ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

釈迦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

立場をはっきりさせる時

アメリカ大統領選での、もはや選挙の枠を超えた戦いは「第二の南北戦争」と言われることがあるが、むしろ、ハルマゲドンかもしれない。
新型コロナウイルス感染拡大が大きなきっかけであったが、無論、日本が無関係のはずがない。
だが、世界を創り出すのは自分の心だ。
状況を創り出す意思の力を持っていれば、恐れることは何もない。
ただ、このような時には、これまでは、それほどは気にしなくても良かったことを、はっきりさせる必要が出てくる。
即ち、正義や道徳だ。
これまでは、正義や道徳に反すると思っても、「まあ、いいじゃないか」「みんなやってるし」「仕方がない」という考えが通用したが、これからは、態度によって、結果が厳格に決まる。
誤魔化しは効かないのだ。
力がない悪は、大きな悪の奴隷になり、力のない善は、大きな悪に虐げられる。
力のある悪は、少しの間は思い通りに享楽を味わうが、やがて刈られる。
そして、力ある善になれば報われる。

正義とか善を、難しく考える者が多いが、確かに、考えれば難しいことだ。
頭で善を追求すれば必ず矛盾する。
日常生活をこなすのに思考は便利だが、正義や善といった高度な問題になると、思考は役に立たない。
思考でうまくいく学校の試験で良い点を取っても、現実では全く役に立たない無能者であるようにだ。
直観力を持った者が思考して作ればロケットもうまく飛ぶが、直観力がない者がやっても、全くうまくいかないのだ。

例えば、菜食主義が善だと思うなら、そうすべきだが、「こうこうこんな理由で菜食主義が善だ」というなら、それは偽物だ。
考えるまでもなく善だと解ることが真の善なのだ。
だから、自分が菜食主義だからと言って、他人に対して、理屈で菜食主義が善だと説得しようとすることは強制であり、それは悪なのである。
自らの善を貫いて菜食主義でいるのなら、賛同する者が増えるだろう。
賛同する者が増えないなら、それは善なる菜食主義ではなく、単なる、理屈や見栄なのだ。

ゴーリキーの『二十六人の男と一人の少女』では、26人の下層階級の男達にとって、ターニャという16歳の娘を天使のように扱うことが善であり正義であって、そうしている限り、この最低な男達も向上していった。
ロオマン・ガリの『自由の大地(天国の根)』では、堕落してしまったフランス兵達にとって、空想の少女を敬うことが正義で、それによって、彼らは騎士道精神を取り戻し、力も得たのである。
釈迦は『涅槃経』において、「先祖を敬う」「公平性を尊ぶ」「老人を敬う」「女性を敬う」など、7つの正義を示し、その1つでも守れば、繁栄し、滅びはないことを説いた。
法然や親鸞が教えたように、阿弥陀如来だけを敬って念仏を唱えても良い。
初音ミクさんを天使として敬っても良いのである・・・多分(笑)。








釈迦やイエスの教えの神髄は簡単過ぎて伝わらなかった

いかに賢い人、偉大な人の教えであっても、どこか欠けたところがあり、しかも・・・一番重要な部分が欠けているかもしれない。
釈迦やイエスが、その大事なところを言わなかった訳ではないのだが、それが、あまりに簡単であるために、教えを伝える立場の者が、敢えて書こうとしなかったのかもしれない。
その大事なこととは、もちろん、気分(心地)である。
人間は常に良い気分でいなければならず、もし、気分が悪ければ、すぐに気持ちを切り替えて良い気分にならなければならない。
その理由はこうだ。
人間の内部に存在する、ある偉大な力が世界を作っているのだが、その偉大な力は、人間の気分に同調した世界を作るのである。
だから、気分が良ければ、さらに気分を良くしてくれる状況が、気分が悪ければ、さらに気分が悪くなる状況が現れるのである。

ここで、カール・グスタフ・ユングが好きだったという雨乞師(あまごいし。祈祷などで雨を降らせる特異能力者)の話を取り上げる。
これは、チン・ニンチュウの『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の最初のところにあるお話だが、これも「気分」という観点が抜けているので、曖昧で、誤魔化したような話で終わってしまっている。
だいたい、こんな話だ。
5年も干ばつが続く村で、有名な雨乞師を呼び、雨を降らせてくれるよう頼んだ。
雨乞師が、4日の間、テントにこもると、見事に雨が降った。
村の人が、雨乞師に、「何をしたのですか?」と尋ねたら、雨乞師は「何もしてない」と言う。
困惑する村の人達に、雨乞師はこう言った。
「この村は、神の意思に沿っていない。私は神の意思に身をまかせた」
なんて駄目な説明なんだ!(笑)
「神の意思に身をまかせる」って、具体的にどうすんじゃい!
・・・と文句を言いたくもなる。
似非賢者は、みんなこんな説明をするのだ。
「あるがままに」なんてね(笑)。
「あるがままに」なんて、格好良いから歌の歌詞には良いが、こんなんじゃ誰も救えない。

