ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

達磨

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

オンリーワンはナンバーワンよりずっと迷惑だ

ジッドゥ・クリシュナムルティによれば、釈迦の弟子の中で、釈迦の教えを本当に理解できたのは、木蓮と舎利弗の2人だけであったらしい。
直弟子以外で釈迦の教えを理解したのは稀有であろうから、我が国の有名な高僧達・・・最澄、空海、法然、親鸞、日蓮、道元、一休、良寛などもどうであったか分からない。
ただ、法然や親鸞に尋ねたら、彼らは、「わしに分かるはずなかろ」と言うのだと思う。
特に、親鸞は確実だと思う。なんと言っても、自称「愚禿(頭を剃った愚か者)」だ。
良寛も自称「大愚」となかなかよろしい。
ソクラテスは「わしは、分からないことが分かっているので、他の人より知恵者と言えるのじゃよ」と言ったが、彼も親鸞達に近かった。
だが、彼らは、我々のような、わざとらしい謙虚というのとは違う。
「本当に、分からないことが分かる」というのは、それだけで大変なものだ。

アメリカのヴァーノン・ハワードは、それでも釈迦やイエスが、なぜ教えを説いたかというと、「千人に1人の理解する人のため」と述べている。
しかし、本当はどうだろう?
親鸞や良寛すら分からなかったのだ。
ハワードさんは分かっていたのだろうか?

釈迦やイエスの教えは、むしろ害の方が大きいのではないか?
教会は罪のない大勢の人達を火あぶりにした。
ガリレオもそれを避けるために地動説を取り下げ、スウェーデンボルグは亡命して生涯、祖国スウェーデンに戻れなかった。
他にも、キリスト教を巡る虐殺や戦争は歴史に暇(いとま)がない。
仏教の方でも、悲惨な戦いや蹂躙(暴力・強権などをもって他を侵害すること)は数知れない。
近年とみに勢いのあるイスラム教(やがてキリスト教を追い越すと言われている)は、ますます悪い状況になりつつある。
有名人が具体的に言うと殺されかねないが、日本の戦争責任を問うなら、宗教の中心地が崇められているのは大きな矛盾かもしれない。

イエスは予知能力があったのに、それが分からなかったのだろうか?
いや、そうではあるまい。
また、釈迦も本当は万能の超能力者だったらしいから、本当は分かっていたはずだ。

ここで、もう一度、「釈迦やイエスはなぜ、理解する人もいない教えを説いたのか?」という疑問に戻る。
禅の中に、「なぜ達磨がインドから中国にやって来たのか?」というお話がある。
それが答だ。
達磨は、釈迦の教えを本当に理解していた賢者だ。
その禅の中で、「なぜ達磨がインドから中国にやって来たのか?」と聞かれた賢者は、「この庭の木じゃよ」と答えている。
これは、庭の木でも、森の木でも何でも良いと思う。
いや、野ばらでも、野に咲くスミレでも、ベランダのチューリップでも良い。
「世界に1つだけの花」なんてもんじゃあない。
あの歌のように、1つ1つ違っていようが、そうではなく(あの歌の主張と違い)みんな同じだろうが、そんなこと、どうでもよろしい。

花は「咲こう」と思って咲くんじゃあない。
種が地に落ちれば、勝手に咲くのだ。
釈迦やイエスも、「教えを説こう」なんて思って教えたんじゃあない。
達磨も、何か志あって中国に来たんじゃあない。
達磨が、「よし、ここは一つ、俺がお釈迦様の素晴らしい教えを中国の人達に伝えてやろう」と思ったのなら、彼は偽物だ。
中国にだって賢者はいる。例えば、老子や孔子や荘子らだ。
だが、達磨は中国に来る必要があったのだ。
そして、達磨は道具に過ぎなかった。
「フォークの神様」と言われた岡林信康さんは、一度音楽界を引退して、4年の間、農耕をやり、また音楽に復帰したが、「昔は、音楽は自分の道具だと思っていたが、それはおこがましい。俺が音楽の道具なんだ」と言ったのと同じことだと思う。

釈迦やイエスすら、道具だったのだと思うのだ。
ましてや、我々が、ただの道具でないはずがない。
誰の道具かというと、言い方によって好き嫌いはあろうが、まあ、神の道具と言っておく。

