インドの聖者は、全ては幻想だと言い、それは確かにそうなのだが、我々がそう言ってはいけない。
我々にとっては、全ては厳然たる現実だ。
学校でそこそこの成績を取らないと嫌な状況になるし、会社でクビにならない程度には仕事をしないと、どうにも困ったことになるという現実から逃れられない。
釈迦やイエスや、あるいは、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジのような人達には、この世は非現実であったのだが、彼らは慈悲深くも、現実に苦しむ我々のために世俗に関わり続けたのだろう。

禅の天才、達磨は、修行者のための公案という魔術的な問題を作って、現実の非現実性を悟らせようとしたが、どうにも難しかったかもしれない。
そこで、彼は、身体を使って、もっと楽に、この世のカラクリを直感的に感じさせようと考え、彼自身が達人であったヨーガの技法を取りいれて考えたものが、彼自身が中国に伝え、そして我が国にも伝わった腕振り運動である。中国では、スワイソウと言うようだ。
スワイソウは仙道や武道派の気功術にも取り入れられたが、本来の達磨の意図とは異なるものになったかもしれない。しかし、それも、それだけ威力のあるものだからだ。
ただ自然に立って、両腕を一緒に前後に振るだけの簡単な運動にかくも様々な優れた効果があるとは驚くべきことだが、本来はやはり、神が創ったこの世のカラクリを暴き、世界が本当は非現実であることを、たとえ凡人にでも悟らせようとするものだった。

達磨の意図にあった、正しい腕振り運動のやり方を説明しよう。
基本的には、自然に立ち、両腕を常に平行に保ち、両手のひらは内側に向け(下向けでも構わない)、後ろに振る時にやや力を入れ、前に振る時には力を抜き惰性で振る。
これを1日合計で、1000回から3000回を行えば、当面の効果としては気力が充実し、体内の気が活性化されて若返り、病気が治ったり、記憶力が良くなるなどの効果がある。しかし、それらは些細なことだ。
決して、がんばって振ってはいけない。呼吸が荒いようなら、やり方が間違っている。
理想的には、振り始めた最初の内は腕に力を入れ、振っていることを意識するが、やがて、自動的に振られているようになるのが良い。

クラシック音楽の優れた演奏家は、演奏している時に、自分が演奏しているという意識を持っていない。確かに譜面を追い、注意深く演奏しているのだが、自分は何もしていないという自覚がある。
政木和三さんは、ピアノの練習をしたことは一度もないと言うが、世界的ピアニストが絶賛する腕前で演奏した。彼に聞いてみたら、演奏している時は、やはり、演奏しようとか、演奏しているという意識は無いようだった。
そういったことを感じるためにも、クラシック音楽の優れた演奏を聴くことはお奨めしたい。

腕振り運動に戻るが、腕振り運動をしながら、少し意識的に、「自分が振っているのではない。振らされているのだ」と思うと良い。
振っているのではなく、「腕を振るということが起こっているだけ」なのだ。そう思って、ただ数だけを数え、淡々と続けるのだ。
数は、100まで数えたら1に戻り、その100回の単位を何度やっているかを憶えていることだけに意識を使い、出来るだけ何も考えないことだ。
ただし、こういったことを厳密に堅苦しく考えながらやるのではなく、そんな雰囲気で気楽にやるのだ。
毎日、根気良くやっていると、だんだん、世界は非現実になってくるだろう。
世界が非現実になったとしても、別に何かが変わる訳ではないが、気楽で平和になるだろう。その後で、言葉で説明できないことが起こる。
聖書の『ヨブ記』に、「神と和らぎ、平和でいなさい。そうすれば幸福が来るでしょう」と書かれてあるが、どうすることが神と和らぐことであるかが書かれていない。聖書は、ちょっと不親切なところがあるのかなあと思う。しかし、そのやり方は、達磨が教えてくれたのである。









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