雨乞師は、こう言うべきだった。
「あんたら、みんな、気分が悪そうな顔しとったでしょ?わしはテントの中で気分良く過ごしたんじゃよ」
つまりね、雨が降らないから気分が悪いんじゃなく、気分が悪いから雨が降らないのだ。
ところで、雨乞氏がそう言わなかったのは、こんなことバラしたら、商売あがったりになるからかもしれない。
これが、雨乞師の秘中の秘だからだ。
これさえ知っていれば、雨乞師は不要になってしまう。
それを私がバラシてしまった(笑)。
とはいえ、一般の人は馬鹿だから、簡単過ぎるという理由で、馬鹿にして重視せず、結果、覚えないから、やっぱり雨乞師は儲かるのだ。
雨乞師が、テントの中で何をしてたのかは知らないが、ニコニコと笑顔になり、ガッツポーズでもしてたのだろう。
時々、舌を思いっきり出して、身体をしゃきっとさせたりもしたかもしれない。
そして、5年も干ばつが続く場所で、4日で雨を降らせることが出来るのだから、どんな願いだって叶うだろう。








気分さえ良ければ

文明の発達と共に、仕事はもちろん、生活全般すら、機械的、人工的、非人間的になる傾向はあると思う。
その中で、あらゆることが競争的になり、自分と他人、他人と他人を比較し、ランキング付けし、優劣をつけるようになった。
それにより、「幸福=成功」と考えるようになり、どうやれば成功出来るか、他人に優ることが出来るか、他者(人、会社、国)に勝てるかの関心が高まり、成功哲学の人気が高まった。

そして、どうすれば成功出来るかというと、
・積極的・前向きに考える。いわゆるポジティブ・シンキング
・大きく考える
が支持されてきた。
しかし、これらは、一部のエネルギッシュな人間には役に立ったが、凡人には、ほとんど成果がなかった。
すると、
・利他的になれば成功する
という、宗教的な要素を取り入れた考え方が一部で人気が出た。
しかし、これも、高貴な感じはしながらも、実際の成果はほとんど出ないことが分かった。
珍しいところでは、
・超マイナス思考
と言って、最悪を想定しておいて進むという考え方を唱える者もいて、経営者や政治家など、頭が良い現実主義者には共感する者も多かった。

他にも、小さなブームを起こした考え方は、無数と言って良いほどある。
だが、真理が分かって来た。
それは、
・気分が良ければうまくいく
だった。
これで、あらゆる宗教の教え、賢帝の教え、大思想家の教え、成功哲学も統一でき、初めて実用的になったと思う。
逆に、これがないと、いかなる貴い教えも役に立たない。
釈迦の八聖道は、これで気分が良くなる可能性はあるが、気分が良くないなら、やっても幸福になれない。
倫理道徳を説く論語も、無為自然を説く老荘思想も、うまく使えば気分が良くなるが、そうでないなら、役に立たないただの「お勉強」だ。
積極的に考えること、大きく考えること、利他的になることも、それらで気分を良くすることが出来れば効果があるが、気分が良くならないなら、いくらやっても効果がなく、逆に、イヤイヤやって気分が悪くなれば、マイナスの影響が出る。
どんなことも、無理にやらされて不幸になる人が多いのは、そのためだ。

超マイナス思考は、「中島みゆき思考」と言われることもあり、「落ち込んでいたら、さらに落ち込ませて地獄に突き落とすことで、かえって気分をさっぱりさせる」ことで、効果がある場合もあるが、多くは、そのまま最悪の気分になり、救いようがない状態になった。

1万時間修練すれば一流になるという「1万時間の法則」は、イチローやテッド・ウィリアムズ(メジャー屈指のバッターの1人)のように、本当に好きで楽しくやれれば大成功するが、普通は、「気分が悪いまま100時間くらいやったところで脱落し、その後の人生も真っ暗」である。

