ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

観音経

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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観音経の奇跡を起こす

『法華経』の25章である『観音経』を読むと、観世音菩薩の名を唱えると奇跡が起こるということが書かれている。
その奇跡が、あまりに荒唐無稽なので、信仰深い人でも、「あれは、あくまでたとえ話ですよ」と言ったり、私も大好きな漫画家の桑田二郎(桑田次郎)さんは神秘家であるはずが、「あれは霊界での話。現実にあんなことが起こるわけがない」と著書に書かれていた。
しかし、敢えて言えば、『観音経』に書かれている通りに受け取って良い。
例えば、『観音経』では、手かせ足かせをはめられ、刀で切りつけられようとも、観世音菩薩の名を唱えれば、手かせ足かせは壊れ、刀は折れて被害はないと書かれているが、そのようなことは、現実によく起こっている。
ジョセフ・マーフィーの本を見ても、ある刑事は、独特な祈りをすることで、至近距離で撃たれるなどのピンチを何度も無傷で切り抜けている話があるが、観世音菩薩を信仰する者にも、そのようなことは、やはりよく起こっているのである。
いろいろ理由があって、あまり一般的に知られていないが、『観音経』だけでなく、念仏の行者や、あるいは、密教の行者の中には、神通力とか法力とか呼ばれる、まあ、言ってみれば超能力なのだが、そんな力の持ち主は、かなりいたのである。
神通力の使い手として、特に有名で凄かったのが役小角(えんのおづぬ)という修験者であるが、かなりの神通力を使う修験者は他にもかなりいた。
役小角は、多くの真言を使っていたが、ほとんどの修験者が使う真言は、般若心経、あるいは、般若心経の呪文であった。

私の知り合いにも、神通力の使い手はいたし、地味なものであれば、私も子供の時から度々使っている。
突拍子もないような面白い奇跡話なら、私が大嫌いな保江邦夫氏の本でも読めば沢山出てくる。例えば、名刀で皇室の邪気払いをしていた剣の達人の神通力で、皇居を爆破に来たB29(第二次世界大戦の時のアメリカの戦闘機)を消し去ったとかである。アホらしいと思うかもしれないが、それをやった人のことを書いた本があるので、下に、一冊目に紹介しておく。

そこで、私は地味目な実例を挙げておくが、政木和三さんのものが良いかもしれない。
もちろん、私が直接見たものである。
私が、岡山の林原生物化学研究所にあった、政木さんの研究所に初めて行った時のことだ。
政木さんの研究所は、林原生物化学研究所の門の近くにあり、その門を出ると、近くにアークホテルがあって、政木さんと、そこに昼食に行った。
ホテル内のレストランに入り、席に着いたが、なぜか注文を取りに来ない。
そこで政木さんが説明する。
「私は初めから、注文をしたことは一度もありません。来たら、いつも良い席が空ていて、そこに座れば、お店の方で適当にみつくろって持って来てくれます」
実は、その時も、私を含め、来客は3人だったが、政木さんと4人、ゆったり出来る場所が空いていて、楽しく会話しながら食事をしたのだった。
政木さんに関わる奇跡話は他にも沢山あるが、何度か書いたと思うし、今回はこれだけにする。
とにかく、力が大きくなれば、ものごとは勝手にうまく回り、自分は何もしなくて良くなるのである。言い換えれば、やるべきこと、やりたいことだけをやれば良くなるのである。

江戸末期の神道家、黒住宗忠や、やはり江戸末期の浄土宗の僧、山崎弁栄、あるいは、明治・大正の啓蒙家、岡田虎二郎らは、特に強調されないが、キリスト級の奇跡は日常的に起こしていたらしい。さすがに、私は伝聞でしか知らないが、特に不思議とは思わない。
彼らの教えを簡単に言えば、黒住宗忠は、天照大神に全てまかせることで、山崎弁栄は、難しい話もしたらしいが、根本的には念仏の行者であり、法然の教えと基本的に同じで、一心に念仏を唱えることを勧めた。
岡田虎二郎は、岡田式静坐法を教えたが、静坐は1日中やるものであり、具体的には、常に腹に力を込めよと言った。
尚、岡田虎二郎は、何も静坐だけが方法とは言っておらず、念仏も良いと認めていたのである。

