ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

道元

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

即座に願いを叶える単純な方法

最近、即座に願いを叶える単純な方法を2つ聞いたが、全く正しいものだった。
このくらい単純でないと駄目だし、このくらい単純なら使える。
そして、願いは必ず叶う。
叶わないとしたら、信念の不足というよりは練習不足だし、それは、「あまりに練習不足」というだけで、本当は少し練習すれば良い。
アメリカの作家ジョシュ・カウフマンは、TED×Tokyoにおける「最初の20時間」という素晴らしい講演で、何事でも、そこそこ出来るようになるのに必要な時間は20時間と言い、20時間でマスターした見事なウクレレの弾き語りを披露した。
楽器演奏、外国語、プログラミング・・・どんなことも、プロになるのは大変だし、まして、プロの中でもトップに立とうと思ったら、どこかの研究者が言ったように「10000時間の法則」が成り立つ。
しかし、「そこそこ」・・・つまり、一流の詐欺師が、本物の医者や弁護士や物理学教授になりすますために必要な練習時間は、やっぱり20時間だ。
そして、あまり大きな声では言えないが、そんな詐欺師は、なりすましとはいえ、どう見ても本物なのである。

さて、願いを叶える単純な方法も、20時間練習すれば、かなり上手くなるだろう。
では、早速、その願いを叶える方法を述べるが、2つある。
1つは、最も成功した女性お笑い芸人の一人、友近さんが母親から教わり、効果の絶大さを確信しておられる「念ずれば叶う」だ。
これは、私も、小さい時から、現実の書き換えに何度も使い、馬鹿馬鹿しいほどの奇跡を起こしてきた。
じゃあ、なんで、子供の時の夢であるプロレスラーになれなかったかというと、それもジョシュ・カウフマンが見事に説明してくれているが、一言で言えば「恐怖」のためだ。
なら、叶って恐怖を感じないことであれば、念じれば何でも叶う。
例えば、ちょっといい条件で就職するとか、新しい車を買うとか。
恐怖さえ感じなければ、可愛い彼女だって君のものだ。

もう1つは、「陰徳を積む」だ。
そう述べている人は多いが、私が特に覚えている1人が、パイロットの坂井優基氏だ。
飛行機が飛んでいる時のトラブルという緊急事態の中で願いが叶うのだから本物だ。
私にとっては、『灼眼のシャナ』の愛すべきヒーロー坂井悠二と名前がそっくりなので、他人とは思えない。
もう一人いて、なんと、鎌倉時代の禅僧、道元だ。彼がぽろっと明かした願いが叶う方法がこれだ。
陰徳とは、隠れて善いことをすることだ。
隠れてと言っても、少々は見つかっても構わない(笑)。たとえば、公園の掃除をするとか、タダでさりげなく仕事を手伝ってあげるとかね。
私の隣の家のおばさんは、私の家の前まで勝手に掃除してくれる(笑)。それでもう、凄い運気を感じるのである。
そうだ。陰徳の威力を明言していた、人類史上最高のヒーローがいるではないか?
それは、イエス・キリストである。施しをする時、芸能人がよくやるようにラッパを鳴らしながら寄付をすれば、既に報いを受けたのだから、それで終わりだが、知られないようにやれば、隠れたことを見ている神が報いてくれる。ただ、坂井優基氏によれば、「陰徳」ならぬ「陽徳」も本当は効果があると言うし、私も同感だ。
特に、1億円寄付といった大きなものだ。
だが、最も簡単で、ちょっとしたことなら簡単に願いが叶うのが陰徳である。

恐れずに求めれば それは未来を変えるRevolution
~『FREEKY TOMORROW』(作詞:Mitchie M・ЯIRE、作曲:Mitchie M。唄:初音ミク)より~









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座れば品格が現れる

人間は何をやっても品格が現れる。
お里は隠せない。

品格が高いとはどういうことだろうか?
それは、放埓(勝手きまま)にならないこと。
自由に制限を加えることだ。
だから、座っている姿に品格が大きく現れる。
勝手きままに座る人、自由に制限を加えずに座る人には品格がない。
つまり、やりたい放題の座り方・・・ふんぞり返り、腰を突き出して背中を丸め、脚を広げ、肘を張るという「勝手きまま」で「自由に」座っている姿は、ゾっとするほど気品がない。
お里が--お里はイコール親なのだが--現れてしまうのである。

