ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

詩篇

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

良い武道家は、なぜ緊張せずに闘いに挑むのか

「運命を呪う」なんて言葉があるが、不幸によって、自分の状況が運命であると自覚できるようになるのなら、それは良いことなのだ。
ものごとが上手くいって調子に乗っている時は、人間というものは、それを自分の力で起こしたと思い、それが運命だとは言わないものだ。

全ては運命だ。良いことも悪いことも。
あなたに選択の余地なんて全くない。
だが、それは言い換えれば、あなたには何の責任も無いということだ。
今の時代にこんな話は何であるが、あなたが駄目で、娘が身売りしたとしても、それがあなたの運命であり、娘の運命だ。
それは、初めから決まっていた必然であり、どうしようと変えることは出来なかったのだ。
舞台で、シェイクスピアの『リヤ王』の、欲深い姉娘を演じている役者が、「リヤ王に悪いことをしたくない。こんな役は嫌だ」と言ったとしたら間抜けな話であり、誰も誉めず、役者失格だと言われるだけだ。
我々も同様だ。我々も単なる役者であり、シナリオを作るのは役者の仕事ではない。
「もっといい人生が欲しい」と言うのも、役者が劇の途中で、「もっといい役をやりたい」と言うようなもので、ただ愚かとしか言いようがない話だ。
好きだろうが嫌いだろうが、リヤ王の姉娘役と決まったら、最後まで、シナリオ通りにそれを演じなければならないのだ。

『燃えよドラゴン』という、ブルース・リー主演の映画で、少林寺の武道家リーが良いことを言っていた。
「良き闘いは、少人数で真剣に演じる劇のようなもの」
「立派な武道家は緊張せずに闘いに挑む」
「私は打たない。拳自らが打つ」
闘いは劇のようなものどころか、劇である。
結果は決まっているのに、闘いに緊張しても仕方がない。
打つのは、ある意味、シナリオを書く作家であり、それは神だ。
勝つか負けるかは、神次第だ。緊張したり、「勝ちたい」と願っても無意味だ。なりゆきに任せ、冷静でいるべきなのだ。

いかに悪い役を演じる役者であっても、実生活とは何の関係もない。
我々も同様である。幼稚園の劇である程度の外の世界など、本当の世界の本当の我々には何の関係もない。
人間は、劇に夢中になり過ぎて、役になりきってしまっていると私が思ったのは、小学3年生の時、習い事から歩いて帰る途中だった。
笑顔で学校に通うような子供達を別人種だと感じるほど、あまり楽しくない学校生活であったが、そのことに気付くと、安らかな気分になったものだ。
そして、この外の世界には、ある約束事があるのだという想いが浮かんだ。
それが、呪文や祈祷や、あるいは、儀式になったのだが、それをすることで、苦しみから離れるようなものがあるということだ。
なぜそんなものがあるのかは分からないが、どうもそうなっているらしい。
だが、具体的に何をすれば良いのか、なかなか分からない。そして、ある程度は苦しい役をやらないと分からないという面は確かにある。
ある人にとっては、「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉である場合もある。それを、見返りを求めず、欲望なく言えるならそうなのだ。
ある人にとっては、聖書の詩篇91であったり23であったりする。
また、般若心経や大祓詞であるかもしれない。
あるいは何かの奉仕活動であったり、武道であったり、楽器の演奏であったり、ビジネスであるかもしれない。
ポイントは、「決して得をしない」ということだ。
つまり、世間というのは、その大切なことを、あなたに気付かせないようにする役割を持っているのである。
だって、世間では、「これが得ですよ」「そんなことしたら損しますよ」ばかりじゃないか?
そんな雑音を無視し、欲望の想いなく、何の見返りも求めずに出来ることをしなくてはならないのだ。
そして、何をすれば良いかは、欲望を諦め、心を虚しくしていると自然に分かるものである。
そうなれば、平和は約束されていると言って良いだろう。









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論語は孔子のウンコでしかない

人間は、「最低だ」という意味で、よく、クソと言う。下品ではあるが、最低であることを最も効果的に言うにはそれが一番なのだろう。
『僕は友達が少ない』という小説・アニメで、10歳の銀髪の美少女マリアが、彼女からみれば、世の中の大半のことは最低なのか、やたら「ウンコみたいだ」と言う。せっかく可愛いのに勿体無いと思う。

