季節はずれの話題で恐縮だが、学校の夏休みの宿題はちゃんとやっていただろうか?あるいは、現役の学生なら、ちゃんとやるだろうか?
ほとんどの人が、なんだかんだ言っても、一応はやるのではないかと思う。
しかし、私は、やらない方が、やるより百倍は良いと思う。
私自身は、中学までは、夏休みが終ってからやっていたが、高校1年生からはあまりやらなかった。
それで、今、冷静に考えてみて、実質で何か損失があったかというと、全く無いことが分かる。
さらに、トータルでの成果を言うなら、「良い経験になった」の一言である。
一応は進学校とされる高校だったということもあるだろうが、学校で命じられた提出物をきちんと出さないと、かなり嫌な目に遭わされることはご存知と思う。
それが、夏休みの宿題で渡された問題集を丸ごと出さなかったりでもしたら、まるで女子小学生に猥褻行為でもした異常者のような扱いを受ける。
つまり、私に罪悪感を与えるのである。
なぜこんな話をするのかと言うと、人間の持つ、唯一の能力についてお話したく思うからだ。
人間が持つ唯一の能力とは、妄想することである。あるいは、思い煩うことであると言っても良い。
先月の4月7日からは、このブログで堂々と書いているが、人間は、自分の意志で考えたり行動している訳ではない。
誰しも、自分の意志で考えていると思っているが、そう思い込んでいるだけだ。実際は、考えが自動的に起こった後で、それを自分が考えたと感じるだけだ。それは、脳や神経の研究でもほぼ解明されていることである。
思考がそうであるのだから、行動も当然そうなのである。
イエスが言った通り、「彼らは自分が何をしているのか知らない」のである。
『荘子』にも、こんなお話がある。
影の外側に出来る薄膜が影に対し、「なんだってお前は、そんな訳の分からない動きをするのだ。ついていく私の身にもなってくれ」と不満を言う。
すると影は、「俺はご主人様である人間の動く通りに動いているだけだ。しかし、この人間だって、自分がなぜそんなことをするのかは分かっちゃいないんだ」と言うのだ。
特に荘子自身の手によるとされる『荘子』内篇全体を通し、荘子の洞察力は恐るべきものである。
荘子ももちろんだが、釈迦、イエス、そして、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナも、人は全くの無力であることを断言している。
人は、この世の一切に対し、何のコントロールも出来ないのだ。
全てのシナリオは既に細部にいたるまで完全に決定済みなのである。
ただ、そうであることを受け入れることは難しい。なぜなら、人が持つ自我は、自分には力があり、この世に対して支配力を持つという幻想の中でしか生きられないように作られているからだ。
(『エメラルド・タブレット』には、それについて、非常に洗練された高度な書き方がされているので、ちょっと分かり難い。愚民に配慮があるとはいえ、我々とは全く異質なレベルの存在が書いたものだからだ。だから、頭で理解しようなどと思わず、ただ、言葉の響きを感じる方が良い。)
このように、人は実際には何の力も無いのであるが、唯一与えられた力がある。
それを私は、いつもは、創造的な想念とか、想いを出来事に留めるか離すかを決定する意思力といった、ちょっとややこしい言い方をしているが、一言で言うなら、妄想することである。
人間に与えられた唯一の能力は、なんと、妄想することである。
これを思い煩うことと言っても良い。妄想と煩いとは一体であるからだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、人を救うための具体的手法に関しては全く無能なのだが(それは彼だけではないが)、洞察力においては天才だった。それは、世界的心理学者のアブラハム・マズローも舌を巻く程で、マズローは自分が教えていた大学にウィルソンを招いて講義を頼むこともあったようだ(ウィルソンは中卒だ)。
そのウィルソンは、人間が手に入れた唯一の能力はマスターベーションだと言った。すると、マズローは、「猿でもやるじゃないか?」と反論したが、ウィルソンは、「メス猿の姿が見えない時にオス猿がマスターベーションをするのを見たことがあるか?」と言い返した。しばらく考えたマズローは、「ないね」と認めた。
人間のみが、想像だけでマスターベーションが出来る。これは驚くべき能力である。
だが、ウィルソンの言うことをもっと適切に言うなら、「人間の持つ唯一の能力は妄想すること」なのである。
「想像すること」ではない。そこらにウィルソンの誤りがある。
人間には想像は出来ない。思いは自動的に浮かぶのだ。それに対して、意味付けとして思念エネルギーをまとわり付かせることが出来るだけである。それを妄想と言うのである。
そして、妄想や思い煩うことが、人を破滅に追い込むのである。これに関しては普段から述べていることでもあり、ここでの説明は略す(長くなり過ぎる)。
釈迦の究極の教えは「妄想するな」であるし、イエスの場合は「思い煩うな」であった。