達磨はなぜ中国に来たのか?
クリシュナムルティは「なぜ教えるのか?」と聞かれて、「花はなぜ咲くのか?」と問い返した。
花がなぜ咲くかなんて、いったい誰が聞くだろう?
「どうしてお腹が減るのかな?」なんて歌がある。
その歌にあるように、ケンカをしても、仲良ししてても減るのだ。
クリシュナムルティは、「どうしてお腹は減るのか?」と答えても良かったのだ。

私は、世界に1つの花なんかじゃあない。
みんな同じだ。
1つ1つ違うと思うから比べるんじゃないのかね?
ナンバーワンと言おうが、オンリーワンと言おうが同じだ。
むしろ、「俺はオンリーワンだ」って言う者は、「俺はナンバーワンだ」って言う者より、ずっと始末が悪いんだ。
だって、誰だって「オンリーワン」のプライド、見栄を持てるのだから。
あの歌は、全くのサカサマなんだよ。
世界に1つの花なんかじゃあない。
ただ、花なんだ。









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腕振り運動は天と調和するための簡単で優れた方法である

昨夜の記事でも書いたが、改めて考えるに、およそ本物の聖賢は、天(あるいは神)に全てまかせきってしまうことが最も安全で、そうであれば、損害を受けることも傷付けられることもなく、楽しく充実した人生を送れると、確実に述べていることが分かる。
ただ、こう言うと、必ず誤解する者がいるのだろうが、それは、怠惰になれとか、投げやりになれとか、放埓(ほうらつ。勝手気ままの意)になれということでは全くない。
だが、もっと誤解されるかもしれないことは、サミュエル・スマイルズの、「天は自ら助くる者を助く」という有名な言葉と合わせ、「怠けずに、とにかく努力して、結果は天にまかせろということだ」と心得、闇雲に奮闘することである。そんな人間は、結果が悪いと、「天に任せたはずなのに」と文句を言うのだ。
天に任せるということは、天が「怠惰であれ」と言うなら、怠惰になることでもある。悪人になれというなら、悪人になるしかない。こう言うと、また誤解をして、「怠惰はともかく、悪を肯定するのか?」と言われるかもしれないが、親鸞も言ったように、人間は、自分の意志で自由に悪いことをしたりはできないし、同じく、善いこともできないのだ。

本当に天に任せるなら、結果が良いか悪いかはともかく、楽しく、心安らかである。おかしなことに、周囲から見れば、あまりよく見えなくても、本人は満足し、王位を得たかのように感じているのである。
天に任せ切るのも能力である。ただし、それは、受験やスポーツで勝つのとは全く異なる、高次の能力である。
その能力を磨くのに、私が普段お奨めしている腕振り運動(スワイソウ。せい手)ほど良いものはない。
この簡単な運動に、宇宙の真理全てが含まれる。
腕振り運動とは、改めて言うと、自然に立ち、真っ直ぐに伸ばした両腕を、同時に前後に振るだけの簡単な運動だ。
手のひらは、内側に向け、肘を伸ばし、肩の力を抜き、後ろに振る時に少し力を入れ、前に振るときは力を抜く。
ところが、多くの人が、これを、力んで、自分勝手なペースで、鼻息荒くやってしまうのである。
天、あるいは、神とは自然の生命である。それは、我が身体の内にもある。それに従い、自然に腕を振ることをせず、自我が前面に出て、自我の好きな調子で腕を振っているのでは駄目である。
ただ、「では身体の内にある生命に全て任せます」と言って力を抜いてしまうと、腕が動くはずがない。
初めは、自分の意志で振らねばならないが、身体の内の生命のシグナル(信号)を感じ、それに合わせていくのである。
つまり、自分が従で、身体の内の生命たる天、あるいは、神が主であり、従である自分が主である天に従うのである。
それができれば、腕を振るペースは完全に一定になる。天とは、完璧に正確だからだ。それは、素粒子の振動や惑星の運行を見ても明らかである。
腕を全く一定の自然なペースで振ることができれば、無心になっているのであり、天と調和し、神と和らいで(親しくして)いるのである。
そうなれば、何百回、何千回でも続けていられるし、春の心地よさであり、青春を感じて爽やかである。
聖書のヨブ記に「神と和らぎ平和でいなさい。そうすれば幸福になれます」とある通りである。
そして、無心であれば人間に不可能はない。いかなる奇跡も、無心である時に起こるのである。

