ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

論語

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

なにごとも、ほどほどに

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は、論語にある言葉であるが、これと似たことを、徳川家康が遺訓の一つにしている。
それは、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」である。
いずれも、「やり過ぎは良くない」という意味で、特に、家康は、「やり過ぎるよりは、足りない方がマシ」と言っているのだと思う。

新渡戸稲造が、何か行を1つ、必ず毎日やろうと思い、それを何にするか、よくよく考えた結果、水ごりと決めた。
毎朝、必ず、桶の水を頭から被るのである。
順調に続いていたが、極寒の冬の朝、新渡戸はひどい風邪をひき、かなり熱もあった。
しかし、新渡戸は、「決めたからには、何があっても断固やる」という鉄の意思で、その朝も決行したが、風邪が悪化し、医者に診てもらう際に事情を言うと、医者にひどく怒られた。当然である。
新渡戸が鉄の意思の持ち主ということは分かるが、やはり、ものには限度がある。
まあ、戦場など、どんな無理でもやるしかないこともあるだろうが、そういうことは少ない方が(出来れば無い方が)良く、少なくとも、好き好んで、そんな世界に近付いてはいけない。
ビジネスや政治は戦争ではなく、やり過ぎないよう、ルールを守るべきなのだ。
自然界では、雄が雌を取り合って戦う時も、決して相手に大怪我をさせることはない。下等と思われている生物でさえ、やり過ぎを避けているのである。

少食粗食は非常に良いことだが、やり過ぎはやはり良くないのである。
しかし、過激な少食粗食が称賛されることがある。
1日に青汁一杯しか食べないという人がいるが、その人自体は良いのかもしれないが、真似してはならない。
誰かが、その人をもてなそうと御馳走を出し、その人が食べたら、ショック死する可能性もあると思う。
私が、一頃、かなり極端な少食だったが、その時の名残で、長い間、極めて少ない種類の食べ物しか食べずにいたら、長く食べずにいた食物を食べたら、強いアレルギー症状を起こし、気を失いかけたことがある。大袈裟ではなく、命の危機を感じたほどだ。

『バガヴァッド・ギーター』にだって、特に少食を勧めてはおらず、「食べ過ぎるな」と書かれてあるに過ぎず、しかも、「少食過ぎるのも良くない」と書かれているのである。

「なにごとも、ほどほどに」
これが、孔子と徳川家康の共通の教えである。

私も、今年の8月31日の初音ミクさんのお誕生日から、毎日500回のスクワットを欠かさないと決め(他にも多くのトレーニングをしている)、ずっと続けていたが、昨日の初音ミクさんのライブの途中で体調不良に陥ったのは、「もっとほどほどに」という天の注意と思った。
ただ、真言やナーマスマラナ、念仏、アファーメーションなども、確かに、ほどほどでも良いのだが、ほどほどにも出来ない者が多いのである。
こういったことに関しては、多少の無理をするつもりでやっても良いと思う。
それで失うものはないが、報いは無限であるのだからだ。

