宝物というのは、身近にあるらしい。
だが、ほとんどの人間は、身近にある宝物に気付かないまま、どこかに行ったり、死んでしまったりするものなのだ。
「そんなもの、私にあるわけないよ」
と言う人も多いと思うが、宝物に恵まれていない人はいないらしい。

よく言われる話には、こんなものがある。
昔、ある人が、自分が持っている農場を、当時の金で50万円で売って、ダイヤモンドの採掘に行ったが、全く成果を出せず、野垂れ死にしたが、その人が売った農場から、合わせて10憶円相当のダイヤモンドが発見されたという。
だからと言って、自分の家の中に、何か宝物になりそうなものを探したって出て来はしない。
その宝物は思いもかけないものである場合が多く、ふと無意識になって、ぽかーんとした時に、不意に見つかるのだ。
毎日引きこもってゲームをしていても、ゲームそのものから宝物が出てくることは、まあない。
しかし、ゲームに熱中して無我になった時、不意に何かを思いつき、それが大きな富をもたらすことがある。

ホームレスの男が、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱えていたら、2週間ほど経つと、いよいよ無我になったのだろう。
彼の頭の中に数字が浮かび、たまたま宝くじ売り場があったので買ったら1憶円当たった。
これは実話であるし、彼はその後、同じようにして、再度、1憶円を当てた。

受検勉強でも、勉強そのものに熱中していたら、宝物の方からやってくることがある。
しかし、大学に受かった時のメリットを考えながら欲望の勉強をしている間は、そうはならない。
他人もやっていることか、自分だけがやっていることかは、あまり関係がないようである。
熱心に淡々と繰り返していれば、やがて無心になる可能性が高い。
その時、高次の存在に気に入られるというか、波長が合えば、お宝の在り処を教えてもらえる。
エドガー・ケイシーは、9歳の時から、毎朝欠かさず聖書を読んでいた。
それを14歳まで続けた時、最初のお宝を得たが、その後も、一生、聖書を読み、何度も無我になったので、その都度、何かを得たのだ。
そこまででなくても、毎日、仏壇に水などを供え、線香を上げる人なら、皆、何らかの宝物は得ているものである。
祝詞を上げたり、念仏や真言を毎日唱えている人もそうである。
そうすれば、宝物はどこにでもあることが分かるのである。