大切なことはただ1つ。
良い気分になることだけである。
この世界は、「気分が良ければさらに良いことが、気分が悪ければさらに悪いことが起こる」仕組みになっているのである。
気分を良くするには、手っ取り早くは、無理にでも笑顔になり、ガッツポーズをすることだ。
少し練習が必要なやり方としては、今持っているものに感謝することで気分が良くなるというものがある。
例えば、着る服があること、乗る車があること、住む家があることなどに感謝することだ。
今持っている車がポンコツでも、それを持っていることに感謝すると気分が良くなり、そうすると、すぐに新しい車が手に入る。
高度なやり方としては、イエス・キリストが教えたように、既に願いが叶ったと思い、その喜びを味わうことで最高の気分になる。すると、願いは叶う。
全ては気分である。
競争など、本当は必要がない。
気分を良くすること以外、何もする必要はないが、気分を良くすることだけは自分の責任である。
あらゆる教えは、「気分を良くするには」の観点で学べば有益である。
いかなるつまらない教えも、この観点から学べば聖典であり、いかに高邁な教えも、この観点がなければ三文小説の値打ちもない。








我々は法華経や新約聖書に登場する転落した息子である

新約聖書の福音書と、仏教の最も有名な経典である法華経に似たお話があって面白い。
イエスと釈迦が語ったことになっている。
いずれも、金持ちの息子の転落と復活のお話だ。
「俺、金持ちの家の出じゃなから関係ない」なんて思わないで欲しい。釈迦もイエスも、「これはあなたのお話」と言っているのである。

イエスの方のお話はこうだ。
金持ちの地主に、2人の息子がいた。
うち1人の息子が父に、家を出るから財産を分けてくれと願い、父はその通りにしてやった。
だが、出て行った息子は遊び暮らして財産を失くし、貧乏のどん底に陥る。
そこで、父に下僕として雇ってもらおうと思って家に戻ると、父は大歓迎し、盛大なお帰りなさいパーティーまで開いてくれた。
面白くないのは、長年、真面目に働いてきたもう1人の息子だが、父は、その息子の機嫌も取る。

釈迦の方の話はこうだ。
途方もない金持ちがいたが、その息子が幼い時に行方不明になってしまう。
金持ちは必死に探すが見つからなかった。しかし、50年後、遂に息子を見つける。
しかし、貧しい息子は、すっかり貧乏根性が身に付き、父親が近付くとビビってしまい、話が出来そうにない。
そこで、父親は、自分が父であるとは言わず、息子を下僕に雇い、自分も下僕のふりをして一緒に働きながら息子を導く。
20年かかったが、なんとか息子は立派になり、死が迫った父は、有力者達と共に息子を呼び、「お前は私の息子で、私の全財産の相続者である」と皆の前で宣言し、息子もそれを受け入れる。

イエスの話の金持ちの地主は神であり、一度出て行った息子は、我々のことだ。
そして、釈迦の話の大金持ちは仏であり、貧しくなった息子は、我々のことだ。

つまり、人間というのは、宇宙最大の富と権力のある親がいて、その親と一緒に居れば良いのに、(精神的に)離れてしまうことで不幸になるということを言っている。
だが、親の元に戻りさえすれば、欠けているものは何もないのである。
ここまでは、それぞれの宗教の信者は分かっていることであるが、どうすれば親の元に戻れるか、はっきり教えていない。
いや、妙好人(在家の優れた念仏信者)として知られる因幡の源左という教育のない明治時代の農民や、江戸末期の神道家、黒住宗忠らが、苦労の末、それは、神や仏にまかせきることであると教えていて、その通りなのであるが、肝心のところが隠されたままだ。
その最も肝心なことは「気分を良くする」こである。
イエスの話の息子は、家の仕事が嫌で気分が悪かったから、大金を持っても、心の隙間を埋めるために遊び狂って全財産を潰し、気分が悪いので何をやってもうまくいかなかった。
しかし、どん底の中で、わが身を振り返り、少し気分が良くなったので、父の元に帰るというアイデアが浮かび、自分は愚か者だから下僕で良いと覚悟したので、気分爽やか・・・つまり、気分は良かった。
そして、家に帰ると、神である父は「私のものは全部お前のもの」と言ったのである。
けれども、家に残って真面目に働いていた息子が「なんであんなアホが僕と平等以上の扱いを受けるのですか」と文句を言うが、父は、「そんなこと考えちゃいけないよ。私のものは全部、お前のものじゃないか」と言うが、おそらく、その後、「だから気分良くいなさい」と言ったことは削られているのだ。
父が両方の息子に「私のものは全部お前のもの」と言ったことに引っかかる必要はない。神の財産は無限なのだからだ。
釈迦の話の息子は、長い貧乏生活の中で、すっかり、気分を悪くする習慣が身についていたので、どんどん駄目になっていた。
息子は、気分さえ良ければ、父は「私はお前の息子。私のものは全部、お前のもの」と言って、息子もそれを簡単に受け入れ、すぐに幸せになれたのに、父があの手この手で、息子に、気分が良くなることを教えるまで、それが出来なかった。