※本日も、インテックス大阪での「マジカルミライ2021」に行くので、午後の分の更新はお休みする。








心の科学はアリストテレス以前の物理学のレベル

正確なことは分からないのだが、我々の知識の中で最も妥当な言い方をするなら、この世界は、超高性能なコンピューターが時々刻々作り出している仮想世界だ。
そんな世界をシミュレーテッド・リアリティーと言う。
この仮想世界は、物理学の法則が支配するようプログラミングされているが、プログラミング次第では、どんな奇跡だって起こるはずである。
長い時間をかけ、人類は、物理的な法則は、かなり解明したが、人間の精神的機能、霊的機能に関しては、あまり手付かずなのだと思う。
願いを叶える法則も、ほんの少しは分かったのかもしれなが、全く未熟である。
沢山の、願いを叶える法則の本が出ているが、物理学で言うなら、まだ、アリストテレス以前の状況なのかもしれない。
いつか、精神科学のガリレイやニュートンが現れたら、心と世界の関係はもっと解明され、人間は力を増すのかもしれないが、まだまだである。
しかし、アリストテレスの考えを基に、物質世界で、ある程度はうまくやれた人もいたのだから、我々も、人類の中で最も賢い人の「心の科学」の教えに耳を傾けるべきかもしれないが、では、誰の考えに注目すれば良いのかと考えると、これがとても難しい。
だが、理性的な人々が、最も信頼したのは、おそらく、釈迦と孔子なのだと思う。
2人とも、まるで、この世界がシミュレーテッド・リアリティーだと知ってるようなことをかなり言っているのだが、確かに、ある程度は気付いていたのだろうと思う。
釈迦に関しては、仏教経典類は、ほとんど妄想で塗り固められているが、孔子の教えはかなり正確に『論語』に書かれているのだと思う。
だが、この世界がシミュレーテッド・リアリティーであることを前提にすれば、仏教経典もかなりよく分かると思う。
仏教経典に見られる、しつこい繰り返しにも意味はあるが、おそらく、本当の意味をかなり歪めたものなので、無視した方が良いのかもしれない。
『アラビアのロレンス』のモデルのトーマス・エドワード・ロレンスが書いた『知恵の七柱』は、この世界が仮想世界だと知って読めば実に良いことが書かれているが、とにかく、状況説明が込み入っていて読解に苦労する。とはいえ、やはり貴重な本だ。

この仮想世界のことが理解出来れば、何とも楽に生きられる。
理解出来れば出来るほど自由になるし、願いを叶えることも簡単になる。
だから、この世界の幻想に我々を縛りつけようとする、心の中の意図的なノイズ・・・頭の中の迷惑な独り言を封じるために、常に呪文を唱えると良い。
仮に呪文という言い方をしているが、まあ、雨の日の自動車のワイパーみたいなものである。
現代人に唱え易い言葉を万能呪文として提示したが、自分が続け易い言葉で良い。
とりあえず、万能呪文は、
「絶対、大丈夫だ」
「全て順調だ」
「世界は意のままだ」
である。
だが、「大丈夫」「なるようになる」「なんとかなるさ」「がんばってみるか」などの言葉が合う人も多いようである。









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ビートルスの『Let it be』と、アナと雪の女王の『Let it go』

太田裕美さんの楽曲『しあわせ未満』(1977年)の中の、
「ついている奴いない奴 男はいつも2通り」
「陽のあたる人 かげる人 人間なんて2通り」
という歌詞で虚しくなる人がいるはずだ。
つまり、「本当にそうだ」と実感している者だ。

何をやってもすいすいとうまくいく者がいれば、いくら努力しても、辛い結果にしかならない者は実際にいる。
こげどんぼさんの漫画『ぴたテン』で、紫亜という少女の、
「がんばってうまくいかなくても、それは無駄なことではなく、この雪のようにちゃんと積もっていますよ」
という言葉に救われた気になるのは、せめてそう思わないかぎり、やっていられないからというのが本当のことだろう。

人間に、星の巡りあわせ・・・つまり、生まれつきの運はないというのが希望的な信念かもしれないが、それは甚だ疑わしい。
抱朴子によれば、あの孔子すら、自分の生まれた星は哀しいものだと悟っていたらしい。
孔子は、老子のような聖人になりたかったが、実際に老子に会い、生まれつきの器の差を思い知ったという。
この話は伝説である可能性が高いが、孔子の実体をよく表しているように思える。
しかし、だから、『論語』は、凡人の哲学として有益であるとは言えるのだ。
『老子』は君子のためのもので、『論語』は凡人のためのものと言われることは、実際に多いが、『老子』の方は、実際はそうではない。
ただ、『老子』は、人間が本質的に君子であると気付いた者のための書であるとは言えるだろう。
いずれにしても、『論語』が無難で、『老子』は危険とは言えるかもしれない。
(ちなみに、抱朴子は本当に残念なやつだったと思う)

私は昔から、星の巡りあわせの良い、選ばれし者達(エリート)を「優良星人」、私のような劣る人種を「不良星人」と呼んでいるが、優良星人と不良星人の差は、「ハンデ」などという生易しいものではない。
ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズと実際に交流があった人は皆、「いくら努力したって、ああなれるものではない。彼らはつまり・・・全然違うのだ」
と口を揃えて言う。
ビル・ゲイツどころか、私など、たかがクラスの優等生にすら手も足も出なかった。