そして、観音経の教えは、ただ、観世音菩薩の名を唱えることであると言って良いと思う。
呼び方は、「南無観世音菩薩」「観世音菩薩」「観音様」「オン、アロリキャ、ソワカ」などが考えられるが、どれでも良いと思う。
これは、真言である。
この真言を、常に唱えるよう心がけることが大切である。
私は、真言は、心の中で丁寧に唱えれば良いと考えている。
観世音菩薩にしろ、阿弥陀如来や大日如来、普賢菩薩、勢至菩薩、不動明王等は、皆、大きな力があり、その名や、それらの仏の真言を唱えれば確実に恵が得られる(名自体が真言と言えると思う)。数多く唱えるほど良いのである。

真言を唱え続ければ、全ての問題が解決し、救われ、たゆまず続ければ、神通力のようなものも出てくるかもしれない。
また、望まずとも幸運に恵まれ、楽になっていくと思う。
そのようになれる方法は、真言以外にも沢山あるとは思うが、我々凡人に出来る・・・というか、続けられるのは、おそらく、真言だけであると思う。
この点は、釈迦も、念仏だけが残ると予言したという話があるが、その通りであると思う。








真言で願いが叶う愉快なカラクリ

例外はあるが、願った以上のものを得ることは、ほとんどない。
しかし、願えば、何かは得られるものである。人間の心の力を軽く見てはならない。
だが、願ったより少ししか得られないので、得た気にならないだけなのだ。

簡単に言えば、例えば、3憶円願って、うまくいって8千万円得られる。
だが、たった8百万円ということもあり、それだと、何も得た気にならない。
しかし、3憶円願ったから8百万円が手に入ったのである。もっと少ししか願わなければ、あるいは、何も願っていなければ、8百万円失ったかもしれない。
なら、最初から百億円ほど願っておけば良かったのだ。
二十歳のお嫁さんを願ったが、なんとか30歳直前のギリギリ20代のお嫁さんがもらえた・・・そんなものである(笑)。
なら、15歳の天使のようなお嫁さんを願っていれば、結果、「二十歳か…ちょい歳だが、まあ、負けとこ」ということになる(笑)。
ところで、実際に、「愛があれば、彼氏の年収は一千万円程度でいいワ」と言う、慎み深い(笑)二十歳の女性がいたが、出来た彼氏は自分では「年収400万円」と言ったが、実は200万円位だった。まあ、それでも、働いている彼氏が出来たのだから、そう嫌でもなかったようだが。
ところが、「やっぱり年収1憶円くらいは…」とマジ顔で言う、やはり二十歳くらいの女性は、数年後、ベンツの新車を乗り回していた。年収1憶円とは言わないまでも、かなり高収入の旦那を得たようである。

だが、決して、欲張れと言うのではない。
この世界での成功の秘訣は、やっぱり「欲張らない」ことなのだ。
上の、金持ちの男と結婚した若い女性は、欲望をギラギラとさせ、血走った目で「1憶円よ!旦那は絶対年収1憶円の男!」と思っていたわけではない。
「あんまり欲張らず、年収は1憶円くらいで良いから、優しくて面白い人がいいの」と、本気で思っていたのであり、本人は本当に、自分は慎み深い方だと思っているのだ。

このようなことを、私は政木和三さんに教わった。
政木さんは、「私はお金なんてちっとも欲しくないんです。でも毎年1憶円入って来るものは仕方がない」と思っていて、あれほどの人だから、本当に1憶円入ってきたのだが、彼は、本当は、4千億円入るはずだったと思っているのである。
また、これは政木さんに小声で教わった(近くに奥さんがいた)のだが、「私に身をまかせる女が百人いると思っているから」女性に不自由はしていない様子で、こちらは、本当に百人とはいかないだろうし、政木さんも、もう80歳くらいだったから、5、6人かな・・・知らんけど(笑)。
このように、「大きな目標でも慎み深く」求めなければならない。

