ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

達人

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

どんなことでも道を究めれば人を超える

神道や合気道、柔道、剣道といったように、最初から「道」という言葉がついたものがあるし、老子、荘子の教えを道教と言ったりもするが、いかなるものにも道はある。
どんなことだって、達人になることを「道を究める」という。
人間は、2つの道を究めることはできないのだが、何か1つで道に達すれば全てが分かる。
極意というのは、どんなことでも同じだからだ。

たとえ乞食や泥棒でも、乞食道や泥棒道を究めれば、学問や芸術を極めた者と同じ場所に立てる。
だから、「小善人になるよりは大悪人になれ」と言うのは正しいのである。

自分が進みたいと思っていた道を断たれてしまったとしても嘆く必要はない。
道は無限にあるのであり、進めなかった道というのは、元々が自分が行く運命にはなかっただけのことである。

お茶を入れるとか、書を書くという誰でもやることでも、茶道とか書道という道があり、それによって人間の究極の境地を目指せるが、どんなことの中にだって道はあるのだ。
掃除や挨拶1つの中にも道はあり、もしその道を究めれば、神的な人間としてどこでも生きていける。
道を究めた仕事がなくなってしまっても、本当に道に達していたのであれば困ることはない。
昔、電話のない時代には、メッセンジャーボーイというものがあって、重要な用件を離れた場所にいる相手になるべく迅速に伝えたものだが、メッセンジャーボーイとして道に達していれば、電話が普及しても、極めつくした言葉を伝える術で、世の中を闊歩できたのだ。
いや、もっと正確に言えば電話が普及したからこそ、達人メッセンジャーボーイはより重要になり、その気になればどこでも活躍できたのである。

その道ではかなりのレベルに達していても、「私はこれしかやったことがありません」といって、他のことはできないと思っているなら、その得意な道でも道を究めていなかったのだ。
また、金メダルを取っても道に達していないこともあれば(ほとんどが達していない)、世間的には2流3流でも道を究めていることもある。
1つの武術の武術家として大したことはなくても、その中の1つの技を最高に磨き上げ、至高の域に達しているような者がそうである。

人間の使命は、世間的には平凡でも、人を超え、神の領域に近付くことである。
そのためには、自分の信じる道を進み、それを極めることである。
釣りを極めた者を釣り仙人と言い、駒回しを極めれば駒仙人と言うが、何でも道を究めることが仙人になることにつながるのだろう。









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達人への道

どんなことでも、それを習得したければ、常にそれに触れておかなければならない。
肌身離さずということだ。
イタリアのサッカーの指導者が、「うまくなりたいなら、子供の時から、なるべく長い時間、サッカーボールに触れることが大切だ」と言うのを聞いたことがあるが、それが原則である。
外国語を話せるようになりたければ、その外国語を常に見、聴いていなければならない。

ただ、勉強しようとか、憶えようとかは考えてはならない。
そんなことを考えると、目標そのものではなく、目標を達成すると得られる報酬や栄誉のことを考えてしまうようになるが、それは熟達への障害なのだ。
どんなことも、「無報酬の行い」が、神の助けを受ける唯一の方法なのである。

真の目的とは何かというと、それと一体化することだ。
ヴァイオリンを上手く弾けるようになるということは、ヴァイオリンと1つになるということである。
そのためには、ヴァイオリンがいつも側になければならない。
離れている時間が長ければ、それと1つになることができるはずがない。
化学の真髄を掴みたければ、少なくとも、化学の本を肌身離さずに持っていなければならない。
ある高校生が、修学旅行の時も、プログラミング言語であるC言語の本を持ってきていたが、彼はしばらくしたら、やはりC言語でプログラムをうまく書けるようになっていたのである。
あるサラリーマンは、ジョセフ・マーフィーの『眠りながら成功する』を常に手元においていた。莫大な富を掴むといったことは本人が望まなかったので、そんなものは持たなかったが、贅沢な望みはいつも叶えているのである。

神を知りたければ、聖書やコーランやバガヴァッド・ギーターを肌身離さないことだ。
仏を知りたければ、常に念仏を称えたり、あるいは、経典をやはり常に肌身離さず持っていることだ。
死ぬまでそうすることだ。

宮本武蔵は、1本の木刀を、寝ている時だろうが、風呂に入っている時だろうが、常に肌身離さず持っていたが、それは護身のためもあるだろうが、やはり剣の極意と自然に一体化するためには、そうでなければならないと直観していたのだろうと思う。
アメリカのタイプライターは実に頑丈だった。それを1日中使う者が沢山いたからだ。
現在のパソコンのキーボードも、良いものはやはり頑丈で、少々のことでは壊れない。
壊れるようなキーボードを作るメーカーはすぐに倒産する。それが自然の摂理とでもいうものだ。
全てのタブレット機器がそうかどうかは分からないが、iPhoneは、液晶が割れてヒビが入っていてもちゃんと使える。
タブレット機器も、1日24時間使うことを前提に作っていないメーカーは決して成功しない。
スマートフォンの売上げが不振のメーカーの製品は故障が多かったはずだ。そんなスマートフォンは売れなくて当たり前だ。それによって、優れたことを1日24時間やる者がいるかもしれないからだ。
スマートフォンに限らないが、道具というものは故障してはならないのだ。
自動車も、頑丈で故障しないものが愛される。
バイクの場合は使う者がちゃんとメンテナンスをすることで万全の調子を保てるのだが、そうしなければならない分、自動車より一体化しやすいのだ。

無報酬の行いのために、常に共にある。
それが真の達人への唯一の道である。
さて、あなたは、常に肌身離さないものがあるだろうか?









