ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
ソフトウェア開発技術者、Hikikomori、スーパーダイエッター、神秘思想家Kayのブログ
決して、一般受けするブログではありません。誠実に人生を遊びつつ、誠実に世間の幻想を叩き壊すことを目的とします。

釈迦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
Twitterは、ちゃんとプロフィールが書かれ、1週間以内に1回でもツイートされている人なら、フォローしていただければ、大抵フォロー返します。

[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

夏休みの宿題をやらなかったことで得た貴重なもの

季節はずれの話題で恐縮だが、学校の夏休みの宿題はちゃんとやっていただろうか?あるいは、現役の学生なら、ちゃんとやるだろうか?
ほとんどの人が、なんだかんだ言っても、一応はやるのではないかと思う。
しかし、私は、やらない方が、やるより百倍は良いと思う。
私自身は、中学までは、夏休みが終ってからやっていたが、高校1年生からはあまりやらなかった。
それで、今、冷静に考えてみて、実質で何か損失があったかというと、全く無いことが分かる。
さらに、トータルでの成果を言うなら、「良い経験になった」の一言である。
一応は進学校とされる高校だったということもあるだろうが、学校で命じられた提出物をきちんと出さないと、かなり嫌な目に遭わされることはご存知と思う。
それが、夏休みの宿題で渡された問題集を丸ごと出さなかったりでもしたら、まるで女子小学生に猥褻行為でもした異常者のような扱いを受ける。
つまり、私に罪悪感を与えるのである。

なぜこんな話をするのかと言うと、人間の持つ、唯一の能力についてお話したく思うからだ。
人間が持つ唯一の能力とは、妄想することである。あるいは、思い煩うことであると言っても良い。

先月の4月7日からは、このブログで堂々と書いているが、人間は、自分の意志で考えたり行動している訳ではない。
誰しも、自分の意志で考えていると思っているが、そう思い込んでいるだけだ。実際は、考えが自動的に起こった後で、それを自分が考えたと感じるだけだ。それは、脳や神経の研究でもほぼ解明されていることである。
思考がそうであるのだから、行動も当然そうなのである。
イエスが言った通り、「彼らは自分が何をしているのか知らない」のである。

『荘子』にも、こんなお話がある。
影の外側に出来る薄膜が影に対し、「なんだってお前は、そんな訳の分からない動きをするのだ。ついていく私の身にもなってくれ」と不満を言う。
すると影は、「俺はご主人様である人間の動く通りに動いているだけだ。しかし、この人間だって、自分がなぜそんなことをするのかは分かっちゃいないんだ」と言うのだ。
特に荘子自身の手によるとされる『荘子』内篇全体を通し、荘子の洞察力は恐るべきものである。

荘子ももちろんだが、釈迦、イエス、そして、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナも、人は全くの無力であることを断言している。
人は、この世の一切に対し、何のコントロールも出来ないのだ。
全てのシナリオは既に細部にいたるまで完全に決定済みなのである。
ただ、そうであることを受け入れることは難しい。なぜなら、人が持つ自我は、自分には力があり、この世に対して支配力を持つという幻想の中でしか生きられないように作られているからだ。
(『エメラルド・タブレット』には、それについて、非常に洗練された高度な書き方がされているので、ちょっと分かり難い。愚民に配慮があるとはいえ、我々とは全く異質なレベルの存在が書いたものだからだ。だから、頭で理解しようなどと思わず、ただ、言葉の響きを感じる方が良い。)

