ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

足立幸子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

今の流れの中での目標は楽に叶う

昔、何かのテレビCMで、小学生の子供達が将来の夢を語っていた。
「人々を感動させる歌手になる」とか言う女の子がいたし、プロスポーツ選手になるというのもあったかもしれないが、アホらしくて覚えていない(笑)。
それらは、子供の夢としては良いのだろうが、あたかも、それが本当の目標のように語らせていたところが、見てて嫌だった。
まあ、あんなことを言う子供も沢山いるのかもしれないが、子供達にそんな妄想を持たせたのはテレビの害悪だろう。
それで、大人になっても、子供の夢を卒業出来ない人が増えている。
「自分は今、こんなつまらない仕事をしているが、いつかは天下のために大きな仕事をする」と言う者が、どこにでもいるものである。
それは愚か者だ(笑)。

徳川家康に、天下取りのために大切なことを尋ねた人がいたらしい。
問われた家康は、「短い方と長い方、どっちが良いか?」と聞くので、質問者は、「両方、お願いします」と請うたそうだ。
すると、家康は、「短い方は『上を見るな』、長い方は『身の程を知れ』だ」と答えた。
これが実話かどうかは分からないが、確かに家康は、身の程を知らず上を見たために大失敗をしたことがあり、その失敗から戒めを得たから天下を取れたことは間違いないので、作り話だと軽んじることは出来ない。
しかも、伝説によれば、そう家康が教えた相手は、お小姓の少年であったということなので、最初に述べたような身の程を知らないガキを戒める言葉でもあると言える。

人間には、宿命というものがあり、出来ることと出来ないことはあるのだと思う。
だから、家康にとっての天下取りは日本の平定であったが、別の人の天下取りは、例えば画家で食べていくことかもしれない。
しかし、今の流れの中での目標は明確であるべきだ。
例えば、有名なUFO研究家の矢追純一氏のこんな話が良いと思う。
矢追氏は、高校には在学したが、家庭の事情で、全く通わなかったらしい。制服すら持ってなかったという。
その彼が、高校卒業が近付いて来た時、進路は進学と決め、進学先は、東大法学部か中央大法学部と自分で決めた。いずれも難関である(中央大法学部は法学部の名門)。
しかし、矢追氏は、高校に通っていないし、勉強も全然していなかった。
だが、矢追氏のその目標は、押し付けられたものでも、見栄で決めたことでもない。
心に明確に浮かんだものなのだろう。
そこで、矢追氏は、受験の過去問みたいな本を買って、ごく短期間だが、頭に詰め込み、東大は駄目だったが中央大は受かった。
だが、矢追氏は、受験の結果など全く気にせず、受験後は旅行に行ってしまい、帰って来た時、届いていた合格通知書を見て、初めて合格を知ったという。
「受かって当然」と思っていたからだった。
このように、矢追氏は、目標を決めたら、後はぼーっとするらしい。
同じようなことを、足立幸子氏もベストセラーの『あるがままに生きる』に書かれている。
目標を強く思ったら、後は、ぼーっとするのだそうだ。

私も昔、いくつかの難しい試験に合格しないと取れない上級のIT資格を取る時、「受かってやるぞ」と思って受験していた時は、全然受からなかった。
しかし、「取れて当然」と思い、もうどうでもいいと思うようになったら、今度は全然落ちなくなり、あれよあれよという間に資格が取れてしまった。
おかげで会社からは報奨金をたっぷりもらい、大手IT企業を訴えた裁判の時に、いろんな意味で役に立った。勝ち目は薄い裁判で、逆に訴え返されたが(反訴)、結果は、それなりの賠償金をもらって和解するという、一番好ましい結果になった。
この時も私は「勝って当然」と思い、全然心配していなかったのだ。

矢追純一氏は、育った厳しい環境の中で精神を磨いていたので、そんなことも出来たのだと思うが、私の場合はそうではない。
私の場合、何らかの真言や呪文を唱え、「これを唱えているから絶対大丈夫だ」と思うことにすれば、後は、それを唱えれば唱えるほど、うまくいって当然という気になる。
真言は、例えば、観自在菩薩真言の「オン、アロリキャ、ソワカ」などである。
自分の干支の守本尊の真言を唱えるのも良いと思う。
不遜かもしれないが、正直、「アジマリカン」でも「トホカミエミタメ」でも何でも同じだと私は思う。
良ければ、やってみていただくと良いと思う。








