ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

選択本願念仏集

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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『老子』第33章を一言で言えば「自分自身を知れ」

今回は『老子』第33章である。
この章を一言で言えば「自分自身を知れ」である。

ギリシャのデルフォイ島にあるアポロン神殿の扉に書かれた「グノーティ サウトン」という言葉は、「汝自身を知れ」と「身の程を知れ」の2通りに訳されるが、どちらかというと、後者の「身の程を知れ」という、いわば、「己惚れるな」という意味に捉えるのが一般的と思える。
徳川家康も、天下取りの秘訣は、「身の程を知れ」あるいは「上を見るな」だと言ったという。
だが、『老子』第33章は、「汝自身を知れ」と同じことを一人称で言った「自分自身を知れ」と言っているのだと思う。

『エイリアンインタビュー』の中で、宇宙人エアルは、老子は悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響を脱した人間の1人だと述べているが、この章がまさに、老子が、それを成し遂げた秘訣を述べている。
その秘訣は4つである。
ただし、それは、法然が『選択本願念仏集』で述べたように、いくつかの劣った方法を示すことで、たった1つの真に優れた方法を際立たせたのであると考えられるのである。
老子が示した4つの方法は、
(1)満足を知る
(2)全力でやる
(3)信念を貫く
(4)自然である
であるが、始めの3つは、最後の1つを際立たせるためのものであり、『選択本願念仏集』の言い方を借りれば、最後の1つだけを取るために、始めの3つを捨てるのである。
つまり、ただ自然であれば良い。
だが、そのやり方が具体的に書かれていない。
老子は、始めの3つを行うことで、最後の1つを成し遂げよと言うしかなかったかもしれない。
しかし、老子の時代から2500年も経っており、20世紀初頭には、ラマナ・マハルシが、真の意味で自然に帰る方法を教え、それは、『老子』第33章の主題であり、『老子』全体の主題でもあるとも言える「自分自身を知る」方法である。
それが、いつも言う「私は誰か?」と自分に問うことである。
人間は、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の働きで、真の自分を忘れ、偽りの記憶を与えられたことで悲惨な状態にある。
そんな中で、幸福など実現出来るはずがない。
本当の自分は、全知全能の魂、即ち、神(のようなもの)であることを思い出すことで、初めて幸福になれる。
そのために、「私は誰か?」と自分に問うのであると知れば、これを行うことは楽しく、やりがいを感じるに違いない。








真言はフリースタイルである

最近は、私は真言(マントラ)大絶賛であるが、少し前から、真言を割と久し振りに唱えてみたら、さすがに効果が高いのを実感すると、昔、社会人になり立てで苦労していた頃、これで大いに救われたことが思い出され、改めて良いと感じる。
私は長期間、ひきこもりのニートで、その軟弱な私が、いきなり、フルコミッション(完全歩合制)セールスという、完全にブラックな仕事に就いたが、真言の魔力のおかげで良い思い出(笑)が作れたのである。まさに青春であった(笑)。

ところでだが・・・
お坊様などの専門家で、真言を唱えることを教える人の中には、
「真言を唱えるとしても、信仰がなくては駄目じゃ」
「普段の行動や、清浄な生活をしていなければ効果はないぞよ」
と言う人が多い。
また、真言を唱えるには、正座、結跏趺坐、仏様の像や絵の前で、背筋を伸ばして合掌して、声に出して・・・などと注文を付ける人が多い。
もちろん、心構えとしては、それが正しく、文句を言う気はない。
しかし・・・それでは、普通の人は、続かないし、そもそも、やらない。
お坊様方だって、そんなに清浄なのかい・・・って、別に疑ってはおりませんが、信じてもいやしません(木枯らし紋次郎調で)。
だって、人間、そんなに清浄なもんじゃないでしょう?
そして、親鸞聖人の教えを唯円が書いたといわれる『歎異抄』には、こう書かれている。
「善いことをしなくても良い」
「むしろ、善いことをしてはならない」
「悪いことをしても構わない」
とにかく、念仏さえ唱えれば、後はどうでも良いというのが親鸞の教えだったことは間違いない。
また、親鸞の師の法然も、『選択本願念仏集』で、何をしていても、寝ていても、とにかく念仏を唱えよと書いているのである。