ところで、『荘子』にもこんなお話がある。
ある偉い人が本を読んでいたら、庭で仕事をした大工が上がってきて、「旦那様、何を読んでおいでですか?」と尋ねた。
偉い人は、「昔のとっても偉い人の教えが書いてあるのだよ」と大工に言う。
すると大工は、「なんだ、それじゃ、その本はウンコみたいなものですな」と言った。
2千数百年前の中国であるが、大工が簡単に書斎に入ってこれるのだから、良い旦那様ではあると思うが、そう言われて彼は、「大工ふぜいに何が分かる!たたではすまさんぞ」と激怒して言った。
だが、大工には、自分が言ったことは当たり前のことなので平気だ。大工は言う。「あたしゃ、息子もせいぜい仕込んだが、それでも、70もとおに過ぎた今になっても、私にしか出来ないことがあります。その経験からも、言葉で教えることなんか、たかが知れてると分かるのです」。
※これは、荘子の外編のお話で、荘子直筆ではないかもしれない。内編の本には基本的に載っていないが、下記に紹介する書籍には載っている。

『論語』を有難がって読んでいる人もいるが、それは、せいぜいが孔子のウンコである。
そりゃ、孔子は賢い人なので、教えがよく伝わるよう、最高の表現で書いたのだろうが、所詮、言葉である。
だが、ウンコからでも、それを理解する方法はある。それは、千回くらい読むことだ。そうやって、文字の間に潜む霊のようなものを感じることだ。
また、論語を偉そうに講釈している人より、それを一度も読まず、「孔子様、どうか知恵をおさずけ下さい」とずっと祈っている人の方が賢いことが多いのである。

そんなことをよく分かっていたのが釈迦だった。
自分が生きている間や、直接指導した弟子達が教えている間はまだいい。しかし、いずれ、自分の教えは何の効果もなくなることをよく知っていたのだ。
そこで、人間を理解し尽していた釈迦は、難しい教えなど無用の、英知を得る最高の方法を残し、「これだけで良い」と言ったのだ。それは、「仏様を褒め称え、いつも想え」ということだった。そのためには、仏様の国や仏様のお姿をイメージしろということだが、名前を呼ぶだけでもいいとした。それが、念仏という教えになった。
万巻の経典を読むより、「南無阿弥陀仏」を唱える方が良いということで、法然はそれを教え続けた。
念仏はウンコではなく、美味しい食べ物である。
一方、道元は座禅という形で、親鸞は、信心という心で、宇宙一体化の道を説いた。それらも、理屈無用の優れたものである。
至高の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも、至高神クリシュナは、最終的には、ただ自分を拝めと教えているのだ。それで万事OKである。
尚、キリスト教では、詩篇という形で、それをしたと思う。詩篇は、繰り返し読むことで、言葉を超えた霊と感応し、至高の英知である神と1つになるためのものである。そして、間違うことのない方法である。
人間など、所詮、愚かなものだ。難しいことをやると、ろくなことにならないものだ。









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理屈を捨てれば世界は動く

『星の王子様』で、著者のテグジュペリは、子供の頃に描いた絵をけなされてから自信を失くし、絵の練習をしなかったから、絵を描けないんだという話をしていた。
ところが、星の王子様のために、羊の絵を描かなければいけなくなって困ってしまう。だが、そこで名案が浮かぶ。箱の形の小屋を描き、「この中に羊がいる」と王子様に言ったのだ。王子様は、その羊のことについていくつか質問はしたが、納得して満足する。

