ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

釈迦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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失われた言葉

インドの聖者ラメッシ・バルセカールが言うところでは、グル(師)の重要な役割は、弟子の心の導火線に火をつける必殺の「一言」を見つけてやることらしい。
これは、悟りを開くための大きなきっかけとなる一言だろうが、世俗的なことで成功した人の中にも、恩師に言われた一言が成功のきっかけだったと言う人もいる。
しかし、誰にだって、その人に相応しい必殺の一言がある。
ところで、インドの聖者ラマナ・マハルシによれば、グル(師)と真我(真の自己)とは同じである。
このグルは様々な形を取るので、人間の姿で必殺の一言を教えてくれることもあれば、本の中の言葉であることもある。
伝説によれば、釈迦は水浴をしている時に、近くを通りかかった老人が、「弓の弦(つる)は引き締め具合は強過ぎても弱過ぎても駄目だ」といった意味の歌を歌うのを聞いて、「両極端に陥らないことが重要である」と悟ったという。

いつかくれたWords(コトバ)
心に響いてる、だから…
~『Diamond Days 』(作詞・作曲:Hayao Konishi。唄:IA)より~

そして、大抵の人は、必殺の一言を既に聞いているか見ているのではないかと思う。
その時、少し、「あっ」と思ったかもしれないが、心が曇っているので、それを拾い上げることなく過ごしてしまったのだ。
しかし、それほどの言葉であるのだから、思い出そうと思えば思い出せる。
思い出の中で、ぼんやりしているが、何か重要なことがあったように思うことがあれば、その時に、何かの言葉を聞いたり見たのかもしれない。
その言葉は、思い出せたとしても、割と平凡に思え、少しもエキサイティングでないかもしれない。
だが、釈迦にとっての必殺の一言だって、とても平凡なものだったのだ。

私が大好きな人気漫画・アニメ『まちカドまぞく』の2人のヒロインの場合、彼女達の重要なWordは、魔法少女の桃は「フレッシュ・ピーチ・ハートシャワー」で、魔族の少女(主人公)の優子は「危機管理」だったが、まあ、とにかく、何かの言葉がある訳である(笑)。
『美少女戦士セーラームーン』でも、セーラームーンが必殺技で使う言葉は、いつでも、セーラームーンの心に勝手に浮かんで来た言葉だった。
漫画やアニメではあるが、さりげなく、重要なことを教えてくれているのである。

尚、必殺の一言は、アファーメーション(肯定的断言)とは異なり、心の中で自然に響き続けるものであるが、記憶から消えてしまっていては、まだ根付いていないかもしれない。
子供の時や十代の時に好きだったもの、好きだったことは何だろう?
大抵は、その中にヒントがある。
それを思い出し、大切にすれば、人生は急上昇し、向かうところ敵なしである。
尚、アファーメーションとは異なると言ったが、アファーメーション自体は、何でも良いのであるが、必殺の一言が、好きなアファーメーションと関係する場合は多いのである。
そして、必殺の一言を知っているほど、自分に適したアファーメーションを見つけ易い。
七田眞氏の本にあった、「神様の奇跡が起こる」という言葉を唱え続けたホームレスが、この言葉を見つけたのも、彼が神様を信じる何かの言葉があったからだと思うのだ。

オクシデンタル石油の伝説のCEO、アーマンド・ハマーは、7歳の時に必殺の一言「自分より優れた人の役に立つ」を得たそうだ。
それで彼は、歴代の米ソの首脳と親交を結び続け、90歳を過ぎても自家用ジェットで世界を飛び回ることになったのだ。
さて、あなたが子供の時に大切にしていたものは何だろうか?