強く思ってぼーっとする

書籍『強くなる暝想法』(1982)は、1939年生まれで、2012年に亡くなられた、成功哲学や引き寄せ分野で有名なお坊さんであった、無能唱元(むのうしょうげん)氏の引き寄せの本で、本のカバーに、糸川英夫博士の推薦の言葉が書かれている。
糸川博士と言えば、小惑星探査機はやぶさが着陸した小惑星イトカワの名前は糸川博士の名をつけられたのだが、この小惑星はアメリカのMITの研究チームが発見したものながら、日本より海外で高く評価されている糸川博士に敬意を表して、その名を冠したようである。
また、世界的音楽家の冨田勲氏の遺作となった、初音ミクさんがバレエをしながら歌う交響曲『ドクター・コッぺリウス』のコッぺリウス博士のモデルは糸川博士である。

ちょっと長々と説明してしまったが、このような重みある引き寄せの本である『強くなる瞑想法』だが、私は中身をほとんど覚えておらず、ただ、本のカバーに書かれていた大作詞家、阿久悠(あくゆう。1937~2007)氏の短いコメントで語られてしまった引き寄せ法の方を憶えている。
やり方はこうだ。
「息を吸って止め、自分の曲がヒットしている様子をイメージし、息を吐いて忘れる」
これは「瞑想」であると書かれているが、阿久氏は、瞑想せずに作った曲がヒットしたことはないと言う。
簡単なようで、難しい・・・というか、やり方がよく分らない瞑想だ。
まず、「曲がヒットしている様子」のイメージが曖昧だ。
人気歌手がステージで歌い、観客が熱狂している様子であるとか、ヒットチャートが掲載された雑誌のランキング1位に自分の曲が記載されているとかが考えられるが、阿久氏が実際にどうやったのかは分からない。
しかし、自分でこの瞑想を実行する場合は、各自、自分の成功シーンを考えれば良いことである。
ただ、やはりそこで、「あまりうまくない」様子をイメージする人も多いと思う。
合気道家の佐々木の将人(まさんど)氏は、金が欲しければ札束をイメージすれば良いと、昔、本に書かれていたが、今、札束をイメージ出来る人は少ないかもしれない。
私は一度、一億円の現金を見たことがあるが(23kgあるらしい)、珍しいので、もう忘れた(笑)。
佐々木氏は、数字ではイメージが難しいので、札束が良いと書かれていたのだと思う。
とはいえ、今の若い人は、数字の方がイメージし易いかもしれない。
そこで、銀行預金残高をイメージすれば良いかもしれない。
そして、阿久氏のやり方で、もっと難しいのは、イメージした後、「忘れる」ことである。
これに関しては、足立幸子氏の『あるがままに生きる』に「強く意識し、その後、ぼーっとする」と書かれていたのが、それに該当する、もっと易しいやり方だと思う。
例えば、足立氏は画家なので、絵を描く際には、
「今からこの大きさの紙に、こういうテーマの絵を描く」
と瞬間強烈に思って、少しぼーっとすると言う。
ただ、これも、本の中で、いろんな表現をされている。
まあ、これは、あくまで足立氏のやり方ということで参考にすれば良いのだろう。
しかし、このブログのコメントでもいただくことがあるが、世の中には、1つの方法だけを提示され、そのやり方をこと細かく指示されないと怒る人もいる(笑)。
おそらく、絶対、成功しない人であるが、今の人は、大なり小なり、そんなところがあり、それが極端な人がいるということだろう。
それも、学校やテレビの弊害と思われる。

新車が欲しければ、新車を運転している様子を強くイメージし、その後、ぼーっとすれば良いのかもしれない。
ただ、新車と言えば、特に海外の成功法則では、ベンツやポルシェといった高級車をイメージしなければならないような言い方をしているものが多いが、普通は、あまり欲張らない方が良いと思う。
しかし、身の丈に合った新車を買うくらいのお金はあっても、使う気にならない人が多いのであるからややこしいのだが(笑)。
そこで、いろいろ練習してみると良いと思う。
少なくとも、百回や二百回は練習した方が良いが、そうやって練習すれば、自分に合ったやり方のコツが掴めると思う。
空手のキックやピアノ演奏でも、何百何千と練習して、やっとうまくなるのと同じである。

