ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

詩篇91

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

5分で奇跡を起こす方法

第二次世界大戦中、イギリスのウィットルゼイ大佐の部隊は、5年間戦って、1人の死者も出さなかったという。
ウィットルゼイは、部隊の兵士全員に、聖書の詩篇91を暗記させ、毎日唱えさせたようだ。
(F.L.ローソン『人生をいかに考えるか』を引用した、J.マーフィー『人生は思うように変えられる』より)
日本でも、やはり戦争中、サムハラ神社のお札を持って戦地に行った兵隊は、全員、生還したという。
サムハラ神社は今も大阪にあり、お札ならそこに行けばもらえると思うし、最近は、評判が良いので、雑誌の付録にもなっている。そういうものが大好きな私も入手し、ステンレス製の名刺入れに入れている(お札は名刺サイズである)。

霊的作用というものが本当にあるかどうかを直接に確認する方法がないので、多くの人が、「それは怪しい」「デタラメ」「あるわけがない」と言う。
だが、霊的作用かどうかはともなく、思考を停止させれば、奇跡が起こることは、経験上、分かる人は少なくないと思う。
ただし、停止させる前に、何かを強く思うことが必要だ。
強く思った後、思考を消せば、思った通りになる。子供の時は、わりと普通にやっているものだ。
上に挙げた兵隊達の例では、「生きて帰りたい」という強烈な想いがあったはずだ。それがなければ、聖書の言葉もお札も役に立たないかもしれない。
詩篇91もサムハラのお札も、思考を消す力があるのだと思う。原理は分からないがね。

それなら、現代人に合った、こんな簡単なやり方もある。
何かを強く思い、その後、100から0まで、頭の中でゆっくり数を数えるのだ。
これを、よそ事を考えながら出来る人は、まずいない。
カウントが0になった時は、もう何も考えておらず、想いが実現するよう、宇宙は動いている。
0まで数えても、強い不安に襲われるなら、もう1回やれば良い。
また、あまり時間がない時や、それほどの効果でなくても良い場合は、10から0までにすれば良い。これでも、かなりの効果がある。
5から0までで、大抵の奇跡を起こせる者もいる。

信じられなくても、少なくともこれが、緊張を和らげ、落ち着く方法であることは納得出来ると思う。
そして、強い思いの後、リラックスすれば、大抵のことはうまくいくことは分かると思う。







ゆるまない心の力は理論を超える

ジョセフ・マーフィーの『人生は思うように変えられる』の中に、第二次世界大戦で、イギリスのウィットルゼイ大佐の連隊は5年間戦って1人の死者も出さなかったという話が紹介されている。
ウィットルゼイ大佐は、全員に、聖書の詩篇91編を暗記させ、定期的に暗唱させたのだという。
この話の真偽は分からないが、本当だとしたら、その要因は、隊の全員が「ゆるまなかった」からだと思う。
あの荘厳な詩編91を唱えれば、決して心がゆるむことはないはずだからである。。
1日の中で精神がゆるむ前に唱えれば、心は常に引き締まった状態にあり、それを毎日繰り返すうちに、彼らは霊的な状態になったのだろう。
そんな人間を殺すことは、相当に難しい。

名前は忘れたが、ある優れた陸上の短距離ランナーは、普段、歩く時も、膝を高く上げて歩き、走力を高めるように努めていたらしい。
このトレーニングに効果があるかどうかよりも、このような意識を持ち続けることで、心が締まり、ゆるまないので強くなるのだと思う。
実際、科学的とか理論的には正しくないトレーニングをしながら、成果を挙げた者は多く、精神がゆるまないことの威力は、理論に優るのであると思う。

ジャイアント馬場さんより10歳近く年長の、アメリカのプロレスの大スター選手で、フリッツ・フォン・エリックという人がいた。
大きな手で、相手の顔や胃袋を掴み、強力な握力で締め上げるという、極めて単純な「クロー攻撃」で知られていたが、それ以外は、やたらパンチとキックが迫力があっただけで、レスリングはあまり出来なかったかもしれない。
何かで見たが、彼は元々、大した選手ではなかったが、握力が人並より強いことに気付き、常に野球ボールを持ち歩き、それを握って握力を鍛えたらしい。
日本でも、記者がインタビューしている時も、野球ボールは持っていなかったかもしれないが、エリックは手を握って力を入れていたという話もあった。
これらの話は、いわゆるギミック(意図のある嘘。作り話)である可能性もあるが、ある程度は本当かもしれないと思う。
これも、日常、常に、自分の宝物である握力を鍛える意識を持つことで、精神がゆるまずにいたから、握力以外の、ことによったら、霊的な力まで得たのかもしれない。
実際、ロクにレスリングが出来ない、特に優れたところがあるとも思えないエリックが超一流として50歳過ぎまで現役を続け、さらに、プロモーターとしても大成功したのは、ゆるまなかったからであると思う。
一方、どんなに才能のある優秀なスポーツ選手でも、ゆるんでしまって、そのせっかくの才能を駄目にしてしまった例は多い。