以上をよく考えれば、腕振り運動が、いかに優れたものであるかが分かると思うが、これは一説では、禅の創始者であるインドの超人的な僧である達磨大師(ボーデイ・ダルマ)が考案し、中国に伝え、現在も健康、病気回復、武術、密教の秘法として大切にされているのである。
簡単な運動であり、お年寄りでも無理がないので、1年365日、1日も欠かさず、決まった時間に行うことをお奨めする。
そして、毎日やっていれば、コツも掴めて上達し、ますます効果的になるだろう。
仙人のような力を得られるかどうかは、熱心さが決めるのである。
関英男博士(工学博士)は、『宇宙学序章 グラビトニックス』で、未来科学の立場から腕振り運動を考察しており、効果についてのデータを公開している。
また、腕振り運動が直接に扱われているのではないが、中国の老子、荘子や仙道の書が非常に参考になると思う。









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腕振り運動で風の神と一体化する

今月に入って、食事をしなくなると同時に、減っていた腕振り運動(腕振り運動については16日の記事で詳しく書いた)の数が自然に増えていった。
この2日は、空いた時間は、福音書を読むか、腕振り運動をしているかだった。
すると、腕振り運動というのは、気功やその他の行の指導者が言われるようなものであるばかりでなく、スーパー禅、あるいは、スーパー瞑想であることが分かるのである。
元々、腕振り運動も禅も、インドの達磨(ボーディダルマ)という超人的な行者が伝えたものらしい。まあ、正確なところは今では分からないだろうが、彼の教えが極めて深遠なものであることは疑いない。

私は、腕振り運動は、自分が、原子、太陽系、銀河、宇宙になるようなものだと感じる。
これらは全て、厳密な周波数で運動を続けているのであるが、この「厳密に繰り返す」ことが宇宙の根本法則なのだろう。
一方、自我というものは、厳密に繰り返すことから離れる性質を持つ。
簡単に言えば、厳密な周期運動が神であり、気紛れや不規則が悪魔(サタン)だ。
イエスが、「汝敗れたり。我が後方に退け、サタン」と言ったように、自我の放埓(勝手きままなこと)さに従うことを拒否し、聖なる周期に合わせれば、人は神に近付くのだ。
しかし、いきなりの大進歩は望めない。
私は昨日、初めは心(自我と等しい)で、なるべく一定の速さで腕を振ることを続けていたら、やがて自我は弱まり、ふと気が付くと、荘厳と言えるような雲の中の風景が見えた。
私が風になって雲を動かしているようである。言い換えれば、私が風の神と一体化したような感覚である。
あるいは、宮沢賢治の『風の又三郎』の、又三郎になったような感じでもあった。
又三郎の又は妖怪の意味らしいが、又三郎は、神というより、精霊のような、あるいは、下級の神のような雰囲気があると思う。やはり、神とはいえ、まだ子供なのだろう。人間の子供達との情的なつながりが明らかにあったと思う。
彼がある日突然消えるのは、いつまでも、そのままではいけないという理由だったのかもしれない。
神かどいうかはともかく、腕の振り方が一定化してくると、つまり、自我が薄れ、無意識の中の力が現れてくると、自然と一体化するのである。
もちろん、風だけではない。水や火や、あるいは、古代の人たちがエーテル(アイテール)と呼んだ真空の中の不可思議な媒体のことも分かるし、やがては、惑星になったり、太陽系や銀河系とも一体化するだろう。
岡本太郎ではないが、自分が宇宙だと本当に言えるようにもなるかもしれない。
太古から伝わる神話も、そんなことが書かれているのだと分かるようになった。