だが、重要なことが1つある。
それは、「1憶円でいいわ」なんて精神状態になれる人は、器が大きな人で、普通はなかなかそうはいかないということだ。
そんな器を持てる最上にして、ほぼ唯一の方法が真言なのである。
他の方法だってあるかもしれないが、まず続かない。
しかし、真言なら、短く、リズムがある、尊い言葉を唱えるだけであるから、唱える数が多い少ないの違いはあっても、ほんの少しの希望と根気があれば続けられるのである。
その希望を見い出すためには、親鸞の『三帖和讃』の中の『浄土和讃』の中の、『現世利益和讃』15首を読むと良いかもしれない。
ここでの真言は、「南無阿弥陀仏」の念仏であるが、他の優れた真言でも同じと考えて良いと思う。
特に、念仏や、阿弥陀如来真言を唱える人は、そのまま受け取ると良いだろう。
他にも、『法華経』の第25章『観音経』には、観世音菩薩の名を真言として唱えれば、大きな利益があると記されている。
観世音菩薩の名とは、文字通り、名(観世音菩薩、あるいは、アヴァローキテーシュヴァラー)でも、その真言、「南無観世音菩薩」「オン、アロリキャ、ソワカ」「オーン、アーロリク、スヴァーハー」の、どれでも良いのである。
また、他の真言を唱える人も、十分な数を唱えるなら、やはり、心の器が広がり、常識人には大き過ぎるものも、慎み深くさらっと求めるようになれる。
そうすれば、かなりの願いが叶うのである。








信念を持てる方法

イエス・キリストの有名な言葉に、こんなものがある。
「山に向かって、歩いて海に入れと命じ、必ずそうなると信じて疑わないなら、そうなる」
だが、イエスは、「だから信じろ」と言ったわけではなく、可能性を示しただけだ。
そんなことを容易く信じられる者がいたら、その者が心配である(笑)。

ところが、アメリカの牧師ロバート・シュラーは、これについて、良いことを指摘している。
シュラーは、晩節を汚した感もないではないが、少なくとも、ある時期までは賢者であった。
シュラーは、こう言ったのだ。
「イエスは、どのくらい時間がかかるかは言っていない」
つまり、山に「海に入れ」と言い、そうなると信じたとしても、実現には時間がかかるかもしれないのだ。
確かに、億年単位の時間が経過すれば、地殻変動で、その山が海の中にあるかもしれない(笑)。
ところで、私が最近ハマっている『魔王学院の不適合者』に、こんなお話があった。
これと類似の話は沢山あり、やはり、大切なことを示していると思う。
レイという名の剣の達人の、子供の時の話だ。
母親に料理を教えてもらおうとしたレイが、不意に、包丁で鉄の鍋を切ると言い出した。
この母親の偉いところは(実際、偉大な女性であった)、レイに好きなようにやらせたことだ。
無論、何でも許すわけではないだろうが、直観的に止めてはいけないと思ったのだろう。
しかし、レイが、何度包丁で鍋を叩いても、切れるはずがない。
だが、レイは諦めずに続け、母親も黙って見ていた。
そうしたら、とうとう、レイは包丁で鍋を切ってしまったのだ。
これが、すぐに出来なくても、諦めなければ、いつかは出来るということであり、言い換えれば、「出来るまでやる」姿勢が最も大切なのだ。

さて、『ポケット 心の旅 法華経 入門 』という本に、法華経の25章『観音経』に書かれているように、真言が本当に奇跡を起こしたエピソードが沢山取り上げられている。
『観音経』では、観世音菩薩の名を呼ぶことで、あらゆる奇跡が起こることが書かれている。
呼び方は「南無観世音菩薩」(これも真言と考えて良い)でも良いし、また、この本では、「オン、アロリキャ、ソワカ」などの観世音菩薩の真言も紹介されている。
『観音経』の奇跡の話は、あくまでたとえ話で、本当のことではないと言う人は多いし、漫画家で宗教家の桑田二郎氏のように、「これは現実世界の話ではなく霊の世界の話なのだ」として解説する人もいる。
しかし、この本では、実例を挙げ、真実の話であるとしている。
だが、残念なことに、この本では「毛ほども疑ったら、観音様はそっぽを向く」と書いているのだ。
「毛ほども疑わない」なんて、洗脳でもされていない限り無理だろ(笑)。
だが、上の剣聖レイのように、出来るまでやろうとすることで、信念が高まるのである。
言い換えれば、信念とは無理に持つものではなく、出来るまでやる、効果が出るまでやるという心構えによって得られるのである。

いつも言うが、『観音経』に書かれている通り、真言を唱えれば無敵である。
しかし、そのためには、常に真言を唱える心構えが必要である。
あのレイのように、出来るまでやるかどうかが運命の分かれ目である。








必ず救われる観音様モデル

問題や悩みが消えない、願いが叶わないといったことで苦しんでいるなら、それを解決し、幸福になるための1つのシンプルなモデルがある。
それは、観世音菩薩に頼る方法である。
では、懸念は、観世音菩薩を信じるかどうかであるが、それはどちらでも構わない。
むしろ、世間の観世音菩薩への信仰はない方が良いかもしれないほどである。