良い心でいよう、良い行いをしようなどと、余計なことを考える暇があれば、念仏を唱えれば良いのである。
そして、真言密教の偉大な僧は、念仏だって真言だと言っていたのである。

私は、どの真言(呪文や祝詞も含め)が上だとかいうのは絶対にないと思っている。
ある人は「アジマリカン」が一番だと言うし、別の人は「トホカミエミタメ」が圧倒的に一番だと言う。
「アジマリカン」が一番だと言う人は、わざわざ、「トホカミエミタメ」の欠点を解説する。
「トホカミエミタメ」を絶賛する人が、著書で、「南無阿弥陀仏」が劣る理由を述べている。
そういうのを見ていたら、「アジマリカン」や「トホカミエミタメ」って実は駄目・・・とは言わないが、大したものではないのだなと思うしかないのである。
実際は、そんなことはなく、「アジマリカン」も「トホカミエミタメ」も「全く等しく」素晴らしいもので、好きなら、安心して唱えると良いと思う。
もちろん、「南無阿弥陀仏」の価値に疑いがあろうはずはない。
真言を勧める方々は、こういったことに、もっとご注意いただきたい。
まあ、自分が勧めるものが一番でないと商売にならないと言うのなら、そう明言していただければ、そんなに悪くは思わないどころか、むしろ、潔くてファンなるかもしれない。

大切なことは、野球の素振りと同じで、とにかく「数」である。
野球の素振りをダラダラ数多くやっても駄目という考えもあろうが、実際は、毎日、長時間やるなら、真剣なはずである。
真言も同じである。
アファーメーションで「私は豊かだ」と唱え続けられる人は、心が強い人であり、そんな人は、アファーメーションをすれば良い。
だが、私のように根気のない者は、「この真言を唱えれば豊かになるに決まっている」という想いを心の片隅にでも置きながら、真言を唱えた方が、抵抗が生まれず、楽に唱えられて良いと思える。








心配はしないが馬鹿ではない

ラルフ・ウォルドー・エマーソンが『自己信頼』の中で、経済的な心配をしたことがない少年を称賛していたことが印象的だ。
当時(1800年代)のアメリカでもそうだったようだが、現代の日本でも、大半の家庭の子供がそうだろう。
つまり、食べるもの、住むところ、着るものは、あって当たり前だと思っているし、それを得ることが困難であるとは夢にも思っていない。

上皇上皇后両陛下が、天皇陛下、秋篠宮様をお育てになる時、「食事が魔法で出てくると思わせない配慮をした」という話を聞いたことがあるが、それでも、皇室どころか、多少貧しい家の子供であっても、ある程度は、生活は魔法で成り立っていると思うものなのだと思う。
イエス・キリストは、「何を着るか、何を食べるかで思い煩うな」と言い、さらに、「鳥は働かないけれど、神は鳥を養われる。まして、あなた方は鳥よりずっと優れたものであるから、神が面倒を見ないはずがない」と、生活の心配をしてはいけないと教えていたのは、よく知られている。
そして、エマーソンは、生活の心配を一切しない少年の意識が、少年に現実の力を与えていることを、はっきり述べているのである。

サラリーマンだって、給料は魔法で出てくるのだという感覚でいる者が多く、そんな者は「意識低い系」であると思われているかもしれない。
そうではなく、「自分の給料はしっかり自分で稼ぐ」と思う社員が立派だと言われることが多い。
しかし、どうだろう?
一人の社員が、自分の力で出来ることは大したことではない。
むしろ、自分の個人的能力にこだわる社員は問題を起こしたり、会社にもあまり良い影響を与えないものである。