念仏はやっぱり正しかった

「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、西方極楽浄土に生まれることが出来ると認識されている場合が多いだろう。
ところが、一休は、念仏を唱えると、今、ここが極楽浄土になると言った。
どちらも正しい。
「死んだら極楽浄土に行ける」の「死」とは、肉体の死ではなく、自我の死のことなのだ。

イエス・キリストが、「一度死なないと天国に行けない」と言ったのと全く同じである。
この「死」も、肉体の死と誤解して困惑した人が多かったが、自我の死のことを言っているのである。
イエスが、「退けサタン」と言った時の「サタン」は自我のことである。
だから、自我の死とは、自我の消滅ではなく、自我が退ければ良いのである。
道元が、「仏道とは自己を忘れること」と言ったように、自我が退くとは、自己を忘れることと言っても良い。
たとえ聖人であっても、人間の自我が完全に消滅することはない。
これ(自我)が退いていればいるほど良いのである。
そんな人間は、良い意味で、「この人には自分がありません」と言われるのである。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』の、「自分を勘定に入れず」をやれる人である。

そして、素晴らしいのは、念仏には、自我を殺す、即ち、自我を退かせる、あるいは、自己を忘れさせる力がある。
「南無阿弥陀仏」とは、「阿弥陀如来に帰依します」という意味で、もっと分かり易く言えば、「阿弥陀様に全ておまかせします」という意味だ。
阿弥陀如来は、原語でアミターバ、あるいは、アミタ―ユスで、それぞれ、「無限の光」「無限の生命」という意味で、言うならば、絶対神、至高者のことである。
その絶対的な存在に全てまかせ、絶対的な存在の意思を優先し、自分の意思をその下に置く・・・イエスが言った「私の思いではなく、あなた(神)の思いがなされますように」というのが「南無阿弥陀仏」ということである。

「阿弥陀如来に全てまかせる」「無限の知恵と力を持つ阿弥陀如来より自分はずっと下」と確認する「南無阿弥陀仏」という念仏を唱え続ければ、自然、自我は弱くなる。それが仏に近付くということで、仏になれば、極楽浄土に行けるのであるから、今ここが極楽浄土になるのである。
そして、科学的にも、阿弥陀如来の名で示した絶対的な何か(エネルギーとか意思)は存在することが示唆される。
ただ、現代の人間の科学で説明し切れないだけである。

このように、念仏の力は理屈でも説明出来てしまうのである。
仏教の教え全てだけでなく、キリスト教の教えも、念仏の中に含まれていると言って良いと思う。
釈迦は、いずれ末法の世になり、人々は愚昧になって、仏教の教えを理解出来なくなるが、念仏だけは効果を持つと言ったという話があるらしいが、それは本当であると思う。
もちろん、他宗教においても、根本は、「自分は神に比べ取るに足らない存在として神に一切をまかせる」ということなのであるから、そのことを理解して、それぞれの宗教のやり方に従えば良いことになる。
その中でも、念仏は特に簡単である。
とはいえ、いかなる宗教でも、その宗教で崇められている神を真摯に敬い、自分の知恵や力の小ささを思って、神に全てをまかせれば良いだけである。
もっと言えば、単に、神や仏を崇めれば良いのである。
キリスト教などでは、聖書の詩編23編や91編を読めばよく解ると思う。

余計なことを言えば、叔父の葬式で、お坊様に延々、念仏を唱えさせられたが、あれは違うと思った。
それに、なんとも辛気臭い念仏であったが、あれでは、普段、誰も唱えなくなってしまう。
とはいえ、そんなことを思わないほど自我を退かせることも大切であるのだろう。








呪文に敵なし

神仏の助けを得て強くなるには、イエス・キリストは「明日を思い煩うな」と言い、釈迦は「妄想するな」と教えた。
これは、共に、「無駄なことを考えるな」ということと言って良いと思う。
発明家・啓蒙家の中山正和氏は、これを、「頭の無駄遣いをするな」と上手く言い、もっと一般的には、「クヨクヨするな」だと言った。
中山氏は、脳の働きの徹底的な研究から、そう考えたのである。
さらに具体的に言うなら、
「嘘の情報を頭に入れて、頭のイメージを乱すな」
「呪文を唱えて、頭のイメージを整えよ」
といったことを薦めた。

