ある西部劇映画で、非常に印象に残った1シーンがある。
西部劇では、酒場とレストランの区別がつき難いと思うが、そこは、バンドが演奏していたので、そこそこには広い、酒場あるいはレストランだった。
そこで、まず、2人くらいの男達が殴りあいの喧嘩を始め、周りの男達は、そのとばっちりを喰う度に喧嘩に加わり、やがて、酒場全体が乱闘状態になってしまった。
その時、バンドが、アメリカ国歌『星条旗』の演奏を始める(アメリカ国歌を『星条旗よ永遠なれ』と思っている人が多いが、それは間違いである)。
すると、男達は乱闘をやめ、帽子を脱ぎ、それを持った手を胸に当てて、じっと立ったまま演奏を聴いていた。
アメリカ人の、アメリカという国家に対する崇敬の念が現れているが、日本でいえば、天皇陛下に対してならありえるのかなと思う。
これが誇張かというと、そうでもない。
元クライスラー会長のリー・アイアコッカの2冊目の自伝『アイアコッカ2』で読んだ覚えがあるが、1980年代に、ニューヨークの自由の女神の修復が行われ(アイアコッカは、その資金集めに協力して奔走していた)、それが完成した時の式典の日、ニューヨークでは、タイヤ1つ盗まれなかったと書かれてあった。泥棒達ですら、アメリカの象徴の晴れの日には閉店休業したのである。
多大な苦難の末に達成したアメリカ合衆国の英国からの独立や、海外から自由とチャンスを求めて移民してきた人々が、自由の女神を見て感じたアメリカへの希望というものは、恵まれた我々には想像もできないものなのだろう。
ところで、あの西部劇のシーンを思い出した時、もう1つ注意すべきは、男達が、帽子を持った手を胸に当てていたことだ。
サッカーの国際大会でも、国歌が演奏される時、多くの国で、選手達は、やはり国歌を歌いながら、胸に手を当てているだろう。
これは、人類共通の無意識な行為と思う。なぜ、そのようなことをするのかというと、緊張したり、恐怖を感じたり、あるいは、驚いた時に、心臓に大きな反応が起こることから、心が胸、あるいは、心臓にあると思うようになったのだと考えても不自然ではないと思う。それで、深く心を込めた思いを表す時には、自然に胸に手を置くのだろう。
しかし、別に心臓の働きに影響がある訳でもない、ほっとした時や、安らぎを感じる時、敬虔さや畏怖を感じる時にも、自然に胸を押さえるのだ。それは、鼓動とはまた違った、何か不思議な感覚を胸に感じるからである。
アニメ『デビルマン』の最終回「幼獣ゴッド、神の奇跡」で、ヒロインで高校1年生の美少女、牧村美樹の前に現れた、神のごとき奇跡の力を持つ幼獣ゴッドは、「我、神なり」と言うが、美樹はそれを認めず、「神様ならここにいる」と言って、胸を押さえた。
このようなストーリーが普通に成立するように、人間は、胸の位置に、貴い何かを感じるのだ。
人が自分を指す時、自然に胸の右側を指すという。それは、私も全く同意できる。
ラマナ・マハルシに関する著書によれば、マハルシは、聖典にそのことが述べられており、胸の中央から指2本分右に、魂の座があるという。
人が、「私、私、・・・」と考えていると、想念はそこに集まってくる。
心は、その胸のその部位から起こる。想念の一番最初のものは「私」であるから、私について考えると、心は、魂の座である、そこ(胸の右側)に引き戻されていくのである。
常に、「私は誰か?」と問い続けると、あらゆる想念は破壊され、ついには、「私は誰か?」という想念すら消滅する。
その時には、ただ、「静かに在る」という感覚だけがある。
デカルトは、「疑っている私は確かに存在している(我思う、ゆえに我あり)」と言ったが、実際は、あらゆる想いが消えても、私は存在し続けるのである。
ただ、全てを疑い、全てが幻だとしても、私が在るということだけは本当だというデカルトの洞察は、やはり天才であると思う。
「私は誰か?」以外の想いを起こさないようにしていると、やがて心は動揺しなくなる。心が本来の場所(胸の右側)にあり、外にさ迷い出ていかないからだ。慣れてくれば、胸に意識を持っていくだけで、一瞬で心が静まり、何も恐れなくなる。そうなれば無敵である。聖書にも、「心を静め、自分が神であると知れ」と書かれている通りである。
ある意味、「私は誰か?」と問うことは、心を静め、心を動じなくするトレーニングである。より多くやれば上達する。
「私は誰か?」以外の想いを持たないと危険なのではないかと思うかもしれないが、むしろ安全である。それ以外の何かの思いに心を奪われている時こそが危険なのである。
心が何にも囚われていないと、最も効率の良い行動ができる。丁度、真の剣豪が、何の気負いもなくても無敵であるようなものだ。
心に想いが無いと、いかなる者も、また、出来事も、あなたに危害を及ぼすことはできない。
砲弾飛び交う戦場にあっても、あなたに弾は当たらない。
心に想いが無くなる訓練を積んだアメリカのある刑事は、目の前で何度も狙撃されながら、なぜか銃は常に不発だったというアメリカでの話がある。
また、英国のある連隊は、第2次世界大戦で5年戦い、1人の死者も出さなかった。この連隊では、「守りの詩篇」と呼ばれる、聖書の詩篇91篇を全員が暗記し、定期的に唱えていた。これにより、緊急事態にあって、心に想いが無くなったのである。
これらの話は、下にご紹介する、ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』や、『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻に書かれている。『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻は、単独で読むこともできる、貴重な秘法が込められた書である。