このように、人は実際には何の力も無いのであるが、唯一与えられた力がある。
それを私は、いつもは、創造的な想念とか、想いを出来事に留めるか離すかを決定する意思力といった、ちょっとややこしい言い方をしているが、一言で言うなら、妄想することである。
人間に与えられた唯一の能力は、なんと、妄想することである。
これを思い煩うことと言っても良い。妄想と煩いとは一体であるからだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、人を救うための具体的手法に関しては全く無能なのだが(それは彼だけではないが)、洞察力においては天才だった。それは、世界的心理学者のアブラハム・マズローも舌を巻く程で、マズローは自分が教えていた大学にウィルソンを招いて講義を頼むこともあったようだ(ウィルソンは中卒だ)。
そのウィルソンは、人間が手に入れた唯一の能力はマスターベーションだと言った。すると、マズローは、「猿でもやるじゃないか?」と反論したが、ウィルソンは、「メス猿の姿が見えない時にオス猿がマスターベーションをするのを見たことがあるか?」と言い返した。しばらく考えたマズローは、「ないね」と認めた。
人間のみが、想像だけでマスターベーションが出来る。これは驚くべき能力である。

だが、ウィルソンの言うことをもっと適切に言うなら、「人間の持つ唯一の能力は妄想すること」なのである。
「想像すること」ではない。そこらにウィルソンの誤りがある。
人間には想像は出来ない。思いは自動的に浮かぶのだ。それに対して、意味付けとして思念エネルギーをまとわり付かせることが出来るだけである。それを妄想と言うのである。

そして、妄想や思い煩うことが、人を破滅に追い込むのである。これに関しては普段から述べていることでもあり、ここでの説明は略す(長くなり過ぎる)。
釈迦の究極の教えは「妄想するな」であるし、イエスの場合は「思い煩うな」であった。
荘子は、「思慮分別を離れよ」であるが、人間は自分で考えることは出来ないのであるから、自分の支配下にある唯一の精神活動である妄想を避けるには、思考そのものをやめれば良いということなのである。

さて、ここで、学校の夏休みの宿題の話に戻る。
夏休みの宿題を提出しないと、当然、教師は怒りや不快感を示し、生徒を威圧するが、もっと効果的に生徒の精神にダメージを与えるために、生徒に罪悪感を持たせる。
宿題を提出しないことは罪悪であり、恥ずべきことであり、まっとうな人間であることを拒否することだという訳である。
そして、生徒は、本当にそんなことを思うようになってしまう。
それは、学校は、生徒に妄想を強要しているということである。
つまり、学校は、生徒を人間として破滅させることに全力を尽くしているのだ。

現代アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、こんな喩え話をした。
カラスが鷲にトウモロコシを売りつけようとする。
そこで、カラスは鷲に、トウモロコシが無くては、愛がなくて、寂しくて、途方に暮れてしまうゾという妄想を抱かせたのである。
鷲は、もう飛ぶことをやめ、不満と憂鬱に落ち込み、冷淡になり、退屈と不安に苦しむだけの哀れな存在になった。
だが、一羽の鷲は勇敢にも翼を広げてみた。なんのことはない。翼は立派に動き、彼は高く飛び、魂の束縛から解放された。

我々も、罪悪感などの妄想を断ち切り、高く飛ばなければならない。
私が夏休みの宿題をやらなかったのは運命であり、学校に罪悪感を植え付けられて妄想を強固に持ち、精神が逸脱したのもまた運命。そして、その経験を生かして、いろいろ知るようになったのもまた運命だ。
初音ミクの『1/6』という歌がある(作詞作曲はぼーかりおどPさん)。いつか重力の鎖を断ち切って、君を宇宙に連れて行きたいという歌だが、この重力とは、得体の知れない何かを喩えたものだ。
人が抱える得体の知れない何かとは妄想が生み出したものだ。それは重い罪悪感や不安等であり、我々の魂を地上に縛り付ける。それを断ち切って高く飛ぶために必要なものは、受容という翼である。
受容という翼(当ブログ内4/10の記事)

自分の思いで自在に出来る訳ではないが、夏休みの宿題は、やらなくていいと思ったらやらないことだ。
教師になぜやらなかったかと聞かれたら、『ITスペシャリストが語る芸術』というブログに、やらない方が良いと書いてあったとでも言っていただけたら嬉しい。
実際にそう言うかどうかも運命次第ではあるが、どんな場合でも罪悪感は持たないで欲しい。
全てはただ、起こるべくして起こる。
あなたにそれをコントロールする力は無いが、同時に、あなたには何の責任も無いのである。