これは、よく考えれば、凄いことで、芸術の真髄と言えるかもしれない。
例えば、世界一の画家が、世界一の美女の絵を描いたとしても、その絵を見た人が、必ずしも世界一の美女と認めるとは限らないばかりか、人の好みや美的感覚とは多様なものであり、普通の美女とすら認めない人もいるに違いない。醜女とすら感じる人がいても、少しも不思議でもない。
昔、週間プレイボーイ誌で見た4コマ漫画に、2人の女子大生が海外で未開人に拉致され、神の生贄にさせられるというものがあった。ところが、未開人達は、「神への生贄は美人だけでいい。ブスを捧げると神の怒りをかう」と言っている。女子大生の1人は美人だが、1人はブスだった。ブスな女子大生は「こんな顔に生んでくれて、初めて両親に感謝するわ」と思う。しかし、未開人達が生贄に選んだのは、ブスだと思っていた女子大生の方だった。
あなたは、『モナ・リザ』が付き合ってくれと言われたら付き合うだろうか?私なら遠慮する。
だが、部屋のドアを描き、この中に世界一の美女がいると言われたら、自分が思う世界一の美女を想像すれば良いのである。
俳句や和歌は、最小の言葉だけを残し、後は読む者に想像させるという、詠み手と読む者が一緒に創るものだ。詩もやはりそうだが、およそ、芸術的な文章は書き過ぎては良くなく、できるだけ、読者に想像させないといけないのである。
どんな文章の達人であっても、美しいはずのものを徹底して写実に表現したら、読む者は、全然美しいと感じないことは間違いない。
物理学の一分野である量子力学はとても難しいと言われる。ところが、物理学など全く知らない芸術家や賢者には、量子力学の真髄を理解している人はいくらでもいる。いや、彼らが知っているのは、科学者の量子力学を超えているのかもしれないのだ。数式で表さないと有難くないと思っている人もいるが、恋愛や友情だって、その気になれば難しい数式で表すことは出来るが、あまり意味はないことだろう。
大数学者の岡潔は、道元の『正法眼蔵』を20年読んで分からなかったが、ある時、一瞬で全て理解できたという。それは、理屈で分かったのではなく、理屈を捨てた時、直観で分かったのだ。彼が、大数学者になれたのは、理屈を組み立てる天才だったということもあるが、それより先に、直観が優れていたのだろう。

思考や心で分かることにこだわると、幸福になれないし、偉大なことを成し遂げることもできない。
南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)という言葉をご存知と思う。
南無は「帰依します」という言葉だとよく言われるが、帰依なんて言葉を知っている人なんていない。そんな小難しいことを言うのはやめ、「心から信じます」と訳すべきだろう。
妙法蓮華経とは、法華経というお経(かなり長いものだ)の正式名だ。
つまり、「南無妙法蓮華経」とは、「私は、法華経を心から信じます」という意味だ。
つまり、こう唱えれば、法華経を読まなくても、読んで理解したのと同じで、それを読んで得られる知恵や神秘力も得られるという、大変に素晴らしいものだ。
世間の常識で考えると、「そんな馬鹿な」となるかもしれないが、断固、本当だ。逆に、法華経を真面目に読んで、頭で理解しようとしたって、一生かかったって理解できないのが普通なのだ。
同じく、南無阿弥陀仏とは、「阿弥陀仏(という仏様)を心から信じる」という意味で、こう唱えれば、絶対的な力を持つ阿弥陀仏様は、数多くの、スーパーパワーを持つ仏様や菩薩様を送ってきて、守ってくれるのである。中でも、阿弥陀仏の自慢の弟分である、観自在菩薩や勢至菩薩を惜しみなく送ってくれて、彼らが世話を焼いてくれ、友になってくれるのである。もう無敵と言って差し支えないだろう。

実は、聖書の詩篇91篇も同じことを言っているのだ。
これには、神様は絶対的にあなたにあなたを守るとされている。また、神様も、御使い(天使)を遣わして、常にあなたを守らせると言うのである。
では、どうすれば、そういう恵みを得られるのかというと、神様に、「心から信頼しています」と言えば良いと書かれているだけである。
イエスも、最も重要なことは、「あなたの神様を愛しなさい」であると言ったのである。
あなたの神様というのは、神様は、いつでも、呼べば答えてくれるという身近な存在であることを示しているのである。

第2次世界大戦において、イギリスのウィットルゼイ大佐率いる一連隊は、全員が詩篇91を暗記し、定期的に唱えたことにより、5年の戦闘で、1人の死者も出さなかったと言われる。
ジョセフ・マーフィーも、著書の中で、詩篇23と91を唱えることを度々薦め、その絶大な威力を強調している。そして、素直にそれに従った者は、やはり、大きな恩恵を受けているのである。
マーフィーの本を読んでうまくいかないなんて人は、まだ、自己流の考え方でやっているのだろう。その考え方は、自己流とはいえ、所詮は、世間の考え方のコピーなのだ。うまくいかない方が、よほど不思議なのである。
考えることをやめてしまうことで迷信に陥ることの弊害というものを考える人もいると思う。もっともだ。だが、自然をよく観察することを習慣とし、不要なものを求めなければ、その心配はない。捨てるべきは世間の理屈であり、道理は大切にするのである。