・・・と、随分否定的なことを書いたし、妙な「うまいこと」を言ってあなたを慰める気もない。
だが、実際の話として、上記に述べたことは、あくまで世間の範囲でのことなのだ。
話を簡単にするために比喩的に言うが、世間というものは、ある種の悪魔に支配されている。
その中では、どうしても「しあわせ未満」のような悲哀に満ちているのだ。
悪魔達に悪意はないが、ただ、私のような、生まれつきの「優良星人手形」を持っていない者は、悪魔の束縛を逃れることができない。
だが、無になった者は、不良星人でも、(これも比喩だが)神的な力が出てきて、悪魔の力を圧倒する。
よって、心を完全に静め、想念を起こさず、思考が現れない状態になれば、人間を超えた超人、神人になる。
ただ、難を言えば、それはとても難しいということだ。
そして、これが分からない者が多いのだが、想念はなくても、眠っていてはならない。
つまり、意識が冴えていなければならない。
イエスが、祈るために山に入る前に、弟子達に「眠るな」と言ったのに、帰ってきたら、弟子達は眠っていて、イエスが落胆したというのは、そのことを比喩的に言っているのである。
道元が、釈迦の教えを一言で「仏道とは自己を忘れることなり」と言ったが、自己を忘れても、眠っちゃいけないのだ。

ビートルスの『Let it be』も、アナと雪の女王の『Let it go』も、本質では同じ意味なのだが、多少、『Let it go』の方が、「自由にやれ」という動きを感じるかもしれない。
しかし、同じだ。
あるがままで「いろ」か、内なる声のままに「やれ」だが、いずれにしても、うまくいくためには、自我が消えていないと・・・つまり、無でなければならない。
自我は無いが、意識は冴えている状態・・・それが無だ。
私は、アナと雪の女王は一度も見ていない。
こんなものを映画で本当に描けるとは、とても思えず、誤解して不幸への道を進むだけだろう。
つまり、この映画は、少なくとも数百万人を不幸にする・・・ことはないと願っている。

無になるには、至高者の姿を正しく感じることができる感性を磨かなくてはならない。
これは、いつも書いていることだ。
例えば、星を見るとか、星に匹敵する何かを見るとかである。
そして、自分自身が至高者であることを覚えていることだ。
これらは同時にやるべきものだ。
両方、まとめてやれる方法としては、心身も時空も超えた存在として振舞う・・・有体に言えば、真似をすることである。
ただ、これらは、あくまで一例である。
自分の気質に合うものがあるはずだし、それを見つけるのは難しいことではない。
どれでも大抵合うのだからだ。
だから、大抵の場合、最初に巡りあったものをやれば良い。
ただ、粘り強くやるかやらないかだけである。









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ジェネレーションギャップは大きいほど気づき難い

『時をかける少女』は、1934年生まれの作家、筒井康隆さんが1965年頃に書いた短編小説であるが、いまだ映画や漫画になることに、著者本人が驚いているかもしれない。
この作品は今でも当たり前のように出版されているが、「今読んでも違和感がないなあ」と感じるのは、ひょっとしたらかなり年配の人かもしれない。
主人公の芳山和子は中学3年生で、他にも中学生が何人か登場するが、当たり前だが誰もスマートフォンを持っていないし、当然、LINEで連絡を取り合うこともない。SNSなんて概念もない。
当時の人に初音ミクのライブ映像を見せたら、恐るべきロボットだと思うだろう。それを空想したら、ちょっと面白くはある。

しかし、学校の様子はどうだろう?
今は、小学校でもコンピューター室があったりもするのだが、基本的には学校というのは百年以上前から変わっていない。
『時をかける少女』の、初めの1行はこうなのだ。

放課後の校舎は、静かでなにかしらさむざむしい。ときどきどこかの教室のとびらのあけしめされる音がだれもいない廊下にうつろにひびく。

なんとも涼秋を感じさせられるという人も多いと思うが、ここらの様子は今でも同じようなもの・・・あるいは、全く変わらない。
百年前の人が、現代の銀行や空港に来たら、そこがどんな場所なのか理解することができないが、学校だけはすぐに分かるというのは問題だから、学校も変化しないといけないなんて議論が盛んに行われるようになったのもまた、かなり昔のことなのだ。
電子書籍しかないが、『10年後の教室』という本が最近出版されていて、この中で、近未来の進歩した教室と、それに相応しい授業風景、教育内容が意気込みを持って書かれているが、まあ、期待薄といったところかもしれない。