どうやるかと、簡明に述べると、以下のようになる。
まず、『法華経』の第25章『観音経(観世音菩薩普門品第二十五)』を読む。
私は、十種類くらいの『法華経』を読んだが、『観音経』に関しては、庭野日敬氏の『現代語の法華経』が良いと思う。
とはいえ、基本、どれでも構わない。
ただ、全体としては優れている角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』は、観世音菩薩という呼称を使っていない。それは、今回述べるのとは別モデルとしては良いが、今回のモデルには合わないように思う。

この『観音経』を読んで、観世音菩薩の力を認識する。
ただし、そこに書かれたお話は、漫画のようだと感じるかもしれない。
たとえば、観世音菩薩に救いを求めれば、あなたに切りつけた剣が、たちどころにバラバラに折れてしまうとか、理由によらず、手枷・足枷をはめられても(つまり、悪いことをして刑罰を受けてか、悪者につかまってのいずれでも)、その手枷・足枷が壊れて逃げられるとか、高い山の上から突き落とされても、地上にふわりと落下して大丈夫といったお話が沢山出てくる。
もちろん、それらは比喩であり、そのあたり、庭野氏の『観音経』では本文内で、さりげなく示唆してくれている。
例えば、手枷・足枷をはめられるとは、自分の妄念や執着でがんじがらめになっている状態だが、観世音菩薩は、そんな囚われた心を壊して解放してくれるということである。
ただし、とりあえずは、言葉通りに受け取っても良いと思う。
なぜなら、観音様なら、その気になれば、そのくらいは出来そうだからである。
まあ、あなたを殺そうとするナイフを粉々にしないまでも、不思議な偶然が起こってナイフが刺さらなかったといったという程度のことは実際に起きている。
観音様も、出来るなら、さりげなく救いたいのだろうと思う。

観音様の力が分かったら、後は、『観音経』に書いてある通り、助けてもらうためには、観音様の名を読んだり、観音様を念じれば良い。
その方法は、次のいずれかの言葉を唱えるだけである。
「南無観世音菩薩」
「オン・アロリキャ・ソワカ」
いずれも、観世音菩薩の真言である。
別に両方でも構わないが、1つに決めた方がスムースと思う。
お金に困っていたら、「観音様、お金を下さい」と言葉で言ったり思ったりするのではなく、これらの真言を唱えていればお金も入るに決まっていると心の中で楽に思って、ひたすら真言を唱えるのである。
それであれば、心に葛藤が生じず、楽しく真言を唱えられるだろう。

『法華経』は、高度な宇宙人が古代の地球人類に与えた教えと考えても良いと思う。
当時の地球人に分かるように脚色したと言えるが、案外に、宇宙人もこのまま読むのである。
なぜなら、いくら知性が高くても、理屈よりも物語のイメージの方がはるかに効率的に精神力を使えるからだ。
このあたりは、この先、いくら人類が進歩しても変わらないと思う。
元々、「アヴァローキテーシュヴァラ―(サンスクリット語の観世音菩薩の名前)」という名の力の主体が、観世音菩薩やGuanyin(英語の観世音菩薩)になることは予定されていたことで、英語では"Om mani padme hum"というマントラが使われることも仕組まれていたが、いずれも有効である。
幸い、「南無観世音菩薩」や「オン・アロリキャ・ソワカ」の真言が必ず力を発揮することは実証されていると言って差し支えないと思う(織田隆弘氏の『観音開運法』が信頼があると思う)。
そんなわけで、困った時は観世音菩薩を頼るのが賢明である。
後は、ただ、唱える真言の数だけの問題である。

尚、別に、観世音菩薩でなければならないなどと言うつもりは毛頭ない。
真言密教の大日如来でも、浄土仏教の阿弥陀如来でも全く同じである。
ただ、『観音経』は、ソリューション(問題解決)のためには、非常に分かり易く、整えられたモデルであるため、成功率が高く、昔から広く愛用されていると思う。