荘子は、「思慮分別を離れよ」であるが、人間は自分で考えることは出来ないのであるから、自分の支配下にある唯一の精神活動である妄想を避けるには、思考そのものをやめれば良いということなのである。
さて、ここで、学校の夏休みの宿題の話に戻る。
夏休みの宿題を提出しないと、当然、教師は怒りや不快感を示し、生徒を威圧するが、もっと効果的に生徒の精神にダメージを与えるために、生徒に罪悪感を持たせる。
宿題を提出しないことは罪悪であり、恥ずべきことであり、まっとうな人間であることを拒否することだという訳である。
そして、生徒は、本当にそんなことを思うようになってしまう。
それは、学校は、生徒に妄想を強要しているということである。
つまり、学校は、生徒を人間として破滅させることに全力を尽くしているのだ。
現代アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、こんな喩え話をした。
カラスが鷲にトウモロコシを売りつけようとする。
そこで、カラスは鷲に、トウモロコシが無くては、愛がなくて、寂しくて、途方に暮れてしまうゾという妄想を抱かせたのである。
鷲は、もう飛ぶことをやめ、不満と憂鬱に落ち込み、冷淡になり、退屈と不安に苦しむだけの哀れな存在になった。
だが、一羽の鷲は勇敢にも翼を広げてみた。なんのことはない。翼は立派に動き、彼は高く飛び、魂の束縛から解放された。
我々も、罪悪感などの妄想を断ち切り、高く飛ばなければならない。
私が夏休みの宿題をやらなかったのは運命であり、学校に罪悪感を植え付けられて妄想を強固に持ち、精神が逸脱したのもまた運命。そして、その経験を生かして、いろいろ知るようになったのもまた運命だ。
初音ミクの『1/6』という歌がある(作詞作曲はぼーかりおどPさん)。いつか重力の鎖を断ち切って、君を宇宙に連れて行きたいという歌だが、この重力とは、得体の知れない何かを喩えたものだ。
人が抱える得体の知れない何かとは妄想が生み出したものだ。それは重い罪悪感や不安等であり、我々の魂を地上に縛り付ける。それを断ち切って高く飛ぶために必要なものは、受容という翼である。
受容という翼(当ブログ内4/10の記事)
自分の思いで自在に出来る訳ではないが、夏休みの宿題は、やらなくていいと思ったらやらないことだ。
教師になぜやらなかったかと聞かれたら、『ITスペシャリストが語る芸術』というブログに、やらない方が良いと書いてあったとでも言っていただけたら嬉しい。
実際にそう言うかどうかも運命次第ではあるが、どんな場合でも罪悪感は持たないで欲しい。
全てはただ、起こるべくして起こる。
あなたにそれをコントロールする力は無いが、同時に、あなたには何の責任も無いのである。
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ほとんどの人が、なんだかんだ言っても、一応はやるのではないかと思う。
しかし、私は、やらない方が、やるより百倍は良いと思う。
私自身は、中学までは、夏休みが終ってからやっていたが、高校1年生からはあまりやらなかった。
それで、今、冷静に考えてみて、実質で何か損失があったかというと、全く無いことが分かる。
さらに、トータルでの成果を言うなら、「良い経験になった」の一言である。
一応は進学校とされる高校だったということもあるだろうが、学校で命じられた提出物をきちんと出さないと、かなり嫌な目に遭わされることはご存知と思う。
それが、夏休みの宿題で渡された問題集を丸ごと出さなかったりでもしたら、まるで女子小学生に猥褻行為でもした異常者のような扱いを受ける。
つまり、私に罪悪感を与えるのである。
なぜこんな話をするのかと言うと、人間の持つ、唯一の能力についてお話したく思うからだ。
人間が持つ唯一の能力とは、妄想することである。あるいは、思い煩うことであると言っても良い。
先月の4月7日からは、このブログで堂々と書いているが、人間は、自分の意志で考えたり行動している訳ではない。
誰しも、自分の意志で考えていると思っているが、そう思い込んでいるだけだ。実際は、考えが自動的に起こった後で、それを自分が考えたと感じるだけだ。それは、脳や神経の研究でもほぼ解明されていることである。
思考がそうであるのだから、行動も当然そうなのである。
イエスが言った通り、「彼らは自分が何をしているのか知らない」のである。
『荘子』にも、こんなお話がある。
影の外側に出来る薄膜が影に対し、「なんだってお前は、そんな訳の分からない動きをするのだ。ついていく私の身にもなってくれ」と不満を言う。
すると影は、「俺はご主人様である人間の動く通りに動いているだけだ。しかし、この人間だって、自分がなぜそんなことをするのかは分かっちゃいないんだ」と言うのだ。
特に荘子自身の手によるとされる『荘子』内篇全体を通し、荘子の洞察力は恐るべきものである。
荘子ももちろんだが、釈迦、イエス、そして、『バガヴァッド・ギーター』の至高神クリシュナも、人は全くの無力であることを断言している。
人は、この世の一切に対し、何のコントロールも出来ないのだ。
全てのシナリオは既に細部にいたるまで完全に決定済みなのである。
