった時に、痛みや高揚感を感じる胸のあたりに心が在ると感じられるからだろう。
そして、感情の強さと共に鼓動が強くなる心臓に、中国では、心の臓器を指す心臓と名付け、我が国もそれに倣っている。英語では、心も心臓もハートと言う。

我々の肉体は十字架なのだ。
そして、中央部分に心の座がある。
これは、十字架に磔にされたイエスと同じで、イエスは、自我を表す。
イエスが十字架上で死んだように、我々も、目には見えないが、肉体に磔になっている自我を殺さなければならない。
それは、当然苦痛である。
イエスが、「主よ、なぜ我を見捨てた」と叫んだように、我々の心(=自我)も叫ぶのである。
しかし、見捨てなければならない。
主は、我々の意識だ。意識は、自我が苦しむのを、ただ見ているだけでなくてはならない。

どんな立場の人間であれ、生きている限り、辛いことが必ずある。
辛い状況、出来事は、犠牲を求める高次の心が起こしたものだ。
その時、我々は、自我を守らずに、犠牲に差し出し、見捨てて殺さなくてはならない。

アメリカの思想家ヴァーノン・ハワードは、このことについて、こんな書き方をしている。
心がぐらつくとき、ぐらつくままにさせなさい。それを、科学者のように冷静に見つめなさい。
すると、やがて、心は抜け落ちる。その時、何が起るかを見ていなさい。

イエスは、磔で死んだ後、3日で肉体を造り直した。
だが、それは、以前と同じ身体ではない。弟子達ですら、復活したイエスを見て、それが誰か分からなかったと、福音書に記されている。
我々もまた、自我を滅ぼした後、新しい純粋な心を造るが、それは、黄金色に輝くものだ。古来、このことを錬金術(アルケミー)と呼んできた。

王様だろうが、大富豪の子供であろうが、犠牲を差し出すチャンスはいくらでもある。この世はつらいものだ。
ある王様が、「私の人生を台無しにしていた泥棒を見つけた。即刻死刑だ」と言ったという伝説があるらしいが、それも、このことを表している。

普通の人は、自我に加勢して、自我を救おうとするので、キリストになれない。
しかし、自我に、「なぜ見捨てた」と言わせれば、我々の勝利である。
幸いなことに、辛く苦しい人生では、キリストになるチャンスに満ち溢れている。
これまでは、極端に悲惨な状況にあった者が、一瞬間、キリストの姿を垣間見せることはあったが、それは、自我を救いようがないからだ。
しかし、我々は、それほどの不幸を待つことはない。
見捨てることさえ出来れば、小さな苦しみで良いのである。
その訓練は、食の慎みだ。
あまり極端にやっては、かえって自我は強まるが、食べたいという自我を見捨て、食を厳しく慎めば、自我を見捨てる訓練になるのである。
これに慣れれば、あらゆる状況で、苦しむ自我を見捨てることが出来るようになる。
自我と一体になって、メランコリー(憂鬱)に浸っているようでは、キリストになれない。









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ニュートンは神秘学で英知を得た

人類史上最大の科学者は、やはりアイザック・ニュートンかもしれない。数学、物理学において現代でも重要で一般的な原理を発見し、理論を構築した。また、そればかりではなく、反射式天体望遠鏡を発明し、それは、ニュートン式望遠鏡とも呼ばれる。
アインシュタインの相対性原理によってニュートンの物理学が地位を失ったと誤解する者もいる。確かに、極大の世界では相対性理論が、極微の世界では量子力学を必要とするが、人間の感覚での日常の世界ではニュートンの運動法則を用いるのである。

ところが、ニュートンが本気で取り組んでいたのは、錬金術などの神秘学や聖書研究で、数学や物理学(当時は自然哲学と言った)は、ほとんど、ついでにやっていたとも言われる。ただ、ニュートンは死期を悟った時、神秘学の研究資料を全て、意図的に灰にしてしまった。

ニュートンは人格者ではなかった。争う時は徹底的で容赦なく、そして、ほとんど彼は勝った。万有引力の法則では、むしろ、フックの法則で知られるロバート・フックが先に発見していたかもしれないし、微積分法では、ドイツのゴットフリート・ライピニッツに優先権があったかもしれないが、ニュートンはあらゆる策謀を廻らし、結局、これらはニュートンの名と共にある。
権威主義者と言われても仕方がないところもあり、国家権力をまとってからは、傲慢だったり、罪人に慈悲をかけない行いもあった。

ニュートンは、デカルトの本から学んだことが何より幸運だった。理解できるところまで読み、分からなくなるといったん読むのをやめ、しばらく間をおいてから、最初から読んだ。すると、前の時よりも先に進める。それを繰り返せば、いずれ、最後に到達する。現在でも、このような学習をやれば知恵を得るだろうが、今は、無駄な詰め込み学習や、後で馬鹿げたものと分かる珍奇な学習方法を強要され、子供達は駄目になっている。現在、タブレット端末を使った教育が賞賛されるばかりなので、それに煽られて乗せられてしまった者が溢れているが、批判がほとんど無いのは、優れた批判の方は、決して報道されないからだ。タブレット端末で勉強することは、人にとって深刻な悪影響となるだろう。

デカルトもまた、神秘学者だった。そして、デカルトの発見も、現代でも色褪せず、むしろ、現代より進んでいるために誤解されているようなものもあるかもしれない。
ニュートンがどのような神秘学を研究していたかは、ほとんど分からない。だが、それは、ニュートンを宇宙の英知に結びつけたに違いない。だが、ニュートンは、自分は砂浜で遊ぶ子供で、時々、きれいな貝を拾い上げたに過ぎず、真理の大海は手付かずのまま、目の前に横たわるばかりだと言った。普段のニュートンからは考えられない謙虚な言葉であるが、それがニュートンの本心と思う。
ニュートンは、エマニュアル・スウェーデンボルグやルドルフ・シュタイナーよりも前の人である。だが、神秘学でも彼等より進んでいたかもしれない。それは分からないが、いずれにしろ、ニュートンの研究の基には聖書があった。それは、スウェーデンボルグも同じだ。聖書に宇宙的英知が秘められているのは確かである。ただ、それは聖書だけではなく、インドの『バガヴァッド・ギーター』も同じで、むしろ、こちらが純粋であると言う聖者もいる。
我々が、学校で神秘学を薦められることは決してないし、聖書を学ぶ機会があるとしても、それは、ほとんどの場合、権威的で誤った教えである。アメリカ最大の賢者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは教会での聖書の教えは、少年時代に拒否している。聖典は、権威的な解釈によらず、また、世間の浅はかな知恵を用いず、無心で読むべきものだろう。そうすれば、それらが人に英知を与える力は、今でも全く失われてはいないに違いない。
下記に、イタリア人のフェデリコ・バルバロが日本語を学んで翻訳した優れた聖書をご紹介する。古事記と観無量寿経は、下記のものは意訳が多く入るが、素晴らしいものと思うし、これらから入るのは分かりやすい上、真意を汲んだ優れた意訳と思う。バガヴァッド・ギーターの翻訳も下記のものが分かりやすい。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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