法然は、ただ念仏を称えよと教えたが、道元は、ただ座れと教えた。
仏陀らしく座れば、自分の魂の中に仏陀の魂が流れ込んで来るからだ。
しかし、座禅は、細かいしきたりにうるさく、本来の意味を失くしている。
本来、しきたりなんて不要だ。
ただ、きちんと座れば良いだけのことだ。
勝手きままでなく、自由に制限を加え、きちんと座れば・・・いや、簡単なことで、背筋を伸ばし、慎み深く座ればそれで良いのである。
岡田虎二郎という人は、座禅はもう駄目だと思って、当時の日本人に馴染みのある正座のスタイルで座ることを教えたが、その岡田式静坐法まで、細かいしきりたりを口うるさく言う人が必ずいるものだ。
それで、長い伝統のない岡田式静坐法は廃れてしまった。

普通に座れば良いのである。
ただ、普通にきちんと座れば。

だが、お里が悪い人・・・親のしつけがなっていない人は、きちんと座れない。
品格がないのだから仕方がない。
そんな人は、念仏を称えれば良い。
品格ある仏陀のような座り方をすることで、仏陀の魂が自分の魂の中に流れ込み、自分の魂が仏陀の魂の中に流れ込むのだが、念仏を称えて、自分を超えた存在である阿弥陀如来に意識を向ければ、やはりそうなる。
ここで、仏陀と如来(阿弥陀如来)を分けたが、本来は同じである。

流れ込んで来た、仏陀の魂、如来の魂を神は敬う。
そして、仏陀の、如来の魂の中に流れ込んだ人の魂を、仏陀や如来は慈しむのである。

一刻も早く、如来の輝きを持ち、世の苦しみを逃れたいなら、きちんと座りながら念仏を称えれば良いが、いずれか・・・法然流か道元流を選ぶことも出来る。
圧倒的に法然流が簡単である。









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意識革命の起こし方

窮屈な世間の枠を超えて、自由自在に生きるためには、意識革命が必要だ。
ある優れた西洋魔法では、魔法の定義とは、「思うままに意識の変革を起こすこと」なのである。
魔法とは、古い意識の破壊と新しい意識の誕生・・・意識の生まれ変わり、意識の再誕なのである。

1つの国の、さらに、特定の地域や階層の間でのみ通用するような、陳腐な固定観念にしがみついたままで、気高く、勇壮で、輝ける・・・そんな人間の本性を発揮できるはずがない。
では、意識革命を起こすには、どうすれば良いのだろう。
『老子』を読めば良いのだろうか?
その通りかもしれないが、読み方によるのだ。
従来の世間的な思考の枠組みを持って老子を読むことほど、馬鹿げたことはない。
老子は、世間の中の何にも似ていないのだからだ。
世間のありふれた思考を基に老子を理解しようとするのは、子供の三輪車を押し止めるような気で、新幹線を止めようとするようなものだ。
孔子ですら、老子に対し、単に大きな魚や鳥を捕獲しようとする漁師や猟師のような心構えで挑んだところ、老子は竜であることを知って愕然としたのだ。

著名な物理学者のリチャード.P.ファインマン博士は、量子力学の入門者に、「量子力学は君達が知っているどんなものにも全く似ていない。従来の知識を頼りに、量子力学が理解出来るなどとは決して思ってはならない」と言って、ニュートン力学の知識で量子力学を考えるようなことをしてはならないと、強く釘を刺した。
老子に対して持つべき心構えも、これに似ている。

時々、「老子は、原文の読み下し文を読めば分かる」と言う人がいるが、私は全く賛成しない。
量子力学がいかに未知のものだとはいえ、基礎的用語や、数式の意味が分からなくては、理解が進むはずがないのと同じだ。
老子も、言葉自体は、正確に理解しなくてはならない。そのためには、学者の研究成果を利用すべきである。
ただし、中身に対する学者等個人の見解は、決して信用してはならない。参考にしてはならないとまでは言わないが、あまりにも的外れで、参考どころか害になるものも多いかもしれない。
だから、言葉の意味としては、出来るだけ正確かつ自然な文章として現代語訳したものを読むべきであるが、その時、自分が持っている固定観念から「これは、こういう意味に違いない」「ここは、こういう意味かもしれない」と考えてはならないのだ。
ただ、無心に淡々と読むべきである。
分からなくても、根気強く何度も読み返せば、そのうち、自然に分かってくる。
どれくらい早く分かるかは、無心さと真摯さによる。
個人的な考え方から脱しない限り、分かるのに何十年もかかるかもしれない。
もとより、真摯さに欠ければ、全く理解できない。