とはいえ、子供にしろ、サラリーマンにしろ、あまりにのほほんとし過ぎているのも問題だというのは言うまでもない。
かといって、自分の力にこだわると心が貧しくなる。
つまり、「心配してはいけない」「横柄、高慢であってはならない」を両立し、「心配はしないが、高慢でもない」でなくてはならないし、そうであれば、高次元の力が加護するのだと思う。
そして、その意識を持たせるのが、本来は宗教なのである。
つまり、宗教とは、支配のためのものでもなければ、道徳を教えるためのものでもない。
そんなふうに、宗教の扱いを間違っているから、宗教が胡散臭いものになってしまったのである。
イエスもだが、法然や親鸞の念仏も「心配はしないが高慢にもならない」ためのもので、念仏を唱えていれば間違いないというのは、少しも不思議なことではない。
高次元の力の加護を語っている『福音書』や法然の『選択本願念仏集』、あるいは、『法華経』の25品である『観音経』の内容は、現代の感覚に合わない部分があるのは、時代が違うのであるから当然である。だが、それを了解して読めば良いのであり、「全部良いか、全部駄目」しか受け付けないというように頭が固いようでは駄目である。
しかし、吉本隆明が、「宗教家ではなく思想家」と言った親鸞の教えが書かれた『歎異抄』は、案外に現代でも無理がないと思う。
吉本隆明が、親鸞を宗教家でないと言ったのは、「それまでの、そして、現代の多くの宗教家のようでない」ということなのだと思う。
「鵜呑みにしてはならない」「だが、疑ってばかりでもいけない」のである。
人生は、このバランスである。
このバランスを与えるのが、宗教、あるいは、量子物理学のような新しい科学であるのかもしれない。









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現代の魔法

ウイルスに感染し、遠隔操作で不正行為に利用されるコンピューターのことをゾンビコンピューターと言うが、我々はまさに「ゾンビ人間」だ。
我々は、脳内に神経ウイルスのようなものが作られてしまっていて、その神経ウイルスは、脳のリソース(資源)をふんだんに使い、我々を落ち込ませる言葉を1分に数百とつぶやき(意識されないが)、我々を疲労と憂鬱に落とし込む。
それに対抗するためには、我々は意識的に肯定的な言葉を唱えなければならない。
実に、成功と失敗の原因は、それをするかしないかだけだ。

確かに、良いつぶやきが大事だと教える人がいて、本も沢山出ているが、それらの本が全く役に立たない理由は、「沢山の言葉をつぶやかせようとする」からだ。
言葉は1つでなければ唱え続けられない。
法然が『選択本願念仏集』で、「阿弥陀如来だけを崇めよ」と言い、ただ、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えよと言っているのは、そのことをよく理解していたからだと思う。
普通に考えれば、阿弥陀如来以外の仏や菩薩、ましてや、釈迦は尊いのに、念ずべきは阿弥陀如来だけにしろという。
しかし、「南無阿弥陀仏」の他に「南無観世音菩薩」とか「南無釈迦牟尼仏」と唱えようとすれば、念仏がシンドくなるに決まっているからだ。結果、どの念仏と唱えなくなってしまうのである。
そうなれば、その人の頭は悪霊(否定的な言葉)に支配されてしまうのである。

私も昔、営業の仕事をしていた若い頃、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えて、うまくいっていた。
しかし、本を読むと、「観世音菩薩の真言オン、アロリキャ、ソワカを唱えると守護が得られる」とか、「やはり大日如来真言の威力は大きい」と書いてあるのを見て、それらを唱えるようになったら、やがて、あまり真言を唱えなくなり、そのうち、どんな真言も全く唱えなくなった。
そうしたら、トラブルが多くなり、人間関係も乱れ、売上はさっぱりになり、会社も辞めることになった。

もし、本当に明るいものを感じ、抵抗がないなら、念仏や真言を唱えれば良いと思う。
そして、全ての現代人に抵抗がなく唱えられる効果抜群の言葉が、いつもお薦めする万能呪文である。
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
の3つから1つを選び、感情を込めず、頭の中で、出来るだけ多く唱えるのである。
感情を込めないことも大切で、いわゆる「心を込めて」唱えると、やはり続かない。
ただ、感情を込めないと言っても、いい加減に唱えるのではなく、真面目に唱えなければならない。
万能呪文は、脳内の神経ウイルスを抑え、さらに、潜在意識に良い指令をインプットするのであるから、うまくいかない方がおかしい。
私は、今年7月16日に、万能呪文1本に絞り、他のことは一切やめたが、今も、脳内の神経ウイルスはなくなった訳ではなく、油断すると心を支配しようとしてくる。
だが、万能呪文を忘れていたことに気付き、攻勢をかけると、すぐに状況は好転していく。
まだ、一瞬で状況を書き換えるというほどではないが、いずれそうなるだろう。
これが現代の魔法である。