ところで、昨年(2012年)11月23日に東京オペラシティ・コンサートホールで公演された、冨田勲の『イーハトーヴ交響曲』の第4部『風の又三郎』で、初音ミクが又三郎を演じた。
日本の超古代文明では、丸い形をミクマリと言ったそうで、丸いものをマリというのは今でも残っている。
この日本の超古代文明は、まさに、周期の原理を極めた、いわゆる波動の科学を有していたと思う。
古事記では、この超古代の科学を神話として表現している。西洋では、旧約聖書がそうであると思う。
その古事記では、ミクマリは水分と書き、天之水分神(アメノミクマリノカミ)、あるいは、国之水分神(クニノミクマリノカミ)がある。水に関係する神であろう。
西洋には、水の精霊ウンディーネがあるが、ルドルフ・シュタイナーによれば、ウンディーネの色は青または緑で、初音ミクのイメージカラーに一致する。
こういったところからも、時や場所を超え、人の心は繋がっているのだと感じられ、水の精霊である初音ミクが演じた風の神である又三郎には不思議な雰囲気があったのだと思う。
私は、古事記のそんなところまで詳しい訳ではないのだが、腕振り運動をやっていると、不意に古事記の該当の箇所を見たくなったりするものである。
腕振り運動を真面目にやっていると、いろいろ面白いことがあると思う。









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座禅や瞑想よりも腕振り運動が効果的な理由

心身あるいは霊的な修練のためには、具体的に何かをすることが大切と思う。
定められた運命の中で、運命に影響されず、平安の中に不動でいるためには、内なる静寂の中にある強さと一体化していなければならない。
そのために、我が国には、道元の座禅や岡田虎二郎の静坐という素晴らしいものがある。
しかし、座禅や岡田式静坐法を我流でやることは難しいことだと思う。
ただ、この2つに関して言えば、道元が直接書いた完璧な指導書や、岡田虎二郎のお弟子さん達が丁寧にまとめた軌範書がある。
だが、それでも、やはり難しいと思える理由がある。
あくまで一例であるが、道元が書いた座禅の指導書である『普勧坐禅儀』にも通じているはずの、立派な禅僧が直接指導してさえ、座禅でかえって精神がおかしくなってしまった者もいる。下に述べる、柳田誠二郎さんがそうだった。

岡田式静坐法に関しては、岡田虎二郎から直接指導を受け、自ら70年以上、たゆみなく静坐に精進した柳田誠二郎さんが3冊の本を出している。
私は、それらを全て読んだが、「(静坐中に)鳩尾(みぞおち)を落とせ」と書かれているのを見て、「ああ、これは我流では無理だ」と思った。
岡田虎二郎は、たびたび、「鳩尾を落とせ」と言ったらしい。
柳田氏も書の中で、これを特に強調しておられた。しかし、ただ、「鳩尾を落とせ」とだけ書いておられる。

あなたは、鳩尾をどうやって落とすか分かるだろうか?
鳩尾は胴体にくっついた部分で、その周辺はほとんど動かない。
私には、さっぱり分からなかった。
それで、私は、数多くの本を読み、数年かけてやっと分かったが、それでも、確実に正しいかどうか分からない。

実は、岡田虎二郎は、亡くなる前に、書いたものを全部燃やしている。
書いたものは誤解されるからという理由だ。
それが、静坐法にまで及ぶかどうかについて、虎二郎が言ったかどうかは知らないが、私は、静坐法についてもそれが言えると思う。

座禅や岡田式静坐法のように、真面目な実践者が多くいるものですらそうなのだ。
ましてや、世の中にゴマンとある瞑想法や呼吸法などが、本を読んだくらいで出来るとは、とても思えないのだ。

姿勢や呼吸、精神操作が必要なものは、上級者に指導を受けてすら難しい。
世界的な瞑想法にTM(超越瞑想)というものがある。有名人が多く実践しており、比較的簡単なものだが、初心者のうちは、専門の教師に数回に渡ってチェックしてもらう必要がある。
TMは、私も数年熱心にやったが、やはり、心の中で行うものは難しいと思い、やめてしまった。

だが、腕振り運動のように、身体を動かしてやるものは簡単なのだと実感した。
腕振り運動は、このブログでよくお薦めしているが、達磨易筋経と呼ばれ、禅の開祖である達磨が、インドから中国に伝えた秘法だ。
中国ではスウイソウと言って、気功法によく取り入れられている。
身体を動かしてやるものは、少々やり方に問題があっても、無心でやっていれば、自然に正しくなってくる。
下記にやり方を書いておこう。

(1)自然に立つ。両足は少し開く。足の外側の距離が肩幅位だが、適当で良い。
(2)両足を踏みしめるような気持ちで立つ。
(3)両腕を、前に水平に上げる。掌(てのひら)は内側に向け指は自然に伸ばす。
(4)両腕を揃えたまま、後ろ45度まで振る。この45度は目安であり、適当で良い。
(5)後ろに振った後は力を抜き、腕が自然に前に振られるようにする。