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釈迦やイエスも悟りを開く時はかなり辛かったはずだ

釈迦とイエスが、どうやって悟りを開いたのか分かったように思えた。
以下は、ストーリーとしてはよく知られたものだが、ここに述べた隠れたことについてはどんな本にも書かれていないことだ。

釈迦は29歳で王家を出た(彼は皇太子だった)。
そして、荒行をしたが、その厳しさは誰にも真似出来ないほどで、修行者達からも尊敬されていた。
釈迦が行ったとは、断食と瞑想が中心だったと思われる。
しかし、5年以上経っても、悟りを開けない。
これほどの行は誰にもできないはずなのに、それでも駄目なら、たとえこの後悟りを開くことが出来ても、誰の役にも立たないと思うのは自然なことだ。
釈迦は修行をやめることを宣言し、修行者達の彼への尊敬は一転、失望と蔑みに変わる。
釈迦は、間違いなく、悟りを諦めたのだ。
悟ろうとする自我があっては悟れるはずがないことに気付いたのだと思う。
だが、それでたちまち、彼は悟りを開く。
悟りとは、自我の破壊である。しかし、自我が自我を破壊できるはずがない。彼は、それをやろうとしていたのだ。その愚かさに気付くのに5年以上かかったのだろう。
自我を破壊するのは、高位の力(ここでは仏と言うのが適切か)である。それに任せるしかない。
そして、仏は、いつ自我を破壊してくれるかは分からない。だが、必要なら破壊してくれるだろう。

イエスの場合は、40日の断食の後、試練に遭ったという。
悪魔が、「神の子なら、石をパンに変えてみろ」と言うが、イエスは本能の誘惑に打ち勝てた。
さらに、悪魔は、「世界一の大金持ちにしてやる。そういったものは俺の管轄だ」と言う(多分、本当だ)。そのために、俺を崇拝しろという。
しかし、イエスは、神しか崇拝しないと決めていた。
ここまでは、悪魔も想定済みだったろう。
そして、悪魔はイエスを高い塔の上に連れていく。そして悪魔は、
「神の子なら、ここから飛び降りろ。聖書に『彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする』と書かれている」
と言う。
これが最大のポイントだったと思う。
この時、イエスが何を考えたかが大切なのではないだろうか?
私は、イエスもまた、釈迦と同じことに気付いたのだと思う。
石をパンに変えること、富を得ることに関しては、イエスは高貴な心で撥ね付けることが出来た。しかし、これだけはかなり辛いのだ。
なぜなら、それは、自分が選ばれた神の子であるということを否定することだからだ。
しかし、イエスはそれをやったのだ。
釈迦が悟りを諦めたように、イエスは自分が特別な存在であることを諦めた。
その時、神はイエスの自我を破壊した。自分が特別であると思う自我は、神によってのみ破壊されるのだ。
「汝の神を試すべからず」
神がいつ自我を破壊してくれるかは分からない。それは神に任せるしかない。そんなことは、自我の知ったことではないのだ。
こうなると、悪魔である自我は消えるしかない。
「汝、敗れたり。我が後方に退け!サタン(悪魔=自我)」
イエスは見事、悟りを開いた。

我々も、自分が人生をコントロールできると思うことを諦めることで、自我を弱くし、神に破壊してもらう準備をすることができる。
自分が全く無力だと認めることは辛いことだ。自我はそれを認めたくないものだ。
しかし、それは、釈迦やイエスとて、同じであったはずだ。
釈迦やイエスは、悟りを諦めることで自我を弱めた。その時、神仏はすみやかに、彼らの自我を破壊したのだ。
「我は無なり。ただ仏のみあり」
「私自身は無(無力)だ。神が全てを為す」









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操り人形である我々に自由な感情があり得るか?