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弱者のための最強の武器

強いヤツって、必ず、お決まりのパターン(型)を持っている。
ポリシー(方針)という言い方の方がピッタリする場合もあるが、同じことだ。
逆に言えば、パターン、ポリシーのない者は、非効率で弱い。

トヨタ自動車の車にも、単純な言葉で語ることが出来るパターンがある。
売れる音楽家の音楽、売れる小説家の小説にも、見え難い場合もあるが、やっぱり、パターンがあるものだ。

格闘技の名門グレイシー柔術も、多彩な攻撃があるようでいて、「グレイシーのパターン」というものがある。
もちろん、プロの格闘家なら、それがどんなものか知っているのだが、分かっていても負けてしまうのは、そのパターンが優れていて、しかも、磨き上げられているからだ。

私は、セールスマンとして社会人を始め、かなり熱心にやったが、超一流セールスマンの著書と、身近にいる強いセールスマンで必ず共通していたのは、彼等のセールストークがワンパターンだということだ。
売れないセールスマンのセールストークほど多彩なのである。
一流中の一流であった夏目志郎さんともなると、助手の女子大生が、「いつ同じことを言ってばかりの夏目さんが可哀想」と言って泣き出したほどだ。
夏目さんは、セールストークは同じものを繰り返し使うことで威力が増すのだと著書に書かれていたと思う。

ナンパだって、上手いヤツはワンパターンだが、下手なヤツはナンパする度にアピールの仕方が違い、口説きに力がないのである。
ナンパもセールストークも同じと言ったら、セールスマンの方々に怒られるかもしれないが、1つのパターンが力を発揮するところは共通している。

私のようなプログラマーというかシステムエンジニアだって、システム開発のパターンを持っている人は有能だ。
優秀なシステムエンジニアは、いくつかのパターンを使い分けているように見えるが、それでも、結局は1つのパターンが基になっているのである。
そんなパターンがなく、いろんなことをやりたがる者が作るシステムは、必ずトラブルを起こしたり、完成に時間がかかる、あるいは、完成すら出来ない。
私の実感としては、よほどの天才のことはいざ知らず、人間の能力は、1つのパターンを使いこなすのがせいぜいなのだ。

1つのパターンを選び、鍛え、繰り返し実践で磨けば無敵に近付く。
坐禅なら坐禅、念仏なら念仏と決め、それに徹すれば、必ず神仏の加護がある。不思議だが本当だ。
しかし、坐禅をやってみて、良いことがないので念仏に変え、それも駄目ならTM(超越瞑想)をやってみる・・・とフラフラしている者は、いつまで経っても、あまり良い思いをしていない。
成功法則も、ジョセフ・マーフィーと決めれば脇目もふらずにマーフィーの本を読み、しかも、同じ1冊を数百回も読む者は、必ず、驚くほどいつも好調だ。
中畑清さんなんて、巨人の4番を打っていた頃は、冗談でなく、いつも「絶好調」と言い続けていたのではないかと思う。彼がそうでないにしろ、普通の人なら、それで十分だ。
長州力さんは、リキラリアットとサソリ固めの流れのワンパターンなので、60歳をとおに過ぎても現役でやれるのだ。

法然の名著『選択本願念仏集』も、まさに、念仏というワンパターンを「選択」し、他は捨てろというものなのである。
宗教書としては、弟子の親鸞の『歎異抄』と並ぶ最高のものだが、『歎異抄』の主張も、極めてワンパターンである。

あなたも、1つのパターンを選び、それに専念し、後は捨てるのだ。
2つのパターンを選んでうまくいくには、宇宙人並の能力が必要だ。
だが、ワンパターンに徹すれば、宇宙人にだって勝てるさ。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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