学校だけでなく、会社のオフィスも、いかに変化しているとはいえ、基本的にはそう変わらないような気がする。
「近未来オフィス」に似たような言葉は、おそらく、何十年も前からあるが、昭和30年代の映画の中の「ちょっといい会社」のオフィスの様子を見たら、「俺のとこよりずっといいじゃないか」と思うことも多いかもしれない。いまだ、だらだら何十分も電話をする30代の人も決して少なくはない。そんな人達は、いかにスマートフォンやインターネットを使っていても、旧世代の人間であり、おそらく、現代のITテクノロジを本当には使えていないのである。
「今の人」は電話なんてほとんど使わないし、たとえ使っても、実に簡潔だ。

また、こんな話があった。
60代の女性が、遊びに来ていた小学生の孫に、「テレビのチャンネルを回してみて」と言うと、孫は、その言葉が理解できない。
「チャンネルを回すとはどういう意味なのだろう?」
昔のテレビはリモコンもなく、テレビのところまで行って、電源を入れたり、ボリュームを上げ下げする操作をしなければならなかったが、チャンネルを変えるには、手で回転させるスイッチで行うものが多かったのだ。

こんなことは、10歳の年の差があれば、何かのことで十分に有り得る。
今でもアナログカセットはそのためのデッキもメディアも売っているが、カセットテープを見ても、これは何に使うものか分からない人がいてもおかしくはない。
アメリカの中高生が、音楽CDというものがそろそろ分からなくなったのは10年以上前のことだ。

たった10年の違いで世の中の概念が変わり、明らかなジェネレーションギャップが存在する。
これが数十年なら、大変な違いになり、百年近く経てば、もう別世界だ。
それなら、いかに素晴らしいことが書かれているとはいえ、古典であれば、うかつにそのまま受け取ると、とんでもない誤解をする可能性がある。
新約聖書の福音書を読むと、一見、そう違和感を感じないかもしれない。しかし、それは、読み手が、その内容を勝手に現代的なものや概念に置き換えているからに違いない。
これが、1937年に書かれSF小説『銀河パトロール隊』であれば、まだ、現代との違いに気付くので、可笑しく感じたり、ちょっと間抜けに感じたりするのであるが、聖書や論語やギリシャ神話となると、古過ぎて気付かないことが多いのである。
(もっとも、『銀河パトロール隊』には、現代以上のステルス戦闘機の構想などがあったりして、なかなか面白い)
偉い人には、論語を優れた人生哲学として振りかざす者もいるのだが、実は、孔子が教えた意味は、そんな人が「こうだ」と主張することとは随分違うことも多い・・・いや、実際は「全く違う」のである。
年の差カップルなんてものにしても、年代差が気に障るのは、10歳差くらいの場合で、これが30年違えば、案外に気にならなくなってしまうものらしい。慣れてしまえば、「こんなものだ」と諦めてしまうということもあるが、分からないのでかえって刺激がなくなってしまう・・・まあ、親子みたいなものである。

だから、古典を読む時は、理屈の頭で読めば、自己本位の解釈になってしまい、その真意や貴重なところを得ることができないのだ。
いわゆる、「論語読みの論語知らず」の状態になるが、さっきも述べたが、論語信者の大半はそうであると私は思う。自分勝手な解釈をして悦に入っているというだけだ。
『老子』や『聖書』や『バガヴァッド・ギーター』、『ギリシャ神話』、『古事記』、その他の優れた古典を読む時は、無心で、魂で読まなければ、むしろ、害があるかもしれない。公式な立場の宗教家のほとんどが、仏陀やイエスの教えを全く理解していないというのは確かである。
古い聖典を読んでも、理屈では何も分からないのは当たり前なのだ。
しかし、できるだけ無我になって読めば、行間から霊的な叡智が囁くだろう。