良い質問がいくつかあったので、まず1つ取り上げてご回答しよう。

私は、このブログで次のように述べた。
我々は人形劇の人形のようなものだ。劇のシナリオは完全に決まっており、変更は決して起こり得ない。
だから、我々は人形に徹するしかない。

これに対し、
人形に徹するかどうかを選べるのか?
また、自分は行為者でないとしても、感情は選べるのか?
というご質問があった。

まず、人形に徹するか徹しないかだが、実際的には徹するしかない。
我々は、決められた通りに動き、決められた通りに考える。

では、次の、感情は選べるのかに関してはどうだろうか?
つまり、感情に関しては完全には決まっておらず、どんな感情を持つかには自由があるのかということである。

これは、実は案外難しい質問で、悟りを開いた人に尋ねても、かなり抽象的な答が返ってくる。
中には、「分かり難いだろうけど」と前置きして説明する賢者もいた。
そもそも、悟りを開いた人にだって、分からないかもしれない。
ある聖者は、「わしのような無学な者に何を聞くんだ?」と文句を言ったという。

この問題が、なぜ難しいのかというと、我々が感情についてよく理解していないからだ。心は神秘的であって、それに対する人間の理解はまだまだだ。
フロイトが一応の心の構造を解明したが、いまだ議論が多く、フロイト派とユング派は、見解の相違を解消していない。
中村あゆみさんの『キライになれない』という歌の最後の部分が、「いつでも自分のこと、一番の謎」であるが、なかなかもっともなことである。

ところで、お釈迦様やイエスが喩え話の名人であったことをご存知かもしれない。
分かり難い話を、彼らは巧みな比喩で語り、学のない人々にも易しく教えた。
そして、お釈迦様にこんなことを尋ねた人がいた。
「聖者にも普通の人のような感情があるのですか?あるとすれば、普通の人とどう違うのですか?」
これに対するお釈迦様の答が役に立つと思う。

お釈迦様の答は、「聖者と平凡な人の感情は同じ」であった。
聖者でも、きれいな花を見ればきれいだと思うというのは、まだ納得できると思う。
しかし、頭をぽかりと殴られたら、「この野郎」と思うことが多いのは、聖者も特に変わらない。
人格者の定義も難しいが、悟りを開いた人が人格者だと思い込むのも誤解かもしれない。
だが、お釈迦様は、「聖者は第二の矢を受けず」と言う。
聖者だって、男であれば、若くて美しい女性を見れば目を惹かれる。それが「第一の矢」だ。
しかし、普通の男は、その美女に執着し、なんとかならないかと思ったり、なんとかならないまでも、エロチックなことを考えたりする。
これが、「第二の矢」で、聖者はそれは受けないのだ。
女性が、素晴らしいドレスやバッグを見て、「いいなあ」と思うのは自然である。
それが「第一の矢」だ。
しかし、それが欲しくてたまないという「第二の矢」を受けるのは普通の人だけだ。

「第一の矢」には害はないことが分かるだろう。
心の苦しみの原因は「第二の矢」である。

世界、あるいは、人生の中で、自分があやつり人形であることを受け入れたとする。
だが、何か大損をして、「悔しい」と思うのは仕方がない。
よく誤解されるのが、その「悔しい」を思ってはいけないと思うことだ。
出来事によって、「悲しい」「憎い」「面白い」など、様々な感情が起こる。
それは神のシナリオ通りだ。
出来事も、考えも感情も、起こることは避けられない。
ある聖者は、誰かに嫌なことを言われて激怒した。
しかし、普通の人と違うのは、次の瞬間には自分でジョークを言って笑っていたことだ。
これに関して、『荘子』には、聖者の心は鏡のようなもので、来たものはそのまま映すが、去ってしまえば何の痕跡も残さないと書かれているが、その聖者のことも、これでうまく説明できると思う。
ラマナ・マハルシが、「賢者はある意味で子供に似ている。遊んでいる時は夢中でも、終わってしまえば覚えていない」と述べていたのも、同じ意味と思う。