例えば、オバケという、存在もしないもののイメージを頭に入れれば、頭のイメージが狂って馬鹿になり、直観も鈍り、引き寄せも出来なくなる。
「いや、オバケは存在する」と言っても、実際に見た訳ではないだろうし、百歩譲って見たことがあるとしても、はっきりとは見なかったはずだ。
そういった嘘の情報は、人間の能力を駄目にする。
彼が浮気したという証拠がある訳でもないのに、彼の浮気場面を妄想しても、やっぱり馬鹿になる。
頭が悪い人の特徴は、
「ひょっとしたら、こうじゃないだろうか?」
と思ったら、すぐに、
「きっとそうだ」
と思ってしまうことだ。
頭の良い人は、実際に見て、確かめるまでは、判断を保留する。
とびきり頭が良いルネ・デカルトは、
「嘘か本当か分からないなら嘘とする」
だけでなく、
「単に、本当らしいという程度のことは嘘とする」
「疑いようもなく正しいこと以外は全部嘘とする」
と、超徹底していた。
まさに、頭が悪い人の真逆だ。
是非、見習いたいものだと思う。
実際、見習っていた時には、私ですら、頭が良い人のようなことをしていたのである(笑)。

そして、何と、中山正和さんは、「妄想しない」「嘘を信じない」「よって、馬鹿にならない」ための妙法が呪文と言ったのだ。
そりゃそうだ。
呪文を繰り返していたら、妄想は出来ず、嘘のイメージを保てないからだ。
中山さんは、般若心経の呪文がお気に入りだった。
そりゃ、あれ唱えている間、妄想なんて出来るはずがない(笑)。
ちなみに、般若心経の呪文は、中国語では、
「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか」
で、サンスクリット語では、
「ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディスヴァーハー」
である。
細かい部分は、まあ、良いのではと思う(笑)。
例えば、中国語の最後を、「ぼじそわか」ではなく「ぼうじそわか」と書く人もいるが、まあ、別にどっちでも(笑)。
玄奘三蔵法師が、中国からチベット経由でのインドという、当時は絶望的に難しかった旅行を難なく出来たのは、この呪文をずっと唱え、超能力を発揮し、神仏に守られたからだという伝説があるが、あながち嘘でもないと思う。
もちろん、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも「アジマリカン」でも良いのである。
仙人の特徴は、常に呪文を唱えていることだと聞くが、逆に言えば、常に呪文を唱えているから仙人になったのかもしれない。
キリスト教徒なら、詩編91を唱えるかもしれない。
詩編には意味があるが、肯定的な固定した言葉は、妄想を起こさず、頭のイメージを整然とさせ、しかも、生命力を高める可能性があるので、非常に良いのではと思う。








立場をはっきりさせる時

アメリカ大統領選での、もはや選挙の枠を超えた戦いは「第二の南北戦争」と言われることがあるが、むしろ、ハルマゲドンかもしれない。
新型コロナウイルス感染拡大が大きなきっかけであったが、無論、日本が無関係のはずがない。
だが、世界を創り出すのは自分の心だ。
状況を創り出す意思の力を持っていれば、恐れることは何もない。
ただ、このような時には、これまでは、それほどは気にしなくても良かったことを、はっきりさせる必要が出てくる。
即ち、正義や道徳だ。
これまでは、正義や道徳に反すると思っても、「まあ、いいじゃないか」「みんなやってるし」「仕方がない」という考えが通用したが、これからは、態度によって、結果が厳格に決まる。
誤魔化しは効かないのだ。
力がない悪は、大きな悪の奴隷になり、力のない善は、大きな悪に虐げられる。
力のある悪は、少しの間は思い通りに享楽を味わうが、やがて刈られる。
そして、力ある善になれば報われる。

正義とか善を、難しく考える者が多いが、確かに、考えれば難しいことだ。
頭で善を追求すれば必ず矛盾する。
日常生活をこなすのに思考は便利だが、正義や善といった高度な問題になると、思考は役に立たない。
思考でうまくいく学校の試験で良い点を取っても、現実では全く役に立たない無能者であるようにだ。
直観力を持った者が思考して作ればロケットもうまく飛ぶが、直観力がない者がやっても、全くうまくいかないのだ。