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街に溢れる人殺し達

歩きながら煙草を吸っている人や、携帯やスマホを見ながら歩いている人は、人殺しと同じなんだなあとつくづく思う。
昔、俳優の丹波哲郎さんが、「車の窓からゴミを捨てるやつは人殺しと同じだ」と言ったのを思い出したのである。
つまり、自分さえ良ければ、他人はどうなってもよいという思想が行動になったのが、そういったことであり、それを平気で何も考えずにやっている者というのは、本質が全くの人殺しなのであろう。
昨日、電車に乗るとき、私はたまたま一番前に並んでいたのだが、実際に乗る時は、一番最後にぽつねんと残されていた。降りる人が終るまで待っていたら、後ろに並んでいた人が先に乗ってしまうのだ。

私は、そういった「人殺し達」を見るのが嫌だ。実際的な被害は我慢できても、醜いものを見るのは辛い。
そして、もっと嫌なのは、そんな者達に嫌悪感を持ったり、あまつさえ、つい張り合うようなことを自分がすることだ。エスカレーターなどで割り込んでくる人も多いが、わざと割り込ませないようなことを自分がした時、そんな自分が嫌で心が痛むのが実に辛い。
戦国時代、武士達は戦場の中で花を生けたという。なぜ、そんなことをしたのだろうか?
それは、人を平気で切る自分が嫌で辛かったからだ。それで、花を生けて、禊(みそぎ)をせずにはいられなかった。禊とは、心の穢れを祓うことである。

昨日も、割り込んできた若い女性に張り合った後で、私も禊がしたかった。それで、思わず、心の中に、「南無阿弥陀仏」の念仏が浮かんだ。
『方丈記』で、最後に鴨長明が、「聖人ぶっても、お前の心も穢れているじゃないか?なんとか言ってみろ!」と自問した時、自然に念仏が出たということを思い出した。

法然の念仏と親鸞の念仏は違う。
2人とも、自分の業・・・つまりは、心の穢れを感じていたことは同じと思う。
だが、念仏の目的は違う。法然のは禊であり、救いを求める念仏で、親鸞のは、既に救われたことを感謝する念仏だ。
親鸞の方が進歩したものだが、それは、法然あってこそのものだ。
だが、どちらも、仏様に任せ切るということに関しては同じだ。
今の時代の我々には、神も仏も同じである。共に、宇宙の英知であり、大自然の神秘、無限の力だ。
念仏を唱えることも、聖書の詩篇を読むことも同じことである。

尚、上に、ある特定の行為をする者を「人殺し」と書き、それはその通りなのであるが、そう言っている我々もまた、自分では気付かぬだけで、やはり同じなのである。我々も、人殺しと同じことを沢山やっているのである。
だから、戦場の武士と同じように、私も禊がしたいのである。
禊とはまた、宇宙の英知と交信することでもある。曇った心では、潜在意識の深奥に住む至高の心との経路が開かれていないからだ。そんな状態では願いも叶わないだろう。
聖書の詩篇23や91を読み、あるいは、念仏を唱えれば、心も晴れ、無限の意識と一体化するだろうし、叶うべき願いなら実現するだろう。









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自主的で特別な習慣を持つ人

人間ってのは2通りあってね。
自主的に行う、毎日欠かさない習慣を持っている者と、そうでない者だ。
自主的というのは、世間や他人に倣ってやることではなく、自分の意志が働かないとやらないことだ。
歯を磨いたりご飯を食べるなんてことは誰もが当たり前にやってることだし、学校や会社に行くことは、誰もがやっている上に強制されてやることで、しかも、休日はやめてしまうことだ。ちっとも自主的ではない。
『涼宮ハルヒの憂鬱』で、小学6年生の少女ハルヒは、そんな誰でもやっていることしかやっていない自分に気付いて絶望を感じ、憂鬱に落ち込んだのである。つまり、自分は世間や他人に従っているだけのつまらない存在だと思い知ったのだ。