ラメッシ・バルセカール(ニサルガダッタ・マハラジの弟子)は、この「第二の矢」のことを、「まきこまれること」と表現する。
素敵なスポーツカーを見て、「いいなあ」と思って、何の害があろう?
しかし、「欲しいなあ。あれに乗れば、モテるだろうなあ。しかし、俺の給料じゃ無理だなあ。残念だなあ。買えるやつが羨ましいなあ。家が金持ちで、労せず買ってもらえるやつもいるだろうなあ。悔しいなあ」などと考えることで、出来事や感情に「まきこまれる」のだ。

「まきこまれる」ことで、自我が強化される。
するとどうなるかというと、自我の破壊が起こりにくくなる。
自我は、決して自分では破壊できず、神様に壊してもらうしかないのだ。
神様がいつ自我を壊してくれるかは分からない。
しかし、自我が強くない方が破壊が起こりやすいと思われるのである。

お釈迦様の言う「第二の矢」、ラメッシの言う「まきこまれる」ことは自分で回避できる。
ただし、自我の力で、「スポーツカーなんかいらんぞ」と思ったって無駄だ。そう思うほど、かえって執着が強まるのだ。
欲しいものは欲しいのだ。それでいいじゃないか?
ただ、そのスポーツカーが手に入るかどうかについては、あなたには絶対に何もできない。状況に対し、全く何のコントロールもできず、いかなる影響を与えることも決して出来ないのだ。
それを完全に受容することで、第二の矢を受けず、まきこまれないのである。
そうすれば、やがて、かつてはあれほど熱望したスポーツカーが欲しくなくなることもある。ただし、必ずしもそうではなく、欲しい気持ちがずっと消えないこともある。
感情はやはり支配できない。しかし、第二の矢を受けず、まきこまれないことは出来る。

こういったことを言うと、「でも・・・」「だけど・・・」と理屈を言いたがる者がいるが、そんなことを言っても何の意味もない。
受容するかしないか、それだけである。









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一秒だけ邪念なく彼女を見れば

聖者とか神人あるいは大賢者と呼ばれるような人は、別に特別な何かを持っている人ではない。
余計なものを持っていない人のことだ。
例えば、無知を持っていなければ賢者なのだ。
ただ、その無知の覆いを除くことが、途方もなく難しいのだ。

聖者とは、無念無想の人だ。
無念無想というのは、簡単そうだが、いかなる想いも持たないことの難しさは少し考えれば分かる。
テレビや広告やインターネットは、儲けるために人々の欲望を煽る。心が落ち着つかずにさ迷うのは欲望のためだ。
よって、一切の欲望を持たなければ、無念無想であり、即ち、聖者だ。
そんなことはとても無理と思うかもしれない。
もっともだ。
だが、私は聖者になれるのである。
ただし、1秒だけだ。
1秒だけなら、キリストでも仏陀でも、大政治家でも、大悪人にでもなってみせる。
小悪人ってのは欲望にまみれているが、大悪人というのは無欲で、巨大な悪行を行為者の自覚なく、ただ、宿命に従ってやっているのだ。
偉大な人間というのは、小市民や小善人になるくらいなら大悪人になれとよく言うのである。