例えば、菜食主義が善だと思うなら、そうすべきだが、「こうこうこんな理由で菜食主義が善だ」というなら、それは偽物だ。
考えるまでもなく善だと解ることが真の善なのだ。
だから、自分が菜食主義だからと言って、他人に対して、理屈で菜食主義が善だと説得しようとすることは強制であり、それは悪なのである。
自らの善を貫いて菜食主義でいるのなら、賛同する者が増えるだろう。
賛同する者が増えないなら、それは善なる菜食主義ではなく、単なる、理屈や見栄なのだ。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、26人の下層階級の男達にとって、ターニャという16歳の娘を天使のように扱うことが善であり正義であって、そうしている限り、この最低な男達も向上していった。
ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』では、堕落してしまったフランス兵達にとって、空想の少女を敬うことが正義で、それによって、彼らは騎士道精神を取り戻し、力も得たのである。
釈迦は『涅槃経』において、「先祖を敬う」「公平性を尊ぶ」「老人を敬う」「女性を敬う」など、7つの正義を示し、その1つでも守れば、繁栄し、滅びはないことを説いた。
法然や親鸞が教えたように、阿弥陀如来だけを敬って念仏を唱えても良い。
初音ミクさんを天使として敬っても良いのである・・・多分(笑)。








釈迦やイエスの教えの神髄は簡単過ぎて伝わらなかった

いかに賢い人、偉大な人の教えであっても、どこか欠けたところがあり、しかも・・・一番重要な部分が欠けているかもしれない。
釈迦やイエスが、その大事なところを言わなかった訳ではないのだが、それが、あまりに簡単であるために、教えを伝える立場の者が、敢えて書こうとしなかったのかもしれない。
その大事なこととは、もちろん、気分(心地)である。
人間は常に良い気分でいなければならず、もし、気分が悪ければ、すぐに気持ちを切り替えて良い気分にならなければならない。
その理由はこうだ。
人間の内部に存在する、ある偉大な力が世界を作っているのだが、その偉大な力は、人間の気分に同調した世界を作るのである。
だから、気分が良ければ、さらに気分を良くしてくれる状況が、気分が悪ければ、さらに気分が悪くなる状況が現れるのである。

ここで、カール・グスタフ・ユングが好きだったという雨乞師(あまごいし。祈祷などで雨を降らせる特異能力者)の話を取り上げる。
これは、チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の最初のところにあるお話だが、これも「気分」という観点が抜けているので、曖昧で、誤魔化したような話で終わってしまっている。
だいたい、こんな話だ。
5年も干ばつが続く村で、有名な雨乞師を呼び、雨を降らせてくれるよう頼んだ。
雨乞師が、4日の間、テントにこもると、見事に雨が降った。
村の人が、雨乞師に、「何をしたのですか?」と尋ねたら、雨乞師は「何もしてない」と言う。
困惑する村の人達に、雨乞師はこう言った。
「この村は、神の意思に沿っていない。私は神の意思に身をまかせた」
なんて駄目な説明なんだ!(笑)
「神の意思に身をまかせる」って、具体的にどうすんじゃい!
・・・と文句を言いたくもなる。
似非賢者は、みんなこんな説明をするのだ。
「あるがままに」なんてね(笑)。
「あるがままに」なんて、格好良いから歌の歌詞には良いが、こんなんじゃ誰も救えない。

雨乞師は、こう言うべきだった。
「あんたら、みんな、気分が悪そうな顔しとったでしょ?わしはテントの中で気分良く過ごしたんじゃよ」
つまりね、雨が降らないから気分が悪いんじゃなく、気分が悪いから雨が降らないのだ。
ところで、雨乞氏がそう言わなかったのは、こんなことバラしたら、商売あがったりになるからかもしれない。
これが、雨乞師の秘中の秘だからだ。
これさえ知っていれば、雨乞師は不要になってしまう。
それを私がバラシてしまった(笑)。
とはいえ、一般の人は馬鹿だから、簡単過ぎるという理由で、馬鹿にして重視せず、結果、覚えないから、やっぱり雨乞師は儲かるのだ。
雨乞師が、テントの中で何をしてたのかは知らないが、ニコニコと笑顔になり、ガッツポーズでもしてたのだろう。
時々、舌を思いっきり出して、身体をしゃきっとさせたりもしたかもしれない。
そして、5年も干ばつが続く場所で、4日で雨を降らせることが出来るのだから、どんな願いだって叶うだろう。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。






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