真言の奇跡

キリスト教でも仏教でも、あるいは、他のいかなる宗教でも、困難があれば神や仏に祈ることは勧めても、それで実際に、問題が解決する・・・つまり、病気が治るとか、お金が儲かるとかいったことは言わない。
言ったら、お祈りが効かなかった時に文句を言われるし、病気が治るなんて言ったら、それこそ薬事法に違反するかもしれない。
それに、世間では、そういった「現世利益」があることを謳うのは、怪しい新興宗教であるという観念があるようにも思う。
だが、ジョセフ・マーフィーは、キリスト教の牧師であることは確かだが、既存のキリスト教とは異なる考え方を明確にし、あらゆる現世利益が得られる方法を教えながら、宗教家としても成功した。
しかし、そういったことは、アメリカでもだろうが、特に、日本の宗教界では、なかなかやれないだろう。
日本の仏教は、葬式仏教と言われるように、お葬式のためにあるようなもので、その職分を失うようなことは出来ないのだと思う。

ところが、織田隆弘(おだりゅうこう。1913~1993)氏という真言宗の僧は、実際は、戦後間もない頃からだと思うが、1970年代には、奇跡や現世利益をかなり表に出し、織田氏の著書は今でもロングセラーを続けている。実際、奇跡の実績も凄いらしい。
ただ、私は、宗教自体のことは知らないし、織田氏についても、昔、本を1冊読んだ程度なので、正確な引用ではなく、私の理解を述べるが、根本的には間違っていないと思う。
織田氏の宗派である真言密教は、空海が伝えたもので、手で印を結んだり、正式な座り方で座ったりするが、主には、真言(マントラ)を唱えることで、仏に通じ、結果、不思議なことも起こるというものだ。
織田氏の教えは、一般の人にも分かり易く、織田氏はとても偉い僧ながら専門馬鹿ではないことが分かる。
例えば、織田氏は、『観音経』を「法華経の25章」といった一般に分かり易い書き方をしてくれている。普通の専門家は「25章」ではなく「25品」と当たり前に書くが、いったい誰が「25品」なんて分かるだろうか?専門家は、そんなことが分からないのだろう。
で、『観音経』では、「観世音菩薩の名を呼べば、いかなる奇跡も起こる」と書かれているが、専門家の多くは、「それはあくまで方便じゃ。まさか、本当にそんなことがあるわけがない」といったことを言うが、織田氏は、そのままで良いと述べる。
つまり、「南無観世音菩薩」「観音様」「観世音菩薩」と一心に唱えれば、願いは叶うし、おそらく、「オン、アロリキャ、ソワカ」ならさらに良いのだろう。
これらの言葉は全て真言であり、 「オン、アロリキャ、ソワカ」は特に正統な真言なのである。
大日如来の真言なども勧めているようであるが、そのあたりは私は分からない。

ところで、織田氏は、浄土真宗の親鸞聖人について、よく取り上げておられたと思う。
親鸞といえば、師の法然と共に、「南無阿弥陀仏」の念仏だけを勧めたことで知られている。
そして、これは私の理解だが、織田氏の教えでは、「南無阿弥陀仏」だって真言なのである。
だから、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、病気が治るなんて当たり前なのである。
もちろん、病気だけでなく、あらゆることに効果があるが、浄土真宗や浄土宗では、まさか、そんなことは言わない。
だが、実は、親鸞自体が、『現世利益和讃』として、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、あらゆる現世利益があることを15の歌に詠んでいる。
まさに、念仏のスーパーパワー振りを堂々宣言している。
実際、念仏により奇跡が起こったという話はいくらでもある。
だいたい、現実の問題に効果がないとしたら、仏に力がないということになってしまうじゃないか。

私は、宗教とは関係なく、真言でうまくやってきたので、真言をお勧めはするが、具体的に、どの真言をというのはない。
言ってはなんだが、どれを唱えても同じと思っている。
ただ、肯定的に感じるものが良いだろう。
「南無阿弥陀仏」や、それこそ「南無妙法蓮華経」でも全然構わない。
ただ、私の場合だが、何度か葬式に出るうちに、「南無阿弥陀仏」の念仏のイメージがすっかり悪くなってしまった。
それもあって、昔から、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えている。
とはいえ、この真言も「南無阿弥陀仏」の念仏も、同じなのである(専門家は細かいことを言うだろうが)。
一般的なことを言えば、『法華経』の「25章」の『観音経』を読んで、観世音菩薩の驚くべき力を知った上で、「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「南無観世音菩薩」と唱えることをお勧めする。
ただ、あくまで、自分の好きなやり方でやるのが一番である。
数をこなせば奇跡も起こるだろう。
「数ではない。信仰が大切じゃ」と言う方もいるだろうが、私は、数こそ信仰と思っている。
いつも言うが、野球のバッターの実力は素振りの数で決まる。
真言は、人生の素振りのようなもので、数が多いほどうまくいくのだと私は思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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