いろんな人が、自主的に毎日やっていることには、いろんなものがある。
新渡戸稲造は、何をするか考えた末、行水と決め、風邪をひいて高熱のある日も休まず、医者に怒られたという。確かにやりすぎではあるが、心構えは正しい。普通の人は、「今日は忙しかったから」「今日はちょっと体調が悪かったから」とすぐに言い訳をしてやめてしまうが、そうではない新渡戸はやはり特別な人間だ。ただし、私のように食を慎んでいれば風邪をひくことは決してないので、その点は劣っている。
毎日必ず瞑想する習慣を持つ人もいるし、般若心経を唱える人もいるだろう。ジョギングやウォーキングというのもあるが、誰に強制された訳でもなければ、誰かに合わせているのでもなく、あくまで自主的に、そして、毎日決して欠かさずにやるのでなければ特別ではない。
食事を1日1回、あるいは、2回にするとか、肉や魚を食べないといったことは、世間の皆がそうであれば少しも特別ではないが、今の日本では特別で、意志を働かせて自主的にやらなければ出来ないことだ。
マスターベーションをしないという変わったものもあるらしいが、これは、本来は全然大したことではない。しかし、今の世の中のように、性欲を煽って儲けようとする浅ましい連中が溢れる中では、やはりそれなりに特別だと言うべきかもしれない。
ただ、飲酒・喫煙となると、それをやめるために意志を働かせても、どんな意味でも全く特別でない。単に、マイナスがゼロに戻るだけのことだ。つまり、飲酒・喫煙が習慣化していれば、それは惨めなマイナスの習慣なのであり、それが、公道を歩きながら喫煙するまでになれば、その者がこの世に存在する価値はないだろうし、実際、勝手に排除されるのだ。だから、そんな愚か者を見ても嫌悪してはならない。嫌悪すれば、あなたが傷付く。

自分の意志で行う特別な習慣を続けていると、当然、人間としての力が付いてくる。
しかし、それは、少なくとも1年は続けてからだ。
愚かな者は、すぐに成果を求める。1日1食を1ヶ月やっただの、腕振り運動をやはりその程度やっただので成果を考え、実際、「こんな素晴らしいことがありました」と言う者もいるが、それはただの妄想だ。「(食の慎みや腕振り運動を)どのくらいやれば成果が出ますか?」などと聞かれたら、「あなたには一生成果はないだろう」と本当は答えたいのであるが、それでは愛がないというべきだろう。
私は、1日1食の菜食を4年続けているし、腕振り運動は10年以上1日も欠かしていないが、成果など何も求めていない。
腕立て伏せ、スクワット、腹筋運動も2年以上、毎日休まずやっていて、大きな効果は感じているが、別に何かを求めてやっているわけではない。
一時期、「大祓詞」を熱心に唱えていたことがあり、1日7時間以上もやったりして、短期間に5千回近く唱えたが、この時は成果を求めていたので、心が安定せず、続かなかった。やはり、無目的で、ただやるべきものなのだ。

何をやるかは、人に聞くようなことじゃない。だが、すぐに「私は何をすればいいのですか」と聞きたがる者が多い。ただ、人がやっているのを見たり聞いたりして、良いと思ったものを自主的に取り入れることは良いことだろう。
エドガー・ケイシーは、毎朝、必ず聖書を読んでいたそうだが、これは真似る価値のある習慣だし、聖書でなくても、バガヴァッド・ギーターを読むのも実に良いだろう。
ケイシーは、単に、そうすることが楽しいから行っただけだが、結果、偉大な力(一応、超能力と言われている)を得た。しかし、もちろん、彼にそんな目的はなかった。
毎日、聖書の詩篇23を読めば、内なる神と通じ合うことで、結果として、幸福や福寿を得るかもしれないが、やはり、何も求めず、ただ嬉しいからやるべきなのである。
ただ、戦争という状況で、自分ではなく、部下を守りたいという理由で、部下達全員に詩篇91を暗記させて習慣的に唱えさせた指揮官がいた。そして、10年間、特に危険な歴戦を重ねながら、1人の死者も出さなかったのである。









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