私も、心を締める鍵である掟を持ち、それを常に守ることで、至高者に向かって進もうと思う。









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神と一体化する体験を導く言葉

法然や親鸞の念仏の教えは素晴らしいものだ。
だが、宮沢賢治は、法華経の教えには震えるほどに感動したのだが、親鸞らの教えは受け付けなかった。
だが、彼の父は偉い人だったと思う。
賢治が、父に、家の宗教である浄土真宗から、法華経の教えである日蓮宗に改宗することを迫った時、父は、「どれも根本では同じなのだ」と言ったのだ。
その通りである。
これは何も、仏教の宗派だけのことではない。
確かに、敬虔なキリスト教徒に、「キリスト教も仏教もヒンズー教も全て同じなのだ」と言ったら、納得してもらえないかもしれない。
しかし、やはり同じなのだ。
私は、聖書の詩篇91を読んだ時や、ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』を読んだ時、浄土門仏教の聖典である『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』のエッセンスであると思われる、法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の教えを弟子の唯円が綴った『歎異抄』などと全く同じ世界観が流れ込んでくるのを感じたのだ。
そして、賢治の愛した『法華経』も全く変わらないのである。
また、ギリシャ神話の神々への信仰だって同じことだ。
それぞれに欠けたところがある訳ではないが、やはり、全て統一して受け入れることが好ましいと思う。

聖書の詩篇91に、「彼はわが名を知るゆえに、私は彼を守る」と神が言う。
また、詩篇23には、「(神は)み名のためにわたしを正しい道に導かれる」と言う。
しかし、神の名は明かされない。
だが、神はモーセにその名を明かしている。
それは、「私は『私はある』というものだ」である。
ギリシャ語の「エゴー・エイミー」、ラテン語の「エゴ・スム」、サンスクリット語の「アハン」に近いと思う。
英語では「I AM」、日本語では、「私は在る」だ。
我々だって、ただ、「私は在る」という感覚だけを持っている時、神であるかもしれないのである。
ニサルガダッタ・マハラジは、常に、「私は在る」という感覚にしがみ付いていなさいと教えた。
尚、「私は在る」という感覚とは、朝、目が覚めて、思考がやって来るまでの感覚である。
ずっとそれを忘れなければ、神と一体化する。
それを少しやってみただけでも、身体が軽くなるのを感じると思う。
エマーソンはこれを、「神の魂が私の魂の中に流れ込んでくる体験」と言い、それは決して忘れることのできないものだと言った。
「私は在る」だけが真実である。
それを体験によって了解したなら、神の他に何もないことが分かると思う。









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世の中はうまくいって当たり前

人間は誰でも自分で働いて生活できるのに、働くことができないニートがいる。
また、若いのに、彼女や彼氏がいないだの、できないだのは異常なことなのだ。
誰だって、自分のまさに好みのタイプの異性と付き合えるはずなのに、自分には無理だと思っている人が多くいる。
おそらく、親とか学校の教師に、とんでもなく馬鹿げた観念を押し付けられたのだろう。
あるニートの男性の父親は、彼(ニートの男)が子供の頃、面と向かってではないが、度々母親に、「あの子は一人前になれるのだろうか・・・俺は心配だ」とよく言い、そのことを母親が、「お父さんが、お前が一人前になれないのではないかと心配しているよ」などと彼に伝えていた。
なんと馬鹿な父親と母親であることか!
その父親は、自分が一人前なんだから、そんなことは誰にでも、もちろん息子にもできるに決まっているとなぜ思えないのだろう?
自分にできることが、なぜ、できない者がいるという発想になるのだろう?
おそらく、その父親にとって、まだ子供で弱い息子が、自分の自尊心や優越感を満たしてくれる唯一の存在だったのだろう。そして、さらに息子を低めることで、相対的に自分を立派に感じて満足していたかったのだろう。
父親のそんな情けない心根のせいで、息子が駄目になったのである。
とはいえ、いまさら親やかつての教師を責めても仕方がない。
誰でも、自分の力で、思い通り、堂々とやっていけるのである。
金持ちになれるかどうかは星の巡りあわせの問題だが、余裕のある生活など、誰にでもいとも容易いのだ。
学校の成績が最下位だったとか、誰よりもスポーツが苦手だったとかいうのは、何の関係もない。
誰でも、自分の満足できる仕事に就き、十分に多いと感じる収入が得られるのは当り前のことだ。
そのためには、エネルギーが必要だ。理屈で何をするとかは二の次だ。
エネルギーがあれば、お金は入ってくるし、彼女や彼氏はできるし、行きたいところに行け、やりたいことができる。
では、どうすれば必要なエネルギーを得られるのかというと、無駄なエネルギーを使わないことだ。
元々、エネルギーは豊富にあるのだから、浪費さえしなければ、必要なだけは十分にある。
エネルギーを最も無駄に失くしてしまうのは、心が荒れている時だ。
怒ったり、憎んだり、妬んだり、羨んだりすると、たちまちエネルギーを失い、くたくたになってしまう。
だから、いつも心を静かに保たねばならない。
しかし、それは難しいだろう。
だが、例えば、いつも念仏を称えたり、キリスト教が好きなら、詩篇の23編か91篇を暗記して常に心で称えれば、やがて心は静かになるだろう。
すると、心は必要なエネルギーを得て、望まずとも、全ては良くなるだろう。
それが自然なことなのである。
それで私は、一番簡単な念仏を選択したのである。