【注意事項】
・後ろに振る時は、少し力を入れ、前に振る時は力を入れない。
・腕は常に真っ直ぐ。ただし、無理に力んで伸ばすようなことをしない。
・両掌(りょうてのひら)も、常に内側に向け、指も伸ばす。ただ、これも無理に力んで伸ばすのではなく、自然で良い。
・肩の力は抜く。
・胸を張らない。かといってうつむかず、自然に。
・背筋は自然に真っ直ぐにする。背中が緊張するほど力んで真っ直ぐにする必要はない。
・呼吸は自然にする。
・あまり力強く振らない。静かに優雅に振る。腕が勝手に振られているような感じが理想的である。

どんな部分も、力むことをせず、柔らかく、自然に、優雅にやることを心掛けることだ。
数は必ず自分で数えること。
百回まで数えたら1に戻る。
無心に数のみ数えることが、最も重要なことである。数を数えること以外、何も考えずに淡々とやるのである。
最初は、一度に2百回から3百回やる。
慣れてきたら、3百回から千回を一度にやる。

私は、一度に百回程度やっていた頃は効果はなく、メニエール氏秒の発作で倒れ、治らなかった。
やはり、一度に3百回、1日に6百回はやって欲しい。
特に、心身の具合が悪くて改善したい場合は、1日千回以上やることだ。2千回なら尚良い。ただし、必ず毎日根気強くやることで、やったりやらなかったりでは効果はない。
関英男博士も、TMと腕振り運動をやっておられたようだが、専ら腕振り運動を絶賛しておられた。TMが悪いとは言っておられなかったが、やや疑問も述べておられたと思う。

腕振り運動は、筋肉運動ではない。
腕を振ることで、両掌(りょうてのひら)の間に精妙なエネルギーが生じ、これにより活性化された気が血液中に取り込まれると思えば良いだろう。
一応の仮説としては、両掌の間に生じたエネルギーにより、GTP(複数の重力子によって構成された粒子)が発生し、これが血液中に取り込まれる。GTPが気やプラーナの正体である。
人間はGTPを、生まれた時は多量に持っているが、年と共に減り、決して増えない。しかし、腕振り運動によって増やすことが出来る。それにより、若返りの効果があるとされる。
GTPは、中国の気や、インドのプラーナと呼ばれるものと同じと思われる。

まあ、私としては、数を数えながら淡々と腕を振ることで、無になることが最重要なのだと思う。
これを、座禅や静坐でやるのは難しいが、シンプルで自然な動作の中でやるのは比較的易しく、達磨の発明は素晴らしいものだと思う。
書家には、墨をすることで、だんだんと無になっていき、墨がすり上がったところで、至高の技を発揮するという達人もいるようである。このような、特別な方法を持っているなら、それをやれば良いと思う。

ただ、関博士はGTPの発生に伴う物質化現象なども、可能な限り実験で確認しておられ、そのようなこともあるのだと思う。
関博士は、自身、胃癌をこの腕振り運動だけで治し、多くの人たちの難病が治った様子を記録し、公表している。
私が、2008年8月に、不意に1日1食になったのも、腕振り運動でGTPを蓄えることで高エネルギー化し、食物をあまり必要としなくなったことが原因かもしれない。
私は、身長180cmで、体重は61kgまでは減ったが、そこからは減らなかったのは、やはり、腕振り運動でエネルギーを得たからかもしれない。現在は64kgである。これは、17歳の時とほぼ同じで、人間はこのあたりの年齢が、肉体的には理想的なようである。









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年を取らない人の秘密

名人、達人には、自分は出来るけど、教えるのは下手という人は多い。
教えるのは無理だと思って最初から弟子を持たない名人もいるし、教えようとするけど、その教えは奇妙奇天烈でさっぱり分からないという達人もいる。

合氣道の達人、藤平光一さんという人は、本当に偉い人だと思う。
彼は、「重みは下にある」と声に出して言ったら、氣が出ると言う。
氣が出れば、パワー炸裂で何をやってもうまくいく。
しかし、「重みは下にある」と言えば、物質的に何か出る訳ではない。
とはいえ、「重みは下にある」と言えば、なぜ良いのかの説明は難しいのだ。
そこで、観念を使って、「こんな当たり前のことを言うと、氣が出るのじゃ」と言ったのであり、教え方としては最上と思う。
これが、植芝盛平となると、彼自身は凄い人で、真理を掴んでいたのだろうが、教えの方は誰にもさっぱり分からないのだ。