数学者の岡潔は、道元の『正法眼蔵』を、意味が全く分からないまま、座右の書として読み続け、20年ほど経った時、一瞬で全てが理解出来たという。
もっとも、意味が分からないのに座右の書と決めた時点で、岡潔には、何らかの意識革命があったのだし、その20年の間にも、自覚がないままに変化が起こっていたのである。
そして、最後に、特大のブレークスルーが訪れたのだ。
『正法眼蔵』は、僧侶のトレーニング用に、道元が、わざと難解に書いたという説もあるが、それが本当かもしれないと思う。
一方、『老子』は、難しく書こうなんて気はサラサラなく、極めて単純明快に書かれたものだ。
だから、真摯に読めば、案外にすぐに分かるのである。









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座り方は恐ろしく重要である

人間の中身は外側に完全に現れるので、特に霊能力なんてなくても、人間のレベルなんて、ほとんど一目で分かる。
そして、それ(人間のレベル)が最も分かり易いのは、座った姿ではないかと思う。
特に、好きなように座れる大き目の椅子に座れば、誰もが、自分の値打ちを完全に晒してしまうのである。

駅に大きめのベンチがあったり、電車の中でも空いていて好きなように座れる場合、そこに座る人々を見ると、よくもまあ、これほど、だらしない、みっともない、下劣(下品で卑しい)な、横柄(いばった、無遠慮な様)な座り方が出来るものだと呆れることが多い。
ところで、空いていない電車や待合室の座席等、他の人と一緒に座らないといけない時にも、そのような酷い座り方をする者は、実は、人間ではないのである。これは冗談ではない。一応、人間の肉体を持ってはいるが、魂は下等哺乳類や爬虫類なのである。この場合は、人間のレベルという話にも該当しない。人間でないのだから。あなたは、そんな人達に対しては、慈悲を持って、トカゲやモグラとして扱ってやらねばならない。少なくとも、彼らが人間であると思って、不快になってはならない。念を押すが、彼らは人間ではないのだ。

オフィスの中でも、時たまでも、立派な人間なら冗談にでも出来ないような馬鹿げた座り方をする者がいれば、その者に見込みがないのは勿論だが、そんな人間を採用する会社自体、もう先がない。今は立派な会社の名残があるとしても、急降下中か、墜落寸前である。
確かに、歩きタバコをする社員のいる会社は、遠くなく潰れるが、潰れる会社は、社員の座り方を見ても分かるのである。

別に、レベルの低い人間を嘲ったり、見下そうというのではない。
逆に、優れた人間も、座っている姿を一目見れば分かるのである。
そして、ここが肝心なのであるが、優れた人間の座り方をすれば、優れた人間になるのである。
能力が高い人間、心が豊かな人間、逞しい不屈の心を持つ人間・・・そんな人間に相応しい座り方をすれば、自分もそうなるのである。
女神のように崇められる美しい女性の座り方をすれば、確実に、そのような女性になるのである。
年収5千万円の人間の座り方をすれば、すなわち、年収5千万円なのである。
我々も、惚れ惚れするような座り方をしなければならない。

道元の座禅や、岡田虎二郎の静坐は、悟りを開いた者の座り方、天地自然が守護する人間の座り方で、毎日、少しの時間でも、そんな座り方に馴染んでいき、本性をそのような人間に近付ける行法なのである。
ただ、やっている本人は座禅の座り方のつもりでも、中身が駄目なら正しい座り方はできないので、ちゃんとした指導の下でやる必要がある。
だが、それよりも、普段の生活の中で、もっと自然な修行をする方が良いのである。
まず、我々は、誰も見ていない家の中でも、自分が崇めるあの人なら、こんな座り方をするだろうと思う座り方をしたり、天使が座っている姿を想像して、その様に座ることである。
そして、外でも、オフィスでも、立派な人間に相応しい座り方をし、魂を磨くのである。
また、あなたが立派な座り方をすれば(立ち方、歩き方もだが)、それを見た人の無意識が感応し、あなたに従わざるをえないのである。