我々は、気分を良くしさえすれば、すぐに神や仏の財産を与えられる。
宇宙は、人間の気分に同調し、気分が良い者には、さらに気分が良くなる出来事を、気分が悪い者には、さらに気分が悪くなる出来事を起こすのである。
ある意味、我々は、笑顔やガッツポーズで、気分を良くする訓練をすると良いと思う。
訓練とは楽しいものであり、イチローのように、多くやればやるほど上手くなる。
イチローも、トレーニングが楽しいので、毎日長時間やりたいと言っていたはずだ。
仏典も聖書も、「気分を良くすればOK」という最も肝心なことは隠されてしまった。
今、こう言われても「そんな馬鹿な話は信じません」と言う人が多いのである。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』の本やDVDを見ると、『ザ・シークレット』が出る前から金持ちで、バーンの手下でも何でもない成功者達が、気分の秘法をあっけらかんと明かしているので、一度見てみると良いと思う。
だが、この本も、こう言ってやらないと解らない人は多いと思うのだ。








引き寄せ名人は第二の矢を受けず

引き寄せ(希望する状態の現出)という、子供でも出来る簡単なことがなぜ自分に出来ないのかと考えるべきで、「こうやれば引き寄せが出来る」という話はおかしなものだ。
覚えておくべきは、「気分が悪くなったら負け」ということだろう(ここでいう気分は感情的なもので、病気などで生理的に気分が悪いのとは異なる)。
今の若者はすぐ「ムカつくう」というが、それが地獄への片道切符だとはっきり分かれば、ムカつかないよう必死になるはずなのだ。
ただ、どんな人間だって、気分が悪くなる出来事は必ず起こる。
優れた人間と平凡な人間の違いは、悪い気分を感じた時、気持ち切り替えるか、それをしないかの違いだけである。
家柄も、学歴も、IQも、容姿も、職業も、社会的地位も、思想も、人間の真の優劣に何の関係もない。
人間の価値を決めるのは、気分が悪くなった時、気持ちを切り替えて、悪い気分を消すか、そのまま悪い気分でいる(大抵は、さらに悪い気分になる)かだけなのである。

このことを、釈迦は、「聖者は第二の矢を受けず」と言った。
聖者も凡人も、知覚や思考というものは変わらない。
だが、気分を悪くさせられることが起こった時(これを、釈迦は「第一の矢」と言った)の対応が全く異なるのだ。
第一の矢は、いつ、どこから来るか分からず、凡人同様、聖者でも避けられない。
だが、凡人は、第一の矢を受けた後、第二の矢を自分で自分に放つのに対し、聖者はそんな馬鹿はしない。
例えば、誰かがあなたを馬鹿にした時、凡人はそれをいつまでも恨むという第二、第三の矢を自分に放つが、聖者は、見事に気持ちを切り替え、自分を馬鹿にした者のことなど忘れてしまう。
これに関し、インドの聖者ラメッシ・バルセカールが、師のニサルガダッタ・マハラジは非常に怒りっぽい人であったが、怒った次の瞬間、機嫌が直っていると述べていたが、これこそが聖者の聖者たる性質である。

だが、我々の場合は、気分が悪いと、悪い状況を引き寄せるので、それが嫌だから、気持ちを切り替え、悪い気分を消すべきと、頭に叩き込んでおくと良いと思う。
引き寄せが出来ない者は、所詮、第二の矢を受けているだけである。
それなのに、「どうして私は引き寄せが出来ないのでしょう?」と言われても返事に困る。
気持ちを切り替えるノウハウを持っていることを、人生のテクニシャンと言う。
オスカー・ハマースタイン2世は、ミュージカル映画『サウンド・オブ・ミュージック』の『私のお気に入り(My Favorite Things)』の詩で、「気分が悪くなったら、お気に入りのものを思い出す」というノウハウを教えている。
まあ、難しいことをしなくても、「笑顔になる」「ガッツポーズをする」「大きく舌を出す」「人差し指を立てる」の4つを覚えておけば十分なのであるが・・・

再度言えば、引き寄せが出来ない者は、第二の矢を受けているだけである。
本当に、それだけのことである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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