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愛するとはどういうことか?

聖書の詩篇91で、神は、「彼は私を愛して離れないので、私は彼を護る」と言う。
誰かがイエスに、「一番大事な律法は何ですか?」と尋ねると、イエスは、「神を愛すること」と言う。
旧約聖書のヨブ記には、「神と親しみ(和らぎ)、平和でいれば幸福になれる」と書かれている。
では、どうすれば、神を愛することになるのだろう?
それは、ヨブ記にあるように、神と親しむことであるが、どうすれば、神と親しむことができるのだろう?
それは、神の近くにいることである。では、どうすれば、神の近くにいられるだろう?

それは、名を呼ぶことではないだろうか?
人間同士だって、愛するなら名を呼ぶのだ。
憎んでいたって名を呼ぶ。まして、愛していれば名を呼ぶ。憎しみと愛は近いものだ。
ラマナ・マハルシは、「教え」を意味する言葉「ウパデーシャ」の、ウパは「近くに」、デーシャは「場所」または「席」という意味であると言った。
「ウパデーシャ」とは、「場所あるいは席の近くにある」という意味だ。
遠くにいると思っていた神は、実は近くにあり、しかも、自分自身である。

常に神の近くにいることだ。それが愛するということだ。
そして、神の近くにいるには、その名を呼ぶことだ。
法然は、このことについて、実に端的に述べている。
阿弥陀如来の名を呼べば、阿弥陀如来はそれを聞く。
阿弥陀如来を拝礼すれば、阿弥陀如来はそれを見る。
阿弥陀如来を心に思えば、阿弥陀如来も思ってくれる。
これらによって、阿弥陀如来と近しい間柄になる。
これを、神仏を愛すると言うのである。
この中で、最も重要なことが、仏や神の名を呼ぶことである。
阿弥陀如来に対しては、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることである。
そうすれば、聖書も浄土三部経も、神や仏が、その者を護ることを保証している。

仮に名前が分からなくても、愛する人を「愛する人」と呼ぶ。それが名前である。
幼い子供は、夜空の星を親しみを込めて、「お星様」と呼ぶ。それが名前である。
ペットに名前をつけていなくても、「猫ちゃん」とか、「可愛い子」とか、幼い子供なら「にゃんにゃん」とか「わんわん」とか言う。それが名前である。
普通、親を名では呼ばないが、「お父様」、「母さん」とか言う。それが名前であり、愛していれば、多くその名を呼ぶが、愛していなければ名を呼ばない。
人は、星にも名をつける。
「ケンタウルスよ、露を降らせ」と言うと、ケンタウルスとの距離が近くなり、恵みを降らせてくれる。
神であれば、「わが主」、「父なる神」、「全能なる神」と言えば、それが神の名になる。
まして、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、限りない恵みが与えられる。なぜなら、阿弥陀如来が、名を呼びやすいようにと、自らをそう名乗ったのだからだ。
今とは違い、元々、阿弥陀くじというのは、真ん中から放射線状に線が引かれていた。その形は、光を発する存在である。阿弥陀如来とは、別名を無量光仏、あるいは、無量寿仏と言い、意味は、無限の光を持つ仏、無限の命を持つ仏である。
庶民のための絵に描かれたようなものではないかもしれないが、阿弥陀如来は実在する。その名を呼べばかならず護られるのであるが、その護り方は、人間の想像もつかない壮大さ、豪華さ、贅沢さで、この上もない絢爛さである。過保護にも程があると言うしかないが、仏とは人の親であり、限りない慈悲心を持つ親であるのだからである。
その途方もなく豊かで強力な親の近くにいようとしない愚かさは、イエスが放蕩息子の話で、法華経では、貧乏暮らしで心根まで貧しくなった息子の話で喩えられている。
神や仏の名を呼べば、神や仏の近くにいて、完璧な守護と無限の富と共にある。









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