いつでもどこでも、今この時にも、立派な座り方、あるいは、立ち方、歩き方の修行をすることだ。
たったこれだけのことが、あなたの運命を大きく左右するのである。









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自分らしくあるとは

自分らしくあろうと色々考え、良かれと思うことをあれこれやってみる。
結果、どんどん自分らしくなくなる。
当然のことだ。

テレビCMで、「私らしくあるために」、これを着よう、これを持とう、この香水このアクセサリを身に付けようとかいうのがよくある。
保証してよろしいが、それにより、全く私らしくなくなるのだ。

自分らしくあるとは、何事も自然に、水が高いところから低いところに流れるように、当たり前にやることだ。
自分らしくあろうとすると、自分を見失う。
自分を忘れた時、自分らしくなるのだ。

私らしくあるためには、気品ある高級セダンに乗らなくてはならないと考えるとする。
しかし、私は、自動車よりずっと値打ちのあるものではなかったのか?
たかが車で、私らしさが左右されるなんて、私はそんなに安いものなのか?

「自分を見失う」とはどういう意味だろう?
それは、外の世界(物質世界)にばかり関心を持ち、内なる自己に意識が向いていない状態のことだ。
自分らしくあろうとすると、自分は、外の世界にある物質の1つだと思うことになる。
しかし、私とは、外の世界の創造者、所有者、支配者だ。
では、私らしくあろうとするほど、私から離れていくのは当たり前のことなのだ。

道元が「仏道とは自己を忘れることじゃ」とか言ったらしい。
しかし、これはプロ向きの言葉だ。
普通に言えば、「正しい生き方とは、当たり前であることだ」である。
当たり前である、当たり前にやるとは、平凡であることとは全く違い、むしろ、逆である。
なぜなら、誰も当たり前でいないし、当たり前にやれない。
不自然でいるし、不自然にやる。
イチローのバッティングは何が良いかというと、自然なバッティングだからだ。
だから非凡なのだ。
剣の達人の動きは全く自然で無理がない。
塩田剛三という合気道の達人は、金魚の動きを何年間も観察したらしい。
なぜそんなことをしたかと言うと、金魚は自然にしか動けないからだ。
不自然なことをさせる自我が、金魚にはないのだ。
ペットがなぜ安らぎを与えてくれるかというと、可愛いというよりは自然だからだ。
不自然なペットがいるとすれば、飼い主が不自然な感覚を持っているのだ。

自然の何かをじーっと観察していれば、自然さが分かるし、自分も自然に返る。
そうなれば、天下無敵だ。
身近な自然は自分であり、自然に呼吸をして、それをじーっと観察すれば良い。
ただし、自然に呼吸しようとすれば、不自然な呼吸をするようになる。
自我が関わると、全て不自然になる。
ということは、全てを台無しに、全てを奪っていた犯人は自我であることが分かる。
自我は怪獣なのだから、ビームで倒すしかない。
我々が持つビームとは意識であり、ビームを放つとは、観察することだ。
自我の現れである心の動きをひたすら観察すれば、自我は滅んでしまう。
金魚やロウソクの炎を見て、自然に見えないということは、透明な意識で見ておらず、自我で見ているのだ。
あるがままに見るということは、既に自我はなく、透明な意識で見ている。
その時、全てが自然に見える。
尚、自我の嫌うことは短調な繰り返しだ。
短調な繰り返しを自然に(つまり淡々と)やれば、自我はすぐに降伏して、後方に退く。
例えば、腕振り運動を、何の気負いもなく、淡々と繰り返せば、あっさり自我は消え去るのだ。
嫌々必死でやるとか、欲望を持って気負ってやれば、何にもならない。
腕振り運動は最高の修行でもあるのだ。
気負わず、淡々とやる・・・それには、丁寧に落ち着いてやることだ。
万能の鍵はそれだけのことなのだ。









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