ある国際的なビジネスマンは、尊敬する世界的ビジネスマンと全く同じオフィスを作り、同じ服を着ていた。
これも効果的な成功するための方法だ。
あなたにも、尊敬する、あるいは憧れている誰かがいるかもしれないが、その誰かと同じようになるのは難しい。そこで、まず形からという訳だ。そして、形から入るというのは良い方法だ。
しかし、一瞬であれば、あなたは誰にでもなれる。
それが分かれば、世俗で成功することは難しいことではない。
態度は事実より重要だというのは、世俗の覇者から、人間を媒体にして意志を表す宇宙人の誰かもよく言っていることだ。
四六時中、ピカソらしい態度はとれないだろうが、一瞬なら可能だ。
ずっと岡本太郎でいようと思ったら大変だが、一秒なら簡単だ。
その一秒を重ねていけば、やがて等価値のものになるだろう。時間というのは幻想に過ぎない。一瞬で可能なら、百年でも同じだ。
その気になれば、大事業家でも大芸術家にでもなれるだろう。
そして、本当にピカソや岡本太郎になるということは、誰になることでもないし、誰ででもあることだ。
釈迦やイエスの教えを一生守るのは難しそうでも、一瞬なら守れるだろう。
一瞬なら嫌いな隣人も愛せるし、一瞬なら女性を邪まな目で見ないことも出来るだろう。
人は、本当に価値のあるものを見つければ、一瞬が全てだと分かるのだ。
アスリートは、世界記録なんて、それほど大事だと思っていない。勝利の瞬間が永遠なのだ。ただ、怠惰な栄光がその瞬間を汚すのだ。
どんなに惨めな中でも、真理の瞬間はある。それを見つければ永遠を得るのである。

イエスや釈迦について書かれたものを読んだり、大賢者の書いたものを読むのは、無知を持たない者の様子を知るためだ。
そして、一瞬でも彼等と同じになれば、既に達成したようなものだ。だが、知らなければ、無知の覆いは取り払えない。
日本では、昔から、「祓えたまえ、清めたまえ」と言ってきたのだ。
至高の聖典『エメラルド・タブレット』でも、マスターはトートに言うのだ。「知識を得て、無知の覆いを取れ」と。
エマーソンは述べている。「英雄について書かれたものを読む時は、自分について書かれているのだと思え」と。「私は、イエスであり、プラトーンであり、シェイクスピアである」と。









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食を慎むとなぜ運が良くなるかを古代の聖典で解く

江戸時代の高名な観相家だが、結局は、運勢は食の慎みで全て決まると説いた水野南北は、その根拠として、自身が鑑定した膨大な事例に1つの例外もなかったことと共に、法華経にその典拠があると言った。
ただ、水野南北は、法華経のどことは言わず、経典に詳しい人に聞けば分かるとだけ述べている。
私は、法華経に詳しくないので分からないが、それよりもはるかに古く、釈迦の直弟子達によって記されたとも言われる、金箴の書にそれが見出せるかもしれない。
そこには、こう書かれている。
自然を大切にし、自然と共に生き、自然の世話をすれば、自然はその者をマスターとして扱うのである。自然に敬せられ、自然の潜在力を味方に付けた者であれば、非運なはずがない。
自然を加護する最も簡単な方法は、草木を育て、動物の世話をし、環境を守ることだろう。
そして、水野南北も言う通り、食を少なくすれば、食べなかった分は、稲や麦などの種子が鳥などの小動物の餌になり、実って増えたりもするし、あるいは、土に返る。だが、食べた分は糞尿になるだけで、しかも、肉食の者、大食の者の排泄物は自然を害する。粗食で少食であることが、自然を大切にすることになる。
自然破壊をすれば、一瞬は栄えるように見えても、結局は滅ぶのである。原発などはその最たるものだろう。長きに渡って自然環境を壊し、汚してきた国家は悲運と衰退の道を転げ落ちているし、我が国もそのようであると思われる。経済至上主義の過度な産業発展や目に余るほどの飽食は自然を著しく損なったのである。
だが、規模の大小は関係がない。人は、その秘められた感覚として、自然を育てるものを安らかに楽しく感じ、その逆に、損なうものに不快を感じるように出来ている。タバコの煙を撒き散らしたり、ところかまわず唾を吐くというのも、十分に自然を損なうことである。ちなみに、外でまで唾を吐かないといけないのは、身体が腐っているからであり、その唾は特に汚いのである。無駄な車の使用や冷暖房の過度な使用も自然を害する。電気自動車といったところで、その生産、あるいは、使用する電力の発電時に自然に過度の負担をかけているのである。