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西部劇では、酒場とレストランの区別がつき難いと思うが、そこは、バンドが演奏していたので、そこそこには広い、酒場あるいはレストランだった。
そこで、まず、2人くらいの男達が殴りあいの喧嘩を始め、周りの男達は、そのとばっちりを喰う度に喧嘩に加わり、やがて、酒場全体が乱闘状態になってしまった。
その時、バンドが、アメリカ国歌『星条旗』の演奏を始める(アメリカ国歌を『星条旗よ永遠なれ』と思っている人が多いが、それは間違いである)。
すると、男達は乱闘をやめ、帽子を脱ぎ、それを持った手を胸に当てて、じっと立ったまま演奏を聴いていた。
アメリカ人の、アメリカという国家に対する崇敬の念が現れているが、日本でいえば、天皇陛下に対してならありえるのかなと思う。
これが誇張かというと、そうでもない。
元クライスラー会長のリー・アイアコッカの2冊目の自伝『アイアコッカ2』で読んだ覚えがあるが、1980年代に、ニューヨークの自由の女神の修復が行われ(アイアコッカは、その資金集めに協力して奔走していた)、それが完成した時の式典の日、ニューヨークでは、タイヤ1つ盗まれなかったと書かれてあった。泥棒達ですら、アメリカの象徴の晴れの日には閉店休業したのである。
多大な苦難の末に達成したアメリカ合衆国の英国からの独立や、海外から自由とチャンスを求めて移民してきた人々が、自由の女神を見て感じたアメリカへの希望というものは、恵まれた我々には想像もできないものなのだろう。
ところで、あの西部劇のシーンを思い出した時、もう1つ注意すべきは、男達が、帽子を持った手を胸に当てていたことだ。
サッカーの国際大会でも、国歌が演奏される時、多くの国で、選手達は、やはり国歌を歌いながら、胸に手を当てているだろう。
これは、人類共通の無意識な行為と思う。なぜ、そのようなことをするのかというと、緊張したり、恐怖を感じたり、あるいは、驚いた時に、心臓に大きな反応が起こることから、心が胸、あるいは、心臓にあると思うようになったのだと考えても不自然ではないと思う。それで、深く心を込めた思いを表す時には、自然に胸に手を置くのだろう。
しかし、別に心臓の働きに影響がある訳でもない、ほっとした時や、安らぎを感じる時、敬虔さや畏怖を感じる時にも、自然に胸を押さえるのだ。それは、鼓動とはまた違った、何か不思議な感覚を胸に感じるからである。
アニメ『デビルマン』の最終回「幼獣ゴッド、神の奇跡」で、ヒロインで高校1年生の美少女、牧村美樹の前に現れた、神のごとき奇跡の力を持つ幼獣ゴッドは、「我、神なり」と言うが、美樹はそれを認めず、「神様ならここにいる」と言って、胸を押さえた。
このようなストーリーが普通に成立するように、人間は、胸の位置に、貴い何かを感じるのだ。
人が自分を指す時、自然に胸の右側を指すという。それは、私も全く同意できる。
ラマナ・マハルシに関する著書によれば、マハルシは、聖典にそのことが述べられており、胸の中央から指2本分右に、魂の座があるという。
人が、「私、私、・・・」と考えていると、想念はそこに集まってくる。
心は、その胸のその部位から起こる。想念の一番最初のものは「私」であるから、私について考えると、心は、魂の座である、そこ(胸の右側)に引き戻されていくのである。
常に、「私は誰か?」と問い続けると、あらゆる想念は破壊され、ついには、「私は誰か?」という想念すら消滅する。
その時には、ただ、「静かに在る」という感覚だけがある。
デカルトは、「疑っている私は確かに存在している(我思う、ゆえに我あり)」と言ったが、実際は、あらゆる想いが消えても、私は存在し続けるのである。
ただ、全てを疑い、全てが幻だとしても、私が在るということだけは本当だというデカルトの洞察は、やはり天才であると思う。
「私は誰か?」以外の想いを起こさないようにしていると、やがて心は動揺しなくなる。心が本来の場所(胸の右側)にあり、外にさ迷い出ていかないからだ。慣れてくれば、胸に意識を持っていくだけで、一瞬で心が静まり、何も恐れなくなる。そうなれば無敵である。聖書にも、「心を静め、自分が神であると知れ」と書かれている通りである。
ある意味、「私は誰か?」と問うことは、心を静め、心を動じなくするトレーニングである。より多くやれば上達する。
「私は誰か?」以外の想いを持たないと危険なのではないかと思うかもしれないが、むしろ安全である。それ以外の何かの思いに心を奪われている時こそが危険なのである。
心が何にも囚われていないと、最も効率の良い行動ができる。丁度、真の剣豪が、何の気負いもなくても無敵であるようなものだ。
心に想いが無いと、いかなる者も、また、出来事も、あなたに危害を及ぼすことはできない。
砲弾飛び交う戦場にあっても、あなたに弾は当たらない。
心に想いが無くなる訓練を積んだアメリカのある刑事は、目の前で何度も狙撃されながら、なぜか銃は常に不発だったというアメリカでの話がある。
また、英国のある連隊は、第2次世界大戦で5年戦い、1人の死者も出さなかった。この連隊では、「守りの詩篇」と呼ばれる、聖書の詩篇91篇を全員が暗記し、定期的に唱えていた。これにより、緊急事態にあって、心に想いが無くなったのである。
これらの話は、下にご紹介する、ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』や、『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻に書かれている。『ヒマラヤ聖者の生活探求』第5巻は、単独で読むこともできる、貴重な秘法が込められた書である。
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