ただ、そうであることを受け入れることは難しい。なぜなら、人が持つ自我は、自分には力があり、この世に対して支配力を持つという幻想の中でしか生きられないように作られているからだ。
(『エメラルド・タブレット』には、それについて、非常に洗練された高度な書き方がされているので、ちょっと分かり難い。愚民に配慮があるとはいえ、我々とは全く異質なレベルの存在が書いたものだからだ。だから、頭で理解しようなどと思わず、ただ、言葉の響きを感じる方が良い。)
このように、人は実際には何の力も無いのであるが、唯一与えられた力がある。
それを私は、いつもは、創造的な想念とか、想いを出来事に留めるか離すかを決定する意思力といった、ちょっとややこしい言い方をしているが、一言で言うなら、妄想することである。
人間に与えられた唯一の能力は、なんと、妄想することである。
これを思い煩うことと言っても良い。妄想と煩いとは一体であるからだ。
英国の作家コリン・ウィルソンは、人を救うための具体的手法に関しては全く無能なのだが(それは彼だけではないが)、洞察力においては天才だった。それは、世界的心理学者のアブラハム・マズローも舌を巻く程で、マズローは自分が教えていた大学にウィルソンを招いて講義を頼むこともあったようだ(ウィルソンは中卒だ)。
そのウィルソンは、人間が手に入れた唯一の能力はマスターベーションだと言った。すると、マズローは、「猿でもやるじゃないか?」と反論したが、ウィルソンは、「メス猿の姿が見えない時にオス猿がマスターベーションをするのを見たことがあるか?」と言い返した。しばらく考えたマズローは、「ないね」と認めた。
人間のみが、想像だけでマスターベーションが出来る。これは驚くべき能力である。
だが、ウィルソンの言うことをもっと適切に言うなら、「人間の持つ唯一の能力は妄想すること」なのである。
「想像すること」ではない。そこらにウィルソンの誤りがある。
人間には想像は出来ない。思いは自動的に浮かぶのだ。それに対して、意味付けとして思念エネルギーをまとわり付かせることが出来るだけである。それを妄想と言うのである。
そして、妄想や思い煩うことが、人を破滅に追い込むのである。これに関しては普段から述べていることでもあり、ここでの説明は略す(長くなり過ぎる)。
釈迦の究極の教えは「妄想するな」であるし、イエスの場合は「思い煩うな」であった。
荘子は、「思慮分別を離れよ」であるが、人間は自分で考えることは出来ないのであるから、自分の支配下にある唯一の精神活動である妄想を避けるには、思考そのものをやめれば良いということなのである。
さて、ここで、学校の夏休みの宿題の話に戻る。
夏休みの宿題を提出しないと、当然、教師は怒りや不快感を示し、生徒を威圧するが、もっと効果的に生徒の精神にダメージを与えるために、生徒に罪悪感を持たせる。
宿題を提出しないことは罪悪であり、恥ずべきことであり、まっとうな人間であることを拒否することだという訳である。
そして、生徒は、本当にそんなことを思うようになってしまう。
それは、学校は、生徒に妄想を強要しているということである。
つまり、学校は、生徒を人間として破滅させることに全力を尽くしているのだ。
現代アメリカの賢者ヴァーノン・ハワードは、こんな喩え話をした。
カラスが鷲にトウモロコシを売りつけようとする。
そこで、カラスは鷲に、トウモロコシが無くては、愛がなくて、寂しくて、途方に暮れてしまうゾという妄想を抱かせたのである。
鷲は、もう飛ぶことをやめ、不満と憂鬱に落ち込み、冷淡になり、退屈と不安に苦しむだけの哀れな存在になった。
だが、一羽の鷲は勇敢にも翼を広げてみた。なんのことはない。翼は立派に動き、彼は高く飛び、魂の束縛から解放された。
我々も、罪悪感などの妄想を断ち切り、高く飛ばなければならない。
私が夏休みの宿題をやらなかったのは運命であり、学校に罪悪感を植え付けられて妄想を強固に持ち、精神が逸脱したのもまた運命。そして、その経験を生かして、いろいろ知るようになったのもまた運命だ。
初音ミクの『1/6』という歌がある(作詞作曲はぼーかりおどPさん)。いつか重力の鎖を断ち切って、君を宇宙に連れて行きたいという歌だが、この重力とは、得体の知れない何かを喩えたものだ。
人が抱える得体の知れない何かとは妄想が生み出したものだ。それは重い罪悪感や不安等であり、我々の魂を地上に縛り付ける。それを断ち切って高く飛ぶために必要なものは、受容という翼である。
受容という翼(当ブログ内4/10の記事)
自分の思いで自在に出来る訳ではないが、夏休みの宿題は、やらなくていいと思ったらやらないことだ。
教師になぜやらなかったかと聞かれたら、『ITスペシャリストが語る芸術』というブログに、やらない方が良いと書いてあったとでも言っていただけたら嬉しい。
実際にそう言うかどうかも運命次第ではあるが、どんな場合でも罪悪感は持たないで欲しい。
全てはただ、起こるべくして起こる。
あなたにそれをコントロールする力は無いが、同時に、あなたには何の責任も無いのである。
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