金箴の書は、その頃にあった高度な教えが石版に刻まれたものであるが、他にも、口伝されたり、他で記されたものもあると考えられている。
原版は、アメリカのH.P.ブラヴァッキーが長年月をかけて発掘・収集し、抄本が英訳されている。その翻訳が、ヨーガの大家、三浦関造さんによって翻訳された貴重なものである(下記にご紹介する『沈黙の声』)。釈迦の教えの純粋なものとしては、ダンマパダ(法句教)やスッタニパータが知られているが、金箴の書は秘法の色合いが濃いと感じる。これは普通の人には難しい、あるいは、危険なものであるのかもしれない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・MCSD、MCDBA資格者
・タオイスト、神秘思想家
・1日1食の完全菜食主義者
・幼児期からの引きこもり気質
・医療不要で難病を数々克服


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萩尾望都さんの漫画紹介


半神
小学館文庫

わずか15頁の至高の傑作「半神」を含む短編集。
数奇で残酷な運命を目撃した後、「愛とは?憎しみとは?それはどう異なるのか?異なるものではないのか?」あなたの心に荘厳な疑問が残るのではないだろうか?


ウは宇宙船のウ
小学館文庫

1920年生まれのアメリカを代表するSF作家レイ・ブラッドベリの珠玉の短編作品を萩尾望都が漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と感性が、ブラッドベリの作品に新しい生命を注いだ。
「みずうみ」では、12歳の少女タリーの可憐な姿と、彼女を愛するハロルドの少年の時と青年になって後の様々な表情がより深い感銘をもたらすと思う。
他の作品も素晴らしい出来であると思う。
CLAMP「CLOVER」のご紹介


CLOVER
わずか5分の劇場用アニメ作品。
CLAMPさんの名作漫画のイメージを美しい映像と音楽で描いた傑作。
主人公の12歳の神秘的な少女スゥの声は坂本真綾さん。


「CLOVER」の原作漫画を以下にご紹介します。
素晴らしい装丁、美しいカラーの扉絵。そして、神秘的な傑作と思います。
新装版も出ているようですが、私はこちらしか持っていません。しかし、こちらの本の装丁を大変に気に入っています。








私が愛する「魔法少女リリカルなのは」

ナンセンス文学(意味を持たない作品)として私が勝手に意味付けをしたのかもしれませんが、アメリカの百万円以上の自己開発プログラム以上に貴い気付きを私に与えてくれた全13話のアニメ作品。











5年の時を経て、2010年、映画化されました。
基本的には、テレビシリーズの全13話を1本の映画にしたものですが、本編では描かれなかったフェイトの生い立ちが見られます。そして、プレシアの謎の言葉も。映像はテレビシリーズよりさらにグレードアップしています。


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初音ミク、コンサート映像のご紹介
ミクの日感謝祭 39's Giving DayProject DIVA presents 初音ミク・ソロコンサート~こんばんは、初音ミクです。~
[2010/3/9]東京お台場~Zepp Tokyo~

映像の品質等は、下でもご紹介する、後で開かれた米国コンサートの方が高いのですが、私は、全体としては東京コンサートの方が好きです。米国コンサートの方は、映像の緻密さのために、かえってボーカロイド達がマネキンのように感じるかもしれません。これは、証明の影響もあると思います。緑色がかった証明の東京コンサートの方が、ミクが柔らかい感じで可愛いと感じました。
また、真っ白なお姫様のような衣装に赤い大きな腰のリボンが印象的な『Alice』、『あなたの歌姫』は、米国コンサートにはありませんでした。