で、強く意識したり、イメージしたり、思ったりした後、ぼーっとすれば良いのであるが、うまくぼーっとするのは、昨日も書いた通り、薄目をすれば良いのである。
例えば、お金がなければ、「銀行預金残高が1千万円を超えた」と強く思い、その後、薄目になってぼーっとするのである(笑)。
ただ、幼稚な人の中には、副次的にしか過ぎないことを目標にする人が多いように思う。
例えば、「美味しいステーキを食べている」とか「可愛いあの子とエッチなことをしている」とか「イケメンの彼氏がいて、何でも言うことをきいてくれる」といったようなものだ。
こんな人は、まず、社会で修行して自己確立しなければならないのだろう。
そうすれば、もっとまともな目標を持てるようになる。
もちろん、謙虚に、「そうか、ちゃんとした目標を持てばいいのか」と思うなら大丈夫だが、幼稚な人間は、「これのどこが悪いのか」とか言い出すから始末が悪い(笑)。そんな者は、ちゃんといした目標を持つことが出来ないのだ。
所詮、人間は、ある程度の円熟みたいなものは必要である。
そのようなものを得るために、学生が、スポーツ会系などでの、多少理不尽な経験をすることなども、案外に良いものであると思う。








やっぱり楽なことしか続かない

成功するためには、良い習慣を持つことが大切なことは誰でも分かると思う。
それで、『7つの習慣』という世界的ベストセラーがあるが、7つは多過ぎるし、しかも、その1つ1つが、難しいというか面白くない。
世の中には、「30の習慣」だの「100の習慣」だのといったものがあるが、私には、その数だけで「正気か?」としか思えないし、見るまでもなく、徹底的に面白くない苦痛なことしか書いていないはずだ。

良い習慣を持ちたいなら、必ず考えないといけないことは、それが、
・自分にとって、一番楽なこと
だ。
「好きなこと」と言いたい人も多いだろうが、よく考えたら、好きなことは習慣にするどころか、むしろ、やめないといけないことの方が多い。
例えば、酒やお菓子やタバコやゲームやエロ本というふうに、好きなことは、習慣にするまでもなく、自主的にやってしまうが、制限しなければならない。
良いことであっても、楽でないと続かないし、続かないようなやりたくないことなら、やらない方が良い。
「鉄の意思で頑張る」って言ったところで、そんなやり方だと、多少長くやれても、1年も持たないだろうが(しかも無理をするので心が病む)、成功する習慣なんて、10年20年続けないと意味がない。
ただ、20年30年続くことなら、案外、最初の1ヵ月で何らかの成果が出ることが多い。

私は時々、腕振り運動を勧めるが、勧めた相手が、
「毎日50回やってます。今は100回は無理ですので」
といったことを言う人がいるが、100回も出来ないなら、やらない方が良い。
老人でもないのに、あんな楽な運動を100回出来ないなら、楽ではなく苦痛なのだろう。
ところで、楽かどうかは、考え方次第のところもある。
例えば、子供に、毎日ほうれん草を食べさせることは難しいが、ポパイが人気があった時のアメリカでは簡単だった。
ただし、必要以上に食べさせようとしたり、「ついでに」とピーマンやニンジンを食べさせようとして失敗する馬鹿な親も多かった。
ポパイがあったところで、楽に食べられるような工夫は必要だし、どうしてもほうれん草を楽に食べられないなら、食べなくて良い。
制限すべき、ケーキやアイスばっかり食べさせなければ、何を食べようが問題ない。

『ザ・シークレット』という引き寄せの本を読んでも成功する人が全くいないのは、あれに書かれたことをやるのは楽ではないからだ。
なぜ楽ではないかというと、不自然で無理があるからだ。
「住む家、着る服、見える目がある・・・など、何でもいいから感謝して下さい」
なんて書かれているが、そんな楽でないこと、続くはずがない。