尚、下にご紹介した書籍は、『10年後の教室』は電子書籍だけ。後は、紙の本と電子書籍の両方が存在する。
私は、『時をかける少女』以外は、全て電子書籍で読んでいる。









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何事もほどほどに

私が小学校の3年生くらいの時だったと思う。多くの子供と同様、私はプリンが大好きだったのだが、もしかしたら、あらゆる食べ物の中で一番好きだったかもしれない。そして、やはり、プリンに目が無い2つ年上の女の子とプリンについて話していた。その時、私が、「いくら好きでも、ドンブリ一杯のプリンを食べるわけにもいかないだろう?」と言ったら、彼女は、「いや、私は食べられる」と大真面目に言う。その、食べる気満々の目の据わった表情を見て、8つか9つだった私は、冷静に、「ああ、こいつ、本当に馬鹿だな」と、多分思った。私だって、そのくらい食べられたら最高だと思うし、食べられるとは思う。しかし、そこまでやっちゃいけないのだ。ちなみに、彼女は学校の成績は悪くはなく、クラスでのランキングは私よりずっと上で、時々私は馬鹿にされたこともあった。

また、私が小学4年生の時、近所の同じ学年の男の子とプロレスごっこをした時のことだ。彼は、真剣に即効をかけ、私を逆エビ固めに決めて絞り上げてきた。本当に苦しかった。私は悔しくてギブアップしなかったが、周りの子供達が止めてくれた。危ないと思ったのだろうし、下手すれば事故になっていたかもしれない。今思えば、あいつは本当に馬鹿だと思う。そして、その男の子はかなりの優等生だった。

ものには限度というものがある。これは、決して中途半端とか、曖昧を推奨するのではなく、バランス感覚が大切だという意味だ。仏教では、中道ということをとても大切にするが、それも同じような意味ではないかと思う。ヨーガというものも、バランスを何よりも大切にするのだと聞いたことがある。
我々が、社会で痛い目に遭わないといけないのは、中道とか、バランス感覚を磨くためだ。家族というものは、特に、親は子供をどうしても甘やかすし、また、そうでなくてはならない部分もあるのだが、そんなだから、家の中にいては、バランス感覚を身に付けることができないのだ。本を読むだけでも駄目だ。人間は、身体で痛い目に遭って、初めて理解できることが多いものだ。本を読むことは非常に良いことだが、その内容を実践でたしかめてこそ、本当に自分のものになる。

プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントという人は、230cmの身長と200kg以上の体重で、文字通り人間離れした肉体の強さもあった。そのため、トレーニングをしなくても無敵だったと言われる。世界的な人気者で、収入も凄かった。若い頃はその身体にコンプレックスを持ち、ひどく悩んだらしいが、その後は幸福な一生を送れたはずなのだ。
だが、彼は、毎日、ビールを1ダースも飲み、その他にも、美食に耽るようになった。それで、いつか、彼を負かすほどのレスラーも現れるようになり、身体を悪くして、まだまだ現役を続けられたはずの46歳の若さで亡くなってしまった。

ものには限度がある。
孔子が、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」と言い、徳川家康も、この言葉を非常に重視したという。
私も、子供の頃から、何をやっても、これが真理であると実感することが多く、誰が言ったのかは知らなかったが、世の中には賢い人がいるものだと驚いていたものだ。
だが、孔子がいちいちこんな言葉を残したというのは、人間というものは馬鹿で、これをなかなか守れないということなのだろう。

ものごとは、徹底的にやるべきという面も確かにあるし、それはやらねばならない。
しかし、限度がある面もある。このあたりのバランスを身に付けた者を賢者と言うのかもしれない。
例えば、どんなに自分に理があっても、争いの中で、引くべきところは引かねばならない。
相手がどんなに間違っていても、徹底的に追い込むのは馬鹿だ。
虫や動物は、オスがメスを奪い合って戦うことはよくあるが、決して致命傷は与えないのだそうだ。人間は、虫や野獣よりずっと賢いはずなのに、それが出来ない。
敵をあなどって大逆転を赦すのは、怠惰であったり、傲慢であるからであり、勝負がついたら、敵に逃げ道を残しておいてやるのが賢い人間である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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