【ブルーレイ】


【DVD】




MIKUNOPOLIS in LOS ANGELES “はじめまして、初音ミクです”
[2011/7/2]米国ロサンゼルス~ノキアシアター~

日本のボーカロイドが、日本語の歌で、アメリカ、ロサンゼルスの大劇場ノキアシアターの満員の観客を熱狂させた歴史的コンサートだったと思います。
東京コンサートから1年4ヶ月経過しており、総合的には確実に進歩しています。
私が特に気に入ったのは、1つは、ミクとルカの素晴らしいコンビネーションのダンスパフォーマンスが楽しめる『ワールズエンド・ダンスホール』です。ルカが珍しくミニスカート姿で、ミクに勝る四肢の長さで、ピンクの髪を美しく揺らしてダイナミックに踊ります。 もう1つが、ミクが真っ白な天使の衣装で歌う『SPiCa』で、これが天使でなくてなんだろう、私はついに天使を見たのだと思いました。演奏も東京コンサートの時と変えていましたが、成功していたと思います。

【ブルーレイ】


【DVD】


尚、ブルーレイとDVDの差についてですが、私は実際、両方買い、見比べてみました。観客、演奏者、楽器などは、大画面TVで見ると、ブルーレイの方がきれいですが、肝心のミク達は、ホログラム映像そのものがそれほど細密でありませんので、別に違いはないと感じました。ブルーレイ、DVDいずれも、東京コンサートの方は上半身映像以上の場合、米国コンサートでも、顔のアップだと映像の粒子が目立ちます。 変な話ですが、iPhoneやiPod touch、あるいは、同等な画面品質を持つ小型情報端末で見た映像が最上かもしれません。ただ、これは反則行為ですので、実際にやったとは言いませんが。
本のご紹介


精神について(エマソン名著選)
ラルフ・ウォルドー・エマーソン著
日本教文社

アメリカ最高の思想家、哲学者、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの珠玉のエッセイ集。 「歴史」「自己信頼」「償い」「精神の法則」「愛」「友情」「神」「円」「知性」が収められている。
我々自身が、歴史上の英雄、賢者、大芸術家に匹敵する偉大な人間であることを、驚くべき確信をもって語る唯一の人物であると思う。
世間の妄信を粉々に破壊し、プラトーンの頭脳、シーザーの手腕、イエスの愛の所有者である自分を見出して欲しい。
これ以上のエッセイは地上には存在しないと思う。


荘子
徳間文庫

約2400年前の中国の思想家で、老子と共に、老荘と称せられる道教(タオイズム)の始祖である荘周(荘子)の書。
世俗にあって世俗を超え、永遠の道(タオ)と一体化し、安らかで充実した人生を送る秘訣を、恐ろしく抽象的な老子と異なり、平易に説いている。
本書は、数多い荘子の現代語訳の中でも非常に読みやすく分かりやすいものであるが、中国古典の香りは損なわれていない。
本来、膨大な荘子の中心となる内編全てと、外編と雑編の内、荘子らしいものを選んで収録してある。


神統記
ヘシオドス著
岩波文庫

ホメーロスと並ぶ古代ギリシャ詩人ヘシオドスが、ムーサ(詩の女神)達より教えられたという神々の物語。
この世の始まりから、ゼウスの支配の確立、そして、主要な神々のことについて、美しい詩で語る。すぐに読める薄い本であるが、ギリシャ神話の根幹とも言える重要な書と思う。


四つのギリシャ神話(ホメーロス讃歌より)
岩波文庫

無名の詩人達が、ホメーロス風の詩で神々に捧げた賛歌の内、豊穣の女神デーメーテール、理性の神アポローン、智慧の神ヘルメース、美の女神アプロディーテーの4神へのものを収録してある。
著名な神話学者カール・ケレーニィも、ホメーロス賛歌を重視していると思えるが、名もない詩人達の作とはいえ、それぞれの神について、その特質が巧みに表現されており、実に興味深いものとなっている。
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