「南無阿弥陀仏」という念仏を唱えることは良いことであるが、やはり、楽でなく、気力が必要なら、やらない方が良い。
ただ、自分の業といったものを深く感じている人間にとっては、これでチャラになるなら楽なので続くのである。
私の叔父のお葬式で、お坊様が、自分に合わせて念仏を唱えるよう指示したが、延々と唱えさせられて、私はすっかり念仏が嫌いになった。楽でなく苦痛だったからだ。
そんなことをさせるお坊様は多いと思う。
ただし、楽な唱え方を見つければ、毎日唱えることが出来る。
念仏は、1回唱えて、それを心に保つなら、1回でも良い。
逆に、100回唱えて、「やっと終わった」と思うなら、やめた方が良い。

さて、成功法則とか、引き寄せであるが。これらの本に書いてあることは、世界的ベストセラーだろうが、一瞬、人気があるだけですぐに消えるものだろうが、どうせ、どれも続かない。
ところが、少し前からやたら売れている保江邦夫氏は著書に、せっかく「ぼーっとすれば良い」と楽で良いことを書いてくれていたのに、余計なことを沢山書くので、良いことが伝わっていないように思う。
足立幸子氏も、やっぱり、ぼーっとしたら思う通りになると言われていて(彼女の本は講演の書き起こし)、あまり余計なことは言っていないが、本1冊にすると、さすがに無駄な情報が満載だ。
参考程度に言えば、大野靖志氏の本で言えば、「とほかみえみため」と唱えるのは、普通の人にはあまり楽でないと思うが、彼の本についているCDを流すだけなら(スマホに入れて無音で流しても良いらしい)、楽なので、私でも出来た。尚、私の場合、安眠効果しか確認出来ないが、1か月以上、1日の例外もなく、安眠出来るのだから大したものだと思う。
ちなみに私は、普段は、耳鳴りを聴くことをやっている。それで自我が弱まるからだ。
各自、工夫されると良いと思うが、楽なことをやることをお勧めする。








「私は誰か」と問う正しい方法

「私は誰か」と問い続けることで、解脱することが出来るという。
解脱とは、悟りであり、真我の実現であるが、真我は神であるので、最も簡単な言い方をするなら、解脱とは、神になることである。
そして、そのためには、「私は誰か」と問えば良いという。

ところが、『The Collected Works of Sri Ramana Maharshi』(2002)に、こう書かれているようだ。
これは、「私は誰か」という問いを提示した本人である、ラマナ・マハルシの言葉を集めた本である。

「私は誰か」
を呪文にしてはならない。
ただ一度だけ質問すればいい。
それから、自我の源を見いだすように集中することで想いが起こるのを防ぎなさい。
~『静寂の瞬間(とき)』より~

これが、正しい「私は誰か」と問う方法であると理解出来る。
だが、無知な人は、心の中で、呪文のように、「私は誰か」という言葉を発し続けるのだ。
それでは、成果はないだろう。

だが、「自我の源を見いだすように集中する」には、どうすれば良いのだろう?
自我とは心のことであると言って良い。
では、心はどこにあるのだろう?
それは明らかである。
例えば、美しい少女が、心の在り処を示唆する時、どんなポーズをするだろう?
それは、両手を重ねて、胸の中央、鎖骨のやや下あたりを押さえる姿に決まっている。
※具体例としては、合法なYouTube映像がないのだが、「マジカルミライ2018」の『リバースユニバース』(ナユタン星人feat.初音ミク)で、初音ミクさんの「胸熱くなった時から」の時のポーズである。

つまり、自我の源は、胸のそのあたりにある。
これは、ラマナ・マハルシ自身も、経験的に、「ハート(魂)の座は、胸の中央から指2本分右にある」と語っている。
私もその通りだと思うが、普通の感覚としては、胸の中央で良いと思う(指2本分は、ほんのわずかだ)。
つまり、一度の瞑想としては、心で「私は誰か」と問うと同時に、胸のそのあたりに意識を置き、そのままでいる(胸に意識を置き続ける)と良いだろう。
その時、両手、あるいは、片手を、胸のそのあたりに当てるとやり易いと思う。
足立幸子氏も、『あるがままに生きる』の中で、「ぼーっとして、胸のあたりに意識を持っていく」ことについて述べていたと思う。

私は、長い間「私は誰か」と問う正しい方法が分からなかったが、これで間違いないと思う。
これは決して、願望達成法や成功術ではないのだが、この瞑想を続ければ、あなたの世界は良い方向に動き出すだろう。