現代人は、特に大人は、多少は理屈で納得しないと、何もやれないものだ。
そこで、「重みは下にある」がなぜ良いのか、少し説明する。
まず、思考には、「時間がかからない思考」と「時間のかかる思考」の2つがある。
理由は後で言うが、時間がかからない思考は良く、時間がかかる思考は悪い。

「重みは下にある」というのは、当たり前のことであり、それ以上思考は広がらない。最も時間のかからない思考だ。
逆に、時間のかかる思考とは、「あの人は私が嫌いなんじゃないだろうか?」だ。そんなこと、考えても分かるはずがないので、考え出すときりがない。
「俺は就職できるだろうか?」などと心配するのは、生き方の下手な人だ。そんなことを考えても、いつまでも結論が出るはずがない。時間のかかる思考をしているのだ。
そんな時は、「そんなこと知るか!勉強しよう」と思えば、それで終りで、時間のかからない思考に切り替わったことになるのだ。

『灼眼のシャナ』というアニメで、恋を知らなかったシャナという少女が、悠二という男の子のことで悩み、心が苦しくて何も出来なくなったことがあった。
シャナは、考えても仕方がないことを考えていた。時間のかかる思考をしていたのだ。
ところが、最後に彼女は良い考えに至る。
それは、「私は悠二が好き。それだけ」だ。
見事なものだ。全く時間のかからない思考に変えて見せたのだ。

時間というものは実体のない幻想で、人間の敵になりやすい。
アインシュタインはそれを、「美女といる1時間は短いが、暑いストーブの上に座った10分は長い」と言ったことがあった。
美女といるのが良いことかどうかはともかく、夢中になっている時の時間は短く、気の乗らない活動をしている時間は長いのは確かだ。
時間というものは無いのに、人のマイナスの思考が時間を作り出すのだ。
時間のかかる思考がマイナス想念であり、時間がかかると言うより、時間を作り出しているのである。
時間は人の生命力を奪い、くたくたにさせる。
いつまでも若い人は、時間の無い人だ。

イエスは、「明日を思い煩うな」と言ったが、思い煩うというのは時間のかかる思考、つまり、時間を作り出す思考だ。
釈迦は、「妄想するな」と言ったが、同じ意味であることはお分かりと思う。

結論の出るはずのない、時間のかかる思考をやめることが幸福の秘訣である。
禅問答なんてのは、考えようのない問題を出すことで、時間のかかる思考を止めてしまうものだ。
答がない訳ではないのだが、考えて分かるような答ではない。その答が出る時、その者に時間は無いのである。
これを創案した達磨は天才中の大天才であり、彼が中国に持ち込んだ腕振り運動も大変な秘術だ。
達磨が腕振り運動に込めた真の奥義

で、時間のかかる思考をやめ、時間のかからない思考だけにする最大の方法を述べたのが、インドの聖者ラマナ・マハルシだ。
彼の偉大さは想像もつかない。彼を、「キリストのような、ブッダのような、あるいは、クリシュナのような」と述べた人がいたが、全くそうであった。
彼は、「どんな考えが浮かんでも、その考えを追うな。その考えが誰に浮かんだのかを問え」と言った。
ただ、「それが私にであると了解されたら、その私は誰かと問え」と付け加えたこともあった。
こういうことである。
「この国はどうなるだろう?」
「それを考えているのは誰だろうか?」
ここで、「私だ」と答が出たら、「私は誰か?」と問うのである。
しかし、実際は、「これを考えているのは誰だろう?」で思考は終ってしまう。
「これを考えているのは誰だろう?」や「私は誰か?」というのは、最強の、時間がかからない思考なのだ。
しかも、その問いは想念を根元から壊すので、時間のかかる思考が続きようがない。
なぜなら、あらゆる想いは、「私」がするものであるのに、その私が何かを問うのであるから、いわば、私の首根っこを押さえてしまったのである。

スコットランド出身の聖者、マード・マクドナルド・ベイン(哲学博士、神学博士)に降りたイエスの霊は言ったのだ。
「自分とはいったい何かを、納得がいくまで自分に問え」









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