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達人とは何か?

達人というと、「剣の達人」とか「弓の達人」といった武術における最高位の強者をイメージする場合が多いのではないかと思うが、別に武術に限らず、人間の行う業の究極を極めた者は達人と呼ぶに相応しいと思う。
ただし、プロスポーツや、剣道、柔道といった、大会が行われるスポーツに達人はいないし、いたとしても、達人は、プロ選手になったり、大会に出場したりはしない。
剣術や柔術の達人はいても、剣道や柔道には、一流選手や名選手はいても、達人はいない。
これはどういうことだろか?
プロスポーツでも、達人の香りのようなものをなんとなく感じさせてくれたのが昔のプロレスだったと思う。ただし、あくまで「香り」だ。もし本当に達人がプロレスをやったら、彼の必勝手段は、おそらく凶器攻撃だ。
「それって反則じゃないか?」と言われるかも知れないが、そもそも、プロレスの試合の目的は、相手から3カウントを取ることだ。そのために、凶器を使った攻撃以上に有効な手段はない。
だが、実際に行われる凶器攻撃は、あくまで観客を喜ばせるショーマンシップである。もし、本当に凶器を最大限活用する達人がいれば、たちまち試合に出られなくなるだろう。

武術の達人の戦いは「試合」ではなく、「決闘」である。それは、普通の人が見て楽しいものでも何でもない。
私は、有名な空手家だった大山倍達さんという人は達人だったのだと思う。
別に、大山さんの戦いを見たわけでも、彼に会ったことがあるわけでもないが、彼の本を読んで分かったのだ。
それは、「空手が最強であるのは、目潰しと金的(男性性器)攻撃があるからだ」と明記されていたからだ。
目潰しも金的攻撃も、いかなるスポーツでも禁止であるが、達人が存在する武術では重要な技なのである。
空手とムエタイ(日本ではキックボクシングに近い)が試合をすれば、空手はキックボクシングに勝てないそうである。
昔、ボクシングジムの会長だった野口修さんがタイでムエタイを見て感動し、日本の格闘技ファンに紹介しようと日本での興行を考えたが、日本人が戦ってこそ話題になると考え、大山倍達さんに、お弟子さんの出場を頼んだ。しかし大山さんは「うちにはムエタイと戦える者はいない」と言って断ったという話が『真空飛び膝蹴りの真実―“キックの鬼”沢村忠伝説』という本にある。ただ、これは、あくまで「試合として戦うなら」という意味で、もし、空手本来の目潰しや金的攻撃等をやって良いなら話は別と思う。
金や名誉の絡むスポーツでは達人は決して存在できない。それは確かである。

上に色々述べたが、武術といった、戦いの世界の達人というものは、どうしても血生臭く、おどろおどろしい(不気味で恐ろしい)。
だが、芸術の世界にも達人がいると思う。
しかし、それは人気イラストレーターや、いわゆる売れている画家や演奏家ではないだろうと思う。
ヴァイオリンのバガニーニやピアノのホロヴィッツは達人であったかもしれないが、そうだとしたら、彼らが名誉を受けたのはたまたまだろう。
ところで、我々凡人だって、達人について学ぶことには大きな意味がある。
それは、究極や根源といったものへの道しるべを得ることになるからだ。
私は、音楽家の冨田勲さんは達人であると思う。
彼の音に対するこだわりや独自の感覚は、達人でなければ持ち得ないものだと思うのだ。
彼は、1970年頃、アメリカで電子工学の研究者であるモーグ博士が開発したモーグ・シンセサイザーに触れ、それに無限の可能性を感じると、当時は日本ではいくつかの大企業しか所有していなかったそれを個人で輸入した。1千万円もしたという。だが、シンセサイザーなんて誰も知らない頃だから、税関では、それが楽器だといくら説明しても納得してもらえずに半年も止められ、挙句、その間の保管料まで請求されたらしい。なんとか手に入ったシイセサイザーだが、最初は使い方がさっぱり分からず、ろくな音が出なかったらしい。しかし、苦労をして使い方をマスターし、使い始めてからは、1つ1つの演奏を録音してはそれを重ねるという気の遠くなるような作業を延々繰り返し、最初のシンセサイザーのアルバム『月の光』を制作するのに14ヶ月かかったという。だが、そのアルバムや、さらにそれを2012年に現代技術で改訂したアルバムの両方が、今でも至高の作品としてロングセラーを続けている。
モーグ博士自体が、冨田さんのシンセサイザー音楽を聴き、「こんな使い方があったのか」と驚いたという。
冨田さんが、なぜそういったことをやった、あるいは、やれたのかを少しでも調べると、やはり彼は音楽の達人なのだということがが分かるし、老子や荘子が言った「道」を知るヒントすら与えてくれるように感じるのである。
冨田さんの最新アルバム『イーハトーヴ交響曲』(こちらはオーケストラ演奏である)を聴くと、第5幕『銀河鉄道の夜』で、列車の動きを、従来のように打楽器でなく、弦楽器で演奏したところを聴いても、やはり冨田さんは達人であると思う。その冨田さんが、この交響曲で、ソリストはどうしても初音ミクだと言って、彼女を出演させたのも、やはり、芸術の達人であった宮沢賢治の作品を描くには、どうしても彼女が必要であったからだったのだろう。
尚、上に本を挙げたが、昔、キックボクサーとして一世を風靡した沢村忠さんも達人であったと思う。それは、世間の評判とは何の関係もなくである。彼のあの伝記を読めば、達人というものの姿を感じるのである。









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