やらずに経験する

システムエンジニアというのは、中学生や高校生にとって、憧れの仕事の1つらしい。
サッカー選手とか、YouTuberといった、非現実的(希望者の1%も食べていけないという意味で)な職業を除けば、男子の中ではトップかもしれない。
では、システムエンジニアは誰でもなれるかというと、ちょっと微妙だ。
ここでは、企業の業務システムを開発するシステムエンジニアに限定するが、実際は、他の分野でも、そうは変わらないと思う。
また、私自身は、システムエンジニアとプログラマーを区別しないのだが、ここでは、「システムエンジニア」は、何を作るかを決めて、それを作ること(確認まで含め)が出来る人としよう。
だが、システムエンジニアの仕事とは・・・なんて話をするつもりはない。
ズバリ、システムエンジニアに絶対になれない者について言おう。

私は、若いプログラマーに、1つの開発案件について話していた。
私は彼に、現状では、業務がコンピューター向きでないので、開発不可能だと言った。
すると彼は、「出来ますよ!」と言う。
こんな者は、絶対にシステムエンジニアになれない。
早い話が馬鹿だからだ。
いや、おそらく、このような人間には、言われた通りにやる作業員以外の仕事は無理だし、作業員でも優秀にはなれない。
経験を積ませれば良いという声もあるかもしれないが、それも無理だ。

自分は、何でも知っている訳でも、何でも出来る訳でもないことを、本当には知らない者には見込みはないのである。(短く言えば、「自分は全能であるという幻想を持っていれば見込みはない」)
これに関しては、
『教養としてのテクノロジー AI、仮想通貨、ブロックチェーン (伊藤穣一著。NHK出版新書) 』
の「第5章「教育」はどう変わるか?」の中で、こう書かれているのと同じ意味だ。
引用すると、

子どもは年齢や、性別や、国籍などの多様な違いを持つコミュニティに所属すると、自分がすべてを知っているわけではないことに気づきます。

とあり、まさに、日本の学校では決して出来ないことである。そして、子供は、自分は万能なのだと思い勝ちであり、それが修正されないと、大人になっても、そう思い続ける。
だから、大なり小なり、彼のような大人は極めて多く、もう救えないのだ。

昔、Aという人間の脳をBという人間の脳に追加移植すれば、BはAの記憶や経験を持つという話がSFであったが、そんなことが本当に出来ない限り、自分でいろいろ経験するしかない。

一方で、こんなこともある。
ある優秀なシステエンジニアが、いろんなお客さんに、経理業務や税関業務や水質管理といった仕事の経験があるかと聞かれるが、そんな時は迷わず「はい、あります」と答えると言う。
お客さんの中には、自分の仕事は複雑なので、その仕事の経験がないとシステム構築は無理と思っている人は確かに多い。
そのシステムエンジニアは、1つか2つの実務は経験しているらしいが、そんなに何でも経験している訳ではもちろんない。
しかし、経験を積めば、自分が知らない業務でも当然、システム化出来るし、実際している。
ところが、特化した業務のシステム化しか出来ないシステムエンジニアもいるのである。
これは、単に、優秀かそうでないかの違いかというと、ちょっと不明なのである。

こんなことがあった。
私が、それほど経験がない時、全く知らない業務のシステムを作ることになったが、私は、本当に分からないので、とっかかりを掴むため、素早くプロトタイプのシステムを作り上げ、ユーザーに使わせた。
すると、少しの修正はあったが、それが、そのまま納品になった。
当時は、「やっぱり俺って優秀」と、ちょっとだけ思ったが(笑)、「何でこれ(プロトタイプのシステム)でいいのだ?」という思いの方が強かったので、幸い、そんな馬鹿な考えは捨てられた。
そして、どうも、ユングの言う、集合無意識の世界に入り込み、他の人の知識や経験を共有したのではないかと、少し思う。
これについては、足立幸子さんの『あるがままに生きる』とか、保江邦夫さんの『神様の覗き穴』を読むと、そんなことも出来そうに思う。
まあ、そんなに簡単ではないだろうが、そんなことが出来れば、自分ではやらずに経験を得られるという凄いことになる。
何でもかでもそれは面白くないので(他人が美女と付き合った経験など共有しても仕方がない)、もっと別のことはしないといけないだろうが、引きこもりの社会参加のきっかけや、自分のパワーアップに活用出来るかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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